Papery 2007 by 前田恭二

2007.01.07. ヌード

「篠山紀信の美学」展 (12月28日-1月11日、東京・原宿/ラフォーレミュージアム原宿) 。チラシには<篠山紀信が到達した新次元ヌード表現! 写真の永遠のテーマであるNUDEは果して復権できるのか!>というキャッチフレーズ。モデルは夏目ナナで、頭髪を剃っている。写真家は以前にも剃髪ヌードを撮っている。趣味というのもあるのかもしれない。けれど、アンドロイド的というのか、非人間的な存在感が漂う。より正確に言うと、アンドロイドと人間のあわいを行くような、不思議な存在感を意図しているようだ。シリーズには、マネキンとのからみ、あるいはドール的な雰囲気のモデルとのからみが含まれている。その場合、アンドロイド的である夏目ナナの方が不意に人間側に揺れ戻る。ところで、ヌードをオブジェ的にとらえる写真はかつてもあった。だからアンドロイド的ということ自体、驚くにはあたらない。だが、今回の写真で、アンドロイド的と感じさせるのは、フォルムの操作ではない。デジタルカメラとインクジェットプリンターによって生み出されている肌の質感にほかならない。とりわけ水をとらえた部分などに顕著な、いわば平滑極まりない質感それ自体が、その身体を人工的なものに見せている。その意味で、<新次元ヌード表現>と銘打つだけの説得力が備わってもいる。

2007.01.10 思い出

「木村伊兵衛のパリ」展 (10月28日-1月21日、東京・銀座/メゾンエルメス8階フォーラム) 。昨年、写真集が刊行された木村のカラー写真を展示。プリント自体はインクジェット出力のようで、うーんという感じ。会場のデザインはコンスタンティン・グルチッチという人が手がけていて、ガラスのテーブルの上に、1点ごとに、家族写真か思い出の風景写真みたいな額縁で並べられている。リーフレットの一文は、清水穣氏が執筆していて、そのあたりを巧みに説明している。<当時のパリの風景に姿を借りて、ここに写されているものは、日本人の夢見たパリである><現在のパリを知る人々に、木村伊兵衛のパリは、もはや消え去って久しいものだけが湛えている瑞々しさと遠さを感じさせるだろう、古い写真の中で思いがけず若々しい祖父母の姿を発見したときのように><それは額に入れられて本棚や仏壇に飾られた思い出の写真なのだ>。そんな展示をコンビニなども増えてきた銀座に立つ、夢の箱のような海外ブランドの建物の中で楽しく見ていられるほど外国人でもないので、ほどなく会場を後にしたけれど、このテキストで清水氏は、カラー選択の動機について、粋人・木村伊兵衛と言えども、パリでは不自然な存在であり、それを逆手に取り、不自然なカラーを使ってみた――という風に推測している。

2007.01.10. 細江展1

細江英公作品展「細江英公名作各種プリント百花繚乱」 (1月10日-2月28日、東京・芝浦/PGI) 。デジタル時代におけるプリントの地位について、思うところあっての展覧会らしい。いろいろな技法で、代表作をプリントしている。見知ったはずのイメージが時として、再び立ち上がってくる感じもある。ダゲレオタイプによる「鎌鼬」、それからコロタイプによる「おとこと女」など。いま東京都写真美術館で開かれている「球体写真二元論 細江英公の世界」展 (12月9日-1月28日) は、開幕時に一巡しているけれど、もう一度見てみたくなる。

2007.01.11. 細江展2

というわけで、東京都写真美術館へ。「球体写真二元論 細江英公の世界」展は、代表的な写真集に即した構成を取る。改めて見ると、面白いことに幾つか気付かされる。おそらく分かっている人は分かっているたぐいのことだけれど。例えば、同様の演出の反復。顔に花をあしらう=「おとこと女」「薔薇刑」「ルナ・ロッサ」。とんかちを持たせる=「薔薇刑」「鎌鼬」。何かを腕でかき抱く=「おとこと女」 (女の首) 、「薔薇刑」 (時計) 、「鎌鼬」 (幼児) 。この3番目の系譜は「おとこと女」における小鳥を手にしたカットや「胡蝶の夢 舞踏家・大野一雄」での曽孫とのカットなどにも、拡張できそうだが、腕に抱かれる対象は、弱きもの、移ろうものであることが多い。写真家自身も口にする、硬質な表面が柔らかい内部を守るという観念と関連するのだろうか。同様の観念について、ちなみに谷川渥氏は三島由紀夫について指摘していたように思う。演出の反復それ自体について言えば、あるいはダンスにおける振付師の、ある種のくせのようなものに近いのかもしれない。この巨匠の仕事を通覧する時、ダンサーとのコラボレーションが主軸をなしていることは明らかだが、撮る人であると同時に、振付師的でもあることは、他の同時代写真家と異なる特徴と言えそうだ。それから劇場性も。“舞台”としてのスタジオが「薔薇刑」では庭園、「鎌鼬」では農村という風に拡張されているわけで、劇場空間の拡張という動向とも連動していたのだろう。ところで、さきにコロタイプ版のプリントで目をひき、改めて関心をもったのは、このうち「おとこと女」の作品20、女の首を腕に抱くカットだった。断片化された身体の好例だが、美学的な解釈もさることながら、むしろ犯罪を連想させる雰囲気がある。誘拐の、バラバラ殺人のイメージ。「鎌鼬」でも誘拐などが演じられている。暴力的という一般的な意味でなく、まさに犯罪を思わせるイメージが代表作になっている写真家というのも、実はあまりいないのではないか。美術家で言えば、「浴室」シリーズの河原温がまず思い浮かぶ。デモクラート作家協会つながりで連想してしまうのかもしれないけれど。

2007.01.12. 囲繞

大友真志「郁子」展 (1月10日-28日、photographers’ gallery) 。このところ、pgの展示もきちんと見ていないので、気後れするのだが、印象的な写真。北海道にいる姉のポートレート4点。入り口のカットは、少し周囲が入っている。机の上に置かれているのは、前回の個展の案内はがきだろうか。そこから奥に身を向けると、3方の壁に残る3点が掛けられている。周囲の入れ方は微妙に異なる。最も人物のみに絞ったカットが正面に来る。この囲繞される感じは、確か横浜BankARTでのセルフポートレートでも、こういう風だったのではないだろうか。ともあれ対面する、というのとは微妙に違う、むしろ、ただ見られている、という視線の圧力のようなもの、それが充満する磁場のようなものを感じさせる展示。

