Keiko Sasaoka/笹岡 啓子
「Remembrance 41 — 楢葉」【最終号】
Keiko Sasaoka/笹岡 啓子
「Remembrance 41 — 楢葉」【最終号】
¥300
〈Content〉
▼展覧会情報
笹岡啓子写真展「Difference 3.11」
photographers’ gallery + KULA PHOTO GALLERY
2013年12月1日(日)−20日(金)
12:00 − 20:00 会期中無休
https://pg-web.net/exhibition/keiko-sasaoka-difference-3-11-2/
笹岡啓子「Remembrance 41 — 楢葉」【最終号】
B5判変型/8頁/カラー
発行者:笹岡啓子
発行日:2013年12月1日
発行:KULA
定価:300円 (税込)
Remembrance 41: Naraha [the last issue]
Publish date: December 1, 2013 / 8 pages, Booklet, color
price: 300yen(tax included)
笹岡啓子による不定期刊行の小冊子「Remembrance」最終号。除染作業が進む2013年10月の福島県・楢葉町の写真を収録。
最終号によせて
この二年半の間、時間があれば三陸や福島へ撮影に出かけた。訪れた現地で出会う地元の方々はもちろん、折々に出会ったさまざまな方の考えや言葉に多くの示唆を受けてきた。
今夏、青森県立美術館で開催された展覧会「種差 ―よみがえれ 浜の記憶」への参加もそのひとつだ。私は「種差」展に際し、2012年の秋から今年の春にかけて、青森県八戸市にある種差海岸へ通った。この海岸にも10mの津波が襲い、浜小屋や漁船が流される被害があった。海岸線は大きくえぐられて、貴重な数々の植物は塩害にあった。しかし、地域のボランティアの尽力に加え、浜自体の驚異的な生命力により、急速に再生しつつある。いまだ災害の傷跡を大きく残したままの三陸沿岸での撮影を経て、一見、平穏に見える種差海岸の様子に、私は正直、戸惑っていた。
撮る契機を見つけることができなかった私に、気付きを与えてくれたのは、浜に集う漁師たちだった。岩手以南の三陸ではまだ沿岸での漁が再開できず、海底瓦礫の撤去や港の再建に努めていた頃。冬の種差海岸には、拾いコンブや岩場の海藻採りをする漁師たちの姿があった。春には小型船でのウニ漁も始まった。潮の時間にあわせて浜へそぞろに人が集まる。決して大がかりな漁ではなく、漁具も方法もおそらくずっと以前から続けられてきたものだ。
津波に襲われながら、浜に寄り添い、海に向き合う人たちがいる。人間の意思に関わりなく変動する自然とともに生きていかざるを得ない土地で、変わらないこと、ゆるぎないことは厳しく希有な日々の営みだと思う。だから、種差の浜に立つ漁師たちのゆるぎなさは、三陸の浜の暮らしの希望のようにも見えた。
「種差 ―よみがえれ 浜の記憶」展は、東北出身の学芸員である高橋しげみさんが、自身の勤務する青森県立美術館でやるべきことはなにかを、一貫して真摯に問い続けてきたひとつの結果だと思う。
東北のケガジの歴史について教えてくれたのは、豊島重之さんだ。震災以前の2010年に開催されたICANOF第10回企画展「飢餓の國・飢餓村・字飢餓の木 展」は、その時点で鋭く現在を見据えていた。それだけでなく、震災以後、それまで私などには難解だった豊島さんの刺激的な言葉や活動が、点が線になるようにつながり、すっと反復することができた。
その豊島さんが主催された八戸でのシンポジウムの場で、地元の古老が「私たちの体にはケガジが染みついている」と客席から語った。登壇していた社会学者の山内明美さんは、ケガジは「風土」だと応答した。地震、津波、冷害。陸で生きることも浜で生きることも過酷な土地で、幾度も乗り越えられてきた風土だ、と。
山内さんは被害の大きかった南三陸町の出身だ。震災直後から地元を案じ、勢力的に活動してこられた同世代でもある彼女の言葉からも、多くの示唆を受けた。
旧志津川町と旧歌津町が「平成の大合併」によってひとつになった町。2012年の春、私は山内さんが主催されたこの2つの地区を巡るフィールドワークに参加した。コンクリートの基礎だけが残り、町割りがあらわになった土地を歩きながら、地元の郷土史家から具体的な地域の話を聞いた。
地名には津波の言い伝えも多く、先人の教えとして残されている。山間部にも津波の痕跡が残る。「水堺峠」「舟川原」「残谷」「鍋止」。幸い、今回の津波はそこまでは押し寄せなかったそうだ。甚大な被害の原因は、なにより人の暮らしの方が産業と密接に関わりながら、時代を経るごとに海へ向かっていったことだった。
フィールドワークの最後に南三陸の仮設住宅で開かれた車座集会は、住民の方々の深刻な現状を伺う貴重な機会でもあった。町の復興の役に立てているわけではない私は、涙ながらに訥々と訴えられる不安を伺っていると、ただ居たたまれなくなるばかりだった。
それでも、写真は時を経て何度でもよみがえると思うから、私には撮ること以外の選択肢はないはずだと思っている。(笹岡啓子/所収コメントより、一部割愛して転載)