Papery 2008 by 前田恭二

2008.08.22. 茫々1

東京都写真美術館「液晶絵画 STILL / MOTION」 (8月23日-10月13日) の内覧会。古屋誠一さんの姿があり、ご挨拶する中で、ふと思い出したのは近作『Aus den Fugen』 (2007年3月、赤々舎刊) のこと。今年の初め、何かの巡り合わせで日本カメラ社『写真年鑑2008』から前年出版の写真集の短評を依頼され、その一つがこの写真集だったのだ。そこで所収の小原真史さんの解説を改めて読み、なるほどなあと思いつつ、そう言えば、タイトルに採用された「ハムレット」の名句、英語で言えば「out of joint」について、誰かが何か書いていたような、という気がしてきた。さて、誰だっただろう? 最初にこの人かなと思ったのはアンソニー・ヴィドラーだったが、uncannyとかの概念を援用したその建築論を読み返しても、それらしい言及がない。あれこれ手元の本をひっくり返してみても、なかなか見つからない。結論から言えばデリダで、『写真年鑑2008』の原稿には一言だけ付け加えたのだった。しかし、デリダだということさえ忘れていたくらいで、では、どういうことを言っていたか、いま思い出そうとしても、もうろうとするばかり。悲しいかな、何事も忘れてしまうのだった。とはいえ老いの繰り言めいた話だけでも何なので、古屋さんとの立ち話に戻ると、かつて「メモワール」という展覧会を開いた際、そのタイトルのフランス語は、作品を見た企画者側がデリダのそれを思い出したことによる、とのことだった。

2008.08.22. 茫々2

さて、このphotographers’ galleryへのささやかな寄稿欄も、長らく開店休業状態となっていた。これまでも間隔があき、数か月ブランクになったこともあったけれど、今度は実に8か月。特段の事情があるわけではなく、書く時間という以前に、写真展を見る量そのものが減っていることによる。限界を感じつつ、さりとて意志薄弱なので、どうしようかと思いつつ、8か月が過ぎてしまった。そうこうするうちに、もはや写真展や写真集を見た日付が思い出せなくなりつつある。これから少しブランクを埋めてみたいのだが、しばらく日付が前後することがあり、また、日付が分からなくなったものについてはXXとでもして、続けてみようと思い直した。なにとぞご寛恕のほどを。

2008.08.07. 幽霊1

ハムレットのせりふ「The time is out of joint」は知られる通り、父の亡霊に会ったことから発せられる。亡霊の訪れが時間を攪乱したというわけだが、それをタイトルに冠した古屋誠一の写真集は、写真こそが同様の性質を持つことを改めて意識させる。その古屋も出品する「トレース・エレメンツ」展 (7月19日-10月13日、東京・初台/東京オペラシティアートギャラリー) に行ってみる。この展覧会をさかのぼると、自分も多少のかかわりがないではない。2006年、オーストラリアで日本の現代美術を紹介する「Rapt!」という国際交流展が開かれ、そのお手伝いするということがあった。邪魔をしたに過ぎないような気もするけれど、現地で開かれたシンポジウムの席で、記憶によれば、志賀理江子や田口和奈の作品を念頭に、パネルの五十嵐太郎さんは、メディアを横切る時、ゴーストが現れる――と指摘した。そんなこともあった「Rapt!」展がこの「トレース・エレメンツ」展の一つのきっかけになっているように思われる。出品作家は日本とオーストラリアの作家で、そこには志賀や田口が出品し、しかも幽霊の訪れを感じさせるような作品が目をひく。むしろ写真をはじめ、映像メディアと幽霊ということが見どころとさえ言えそうな内容になっている。

2008.08.07. 幽霊2

とはいえ出品作家は10人に及び、いま逐一紹介するわけにもいかないので、ここでは幽霊ということで興味を持ったことを少しだけ。まずカタログ所収、マーティン・ジョリーの一文「とり憑かれたオーストラリア (Haunted Australia) 」。筆者は30年くらい前まで、幽霊や霊魂を信じるオーストラリア人は少なかったとした上で、この国にも亡霊話の伝統があることをたどっていく。例えば1826年、前科がありながら農業で成功したフレデリック・フィッシャーという人物が姿を消す。すると、その幽霊がフェンスの上に座り、地面の1点を指さした。そこからフィッシャーの亡骸が出てきた。この話自体はオーソドックスな話のようだが、しかし、59年に出版された本では、フィッシャーを殺した犯人がその富を奪おうとしたこと、そして亡霊の出現後、「白人の血」を見つけ、追跡し、亡骸が沈められた池に浮かぶ「白人の脂」にたどりついたのは近くに住むアボリジニ、ということになっているという。言い換えればフィッシャーが収奪の被害に遭い、彼を含む移住者たちに収奪されたアボリジニが、その収奪のたくらみを暴き出す、という構図――抑圧された収奪の歴史が、幽霊を通じて回帰するというわけだ。ジョリーの論考はほかにも、1920年と21年、コナン・ドイルが講演旅行に訪れ、その心霊話が大いに受けたことなど、興味をそそるエピソードを紹介し、さらに今日、亡霊を信じることで白人とアボリジニが所有と強奪という排他的な二元関係を超え得るという、生産的な側面に目を向けている。さて、というわけで展示の話に戻りたいのだが、続きは他日に。