2007.01.14. キネティック

宇都宮美術館「デザイン・日本・亀倉雄策」展 (11月19日-1月21日) に出かける。会場で実物を見ると、やはりポスターにしても、作品集などとは違う印象になる。なかでも1956年のポスター「原子エネルギーを平和産業に!」を前に、なるほど名作だなと感心する。放射状の形が青と黄で重ねられる。色はちかちか、形はゆらりと動き出すようで、目と体にくる。こうした錯視効果を生かした作品はその後、68年の「ヤマギワ国際照明器具コンペ入賞作品展」での黒い電球パターンなどにも続くことになるが、それにしても、56年の制作とは早いなと思う。カタログへの寄稿で、勝井三雄も<その光を放つがごとき表現はオプティカル・アートが表れるのに、その後数年をみなければならなかったから、そのことを思えば、早い時期にデザイン表現に登場していることになる>と記している。となると、何が着想源であったのか気になる。光学的な関心はニコンのデザインなどとも関連しそうだが、より具体的なヒントは、『亀倉雄策のデザイン』 (初版83年、新装版2005年、六耀社刊) 収録の自作解説「制作ノォト」に読まれる。50年代の亀倉は円形を使った構成に取り組んでいる。その一つで、デザイン史上名高い55年の展覧会のポスター「グラフィック‘55」について、自ら<私はその頃、ダダイストのデュシャンが好きで、円形の重ねのようなものをやっていた。ハーバート・バイヤーも同じような手法の作品を作っていたが彼の方がはるかに完成度は高い>と振り返る。デュシャンの作品とは「ロトレリーフ」のことだろう。ほかにもロシア構成主義の影響をうかがわせる作品がある。つまりは、あまり聞かなくなった言葉だが、キネティック・アートを知っていて、グラフィックに転用しようと考えた、ということではないだろうか。さらにコンテクストをさかのぼると、亀倉はごく若い時期、映画評論を書いている。本展覧会だと、1934年の「セルパン」誌が展示されており、そこではエイゼンシュタイン作品などを論じている。掲載の略歴には「新進の映画批評家」とある。キネティックとキネマは語幹が同じだが、要するに「動く」ということ。亀倉のデザインが持つ強さや躍動感、そしていま話題にしている錯視効果の使用を考える上で、外せないポイントかと思われた。むろん映画とかキネティック・アートといったことのほかにも、若き亀倉の関心は広がっていたはずだが、著書などに散見されるモダニズム関係の人名の中には、実は瀧口修造が含まれている。一時期、かなり親しかったのだともいう。

2007.01.17. よそ見

名取洋之助写真集『ドイツ・1936年』 (2006年12月15日、岩波書店刊) を見る。たしか1年ほど前、東京・一番町のJCIIフォトサロンで展示されていた名取のドイツ写真の書籍化。前半はナチス政権下のベルリン五輪の取材、後半は五輪閉幕後、オープンカーでドイツ各地を旅行した際の写真である。それぞれ貴重だが、ちょっと面白いなと思ったのは、ベルリン五輪の巨大スタジアムで、大観衆が一斉にナチス式の敬礼をしているカット。いや、異様な写真なのだが、みなが敬礼しているかというと、そうではない。振り返って、スタンドを見上げている人がけっこう混じっている。ざっと20人くらい数えられる。「おいおい、みんな敬礼しちゃってるわけ?」って感じなのだろうか。こういう時によそ見をしてしまう人に人間的な共感を覚えるが、しかし、振り返った瞬間、膨大な人々の敬礼を見てしまったのも事実だろう。異様なエネルギーを感じ取ったかもしれない。群衆の集団的な行動を目に見えるものにするのは、実はこの振り返りを含めて、一望の下に置く視線だったはず。むろん報道写真もその一つであり、名取のカメラもまたスタンドを一望しているわけだが、結果として、そこにあった視線の意味を考えさせるものともなっている。

2007.01.19. 等身大

東京・木場の東京都現代美術館で「中村宏 図画事件1953-2007」展とMOTアニュアル2007「等身大の約束」展 (いずれも1月20日-4月1日) のオープニング。中村展については、また機会があったらということにして、「等身大の約束」展について。冒頭、千葉奈穂子は生まれ育ったという岩手県の農村風景などを撮影し、和紙にサイアノタイプという手法で展示している。古い小屋のようなインスタレーションも。サイアノタイプの採用は、作者によると、<小さいころに日光写真で遊んだ時の記憶は、像がうまくでてこなかったことです。その記憶からもう一度試したくなり作り始めました>とのこと。サイアノタイプの採用は、そんな日光写真の記憶ともあいまって、写真をレトリカルなものにしている。アーカイヴ的な写真を使用していないとしたら、今日の農村風景だということになるはずだが、時間なり記憶なりの痕跡を折り畳んで、現にそこにあったであろう風景は、青く染め上げられ、過去の時制へ送り込まれたかのように見える。<私たちの立ち位置はどこにあり、どのように他者と向き合えば良いかを考えることは大切だと思います>と、企画者によるカタログの一文にある。展覧会の趣旨は、情報化社会のなかで<「等身大」の視点から自己の存在や他者とのさまざまな関係という「約束」を検証していくことは意味あることではないでしょうか>ということらしい。このほか秋山さやか、中山ダイスケ、加藤泉、しばたゆりが出品。

2007.01.20. 開館

東京・六本木の国立新美術館の開館を明日に控えて、内覧会。開館記念展「20世紀美術探検」 (1月21日-3月19日) は膨大な作品を並べる。果たしてこの展示はいつ終わるのか、自分はどのあたりにいるのかと不安がきざし、疲労と戦いながら、最終パートにシムリン・ギルの作品が出てきた瞬間、自分の中で何かがボキリと折れるのを感じた。膨大なモノクロプリントが壁に貼られている。それでも見よと促す展示の前に内心、がっくり膝をついた次第。あとでカタログを読むと、彼女がよく使ってきたコダックの35ミリ低感度白黒フィルムが製造中止となるのを知り、在庫の29本を入手した。その使用期限である2006年5月から6月にかけて撮影された写真だという。しかし、出品した作者も展覧会の企画者も、700枚以上というイメージがどのようなシークエンスに置かれるのか、展示体験をはっきり予想できていなかったのではないか。さもなければ、個々のイメージに人はもはや応接できないことを皮肉に示そうとした、ということになるのかもしれないが。およそ全体を統御できないmonsterとしての展示施設。語源には明るくないが、demonstrationの中にはmonsterがいたかな、などと混濁した頭に浮かんだ。ところで、この場を借りて、一つ訂正です。photographersユ galleryで先日、セビリア・ビエンナーレのレポートを行った際、シムリン・ギルの経歴紹介に不正確な点がありました。シンガポール生まれで、「オーストラリア育ち」と言いましたが、長じてから移住した、とのこと。ちなみに、彼女が生まれた1959年当時、シンガポールはまだマレーシア領。ご指摘頂いたことに感謝します。

2007.01.22. 山

「小島烏水 版画コレクション展」 (1月22日-4月4日、横浜美術館) へ。小島烏水 (1873-1948年) は山岳紀行文で知られる人。また、横浜正金銀行員であり、米国勤務も体験し、浮世絵及び西洋版画のコレクターでもあった。その版画コレクションを中心に、横浜美術館が収蔵する烏水旧蔵の作品・資料を紹介している。とはいえ、紀行文の印象が強く、やっぱり山関係の絵に目が向いた。なかでも面白かったのは、歌川 (五雲亭) 貞秀の浮世絵「富士山体内巡之図」。山中の洞窟には肋骨まがいの岩が描かれ、洞内には無数の乳房のようなものが垂れ下がるという奇怪さだ。擬人的というか、擬怪物的な山岳イメージを強く印象付けるが、それが明治半ば、烏水とも交流のあった水彩画家たちの作品になると、いきなり明るい光の行き渡る山岳風景に一変する。すごいものだ。烏水の「奥常念岳の絶巓に立つ記」などはその合間に、ロマン主義的感情ともあいまって奇跡的に生まれた一文だったのかな、と思ったりする。版画コレクション自体については、浮世絵と西洋版画の両方に広がっている。それらはつまり、いま・ここではないイメージを見せてくれるメディアであったのかもしれない。

