試評 2007.02.23 by 土屋誠一

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2005年5月に第一回展を開催した展覧会「disPLACEment」の第二弾、「倉重光則展」の開催になんとか漕ぎつけることができた。細かい点に関しては、数日後に刊行予定のカタログ『disPLACEment vol.2』をご覧いただくとして、ともかく多くの人に展覧会を実見していただきたい。この展覧会は、倉重の新作インスタレーションと、1970年に倉重が制作した作品の記録写真に基づく私の構成による展示によって成り立っている。ところで、私はなぜ「disPLACEment」において、倉重の個展を選択したのか。展覧会の開催意図については、photographers’ galleryのウェブサイトに掲載されている拙文で既に述べているが、ここではそこで述べなかったことについて触れてみたいと思う。

2003年、倉重は神奈川県民ホールギャラリーにおいて、大規模な個展を開催した。この展覧会は、美術館規模のキャパシティーを持つ会場において、彼ほどのキャリアを持つ作家の個展がしばしばそうであるような、いわゆる「回顧展」ではなかった。広い会場がすべて、ほぼ新作と言ってよい作品によって占められていたのである。その頃、ほんの駆け出しもいいところの美術評論家として、『美術手帖』誌でのギャラリー・レビュー欄の執筆を通過儀礼的に担当していた私は、質や規模の判断を措いて、ともかく大量の展覧会を浴びるように観ることを自らに課していた。この個展を観たきっかけも、その流れの一つに過ぎなかったのである。しかし、県民ホールでの個展を観て、とにかく「衝撃」を受けた。大量の展覧会を半ば義務的に観ていると、展覧会を巡ることがルーティン・ワークになり、ちょっとやそっとの作品を観てもいちいち感動することがなくなる。いわば、「不感症」の状態である。しかし、その「不感症」という状態は、作品の強度の判断を要請される局面においては必ずしも悪い条件ではない。不感症であればあるほど、作品の上っ面のインパクトや目新しさに対する「免疫」ができるようになる。けれども倉重の作品は、量を観ることでそれなりに鍛えたつもりの私の免疫力を、易々と破壊した。強力な作品群に惹きつけられた私は、各々の作品を注視せざるを得なかったのだ。

展覧会場を出てすぐさま私は、当時仕事を共にすることの多かった『美術手帖』誌の編集者に連絡をとり、その展覧会がいかに素晴らしかったかをまくしたてた。そして、この展覧会に基づいた倉重の記事を組むよう、説得にかかった。『美術手帖』誌はこの展覧会を完全にノーチェックの状態で、編集部の誰一人として展覧会を実見していなかったようだった。しかしなぜかあっさりと、誌面化のゴーサインが出た。その数日後にインタヴューを行ない、翌月号には私自身が書いた記事が掲載された[註1]。とにかく、それ程までに熱意を駆られるほど、観る者を完璧に打ちのめす展覧会だったのだ。

その時のインパクトが今回の展覧会の実現に尾を引いているのは、確かである。しかし、今にしてみればよく分っているのだが、倉重の作品に私が過敏に反応したことには、もう一つの理由がある。それは、これから述べるような、私自身の関心に基づく。

私が実質的な評論活動をはじめるきっかけとなった論考は、斎藤義重に関するものである[註2]。そこでの基本的なモティーフは、日本の戦後の「現代美術」の性質を、斎藤というイデオローグを通して、批判的に捉えなおしたいという目論見である。よく知られるとおり、斎藤は美術に関する理論的な発言を、殆どまとまった形では残していない。つまり、斎藤は非常に寡黙なイデオローグであるわけだが、1960年代後半、多摩美術大学在任時に形成された「斎藤スクール」が、評論家・峯村敏明によって後年カテゴライズされるところの多摩美系「もの派」の形成に一役買ったのは間違いない。

