試評 2006.06.13 by 土屋誠一

[図1] 伊東深水<雪柳>(1948-1949年)
[図1] 伊東深水<雪柳>(1948-1949年)

見よ、この絵画を[図1]。高島田に結った日本髪、そして和装という姿の女性。彼女は、机に肘をつき、顎に少し指を触れ、その両手を緩く重ねている。観者に対してほぼ真横を向いた顔の視線の行方は、その先にある花瓶に活けられた雪柳に至る。しかし、顎の近くに所在なく組まれた両手は、この女性が雪柳を注視しているのでは決してなく、自らの内面における心理の揺れ動きに没入しているのだということを示す。画面のほぼ中央において、女性と雪柳とが対比されているように、女性が纏っている羽織のその膨らみが強調する比較的量感のある形態とは対極的に、他方の雪柳は、その枝が繊細な細い描線で表現されている。観者は、女性の沈思の内実を探ろうと画面に眼を向けるが、その沈思の心情を表わす手がかりが、この細い雪柳であるということを理解するであろう。つまり、この雪柳とは、女性の内面が外化された形象である。雪柳の形象は、いわば、女性の心中における繊細さの象徴として機能する。そのため、一見豊かな形姿を伴う女性であるが、他方、その所在ない身ぶりによって、この雪柳の繊細な形姿をその内面に抱え込むことになる。この形象の二重化と、女性の沈思という没入の仕草は、観者の視線を忘却し、絵画面のなかの空間をその画面内で切り閉じ、自立的なものとする。

この女性は、無防備なほど他者の視線に対する緊張を欠いているが、その緊張の欠如は、かえって観者の女性に対する感情移入を妨げることになる。無防備な身ぶりであるにもかかわらず、いや、かえってそのために他者の存在を寄せつけないこの女性に対して、観者は決してその美を獲得するための欲望を充足することができない。このディレンマを経た断念は、決して到達することのできないこの美人に対し、「儚さ」という属性を読み取らせる。しかもこの「儚さ」とは、その無防備さゆえに決して崇高な美には結びつかず、むしろこの女性の世俗的な放心を示すものでしかない。その世俗性ゆえ、この女性という美的対象の、反復可能性を示すであろう。瞬間に立ち現われる、しかし再生産可能な儚さに徴しづけられた美。いわば、大衆が、反復的な消費意欲を減じない程度に差異化され、再生産される美である。

この絵画は、日本画家・伊東深水(1898-1972)によるものである。大戦前後にわたり、美人画の大家として人気を博したこの画家は、今もってその大衆的な人気を減じることがないようだ。深水の回顧展は、毎年のように国内のどこかで開催されているほどであるし、そうでなくとも、「美人画」の名が冠された、深水もその一人として作品を連ねる比較的大規模な展覧会は、美術館や百貨店でしばしば催されてもいる[註1]。そのような深水であるが、目黒区美術館において一風変わった展覧会が開催された。「『素顔の伊東深水』展~Y氏コレクションから」と題されたこの個展は、その出品作のほとんどが素描で構成されている。展覧会を企画した担当学芸員は正木基氏であるが、さすが執拗な資料探査では日本の学芸員有数の氏であるだけに、生半可な展覧会にはなっていない。出品された素描の多くに対して、その本画にあたるであろう作品の参考図版を示すのみならず、それらの素描に対して、展示解説のテクストがこれでもかというほど付されている。それら懇切丁寧な解説に導かれて、深水の確かな形態把握の技量や、微細な仕草にわたるまでの注意深い配慮が理解できるのである。展覧会の副題が示すとおり、この展覧会は単独のコレクター(Y氏とは、目黒区内に店舗を構える画商であるとのことである)が収集した作品のみによって構成されているわけであるが、出品された深水の作品のうち、いわゆる本画は10点足らずでしかなく、あとは素描ばかりである。本画の数から言えば、決して充実したコレクションであるとは言い難いが、しかし、この制限にもかかわらず、豊かな問題提起を多く含むまでに至っているこの展覧会に対して、賞賛を怠るべきではないであろう。