2007.01.24. 命名

さいたま市の埼玉県立近代美術館へ。まず「巴里憧憬 エコール・ド・パリと日本の画家たち」展 (1月6日-2月12日) を見る。チラシにはモディリアーニの絵が使われているけれど、展覧会の主眼はむしろ日本人画家の再検証にある。藤田嗣治の名品を、押し合いへし合いせずに見ることができる (その絵は絵付け陶器に似ている) 。東洋趣味に走った人、すっかりモネさながらの画風に染まった人もいて、いまでも決して無縁とは思えない彼らの姿にしんみりさせられる。続いて常設展へ。そこにはモネがまだ10代で描いた「ルエルの眺め」もあって、そのすばらしさに、先ほどのしんみりした気持ちを再び思い出しもしたが、閑話休題、常設展の一角で「フォトグラム-カメラを使わない写真」が特集されていた (たぶん1月28日まで) 。クリスティアン・シャート、マン・レイ、モホリ=ナジ、そして埼玉ゆかりの瑛久らの作品が並んでいる。ほぼ同様の技法ながら、それぞれ別々の命名をしたあたり、何か発見の喜びのようなものが強烈にあった技法なのかなと思う。瑛久の場合、1955年4月の「リビングデザイン」誌での回想が紹介されている。絵画的な要素を強調したいと思っていた瑛久は、その旨を画家のH氏に話し、批評家T氏とも相談しながら、「フォトデッサン」という言い方を得たという。H氏は長谷川三郎だろうか。T氏の方はおそらく瀧口修造なのだろう。

2007.01.25. 下半身

「時代と美術の多面体」展 (1月13日-3月25日、神奈川県葉山町/神奈川県立近代美術館葉山) 。8つのテーマを通じて日本近代美術に光を当てるオムニバス形式の展覧会。テーマの1つに「都会のモンタージュ」がある。出品される古川成俊「モンターヂ」 (1931年) は、工場や近代的な建築の写真で構成されるが、その多くは極端な仰角で撮影されている。人物もまた2人配されており、右下隅の人物は上方を見上げている。当時のモンタージュが急激な視線の動きを強調しようとしたことがよく分かるわけだが、その右下隅の人物が上半身だけであるのを何となく面白いなと思う。下半身はどこに行ったのだろう。

2007.01.30. オープニング

この時期になると、毎年恒例のように開かれる杉田和美写真展「The Opening」 (1月22日-2月3日、東京・銀座/コバヤシ画廊) 。東京を中心とする、現代美術方面のオープニング会場でのスナップ写真が並ぶ。会場の入り口にこれまでのはがきが貼られていて、それを見ると、1996年から変わらず続いているようだ。つまり12回目。以前にも触れたことがあるけれど、奇妙な仕事ではある。日本のアートワールドの、一つの記録であることは間違いない。それを成り立たせている人間関係や構造へのリサーチと受け取ることもできなくない。はたまたスナップショットだから、そこでのふとした表情その他は生々しい。という風に、さまざまな見方が可能だが、しかし、どう受け取られても構わないようなものとして、続けられているのではないだろうか。それは写真の生理に従っていると言えるように思う。また、時間的な持続によって、一義的な解釈以上の存在感を強くしてもいる。

2007.01.30. 展延

望月正夫展「地面」 (1月25日-2月17日、東京・日本橋/ギャラリーパストレイズ) へ。日本でも1970年代、写真のコンセプチュアリズムとも呼べそうな一群の仕事があったと思われる。望月正夫の仕事はその一つに数えられるはず。以前に写真集にまとめられた『Television』 (2001年、スナップ社発行、邑元舎発売) は70年代半ば、ピントグラスにグリッドを設定し、そこにテレビ画面を一つひとつ、ずらしながらはめこむようにして、びっしり複写した仕事だった。今回の「地面」はタイトル通り、地面を複写している。展示作品はサービス判くらいのプリントを、6段×5~7列程度、連ねている。くわしい制作過程はよく分からない。ただし、水たまりのあるカットが含まれ、そこに写真家の姿が映り込んでいる。それを見ると、四脚にカメラを据えている。そのつもりで見ると、地面の柔らかなところには、四脚の穴らしきものも見受けられる。どうやら地面までの距離を固定し、四脚を使うことで、グリッド状に地面の複写を続けたらしい。グリッドという、どこまでも展延可能な形式によって、「Television」は時間を、この「地面」シリーズは空間を相手取っているとも言えるかもしれない。近い時期の作品のようだったが、その意味で、対になる仕事とも受け取れそうに思った。

2007.01.31. 天狗党

天狗党「フォベア」展 (1月26日-2月3日、東京・西早稲田/ビジュアルアーツギャラリー・東京) 。川鍋はるなの久々の発表のようなので、出かけてみた。川鍋は写真新世紀2001年度グランプリを獲った人。天狗党とは川鍋と中島弘至のユニット名だという。午後に3回、DVDを上映する発表形式。最初は川鍋が以前、「BLACK OUT」展に出品したシリーズだから、それと分かったが、以降はどちらの撮影とも分からない、まがまがしいイメージが延々と明滅する。中にはCGやドローイングも交じる。CGはお絵かきソフトで川鍋が描いたのだと聞いたが、特異なヴィジョンを感じさせる。他方、都市近郊の風景は中島が撮影したものであるらしい。全編を通じて、傷のイメージが頻出するが、終盤、それと高速道路の隔壁などの横方向のストライプとが不意に重なり合い始め、忘れがたい印象を残した。


2007.02.02. 転機

光田由里の論文<『美術批評』 (1952-1957) 誌とその時代――「現代美術」と「現代美術批評」の成立>を読む。これは2006年、「あいだ」誌に連載された文章の前半を改稿したもので、奥付によると、同年12月、Fuji Xerox Art Bulletinとして発行されている。一般に入手しやすいものではないようだが、内容的には示唆されることがとても多い。戦後の美術界を担ってきた評論家たち、例えば針生一郎や東野芳明、中原佑介らが出発した雑誌の再読を通じて、「現代美術」と「現代美術批評」が成立する場面を検証した仕事と言えばよいか。のみならず、今日の「現代美術」と「現代美術批評」がひょっとしたらこうではなかったかもしれない、オルタナティブがそこに見え隠れしていたことも浮かび上がらせているのが得難い。例えば論考の前半、“今泉旋風”の帰趨がたどられる。1952年渡欧した今泉篤男は国際舞台で見る日本人画家の絵の弱さに打ちのめされ、それを同誌などで率直に吐露した。具体的には多くの洋画家・版画家が出品したサロン・ド・メエ、日本が初参加したベネチア・ビエンナーレであり、当の出品作家からの反響も同誌に掲載された。この議論は今泉と出品作家側の重鎮である梅原龍三郎の対談でハイライトを迎える。今泉は対談の最後で、日本の美術の近代化に向けて、提言をしているという。本稿から孫引きすると、以下の通り。<一つは、現在の日本の美術団体を一応解消するか、再編成するかどっちかにしてもらう。もう一つは、現在の日展をやめてしまうか、文部省の手から名実ともに切り離す。そして、国家は、クワドリエンナーレでもビエンナーレでもいいけれども、相当の経費を投じて各国の画家の作品を招待して、日本でちゃんとした国際展をやる。この二つのことに切りかえて行かなければ、日本の本当の近代絵画は築かれにくいと思う。それで私はまず先生にその気になっていただきたいと思うのです>。という提案の通りに、まったく現実は進行しなかったわけで、その延長線上に今日の国立新美術館なども位置しているわけである。忘れられてはいけないことに、きちんと目を向けている筆者に敬意を表したい。

