Revised Edition “正方形の系譜 2:写真家ベルメール” by 調文明
一昨年の押井守監督作品『イノセンス』、同時開催された球体関節人形展によって、ハンス・ベルメール(*1)が再び脚光を浴びているようである。雑誌でも人形特集が多く組まれ、「ハンス・ベルメール」という名も当然、誌面に登場する。そこでは、もっぱら人形作家としてのベルメールに注目が集まっている。
実際、ハンス・ベルメールと聞くと、真っ先に思いつくのは球体関節人形であろう。胴体の球体を中心に、上下に脚を生やした、何とも奇妙な物体。しかし、今回注目するのは、「写真家」ベルメールである。
写真家としてのベルメールに注目するのは、今回が初めてではない。大学の卒業論文で一章を使って、論じたものがある(*2)。本論では、そこでの議論を土台にしつつ、更に新たな展開を図るものである。そこで、重要になってくるのが、前回のRevised Editionで、取り上げた「正方形」のフォーマットである。
アラン・サヤグは、『ハンス・ベルメール写真集』の序文「ハンス・ベルメールの写真」の中で、ベルメールがローライフレックス6×6を使用していたことを、明かしている。ベルメールの写真に独自の価値を見出した点で、サヤグの序文は価値があるであろう。しかし、サヤグは、6×6の「正方形」フォーマットの特殊性には、無自覚であった。
ベルメールが1934年に第一の人形を撮影したときは、長方形のフォーマットのカメラで撮影しているのに対し、1935年には、6×6の正方形フォーマットを用いている。それ以降、ウニカ・チュルンの緊縛写真まで、ほぼ正方形フォーマットで撮影されている。このように見ると、ベルメールは、意識的に正方形のフォーマットを選択していることが分かる。第1の人形で用いていた長方形のフォーマットを早々と放棄し、正方形のフォーマットに切り替えている。ここには、フォーマットに対する、ベルメールなりの解釈が存在するはずである。
それを示すように、長方形の写真と正方形の写真とでは、撮影手法も構図も全く異なる。長方形の写真では、被写体である人形をほぼ正面に捉え、クローズアップして、撮影している。その撮影方法は、まるで商品を撮影する「ブツ撮り」のようでもある。一方、正方形の写真は、クローズアップもあるものの、殆どが人形の配置されている「空間」を意識した構図となっている。人形が配置される場所も、多種多様になっている。屋内では、キッチン、階段、ベッドなど、また屋外では、木の前や、森の中など、様々な場所で撮影されている。
ベルメールの写真に関して、1934年と1935年というこの非常に短い間に、急激な変化が認められるが、その兆しは、1934年の第1の人形に付された小論「人形のテーマのための回想」の中に見出せる。
写真機が撮る写真は、私達に「日常生活」や「第4次元界」の中の純度の高い薄気味悪さを手渡してくれた。雄雄しさのパトスは衰え、恐怖や嫌悪感は色褪せようとも、褪めた背景にだけは潜んでいるのだった。より真正な恐怖がたぶん、あの禁じられた写真にはついてまわっていたはずだが。どうして、自分でこしらえてできないはずがあろうか? だが、この新種の熱望は結局いくつかの憤懣の種になっただけだった。(*3)
ベルメールが「日常生活」という言葉を、どのような意味で用いていたかということは、今となっては知る術はない。しかし、1935年の第2の人形の写真に見受けられる、様々な「ロケーション」は、「日常」的によく目にする場所を多く撮影しているように思われる。キッチンやベッドなどは、我々が生活をしていく上で、必ず目にするものであり、見慣れたものとなっている。
ベルメールは、そうした見慣れた「日常生活」の中に、球体状の胴体を中心に上下に脚を生やした人形を様々に配置することで、その空間を見慣れない「不気味なもの」に変えようとした。ここまでは、多くのベルメール研究者たちも言及しているが、ベルメールがそのときに正方形のフォーマットを採用していることには、彼らは全く触れていない。しかし、このフォーマットの選択は、単純に幅の大きさや形状だけの問題ではなく、ベルメールの写真が醸し出す「不気味さ=見慣れなさ」を形成する上で、非常に重要な役割を果たしている。
ベルメールの写真に登場する人形は、通常の人形とは異なり、上下に脚を生やしていたり、体をバラバラにされていたりするなど、「不気味さ=見慣れなさ」を強調しているように見受けられる。更に、そうした人形をわざとらしく人為的に配置することによって、より不自然さを強めている。澁澤は、「写真家ベルメール」の中で、そうした配置の仕方に関して、次のように述べている。
