Revised Edition “正方形の系譜 3:植田正治 ローライ&ハッセルブラッド” by 調文明

昨年、東京都写真美術館で行われた植田正治展を見て、初めてその魅力に触れた人、あるいは改めてその魅力に感じ入った人は多かったのではないだろうか。そう思わせるほどに、この展覧会は植田正治の多面性を露わにさせていたように感じられた。

しかし、それと同時に、その強烈な画面の力に圧倒されて、隠れてしまった部分もあったように思われる。その1つが、「正方形」フォーマットのカメラで撮影されたという事実である。しかも、興味深いことに、植田は時期を隔てて、2種類の正方形フォーマットのカメラを、それぞれ全く異なる主張のもと使用していたのである。

まず、最初の正方形フォーマットの二眼レフカメラとして、植田はテッサーF3.8付きのローライフレックスを使用していた。長くなるが、その当時の状況を回顧した彼の文章を以下に挙げておこう。

 私がいままでで、いちばん長く愛用したカメラは、テッサーF3.8付きのローライフレックスだったと思います。もともと飽きっぽくて、いろいろカメラ遍歴はいたしました。そして、いずれも2、3年くらいでチェンジしながら今日に至っております。
 でもその中で、昭和9年に入手したローライレフだけは特別で、19年に譲るまでちょうど10年間使い続けました。もちろんオートマットなんて高級機は戦後のもので、この当時には初期の型式のものでございます。
 (中略)写真館が軌道にのるようになり、今までのスネカジリとちがって自分の意志でお金が自由になるようになったので、またぞろもっとよいカメラがほしくなってきました。でも当時のカメラは、今とちがってすごく高価なものであり、月賦制度も普及してない時代ですから、取引のあった写真材料兼業の薬店で便宜をはかってもらって、憧れのカメラ6×6判二眼レフを手に入れることができたのでした。(私のような呑気な写真は許されないのか  カメラ毎日80年11月号「続アマチュア諸君!」)1)

この文章からも分かるように、植田にとって、ローライフレックスは「愛用」品であり、「憧れ」の的であったのである。その証拠に、彼の戦前の代表作である「少女四態」「花の着物」「雪中群像」「晴衣」「茶谷老人とその娘」は、全てローライによるものである。そして、それらの作品に共通する、もう一つの特徴がある。それについて、植田は以下のように述べている。

 この頃は戦前の金ピカローライコードの全盛期で、スクエアサイズとローアングルで空に抜いた人物や風景が写真雑誌上に溢れていました。だから私のローライでは、ピントグラスを見ないで不便な透視ファインダーで構成を決めるという撮り方や、サイズは細長くトリミングして撮ったりということをやった時代でありました。(同上)2)

以上の文章を見てみると、1930、40年代では正方形フォーマットをトリミングすることのほうが、より「目立つ」ということを植田は理解していた。それは、写真雑誌の月例コンテストに如何にして掲載されるかということとも直結していた。そう考えると、写真雑誌という媒体やローライフレックスのアマチュア内での人気が、植田の写真作法にまで影響を及ぼしていたと見ることもできるだろう。

植田にとって、ローライは正方形フォーマットの新奇さをただ提供するだけのものではなかった。正方形フォーマットが珍しいということだけであれば、トリミングせずにプリントしたほうが、その珍しさはもっと強調できるはずである。ではなぜ、植田は正方形をトリミングしたのだろうか。ここでは、「正方形フォーマット」と「トリミング」とを分けたほうがよいだろう。

まず、「正方形フォーマット」に関してだが、植田にとって重要だったのは、正方形のネガが作り出されることよりも、ファインダーが「正方形」であること、だったのかもしれない。正方形のファインダーを通して、構成構図を決める。だからこそ、彼の細長い写真を見ても、正方形の写真に感じられるような、奇妙な不思議な感覚が残るのである。

では「トリミング」はどうであろうか。これは、先の引用の中にも書いてあったように、当時の写真雑誌において、スクエアサイズの写真が氾濫していたため、それと対比させる形で、トリミングした写真を提示した、ということで一つの答えにはなろう。しかし、それも、正方形のファインダー特有の構成・構図があってこそなのだと思われる。植田とローライの関係に関しては、当時のアマチュア写真家や写真雑誌も含んだ、より大きな範囲で見ていく必要が今後あるだろう。