2007.02.09. 台北1

昨年からアジア・環太平洋地域で幾つも国際展が開かれたが、その掉尾を飾る台北ビエンナーレを見る (2006年11月4日-07年2月15日、台北市立美術館) 。キュレイターは米国ニュー・ミュージアムのダン・キャメロンと、アーティストでもある台湾の王俊傑。出品作家は34組。日本からは田中功起、田口和奈、村田有子が参加する。以下はその感想。全体としては好感を持った。会場は美術館のみで、出品作家も多いとは言えない。大きな美術館だと、この規模のグループ展をやっていそうだ。けれど逆に、水増し感はない。展示シークエンスも、意図をはかりかねる部分はあるけれど、個々の作品をきちんと見せている。多少考えながら歩けるような構成にもなっている。さて、ビエンナーレの総合テーマは「Dirty Yoga」とかっこいい。もう一つ「between-ness」という言葉も掲げられている。双方勘案すると、インドに発し、フィットネスその他でグローバル化したヨガをメタファーとして、グローバリズムとリージョナリズムの絡み合うさなか、そのどちらでもない「間」に何らかの可能性を見いだそうということらしい。いま写真寄りに話を振ると、イメージの事実性と虚構性の「間」も扱われている。それゆえ田口和奈が出品し、ほかに韓国の鄭然斗 (Yeondoo Jung) なども選ばれている。このラインで、最も興味をそそられたのはベトナム出身、米国で活動するAn-MyLeという人の作品で、どこかの砂漠で軍隊を撮っている。しかし、組み合っている者がいるかと思えば、すぐ近くで、笑顔を見せている者もいる。緊張感、現実感が奇妙に薄い。聞いてみると、イラク派遣前の米軍の演習なのだという。米国の砂漠が持つ、西部劇の舞台というコノテーションも当然ながら意識されてもいるのだろうし、目をひく作品だった。

2007.02.09. 台北2

台北市立美術館では、地下で新進作家のコンペティション「台北美術奨」展も開かれていた (2006年12月16日-07年3月4日) 。ざっと20作品が選出・展示されていた。受賞5人の作品は、プラットホームが延々と続くさまを作り、それを独特の距離感で眺めさせたり、ある場所における昼夜の映像を縦の細長いレイヤーに分解・再構成した映像作品、あるいは大量のボール紙で洞窟みたいな空間を作ったり、針金で居住空間を再現したインスタレーションや、街頭での参加型プロジェクトの再現――と様々だ。目覚ましい印象でもなかったが、ふむふむと眺める。日本で同様のプロジェクトをやったら、やっぱりこういう雰囲気の展覧会になるかもしれないな、とも思う。ともあれ写真寄りに話を振ると、出品作の一つが非常に森山大道だったのが面白かった。大道おそるべし。

2007.02.20. 分離

用あって、北島敬三「USSR 1991」 (2月21日-3月6日、東京・銀座/銀座ニコンサロン) の搬入後に紛れ込み、見せてもらう。昨年発行のphotographers’ gallery pressに掲載されたシリーズで、1990年末から91年秋にかけて、旧ソ連で撮影された。人物が中心で、風景を交える。ポートレートについては、本人いわく、その立場が分かるような撮り方をしたとのことだが、結果として直後、ソ連は崩壊した。立場それ自体がまるで別物になってしまったのだとも言える。今日見る旧ソ連の人々は、どこか亡霊めいている。写真の人物はむろん、すべからく過去の幻影ではある。しかし、ここで起こっていることは社会体制の側の、いわば足場が突然蹴倒されるような形での一方的な幻影化であり、それによって人も、社会的な存在としては亡霊化したのだろう。他方で、実際の人間は社会体制が変わろうと生きていくわけで、その意味での人間は現実から引き剥がされ、背景から遊離しているとも言える。それらが相まって、ゴースト的な印象が漂い出すように思った。特殊な事例のようだが、「ニューヨーク」もまた結果として、エイズ禍で一変する直前の狂騒状態をとらえていたこと、さらにスナップを続ける過程で、北島の写真の中で人物と背景が遊離しはじめること、そして今日の「PORTRAITS」といわば背景のみの「PLACES」に行き着くことと、どこかで関連するシリーズのようでもある。

2007.02.20. モンタージュ

「中村宏 図画事件1953-2007」展 (1月20日-4月1日、東京・木場公園/東京都現代美術館) について。セーラー服と機関車で知られる特異な画家の回顧展。印象に残った一つは、戦後美術におけるモンタージュ技法の大きさだ。何しろルポルタージュ絵画の代表例と目される「砂川五番」でさえ、農民と警官隊の衝突するただ中に、唐突にお遍路さんみたいな人物が置かれている。そう言えば、山下菊二「あけぼの村物語」も手法としてはモンタージュだったなと思う。中村については他の初期作品も、モンタージュへの傾斜が極めて顕著だ。この技法は、描く側・見る側にとってイメージが外部的なものであること、そして操作可能であることを作家に徹底したように思われる。ただし外部的なイメージを操作しつつ、いわゆる無意識の世界だとか夢想の領域に逃れ出させなかったところに、当時のシュルレアリストとの分岐点があるのだろう。中村はそれを、奇妙にも描き直す。ほとんど内面化することなく。だから画面はよそよそしく、ペンキ絵のごとく白々しい。この描き直しによる封じ込めは、単純にそれが好きだったからということかもしれないが、つまりは世界観に由来しているように思われた。中村が偏愛するのは熱力学的で、なおかつ出口のない圧力の上昇ではないだろうか。一口に言えば、蒸気機関ということになるが、近代の象徴である機関車を描きつつ、それを行き先のない存在として描くところにも、その嗜好がうかがえる。後に絵画による絵画批判を遂行し、それが独自の思弁性を備えているにもかかわらず、ほとんどモダニズムのそれと接点が見いだせないのも、イメージの外部性を徹底しながらも、ひたすら描き直す身ぶりと同様、絵画による絵画批判による超出の契機を欠いた内圧の上昇に、ひそかな関心を寄せているからなのかもしれない。