しかし、イデオローグであるのに寡黙であるとは矛盾している。この逆説は、評論では瀧口修造の態度に通底する特徴である。斎藤・瀧口ともに言えることであるが、大戦前に形成したアヴァンギャルドの素養を、戦後においてもスタイルを変えつつも持ち越し得たのは、この寡黙さゆえのことだ。斎藤の場合、戦前には構成主義やダダイズムからの影響の濃い作品を制作しており、そこにはいわゆる「大正アヴァンギャルド」の残響を見ることができる。戦後は時代の最新流行に沿うかのように、アンフォルメル風の絵画やプライマリー・ストラクチュア系の作風に、そのスタイルを変化させていったが、思想的背景は戦前に育まれたものを引き継いでいる。その思想とは勿論アヴァンギャルドの精神と言うべきものであるが、大戦が彼にもたらしたのはニヒリズムであり、芸術のアヴァンギャルドはその不可能性によってアヴァンギャルドたり得るという認識である。

この思想は、斎藤スクールから展開する「もの派」の理解に、基本的に引き継がれているように思われる。このことは、具体的な作品や作家の問題というよりも、むしろその周囲にある言説や理解の問題である。例えば多摩美系「もの派」の中心人物である関根伸夫の<位相―大地>から李禹煥が引出した「出会い」とは、作品においては、経験の直接性を指すものではなく、そこでは経験の直接性の「図式」が間接的に表象されていることの謂いであると考えてよい。この経験の間接性は、戦前からのアヴァンギャルドの寡黙さに由来する、極度に抽象化された美術における言説とペアをなしている。言説の抽象化は、近代以降の日本の美術が、海外の最新流行の様式を文字通り「図式」として摂取してきたことと無関係ではない。斎藤の作品がそうであるように、極度に洗練された「図式」は、その洗練それ自体を評価すべきであるかもしれない。しかし、このニヒルな洗練は結果的に、ひたすら言説を抽象化することに邁進し、作品の実際的な経験を記述しえないという自閉を招き、美術評論はその外部あるいは他者を欠いた論として空転するという事態に至ったように思われる。

この経験の間接性、および図式としての作品や言説のあり方は、1960年代後半からの美術の主流的動向と手を取り合うことによって、保証されてきたのではなかろうか。その主流的動向の呼称は、コンセプチュアル・アート、ポスト・ミニマリズム、プロセス・アートなど様々に拡張することができるが、それらの包括的な呼称としては「非物質化された美術(dematerialization of art)」が最もふさわしい。この「非物質化された美術」とは、ルーシー・リッパードによって1968年に書かれたテクストの表題である[註3]。その表題自体、リッパードがそこで論じている内容以上に、当時の動向を正確に言い当てているように思われる。リッパードがこのテクストにおいて例示している作家は、現在からすると総花的にしか見えないかもしれないが、確かにこの時代の作品は「非物質化」という紐帯によって共通する性質を持つ。そして何よりも重要な点は、「非物質化」以降の美術作品に対して、「見る」という経験の直接性を、必ずしも前提としなくても良いという保証が与えられてしまったことにある。「物質」というタガが決定的に外れてしまった「美術」は、いかなるものでも代入可能な受容器としてその枠組を無限に拡張する。そこで仮に与えられる枠組には、絵画、彫刻といった旧来のジャンルも含まれるものの、写真や映像、あるいはより大きくは美術館といった、都度に割り振られるそれぞれ等価なフレームに過ぎない。

ここで私は馬鹿の誹りを受けることを承知で、「非物質化」はグローバリゼーションと等しい、と唐突に呟いてみたくなる。なぜなら、非物質化が進行すればするほど、受容器の透明度は増していき、その極点において「美術」は、共通言語としての位置を獲得するからである。この「非物質化」のプロセスを経ることなしに、今日のグローバルな美術の状況は生まれえなかったはずであり、欧米以外の「美術」は、日本における明治から戦後にかけての近代とローカリティとの軋轢と同様の事態を、未だに繰り返し続けているはずである。しかし、この「グローバリゼーション」に対して私は勿論肯定しているわけではないし、それが偽の現状肯定の身振りでしかないことも知っている。ともあれ、今日の美術におけるグローバリズムが、「非物質化」という契機と期を一つにしていることに、注意を向けておきたい。