この展覧会の「裏」の本領は、素描展のアペンディックスとでも言うべき、膨大な関連資料の提示にある。会場に展示された、生前に刊行された展覧会カタログや作品集、はたまた新聞記事の切り抜きにまで至る多くの関連資料は、深水の当時の受容の様態や、イメージの流通形態を想起させる指標となる。圧巻は、深水の戦時期における制作を、軍事郵便絵葉書を中心に、その他関連する資料とともに提示するコーナーであり、戦中期の美術の一側面を垣間見ることができる。ともあれ、先に述べたように、その人気ゆえ毎年のように展覧会が開催される深水であるが、その大衆的人気が災いしてか、ほとんどまともな研究や読解がなされたことがない。「本流」の美術関係者において、美人画であるゆえに軽視されやすいのがその原因のひとつであろうが、深水の、その本格的な読解の第一歩として、この展覧会は嚆矢をなすものであると言える。

展覧会を手がかりに、伊東深水という美人画の巨匠の作品について考えてみたい。深水は、鏑木清方に入門して、その画業を開始している。その活動の初期には、渡邊庄三郎を版元とする、いわゆる「新版画運動」[註2]に川瀬巴水[註3]らと参画するほか、雑誌、新聞への挿絵の寄稿も多い。版画や挿絵の仕事は、しばしば通俗的なサブジャンルへの参入、あるは小遣い稼ぎにうつつを抜かすなどと否定的に見られがちである[註4]。しかし、版画や挿絵への傾斜は、院展(1914年)や文展(1915年)への入選を果たし、画壇への道が開かれた後のことであるから、画家として生活を成り立たせるために、本画以外の制作に精を出すということよりも、それらのメディアへと主体的かつ積極的に参入していったというべきであろう。例えば本画とともに、泉鏡花や尾崎紅葉などの挿絵も多く手がけた師の清方が、本画に対して「卓上芸術」を唱えたように、江戸の浮世絵、風俗画の系譜にある画家は、自らの画業を大衆の視覚の欲望に奉仕するメディアへと重ね合わせることに、何の矛盾も覚える必要はない。深水の、版画や挿絵への精力的な関わりは、師からの伝統に連なるものであり、彼の大衆メディア上での活躍は、その一貫したスタイルである「美人画」というジャンルにおける特質に由来するものである。

深水の浮世絵版画(といっても差し支えないであろう)における女性像のいくつかは、大正のロマン主義的抒情の代表である、竹久夢二のそれを思わせるような様式で描かれている。しかしそれは、深水の描く女性像のひとつの側面であり、夢二のようなイラスト的デフォルメや、清方直系の江戸の美人画の様式、さらにはより写実的な女性像といったように、様々な様式を使い分けつつ描いている。これは、大衆、あるいは国民の様々な「趣味」に即して、その都度様式が選択されているということの証左であると言えよう。また、美人画という通俗的なジャンルであることは、「美術」という大文字の高級文化の保証を大衆に対して充足させつつも、その図像から受ける裏面としての欲求は極めて通俗的なものであるという二重性を持つ。この対極的な価値の二重化とその享受は、まさに国民というマッスに対して与えられる公式の「美術」として、その評価を確固たるものにすることになる。

今回の素描展は、特に戦後のものが多くを占めているが、深水の画業全体をざっと通覧してみると、戦前のものに比べ、なおさら通俗度が増しているようである。最もそれが顕著にあらわれるのは、洋髪の女性像がしばしば見られるという点においてだ。注意しなければならないのは、それらが単にファッションの西洋化を示すということではないということである。というのは、(古い言い回しに即していうならば)パーマネント・ウェーヴがかかった洋髪の女性であっても、服に関しては和装がほとんどであるからだ。つまり、これらの洋髪で和装の女性たちは、ある趣味に即した理想像において構想されたものである。深水自身、この点に関して次のように述べている。「時代時代の美意識が絵画の上に反映しなければならないと思います。とりわけ婦人風俗画に於ては、その現れは更に顕著です。時代の生活感覚から遊離したものであっては、やはり観念的な遊び以外のなにものでもあり得ません」[註5]。あるいは、次のような発言。「何時までも江戸調の世界にのみ彷徨していていいかどうか」、「時代の叙述と云われる風俗画が過去への耽溺に終わっていていいという理由は皆無である」[註6]。これらの言は、例えば師・清方の江戸趣味に対する批判的言辞であり、「風俗画」というジャンルはそれが描かれる時代のモードを反映しているものでなければならない、ということを意味する。この、時代のモードを形成する趣味の共同体の傾向と、歴史が形成する絵画の美意識とが止揚されるとき、優れた風俗画=美人画が生まれるという認識が、深水には認められる。したがって、深水が目指す美人画の美的達成には、単に時代の風俗をスナップするだけではなく、そこに歴史的に規定された美意識が重ね合わされる必要がある。そのため、和装という伝統的とみなされる図像的意匠が強調されなければならないのだ。

