時評 8 “御茶ノ水” by 上野修
御茶ノ水駅で地下鉄を降りると、地上への階段にはサンジェルマン・デ・プレの記憶を呼び起こす晩秋の陽射しが注ぎ込んでいた。
私邸を改築した料理店への道筋を思い出しながら、細い路地に何度も迷い込む。このあたりも、すっかり景色が変わってしまった。ようやく辿り着いた頃には、陽も傾きかけていた。この料理店へ来なくなったのは、いつ頃からだろう。はじめにここに連れてきてくれた知人とも、いつの間にか会うことがなくなり、料理は常に満足させてくれるものだったが、何度通っても雰囲気が今ひとつなじめなかったこともあって、足が遠のいたのだった。今日もここでは何も食べずに帰るのだろう。
久しぶりにここに来たのは、料理店ではなく、入口の横の階段を下ったところにある私設のギャラリーを訪ねるためである。手作りの案内状を送ってくれた人物は、プラチナ・プリントの職人だった。しかし知り合ったのは、写真を通してではなく、まったく関係のないきっかけだった。何かの話をしていた時にたまたま、プラチナ・プリントの請け負いを仕事にしていることがわかり、自分の作品も作っていること、しかし人に見せようと思って作っているわけではなく、じっさいほとんど見せたこともないことを知ったのだった。ぼくも写真に関係したことをやっていることを話すと、苦い表情を一瞬だけ見せていた。もし、あらかじめそのことを知っていたなら、仕事の話題はいっさい出なかったに違いない。
その後、仕事場を訪れる機会があり、自身の作品の一部と制作を請け負った作家からプレゼントされたというコレクションを見せてもらった。驚いたことに、コレクションより自身の作品の方が圧倒的に純度が高く、言葉にすることができない強度があった。そのことを伝えると、「自分の技法に合うものを作っているのだから、それは当然」と、笑っていた。
それにしても展覧会を開くというのは、どういう心境の変化だろう。地下に降り扉を開けると、壁には何もなく、梱包したままのフレームらしき箱が乱雑に床に立てかけられている。奇をてらってそのようなことをする人物でもないし、数日しかない会期のうちの最終日に訪れているのだから、展示が間に合わなかったというわけでもあるまい。
「在庫処分をしようと思って。どれかひとつ持って帰って。これは強制だからね。あ、アタリも混じってるよ」と、冗談交じりに彼女は言った。確かに案内状には展覧会とは一言も書いてなかった。「在庫処分」という言葉が、もうこの仕事をやめることを物語っている気がした。だが、そういう話は一切しなかった。仕事の話を避けたわけではなく、そもそもそういう話をほとんどしたことがない間柄だったのだ。そして、それが案内状が送られてきた理由でもあるのだろう。いい香りのコーヒーを飲みながらしたのは、たわいない世間話ばかりだった。小一時間が過ぎ、帰りに一番小さい箱を選んだ。
帰り道は迷うこともなかった。駅までは、じっさいには10分もかからないような、呆気ないほどの距離だった。待ちきれず聖橋で、「それを選ぶと思ってた」と彼女が言っていた箱を少し開けて中を覗いてみた。ぼくが選んだのは、彼女の作品ではなく、コレクションからのものだった。かなり気に入っている作家のものだったので、それはそれで嬉しくもあったが、果たしてこれはアタリなのか、ハズレなのか。およそぼくが買えるような値段のものではないので、その意味ではアタリだろうが、彼女の作品を手に入れる機会は二度とないだろうということを考えると、ハズレだろう。
しかし、そもそもあの会場にあった箱のなかに、色と形ですらない光の集まりのような自身の作品は含まれていたのだろうか。ふと見上げると、光を失った空がとても美しかった。