2007.02.22. 鳥

畠山直哉写真集「A BIRD-BLAST#130」 (2007年、タカ・イシイギャラリー刊) 。年明けから神奈川県立近代美術館 鎌倉の「今日の作家」展シリーズに登場し、「Draftsman’s Pencil」展 (1月6日-3月25日) を開いている畠山だが、その考え方には2つの独特さがあるように思う。第1に写真の視覚を機械よりも、多く自然に関係するものと見ていること。なるほど写真の像が結ばれるのはまず光の作用によるもので、化学変化もまた自然現象の応用だと考えるなら、機械の働きは副次的な位置にとどまる。写真家が繰り返しトルボットを持ち出すのは、この考え方の表明だと言えよう。もう一つは世界の断片でなく、全体をとらえるものとして写真を駆使しようと考えていること。こちらはレヴィ=ストロースの芸術=縮減模型説に力を得てのことらしい。現実は断片から全体を構成する形で認識せざるを得ないが、芸術作品においては現実が縮減されており、全体の認識が部分の認識に先立つという見方で、これは鎌倉での展覧会カタログの中で触れられている。この10年ほどの、都市や建築のシリーズを中心とする展示は、この後者の考え方をより明確に伝えている。先に独特さ、という言い方をしたけれど、モダニズムが機械や断片性に目を向けてきたことを思えば、やはり独特と言ってみたい気がする。言い換えれば、モダン=近代の範囲がより広くとらえられている、ということになるかもしれない。さて、話を写真集の方に戻そう。石灰石鉱山の爆破をとらえたシリーズの新作で、19点の連続写真で構成される。そこには偶然、一羽の鳥が写り込んでいる。というわけで「A BIRD」なのだが、それを見ながら、幾つかのことを思い浮かべた。昨年、タカ・イシイギャラリーでの個展で見たシリーズでも、建物の爆破をとらえた連続写真の中に、飛び立つ鳥の姿が写っていた。それは爆破という人為が瞬間、自然の側に及ぼす波立ちのようなものを象徴している。今回の新作でも、鳥は巻き上がる鉱石の中で強くはばたき、向きを変える。むろん鉱石は土煙を残しながら、落下していく。むろん重力は自然の側の作用である。再び悠々と飛ぶ鳥を含めて、連続写真は自然の力の回帰によって幕を下ろす。もう一つは美術史上の連想だ。画面内における鳥の位置は、例えばライスダールあたりの風景画を思い出させた。それらの絵画にごくわずかな筆触で点じられる鳥の働きはしかし、絶大だと言ってよい。風景に奥行きと広がりのあるボリュームを与え、それを俯瞰・把握する視点をも、仮想的に観者にもたらす導き手なのである。実のところ、本写真集の鳥も同様の働きをしている。いま言ったような自然と人為の劇を、総体として俯瞰する視点を提供しているようでもある。ちょっと話をまとめすぎかな。言いそびれたようなことだが、近代の範囲がより広くとらえられているとすれば、ロマン主義的な自然観にせよ、オランダ・フランドルの風景画が体現する世界把握への欲望にせよ、そこには含まれることになるはずで、畠山の写真が不意にフリードリヒ的な世界に近接するのも、ゆえなきことではないのかなと思えてくる。

2007.02.28. 歴史

ぼんやり妙なことを考える。いわゆる現代美術というものがいつ始まったことになるのか、例えば光田由里が言うように、戦後の「美術批評」誌が揺籃だったとしたら、日本ではおおむね半世紀の時が流れている。洋画というジャンルが日本画と対になるものとして確立されて、ほぼ100年だと思えば、それと半世紀というのと、さほど有意な差は認められない。歴史化され、いわゆる古典が確立されていて、何の不思議もない。けれど、現代美術では、どちらかと言えば顧慮されない。ような気がする。現代美術は何か新しいものとしてイメージされ、若い人、新しい人が紹介され続ける。そこで起こってくるのは何かと言えば、すでに十分知られているはずの先例の、かつてのアプロプリエーションの意識ともほど遠い、カジュアルな使用だったりするのかもしれない。


2007.03.01. ない

土屋誠一企画「disPLACEment」の第2弾である、倉重光則展 (2月13日-3月4日、photographers’ gallery+IKAZUCHI) 。一方の部屋は蛍光管を使った最近の作品で構成し、他方には倉重が1970年、福岡・志賀島で手がけた野外作品――砂浜に、砂とセメントを混ぜたものでキューブ状の立体を設置する――の記録写真と、その立体が崩壊・消失して久しい現地を土屋が再訪し、撮影した写真を掲げている。それを見、また、土屋がカタログに執筆したテキストを読み、ぼんやりと考える。テキストはこうした仮設的な作品とその写真をめぐり、作品のありかの不確定性を問い直し、作品の「経験」の場所は単独的、一回的であり得るのではないか、と論じている。会場で漠然と考えていたことは、その論とはほとんど関係しない。ような気がする。ごめんなさい。それは「ない」ということがどのようにして表象されるのか、というようなことだ。倉重の蛍光管を使った作品は「あったもの、あるべきものがない」ということを、立体作品として提示している。そう考えさせるのは、志賀島における野外制作をめぐる2点の写真であり、その先にこれらの作品が位置していることを説得的に伝えていた。最も分かりやすいのは<ガス状の不確定性正方形III>だろうか。物質性の強い素材による正方形がだんだん存在感を希薄化させ、最後は壁面、蛍光管、若干の線による正方形に行き着く。「あるものがなくなる」ことの表象。それは写真になぞらえて言うと、組写真的な提示の仕方だ。その反対側の壁にもたせかけられた<-II>は、正方形の4辺に蛍光管を配した作品で、囲われた正方形の内側は空無となっている。もう1点の作品<-I>を参照すれば、この空無の正方形はまったくの空無というよりは、あるべき絵画ないしキャンバスの不在を意識させる。この2点の作品は実のところ、絵画を参照項とする「あるべきものがない」の表象であるように思える。いま「参照」という言葉を2度使ったけれど、果して「ない」ということは、何らかのレファレンス抜きに表象することができるのだろうか。写真については、ことさらそうだろう。キューブ状の立体がなくなってしまった砂浜を再訪した土屋の写真は「ない」ことの表象として撮影されている。しかし、それが「ない」ということは、おそらくイメージの枠内では決定できない。もう1点の、倉重自身が当時撮影した写真を参照する時、土屋の写真は初めて「かつてあったものがない」を意味する。逆に倉重の写真は「ある」こと、今日見ている側の時制で言えば「あった」ことを記録しているが、土屋の写真を参照することで、「なくなったものが、かつてあった」ことを認識させる。ここでの「ない」ことの表象は、2点を組写真と見なす時に初めて成り立つ。逆に言えば、1枚の写真は、他の写真であるとか、キャプションや外部的な知識といったレファレンスを抜きにして「ない」ということを表象することができない。まあ、ここに例えば東京タワーがない、とか言うことは常にできるわけだが、それは話がずれるので避けると、実のところ、「ない」ことの表象はレファレンスを必要とする、言い換えれば、レファレンスに開かれている。例えば記憶とか記録をめぐって、写真が「ない」ことの表象にかかわる時、それは必然的なレファレンシャルな関係の網目に開かれることになるのだろう。これが一体どういう話につながるのか、自分ではよく分からない。逆にどこからつながっているのかと言うと、最近、「attention」というリトルマガジンが創刊され、たしか「不在」と「非在」をめぐる熊野純彦のエッセーが載っていた。それを読んだ後で、倉重展を見たことは間違いないのだが、あたまが悪くて、いま論点をクリアに思い出せない。そのうち、続きを考えてみることもあるのかな。

2007.03.01. 疎外

高橋ジュンコの2期にわたる展示は、前半が「The Receptionist」 (2月20日-25日、東京・四谷/Lotus Root Gallery) だったが、それは行けなくて、後半の「Tokyo Mid」 (2月27日-3月11日、同) のみ。展覧会と同タイトルの「-I」「-II」という2点の映像作品で構成されている。この人の動く作品を見たのは初めてだが、一つは車の激しく行き交う道端、もう一つはオフィス街――大手町近辺か――に夕刻、女性をたたずませて、その静止した姿と周囲のあわただしい動きとを対比的に、長回しで撮影している。そこには時々、ガーとかゴーといった、都市のノイズがカットインする。一方は最後、クローズアップによって顔もまた映像上のノイズと化す。顔の喪失。前半の受付嬢という被写体もあわせて、今日の女性たちにとって、疎外という主題が決して過去のものではないことを改めて実感させるが、例えばエレベーターガールで知られるようになったやなぎみわが、いわば批評的なファンタジーを物語る方向に展開したのとは異なり、ここにはざっくりとした率直さがあって、いいなと思った。