ところで、このような深水の目論みに対し、男性のセクシュアルな欲望の視線が形成する女性像しか描かれていないと批判することは可能であろう。今回の展覧会のカタログ中、正木氏も「描かれる女性は、ほとんどが寡黙で物思いにふけるなど、「語らない」」[註7]と指摘しているが、冒頭で挙げた<雪柳>もそうであるように、深水の絵画に登場する「美人」たちは、あたかも観者の視線の享楽のための捧げものであるかのように、自らを主張することなく、静かに佇んでいる。フェミニズムの観点に立てば、このように表象された女性像は真っ先に批判されるべき対象であるし、さらに深水の美人画を好む「女性」の視点に立ってみれば、男性の欲望が投影された理想的女性像に自己を重ね合わせる女性の視線、というさらに捩じれた構造を見て取ることもできる。しかし、<雪柳>に見たように、深水の美人画は、そこに描かれる美人が、視線の享楽の対象として単に差し出されているわけではなく、むしろ享楽を断念させる構造を絵画に導入することによって、欲望を再生産させるという仕掛けをもっているのであり、単純な搾取の構造を指摘しておくだけでは済まないだろう。セクシュアルな問題のみにとどまらない、より根深い表象の政治性が、深水の絵画には折込まれていると言い得るからである。ではその絵画は、いかなる構造をもっているか。

<雪柳>において達成されている「儚さ」が、欲望の完全な充足を妨げるが故に、かえってその欲望を強く喚起させる構造をもっていることは、先に指摘した通りである。それは言い換えれば、対象とそれを眼差す者との間に「隔たり」を与えることによって確保される「美」であると言える。この点は、深水の美人画において通底する特質であるが、例えば以下に挙げる美人画「ではない」絵画においても、このような構造が見て取れる。<窓望>[図2]と題されたこの絵画は、今回の展覧会の、戦中期のセクションに『航空美術』という当時刊行されたタトウ入りの複製画集の一葉として展示されていた。具体的な戦いの光景が描かれていないとはいえ、この絵は紛れもなく(広義の)「戦争画」であるのだが、先の「隔たり」という観点から見ると非常に興味深い方法で描かれた絵である。

[図2]伊東深水<窓望>(1941年)
[図2]伊東深水<窓望>(1941年)

飛行機の窓から臨む富士山頂がこの絵のモティーフであるが、窓によって区切られた枠組の中には、帝国の象徴である日の丸が、主翼のマーキングとしてあらわされている。この日の丸は、同じく象徴としての富士山と重ね合わされることによって、共同体の同一性を強調するかのようである。注意すべきは、この象徴の重合が、飛行機が富士上空を横切るほんの一瞬しか訪れない契機であるということだ。たまたま富士上空を飛行するという機会において、日本の軍事力の象徴である日の丸が付された飛行機が、富士山と邂逅するとき、この共同体の感情が訪れるというわけだ。しかし、飛行機というヴィークルは、その速度と飛翔能力ゆえ、あらゆる場所に遍在するものである。おそらくこの<窓望>に描かれた山頂は、日本の富士山を描いているのだと思われるが、今回のカタログのテクスト中に、興味深い紹介がある[註8]。戦中の「第3回航空美術展」(1943年)に<機上より見たるジャワ富士>と題された作品を出品しているというのである。正木氏のテクストも指摘しているように、この<ジャワ富士>という作品と、<窓望>とは、おそらくほぼ同様の構図をもった作品であるかもしれない。ここでは作品の同定は問題にはしないが、興味深いのは、「富士山」という固有名をもつ象徴が、決して単独のものでなく、「大東亜共栄圏」に遍在するものであり、その遍在性を支えるのが飛行機によって得られる超越的な視点というわけだ。