70年代に入って、植田は正方形フォーマットの一眼レフカメラであるハッセルブラッドを購入することになる。

 最近といっても、昨年の夏になりますが、思いきってハッセルブラッドを、ずいぶん高かったけれど、買ってしまいました。ばかばかしいような値段で、おまけに交換レンズの2、3本もということになると、それこそ、すごいお金を支払わなければならないので、ちょっと考えましたが、昔から、欲しいとなると、矢も盾もたまらぬという悪癖があって、えい、買っちまえ、という気になってしまったのです。それが、一ヶ月もしないうちに値上がりして、考えてみると、10万円くらい安く手に入れたことになります。 
 (中略)私が買う気になったのは、私の周囲の若い人の口車や、おだてにのったのではなく、いままで使っていた35ミリ判のカメラからすこし目先を変えようということだったのです。それにしても、年を考えたら、なるべく軽いものがいいということと、真四角のフレームの持つあの妙に新鮮な感じに魅力を感じてのことで、いまさらかっこうつける気なんて、薬にしたくもありません。それどころか、40年前に、月例写真に熱をあげていたころに、思いきって買ったローライレフの感激が、いまさらのように脳裏に去来し、わき目もふらず、うちこんだ昔のように、みんな新鮮に見えてきて、昨今は、ずいぶんこれで写しまわっています。(非今日的写真術  アサヒカメラ74年6月号「写真作法」)3)

この引用文を見てみると、ハッセルブラッドになって素直に「真四角のフレームの持つあの妙に新鮮な感じ」を口にする植田の姿があり、多少驚くのだが、更にトリミングに関して、次のように植田は述べている。

 ネガキャリアも、2個用意してあります。1個は普通のもの。もう1つは、窓にヤスリをかけて、わずかに広げたもので、これはいま流行の白縁に黒線を出す時に使います。私は広い白縁に細い黒い線を引くように申し上げたこともあったと思いますが、最近、ずいぶん見かけるようになりました。それも、マジックペンで、まことにいい加減な線が下手くそに引いてあるものなんか、その効果どころか、むしろ画面を汚しているようなものまであって、それがむしろオリジナルを損なうものではないか、ということも考えられますので、一切、線引きはやめて、ネガそのものから焼きこむことにいたしました。

 もともと私は、トリミング反対派ですので、6×6判でも35ミリ判でも、すべてノートリミングです。一眼レフになって、ファインダーで画面を確かめることができるのに、トリミングという考え方はおかしいではありませんか。(引伸し談義  アサヒカメラ74年9月号「写真作法」)4)

ここにおいて、ローライの頃とはうってかわり、植田はノートリミングを主張するのである。こうした植田の主張は、金子が『植田正治 私の写真作法』の中で述べているように、1960年代後半から70年代にかけて、「トリミングしないこと=カメラがとらえた世界をストレートに受容すること」が、表現の問題として意識され始めているのと軌を一にしている。ここにおいても、やはり当時の状況と植田の写真作法とは密接に関わっているのである。

1970年代における「正方形フォーマット」と「ノートリミング」の問題は、1930、40年代の逆パターンを示しているようにも思える。というのも、1930年代のほうでは、「正方形フォーマット」の流行があり、1970年代のほうでは、「ノートリミング」にある種の流行があり、そこにはたすき掛けの関係が見えてくる。植田はそうした流行に敏感でありつつも、更にその流行の中での自身の位置づけを確立するような要素を常に模索していた。例えば、1930、40年代であれば、氾濫していた正方形フォーマットに対する「トリミング」であり、1970年代であれば、流行していた「ノートリミング」に対する「正方形フォーマット」のように、である。

1930、40年代の「ローライ」「トリミング」の関係と、1970年代の「ハッセルブラッド」「ノートリミング」の関係は、思った以上に研究における広がりを感じさせる。「ローライ」「トリミング」という植田の立場と、「ローライ」「ノートリミング」というベルメールの立場との比較も可能かもしれない。更に、西洋のアマチュア写真家における正方形フォーマットの受容あるいは人気と、日本のアマチュア写真家におけるそれとの対比も、何か新しい見方を提起してくれるかもしれない。

とはいえ今回は、まだほんの取っ掛かりにすぎない。図像分析も必要になってくるであろう。とりあえず、本論文では、植田正治のテクストから見えてくる「正方形」像を扱ったつもりである。今後は、テクスト、写真画像、当時の資料などを持ち合わせて、更に考察を深めていきたい。

[註]
1)p.33-34 植田正治 金子隆一編『植田正治 私の写真作法』(2000年/TBSブリタニカ)
2)p.36-37 同上
3)p.236-238 同上
4)p.151-152 同上