2007.03.12. 口絵

ポンピドー・センター所蔵作品展「異邦人たちのパリ 1900-2005」 (2月7日-5月7日、東京・六本木/国立新美術館) 。この広さという意味でのメガ美術館の開館記念展。エコール・ド・パリあたりに始まり、抽象、具象、そして多文化主義といった4章の構成がわくわくさせるものであるかどうか、また、出品されている作品の全体的な質の問題はさておくことにしよう。むろん藤田嗣治の室内画はいい絵だったし、そこには陶器が描かれていて、以前ちらりと書き添えたことを思い出したりもしたが、閑話休題、この展覧会は冒頭、マン・レイやブラッサイらの写真で幕を開ける。その後も各章の始まりに写真が展示されている。しかし、抽象や具象、多文化主義といった章の内容と写真の関係が、自分にはよく分からなかった。カタログを買わなかったので、そこには書いてあるのかもしれないけれど。会場で疑ったのは、これはつまり、雑誌の口絵扱いなのかな、ということ。パリってこんな風ですよ、というような。ちなみに田原桂一は章の冒頭、オノデラユキは例外的に冒頭ではなく、他の美術作品が並ぶ中で扱われていた。

2007.03.14. 都市の写真

考え出すと、気になってしまうことがある。三球・照代じゃないけれど。都市の写真は一体、何を撮っているのか。建物でなし、人でなし、それらの入り混じった空間とさしあたり言えばよいか。とはいえ実際に、都市の写真と呼ばれているものを見ると、都市でなく、端的に現代風俗だなと思うこともよくある。都市写真の一つの範型はやはりアジェなのだろうが、それ風の不思議感を今日見つけ出して、果してそれが面白いのかどうか、かえってこちらが不思議になるような写真もしばしば見かける。都市の街路を歩く、その感覚の表出をむしろ目指す場合ももちろんあって、やはり都市の写真と言って誤りではないと思うけれども、都市が被写体それ自体とは言えないかもしれない。高梨豊の新作について考え出した時、そんなことがふと、横から頭に入ってきた。都市を撮り続けてきた人であり、なおかつ被写体としての都市という感じを、その写真はたしかに与える。都市というよりも、町とか界隈といった言葉がむしろ似つかわしいようなところもあるけれど。それはさておき、次項はその新作について。

2007.03.14. かこい1

昨年1年間を振り返る機会があり、どこか物足りないなと感じる理由をいくつか考えてみるうちに、そう言えば高梨さんの新作がなかったな、とふと思った。むろん毎年、写真集を出しているわけではないのだが、その都度、関心と方法を意識的に更新した仕事はどこかで、ある年を振り返る手がかりとなってきたところがある。その新作「囲市 (かこいまち) 」 (クレオ、2007年2月) が刊行された。いま簡単に振り返ると、「地名論」 (2000年、毎日コミュニケーションズ) は、都市が写らなくなったという実感にはじまって、2点の組み写真という方法を採っていた。そのあわいに不可視の時間軸を垂直に立て、それが地霊にまで届くことがあるのではないかという、いわば後退戦から繰り出された仕事だったとも言えよう。続く「NOSTALGHIA」 (平凡社、2004年9月) では一転、写らないということを引き受ける。いま写るとか写らないとか言っているのは、つまり高梨が思い描くような都市であり、それは前項で触れたように町や界隈、生活と結び付いて形成された空間というニュアンスを伴うが、それが写らなくなったとしても、当然ながら眼前には都市とその像がある。本写真集はそちらを被写体に選んでいる。カラーポジによって、都市の表層性が差し出された。<この仕事にあっての決めごとは 「底なしの深さのなさ」 その表面性と正対することである>と記されている通りである。では今回、「囲市」ではどうなったか。写真そのものは、前作を継承しているところがある。例えば最初の1点――Rの字が見える何かのシートに覆われた建物の前を、メーテルみたいな帽子の女性が自転車で横切る――は、前作で印象的だった、工事の仮設壁の前を横切る老女の影が、写真上部に見える豹の看板と奇妙な呼応を見せるカットを思い出させる。ほかにも被写体上の共通性を見つけることはできよう。ただし、同じように都市の表層性と正対しつつも、その表層性が「囲う」という都市の構造、成り立ちに由来することに、注意が向けられている。城壁都市ならずとも、内部にさまざまな分割、区画を有する以上、都市にとって「囲う」ことは本質的な構造だが、今日、それが徹底され、都市空間の不可視化=表層化を招いているという気付きが、この写真集を編ませたのだろう。表層化はまた、写真イメージをプリントした仮設壁がそうであるように、「囲い」の排他性をソフィスティケートする効能を持っている。<子供の頃 洒落たつもりで口にしたものだ。女を囲う 囲い者 などと…… (略) やがて 囲いは所有や欲望の表徴であることに気づくのである>。「NOSTALGHIA」が都市におけるイメージ論だったとすれば、「囲市」はイメージの政治性を視野に収めた仕事、ということにもなるだろうか。

2007.03.14. かこい2

というふうに、確かに先鋭な側面を持つ一方で、先鋭さだけを取り出すことを何か控えさせるようなところも、高梨豊の仕事にはある。前作「NOSTALGHIA」では、徹底して表層性に正対することを自らに課しつつも、そこに失われた感情が反映することが期待されてもいた。<内面から遠く離れてノスタルジアは ものの表面に浮上する>。「囲市」においても、前項の引用はこう続く。<「囲」は タイトにルーズに変幻するが その綻びや透き間から 日本社会独特の「世間」を垣間見せることがある>。依然として、写らなくなった、自身にとって重要な町や界隈をからめ手からであれ、どうにか表象するという目論見は捨てられていない。実のところ、それこそが高梨豊になお関心と方法論を更新させ続けている不動の1点であるのかもしれない。


2007.04.07. 記念写真

早くから仕事があった午後、思い立って埼玉県立近代美術館「澁澤龍彦 幻想美術館」展 (4月7日―5月20日) へ。到着したら、ちょうどオープニングの式典が開かれているところだった。美術随想も多い澁澤について、少年時代にさかのぼって美術遍歴をたどり、同時に論じた美術家の作品を集めるという展示構成で、愛読者なら大いに楽しめることだろう。実のところは、例えばデルヴォーあたりが好きだったわけで、それらを改めて集めた展示はキッチュさ、つまらなさを印象づけるかもしれない。しかし、それこそが澁澤なのであり、話はその先だということを、愛読者は先刻承知のことだろう。それゆえに大いに楽しめるはずと言ってみる次第。ところで会場では、ありし日の人的な交流も写真で紹介されている。彼らアングラ文化の担い手たちも、よくよく記念写真に収まっているのだ。いまも、どこかで文化人同士が集まると、こんな風に記念写真を撮っているのだろうか。ちなみに、昨年刊行されたコロナ・ブックス『澁澤龍彦の古寺巡礼』 (平凡社) には、旅先で夫人と撮影したスナップがたくさん掲載されている。それも何となく、澁澤の生きた時代への懐かしさを誘うようなところがある。

