笹岡 啓子
『Park City』
笹岡 啓子
『Park City』
¥5,060
〈Content〉
広島は公園都市である。
その街で生まれ育った写真家が撮る、21世紀の広島。公園都市の昼と夜。がらんとした風景に擦過する時間。そこに何が見えるのか。街はすでに感光している、目を凝らせ。写真界の新鋭による瞠目の第一写真集。
【2010年日本写真協会新人賞受賞作】
[栞]倉石信乃「広島の印象」
笹岡啓子「PARK CITY」
W250×H236mm上製108頁
ダブルトーン100点収録
装幀:間村俊一
出版社: インスクリプト
発行日:2009年12月25日
定価:本体4600円+税
ISBN978-4-900997-27-1
[本書栞「広島の印象」より]
倉石信乃(批評家)
いまも新たに被爆資料がアーカイヴに収蔵・展示され続けているのと同様に、被爆の記憶を言葉で記録する努力も積み重ねられている。読み継がれるべきそうした証言集の一端に触れるとき、体験者たちの多くが「無感動」の心的状態に陥ったという条りでいつも胸を衝かれる思いがする。自分を失った、放心して空のよう、無気力に、途方にくれた、何も感じない、感じたことは何もない、もう何の感情もなくなりかけていた、無感動に、まひして、さめた気持で見ていた、無関心で通りすぎた……。こうした証言の数々の重さを、素材にするわけでは全くなく、理解しているというのとも違う。だがそれらとの確かな結び目を持った写真として、笹岡の『PARK CITY』は出現している。公園を通過し資料館を鑑賞する観光客も地元の住民もみな、所在なく、あてどない。この途方もない記憶の扱いでは、われわれの日常に遍在する、関心の所在なさ、あてどなさに耐えてさまよう持続がまず、基底に置かれなければならない。笹岡の捉える、公園の夜闇に紛れる人影も、写真集の冒頭に連なる白日の、無人の光景も、すべてはこの歩行形式の演習につながる。そこからようやく証言者がたどらざるを得なかった、死に直面した無感動という極限状況へのアプローチが始まるのだ。笹岡啓子の写真は「所在なさの強度」を持つ、類例のない達成である。それは死者たちへと向かうわれわれの困難な想起の通路を、静かに指し示している。
[推薦文]
伊藤俊治(美術史家)
光をあてて見るのではなく、影を投げ掛けて、その不確かな存在をなぞる。絡まりあい、沈んでいった澱が、呟きにさえなれない無数の身体の淀みが透けて見えてくる。風景にすべりこむ、潜在する影の織物。
港千尋(写真家)
都市を動く秘密の足。誰にも見えないサーチライトは、静かに、着実に、わたしたちの行動を走査してゆく。立方体に取り込まれるのは、日々の忘却。その微視的歴史の連鎖をとおして浮かび上がってくるのは、21世紀の屏風絵。新しい『洛中洛外図』、それはあらゆる計画の彼方、どんな契約からも約束からも誓いからも離れて立つ、まなざしの誕生だ。
amazon.jp/4900997277土屋誠一(美術批評家)
今日、広島を撮ること。だが、広島を撮影することなど可能なのか?──断言しておこう、これらの写真群は、「表象不可能性」などという言説がときに滲ませる自己慰撫とは、およそ無縁である。ここに刻印されているものは、極めて繊細に、かつ果敢に、広島と対峙し続ける写真家の、確かな痕跡にほかならない。『PARK CITY』を手に取る者は、新たなる広島=公園のイメージに、静かに、しかし衝撃的に直面することになるだろう。そして、なによりも今、私たちが知るのは、写真の新たなる潜勢力を拓く、笹岡啓子という存在の圧倒的な手応えである。広島=公園に鋭く切り結ぶこの写真家の登場に、刮目せよ。