Revised Edition “見ることの倫理 1:傷つける言葉” by 調文明

先ほど、私は2枚の震災写真を記述する際に「黒焦げの死体」という言葉を使用した。この表現は、死者に対する、そしてその遺族に対する非礼とも受け取られかねない、非常に「危うい」言葉である。しかし、私はあえてその表現を用いた。それはなぜか。

私が2枚の写真を見たときに、直観的に広島の原爆写真だと思ったということはすでに述べたが、その際私の思考の中で何が起こっていたかというと、「黒焦げの死体」という言葉が紡ぎ出す大惨事のイメージの連鎖から、「条件」に合うものを取り出していたのである。「条件」とは、今回のことで言えば、封筒に書かれていた「廣島」という文字である。しかし、後に封筒の表面に書かれていた「震災写真」という文字を見たことで、条件は変更され、写真も「原爆写真」から「震災写真」へと変わった。

「原爆写真から震災写真へと変わる」とは、一体どういうことだろうか。これは単純に新事実が発見されたため修正されたということとは根本的に異なる。問題は原爆写真と震災写真を同一視させてしまう力学にある。そして、その原因こそが「黒焦げの死体」という言葉が紡ぐイメージの連鎖なのである。

例えば、私の「勘違い」を次のように劇的な表現に変えることもできよう。2枚の写真を見た瞬間に、直観的に広島の原爆写真だと思った。後に震災写真であることが判明したが、22年後にまさかその写真のような大惨事が購入者の住む街で起こるとは何たる歴史の皮肉であろうか、と。ここでは、原爆写真と震災写真を大惨事という言葉で結び付けている。しかし、原爆と震災は場所も時間も原因も全く異なる出来事である。「黒焦げの死体」という表現はそうしたことを一切捨象して、ひたすら「大惨事」を強調する。私が2枚の写真を前にして「黒焦げの死体」という表現を用いるとき、それは震災写真だけと関わるのではなく、否応無くイメージの連鎖として原爆写真や他の戦争写真とも関わっているのである。

私は「黒焦げの死体」という表現をあえて用いることで、そのイメージの連鎖の問題性を白日のもとに晒そうとした。しかし、その一方で、「黒焦げの死体」という表現を使うことで、また他の誰かを傷つけているかもしれないのである。傷つける言葉の問題性を明らかにするためにその言葉自身を使用したのに、その使用によって更に人を傷つけてしまうという悪循環。そのような傷つける言葉に関して、ジュディス・バトラーは『触発する言葉』の中で、ホモセクシャルの学生に対する嫌がらせがあった出来事に触れ、次のように述べている。

 そういえば1995年の夏、ダートマス大学の批評理論学科で、その種の言葉の例を出すことがその言葉の使用を煽ることになるという、やっかいな体験をした。(中略)単に言及しているだけでその言葉を使用しているわけではないといったふうに、その種の言葉を引用するリベラルな立場は、その種の言葉の有害な流通を許して、「自分には責任なし」という構造を支えてしまう。言葉は発せられ、発せられた瞬間に否定されるが、その言葉を批判する言説が、まさにその言葉を永続化させる道具となるのである。(1

だからといって、私にはその言葉を使用しないという選択肢も残されてはいない。

 ある言葉に反対しようとして、その言葉を意味づけなおす戦略をとることには限界があり、リスクを伴うことであることが、このエピソードでよくわかる。ここでわたしは、教育の場において憎悪発話の例を再流通させることが、その種の発話に反対し無害にさせる試みをつねに挫折させると言っているのではない。わたしがここで強調したいことは、その種の言葉は、当初意図された目的を超え、その結果、その種の発話に反対しようとする言説上の試みを台無しにし、挫折させるはたらきをすることもあるということだ。しかしそういった言葉を言わずにおくこと、言えないものにしておくこともまた、その言葉をその場所に固定して、その中傷力を温存し、その文脈や目的を転換させる再加工の可能性を阻止するものとなる。(2

バトラーは上記の例においては、明らかに中傷する意図を持って発話された言葉を議論しているが、「傷つける」ということ自体は発話者が完全にコントロールすることができるものではない。すなわち、どんな発言も人を傷つける可能性がある。その点で、バトラーの議論は十分、今現在私が行なっている議論に役立てることができるであろう。

傷つける言葉を使用するにしても、使用しないにしても、非常に困難な状況が私を待っている。悪意を持って傷つける言葉を発話しているわけではないという主張が何の免罪符にもならない以上、その言葉を使用する者は研究者であれ何であれ、その言葉の流通に加担しているという責任を負わねばならない。しかし、その責任を負うことを恐れて、その言葉を使用しないという選択をした場合、それはもう研究者としては失格であろう。なぜなら、それは傷つける言葉の問題性を見て見ぬふりをすることになるからである。

だとすれば、もともとこの問題には全てを円満に解決させるような答えなど存在しないと考えたほうがよいであろう。答えがあることを前提として問いをたてることは、試験問題のような一問一答ならば可能であるが、それが現実の事象に常に当てはまるとは限らない。それはつまり、答えは存在しないが、問いをたてなければならないということなのであろうか。無視できない問題であるから、ひとまずその問題だけでも提起したほうがよいということなのだろうか。いや、そうではない。解決不能である答えをあえて提出することで、当の問題の問題性を明らかにすること、そのことこそが重要なのである。

こうした主張は、現実の事象に対しても一問一答のような対応関係を想定してしまう私の態度を厳しく戒めてくれる。しかし、私はそこで現状認識という名の中断を手にして内心喜んではいないだろうか。やっと一息つける、と。求めていた答えが解決不能であること、それも1つの答えだと言わんばかりに。そこでは、戒めが戒めとして機能しておらず、体のいい言い訳に使われているだけである。

戒めとして機能するということは、傷つける言葉を黙殺することではなく、現状認識で立ち止まることでもなく、その言葉の流通に加担しつつ、その流通経路を露わにすることである。「加担している」ことを自覚すること、それに対し責任を負うこと。責任を負うという言葉では曖昧だとすれば、考え続けること、話し続けること、応え続けることの徹底である。すなわち、求めるべきは単一的な答えではなく、反復的な受け答えである。いつ終わるとも知れぬ応答のなかでのみ、私は自らを戒めることができる。

もうすでに、応答は始まっている。私は受け答える。

[註]
1) ジュディス・バトラー 竹村和子訳『触発する言葉―言語・権力・行為体』岩波書店 2004 p.58-59
2) ジュディス・バトラー 竹村和子訳『触発する言葉―言語・権力・行為体』岩波書店 2004 p.59