日本国内の問題に話を戻そう。「非物質化」の傾向は、1960年代後半の日本の美術においても無縁ではない[註4]。同時に、美術における言説は極度に抽象化され、それが日本における美術評論のひとつのスタイルを形成した。1970年に日本国内において評論家・中原佑介によって組織され開催された国際美術展、「人間と物質」とタイトルが付された「東京ビエンナーレ」は、「非物質化」という点において通底した作品群の提示による、内向きのグローバリゼーションの結実であると見るべきである。欧米の「非物質化」された美術作家たちと、日本における同傾向の作家たちは、国際美術展というフレームにおいて一堂に会すことで、一挙に日本の近代化が完結したかのように見える。しかし、そのグローバリゼーションが、「非物質化」という共通言語を得たつもりになることに由来する「内向き」のものでしかないことは、日本人作家として参加した美術家たちのその後の展開が、そのまま証明するものでもある。日本の現代美術におけるグローバリズムという点においては、「東京ビエンナーレ」と表裏をなすもう一方の面が、同年の大阪万博での美術家の大量動員にあたるであろう。

しかし、内向きではあるとはいえ、日本の現代美術の中心的なモードを形成してきたのは、主流的な美術評論家のひとりでもあった中原佑介の言説が代表するような、極めて抽象化された議論に基礎づけられたものであり、その理解も「日本」における「現代美術」という極めて自閉的な言説空間を形成することに寄与してきたように思われてならない。今日の美術における言説もまた、そのような自閉の域を脱するものではない。ならば、今日まで引き続く「非物質化」の契機を、その発生の当時にまで遡り、「非物質化」という不可避の事態を引き受けつつも、「別の」可能性を示す指標はないのであろうか。その点こそが私が評論を書くモティーフの一つであり、今回の展覧会に込めた企図の一つである。

さて、そのことを展覧会という枠組の中で検証するためには、単なる回顧ではなく、今現在も「別の」可能性を作品によって提示し得ている作家でなければならない。以上のような問題圏を提示しつつ、強度のある作品を展開し得るに足る格好の作家として、私の念頭には倉重があった。倉重の作品の特徴は、光という「非物質」的な装置を扱いつつも、作品の経験の相においては物質性を際だたせるという点にある。光の使用が単なる装飾的なライト・アートに終わらないのは、その「非物質」と「物質」とのあわいを、作品において自覚的に提示しているからだ。それは、概念を示す「図式」でもない上、負のローカリズムに対するニヒルな自閉でもない。倉重の作品は、作品とそれが提示される「この場」への徹底的な肯定であるのと同時に、「この場」や「この作品」という一義性をも変容させるものである。

しかし、展覧会を実現するにあたって新作のみを提示するに留まっては、単なる「紹介」の域を出ない。倉重の作品における「別の」可能性を示唆するために試みたものが、記録写真に基づく展示である。「かつて」の物質的痕跡を提示することによって、「現在」における倉重の作品の可能性の位置を、遡行的に照射することが、この記録写真の展示の目論見である[註5]。したがって、この記録写真とは「作品」ではないし、ましてや単なる歴史的「資料」ではない。それは「現在」に対して差し向けられた、批評的コメンタリーとして解されたい。であるが故に、「批評」もまた作品によって照射されるものであり、批評的言説がこの展覧会のすべてを超越的に統御しているわけではないし、最終的には私自身の問題に還流するものである。

この展覧会が成功しているか否かの判断は、展覧会をご覧になった方の判断に委ねよう。ただ、企画者として主張しておきたいことは、倉重の作品が今日においてもなおアクチュアルな可能性を内包しているということであり、そのアクチュアリティは確かにこの展覧会に記されているということである。

[註1]「倉重光則 照射される「痕跡」」『美術手帖』2004年2月号。
[註2]「失くしたものの在所をめぐって 斎藤義重、一九七三年、再制作」『美術手帖』2003年5月号。
[註3]Lucy R. Lippard with John Chandler, ‘The Dematerialization of art,’ Art International, February, 1968.
[註4]この「非物質化」という問題を拡張して、例えばフェノロサや岡倉天心によって主導された「日本画」もまた、外部からの要請によって組織されたフィクションとしての「日本」という「コンセプト」しか存在しないのであるから、日本の美術はそもそも「非物質化」されているという判断もあるだろう。私自身もそのような意見を否定するものではない。
[註5]無論、photographers’ galleryという写真家による場というコンテクストも、今回の展覧会の意図と無縁ではない。記録写真の提示は、「写真」と「美術」という、最早今日ではその区別が無意味であると見せかけつつも、根底的な断絶を露呈させる二つのジャンルにdisPLACEmentを引き起こさせる、いわば蝶番の役割も果たしている。