作者は明らかに意図的に、その人形をいろいろな環境の中に置いて、シュルレアリスムのいわゆるデペイズマンの効果を出そうとしている。(*4)
シュルレアリスムにおいて用いられる「デペイズマン」とは、「本来あるべき場所から、別の場所に配置することによって、生じる驚異」を意味している。澁澤は、人形を本来居ないはずの場所に配置することによって、「不気味さ」が一層際立つことを、デペイズマンという言葉で表現したのである。
澁澤の見方は、それはそれで一つの真実を言い当ててはいると思われる。しかし、ベルメールの写真に見受けられる、あの「不気味さ=見慣れなさ」は、人形の配置だけなのだろうか。私が思うに、「不気味さ=見慣れなさ」を示しているのは、実は正方形のフォーマットのほうである。当時の多くの写真家が、長方形のフォーマットを採用したのに対し、ベルメールはローライフレックスによる正方形のフォーマットを採用し、しかも、トリミングせずに、6×6の比率のままでプリントした。
今までの写真の歴史を振り返っても、長方形のプリントがほとんどであり、その形が人々にとって一番見慣れていたものであった。そうした慣習を持った視覚にとって、ベルメールの撮るような、正方形フォーマットの写真は、非常に異質な感覚を与えるのである。アヴァンギャルド的な見方で言えば、ベルメールの正方形の写真は、従来の「正統」的な長方形の写真に対する、一つの反抗と見ることも可能であろう。しかし、本論は、あくまでベルメールの写真に見られる「不気味さ=見慣れなさ」を解明するものであり、正統に対する反抗という性質は、今後の考察に譲ることにする。
ベルメールは、人形を様々な場所に配置することで、デペイズマンの効果を起こしつつ、写真のフォーマットを正方形にすることで、「不気味さ=見慣れなさ」を強調している。彼にとって、正方形のフォーマットは、単なるカメラの枠の選択の問題ではなく、芸術実践に関わる大きな要素となっている。というのも、ベルメールにおいて、長方形の写真は、ある被写体に対して、写真家=カメラが近づくか遠ざかるかが問題であるのに対し、正方形の写真の場合、被写体をどのように配置するかが大きな問題で、写真家=カメラはほぼ不動の場所に位置しているように思われるからである。
このことは、実は大きな問題をはらんでいる。正方形のフォーマットを用いる写真家を挙げてみると、ベルナール・フォコン、ジョエル=ピーター・ウィトキン、植田正治など、いわゆる作りこんだ写真を撮影する写真家が多いことに気がつく。正方形フォーマットと「作為性」が、非常に密接に結びついているのである。これは、単なる偶然とは到底思えない。
我々は通常、写真家が自由に機材や構図を選択していると考えるが、本当にそうであろうか。私は、その逆に、正方形のフォーマットが、写真家に作りこんだ写真を撮らせているように思えて仕方がない。本来、メディアであるカメラは自由に使用することができるはずであるのに、正方形フォーマットのスナップ写真というものがあまり登場していないのは、その一つの証左であるように思われる。このことに関しては、稿を改めて、より深く考察していく予定である。
ベルメールが、第1の人形を長方形フォーマットで、第2の人形を正方形フォーマットで撮影し分けていることに注目して、本論を書き始めたわけであるが、彼が、正方形フォーマットを用いて、作為的な写真を撮った最初期の人物であることは間違いないであろう。正方形フォーマットということに注目してみると、ベルメールと植田正治という、従来では考えもしなかったような結びつきが、出てくるようになる。正方形というキーワードは、今後のベルメール研究に、新たな見方を提供するものであると、私は確信している。
1) 今回のタイトルを意図的に澁澤龍彦の同名のタイトルにしたのは、未だに写真家としてのベルメールの研究が未熟であることに対する警告であり、同時に自らが写真家ベルメールの研究を始めるということの宣言でもある。
2) 拙論「ハンス・ベルメールの芸術実践における「相互交換可能性」の変遷 ~「肉体的無意識」による新たなシュルレアリスム理論の試みに向けて~」の第2章を参照。
3) ”La poupée” in OBLIQUES: Bellmer: une nouvelle conception de la revue; numéro special, Borderie, 1979, p. 61
4)澁澤龍彦「写真家ベルメール」『澁澤龍彦全集』22巻p.434