2007.04.12. ypg

横浜市神奈川区、ヨコハマポートサイドギャラリーに出かける。いま開かれているのは彫刻家の前田哲明展 (4月6日―5月12日) 。その次の展覧会を最後に、1994年オープンしたギャラリーはクローズすることが決まった。ちなみに2000年、北島敬三がまとまった形で「PORTRAITS」を発表したのもこのスペースだった。そこで偶々会ったのが、引いてはこうして寄稿しているきっかけなのだが、私的な感慨はともかく、大型の立体作品を置ける貴重なギャラリーでもあった。考えてみると、すでに2002年末、東京・恵比寿の現代彫刻センターも解散している。首都圏で、大型の立体作品に適したスペースは極めて少なくなった。理由の一つは立地の問題だろう。重量から言えば当然、路面が好ましい。だが路面は好立地であり、現代美術を扱うスペースを入れるよりも、もっといい使い道があり得る。二つ目に業界的な変化もありそうだ。目下、現代美術市場が少し上向きに転じるなかで、大きく見れば、売りやすいサイズの絵画や写真作品へのシフトが進んでいる。そういう風に感じる。また、こうしたシフトに対して一定の立場を維持するどころか、美術館なども進んでクツワを並べるようにして、大型の立体作品を扱わなくなってきた感がある。ヨコハマポートサイドギャラリーの活動終了は、こうした現代美術ゾーンのありようを映し出すことのように思われる。

2007.04.13 デュマス

マルレーネ・デュマス展「ブロークン・ホワイト」 (4月14日―7月1日、東京・木場/東京都現代美術館) 。この日はオープニング。初期の主要作品を含め、その仕事のよさをうかがうことができる。デュマスについては、素朴にうまいなと思う。写真や映像をもとに制作する今日の画家の一人だが、例えば目の描き方にしても、もとのイメージが写真であった痕跡を残しつつ、それが絵になっていく移行の過程をあえて画面にとどめている感じがある。写真と絵画という問題系をめぐる面倒な思索よりも、その間を揺らぐようにして絵画になっていく画面それ自体の魅力が大きい。一見さりげないような筆致も、その意味で安定している。うまいと言ってみたくなるゆえんだ。展覧会について言うと、作品数自体はあと1割くらい多くてもいいかなとは思ったが、その出品内容に対する展示としては、うまく文脈を作り出して、こちらもうまいなと思った。

2007.04.18 路上観察

「藤森建築と路上観察」展 (4月14日-7月1日、東京・初台/東京オペラシティギャラリー) に立ち寄る。ベネチア・ビエンナーレ建築展の帰国展。ベネチアで出品された部分は実は少なく、新たに構成された部分が大きいようだが、見ている側としては日本という文脈を意識しながら見ることになる。それゆえか、後半に出てくる路上観察学会の名作写真選は、被写体の選び方がいかにも日本的な建物であったり、興の乗り方もいわゆる味ものの骨董への視線と共通していたり、とても日本的に見えた。それは必ずしも展示の文脈のせいばかりではなく、一つの事実のようにも思われた。

2007.04.24 出世間

銀座の街並みを歩きながら、なぜか思い出したことを。楢橋朝子が近年続けているシリーズ「half awake and half asleep」について。昨年秋、オーストラリアでの日豪交流展に参加してもらったときにまず少し、それから最近、東京・日本橋の高島屋に美術画廊Xというのができ、こけらおとしの展覧会「FASCINATION-イメージの冒険 現代写真の5人」 (3月1日-20日) で、オノデラユキ、畠山直哉、松江泰治、米田知子とともにこのシリーズが出品されていた時、また改めて思ったことなのだが、この海の側から陸地を撮影する仕事を、予期されざる場所からのスナップショットと考えることができるだろうか? 都市のスナップでは、撮られている側はそれを意識しない、ということになっている。撮影者は群衆の中に紛れるか、物影に身を潜めるか、撮られている側の意識の外に逃れる。そういう意味での予期されざる場所として、例えば海ということを考えることができるだろうか。また、スナップを撮る主体はその瞬間、人間相互の関係で成り立つ世間の外に出る。出世間的といえば、いささか抹香くさく、人外魔境というのはおどろおどろしすぎるけれど、ともあれ相互関係の外に出て行くベクトルの先に、海を考えることが果たしてできるかどうか。突飛な、ただ考えてみるだけの話だが、できるとすれば、スナップショットとシリーズを架橋する入り口くらいにはなるかもしれない。


2007.05.02 かこい3

高梨豊写真展「囲市 かこいまち」 (3月28日―5月14日、東京・品川/キヤノンギャラリーS) 。写真集「囲市」の収録作品を中心に、都市を撮ったモノクロなど若干の旧作を交えている。チラシには2つテキストが載る。一つは写真集の序言で、たしかそこにはなかった<表徴とは裂け目である。そのあいだから覗いているものはほかならぬもう一つの表徴の顔である>というバルトの一節が加えられている。『表徴の帝国』の中で、京都・西往寺の宝誌和尚像の写真に付されているキャプションだ。ちなみに、この本は3年前、『記号の国』として新訳が出版されている。その石川美子訳を引けば、<記号とは裂けめであり それを開いても べつの記号の顔がみえるだけである>。さて、二番目のテキストは<「スケールアウト」について>。いわば展示に関する注釈だ。<写真の「大きさ」は曖昧なものである>。まず撮影があって、その後の<住み着き方>によって大きさが決まる。スケールアウトすると<そこに映し出されたモノやコトの意味は変質する筈である>。という風に記されているのだが、会場で強く意識されたのはこのシリーズが、視界を遮蔽しながら立ち上がるイメージを頻出させていること。言い換えれば、もともと視界をスケールアウトしていく被写体を選択しているわけで、そのことを身体的に実感させる展示ともなっていた。

2007.05.09. 限定

中平卓馬展「なぜ、他ならぬ横浜図鑑か!!」 (4月7日-5月12日、東京・清澄/シュウゴアーツ) 。病後の中平が撮っている対象が限定的だということは、以前もここで書いたことがある (2003年1003、04年1224の項) 。それは今回も、基本的に変わらない。以前の<事物が事物であることを明確化するだけで成立する>という図鑑/写真論を参照し、水鳥が、眠るホームレスが、つやつやした緑の葉がそのようなものとして写されていると言う場合、それが水鳥、ホームレス、緑の葉といった極めて狭い範囲にとどまることもまた、避けて通れない端的な事実だろうと思う。ただし、今回の展示を見ると、その限定された被写体に新たな対象が加わっているようだ。いま詳細に比較して言うわけではないけれど、例えば砂。あるいは撮影者を見てしまっている農家の女性。さて、どう考えるべきだろうか。