<窓望>に描かれているのが飛行機の窓枠だけであり、この窓辺に座っているであろう画中の観者が描かれていないことは、意味のないことではない。眼差す主体が描かれていないことは、すなわちこの窓辺に座っている者が、いままさにこの絵画を鑑賞している観者であるということを意味する。つまり、飛行機というヴァーチャルな視覚装置の枠組がこの絵画では描かれているのであり、しかもその枠組は特定の場所という制限を超越し、その都度見出し得る「富士」の像がその眼差しの先に結ばれるというわけだ。これは必ずしも日本の富士を指示するだけではなく、「帝国」の領土に遍在する象徴としての「富士」でもあろう。ゆえにこの「富士」は、実体であるかのように見えながらも、実はそうではない。観る者がそこに象徴を見出すことで、初めて可視化されるものであり、それは超越的な理念であるが故に、我々とは隔たり、具体的なものとして触れ得るものではない。その超越性の生産は、遍在する視線を保証する「飛行機」というヴィークルがなすものであり、それはさらに、この日の丸が徴づけるところの共同体に対する、大衆の美学的な信仰とペアをなすものであるのだ。

この点を、先の<雪柳>と重ねて考えてみよう。雪柳を眼差す美女は、決して手に届くことがないゆえ、共同体の美の感情を保証していた。それと同様に、<窓望>における「富士」にも、それに触れえないが故に崇高であるという共同体の信仰が、そこに畳み込まれている。戦中の、いわば「政治の美学化」(ベンヤミン)とでもいうべき「国民」の共同性に訴える美の表象は、一見政治とは無関係に見える美人画と、その表象される形式において、そう遠く隔たるものではない。しかし、このことは、大戦期を挟んだ時期に活動した深水とその時代的感性に特殊なものではなく、例えば可愛らしさや純粋さによって価値づけられているような美術における、その大衆の集合的な欲望を掬い上げ、充足させるという機能において、一見した政治性への無関心ゆえに、現代においても反復しているものであることには注意しておくべきであろう。

恐らく、深水のような「美」は、ある特定の世代において消費しつくされた筈であるし、いまもなお残存する人気は、懐古的な慰みによってかろうじて確保されているだけであろう(またそれゆえに、今回のような「美術史学的」手続きを経た興味深い展覧会が開かれ得るのであるが)。ただし、このような大衆化された「美」をいかに表象するかという、表象のその形式については、決して過ぎ去った問題ではないということを、忘却すべきではない。


[註1]以下に挙げる展覧会を、すべて実見しているわけではないが、ごく最近のものを、気付いた範囲で挙げておく。「美人画の巨匠 伊東深水展」(会場:美術館「えき」KYOTO 会期:2006年4月1日~4月23日)。「伊東深水展 優美にしてモダン 麗しの女性たち」(会場:茨城県天心記念五浦美術館 会期:4月28日~6月4日)。「公別公開 培広庵コレクション 近代の美人画―その耽美と憂愁」(会場:うらわ美術館 会期:4月29日~6月18日)。
[註2]深水の新版画運動への関わりに関しては、以下の展覧会カタログを参照のこと。『伊東深水全木版画展図録』伊東深水全木版画展実行委員会、1992年。
[註3]巴水は現在巡回展が開かれており、近くは7月から、ニューオータニ美術館での開催が予定されている。
[註4]例えば東山魁夷が、その若い頃の膨大な挿絵画家としての仕事を、画家として大成した後に、ひた隠しにしようとしたという話は有名である。
[註5]伊東深水「紫君汀雑談」『三彩』1949年5月号(引用は本展カタログの正木氏論文から行った上、現代表記に改めた。)
[註6]伊東深水「畫室の感想」『塔影』1938年8月号(引用は本展カタログの正木氏論文から行った上、現代表記に改めた。)
[註7]正木基「素描から見る伊東深水の画業」『「素顔の伊東深水」展~Y氏コレクションから』目黒区美術館、2006年。
[註8]正木基「伊東深水の『南方風俗スケッチ』と軍事郵便絵葉書を巡って」『「素顔の伊東深水」展~Y氏コレクションから』目黒区美術館、2006年。