2007.05.11. 美人

「美人のつくり方 石版から始まる広告ポスター」展 (4月7日-6月3日、東京・江戸川橋/印刷博物館) 。明治末ごろから昭和戦前期の、美人画を中心とする広告ポスター展。幾つかのポスターについては、印刷技術やプロセスを紹介する。それもあって「美人のつくり方」というわけ。色彩分解した版下を、ずらりと並んだ画工がせっせと制作している写真パネルもある。大変な手間がかかっていたんだなー。それだけに石版による美人の顔、とりわけ肌の柔らかそうな生気はすばらしい。当時の男子はもうたまらん、という感じだったかもしれない。いまでも収集家の中には“石版萌え”な人がいるのではないだろうか。そこからすると、杉浦非水の登場がいかに画期的だったかもよく分かる。肌に対する執着、それは同時に、衣服等との描写水準の差を気にしない画面につながってもいるわけだが、非水は意識的に平面化している。個人的な関心だと、少なからぬ美人ポスターの背景に、屏風が配されているのが目をひいた。屏風があるということは当時、富貴や古式ゆかしき印象につながっていたのかどうか。なおかつ琳派風のものが幾つかあって、一つははっきりと酒井抱一の夏秋草図屏風の一部と分かる。たしか大正4年のポスターだったと思うが、すでに明治37年、三越が光琳遺品展覧会を開催するなど、商業的な分野では琳派再評価が始まっていた。明治末年の漱石「門」には知られる通り、抱一の屏風を安値で売ってしまう話が出てくる。微妙な移行期のエピソードだとも言えよう。閑話休題、この美人と屏風というフォーマットはけっこう息が長かったようで、この日内覧会が開かれた東京都写真美術館のコレクション展「昭和 写真の1945~1989」展の第1部 (5月12日―6月24日) にも、このフォーマットで戦後、新風俗の女性を撮影した写真を見ることができる。以上のような流れを踏まえると、どう新しさを演出しようとしたのか、撮影者の興のありかも分かる感じがある。

2007.05.11. 昭和1

というわけで、その「昭和 写真の1945~1989」展。4部構成による東京都写真美術館のコレクション展。第1部は「オキュパイド・ジャパン」。昭和20年代を扱っている。つまり「昭和」展と言いつつも、今回、戦前・戦中は対象外となっており、実際は戦後の昭和展ということになる。では、なぜ「戦後」でなく「昭和」なのかというと、昨今の昭和ブームという事情もあるのだろう。にもかかわらず、並んでいるのは昭和20年代の写真なので、どう見ても今回は「戦後」展なのだった。面白いのはヌード写真を扱ったパート。上記「美人のつくり方」展で、はやくも明治41年、「森永の西洋菓子」のポスターが西洋神話画の枠組みを借りてヌードを描いているが、写真になると、大正11年の名高い赤玉ポートワインのセミヌードでさえも、刺激的だったらしい。ヌード写真が堂々と発表されるのは戦後のことになる。とはいえ昭和28年、阿部展也演出、大辻清司撮影の写真にはヘアが写っていながら、発表時には修整されていることも、出品される雑誌で確認できる。いまやそれもOKになったわけだが、近代日本のヌードがまとう「美」という口実は今となっては、さすがに有効期限が切れてきた感じがする。それと、最後に掲げられる奈良原一高の「無国籍地」が戦後の廃虚を撮りながら、まったく当時の水準を隔絶した感覚を示すことも、改めて印象深かった。

2007.05.11. 昭和2

そういう話はそれとして、本展のハイライトの一つは、やはり被爆直後の広島を撮影した林重男「相生橋東詰め北側の広島商工会議所屋上から広島市内を見わたす (360°のパノラマ) 」だろう。大判カメラを手に持ち、ぐるりと撮影した12カットを接ぎ合わせる。ほかにもパノラマ的な戦災廃虚の写真が幾つか出品されている。さして不思議に思わなかったが、なぜ戦災廃虚はパノラマ的に表象されるのか。記録という目的上、広範な視野を収めることはもとより望ましい。建造物が失われた空間的な広がりをとらえたいという率直な気持ちの動きもあったことだろう。それとは別に、近代的なパノラマの視覚の使用法の中に、戦災写真はどう位置し、どのような脈絡を持っているのか、持っていないのかということが気になったというわけ。いま手持ちの材料は乏しいのだが、それは例えば、観光鳥瞰図の大家である吉田初三郎がやがて、同じ鳥瞰図法でヒロシマを描いた意味を考えるということになるかもしれない。
05.16. 雲

「パリへ-洋画家たち百年の夢」 (4月19日-6月10日、東京・上野/東京芸大大学美術館) 。本展で「洋画家たち」と言うのは、東京美術学校及び東京芸大関係者のことだが、それはさておき、カタログを見ていると、出品作の一つである黒田清輝「雲」の連作 (1914-21年) について、<おそらくモネのルーアン大聖堂連作 (1892-94) を意識した、意欲的な実験作であろう>と解説されている。会場で見た時、そういう連想ははたらかず、むしろラスキンの雲の研究との関係はどうなのかな、ということは思った。明治期に強い影響をもったことがうかがい知られる「近代画家論」は最近、大部な翻訳も出たようだし、読んでみないといけないなーなどと思う。むりやり写真の話にこじつけると、黒田の連作からほどなく、スティーグリッツが例の連作を撮り始める。それがまた、日本の写真家に影響を与えるわけで、まさに雲の流れてゆくごとし。

2007.05.17. 目

森山大道写真展「SOLITUDE DE L’OEIL 目の孤独」 (5月17-23日、東京・日本橋/丸善) 。同名の写真集がフランスの出版社から刊行されるのを機に開かれたよし。限定40部の豪華本で、フランスのミシェル・ビュルトーという人の詩が載る。展示は収録のプリントを中心に、ポスター形式にしたものを交える。すべてカラー。人工光や褪色という現象への関心をうかがうことができるが、ところで、この森山大道という写真家に「目」という比喩は似合うだろうか。むろん、よく使われる「目」の言葉の意味するところは無際限に広いわけだが、例えば「部屋」になぞらえられるような意味での専制をどう揺り動かすか、ということが一つの課題であったような気がするので、どうかな、と一瞬考えて、ここにちょっとだけ書いてみた。

2007.05.23. チョコレート

東京・六本木で話題の東京ミッドタウン、これまた話題の「21_21 DESIGN SIGHT」の第1回企画展「チョコレート」 (4月27日-7月29日) 。デザイナーたち約30組がチョコレートを種に、あれこれ発想の妙を競い合う。個人的に最も目をひいたのは、大きな壁面に並べられたジェームズ・モリソンの大型ポートレートで、コートジボワールの“緩衝地帯”で生活する労働者たちを撮っている。現代アートに昨今、ドキュメンタリーが導入される場合の写真の使用法、その撮り口という意味で、ひとつの典型とも言えそうな作品だが、この展示に対しては、有効に機能していたように思う。

2007.05.30. サイズ

鈴木涼子「ANIKORA-SEIHUKU / uniform」 (5月18日-6月7日、東京・京橋/ツァイト・フォト・サロン) 。萌え系のフィギュアに、おそらく作者自身と思われるポートレートを接合した写真作品。その奇妙さを通じて、萌え系の男性的欲望が……といった言説をただちに引き出しそうな作品だが、ここでは大きさについて。言うまでもなくフィギュアは愛玩するにふさわしく、小さい。それをほぼ等身大のサイズにすることで、いわば生身の身体性を対置することが目指されていよう。それは同時に、前項のジェームズ・モリソンによるポートレートもそうだが、アートないしは作品であることのしるしにも見える。社会的に広まっているフィギュアに対して、正当にも作品として批評している感じが多少する。総じてストレートな印象を受けるのは、そのせいもありそうだ。


2007.06.01. 傾斜

岸幸太写真展「傷、見た目」 (5月25日-6月5日、東京・新宿/photographers’ gallery) 。ずっと続いているドヤ街周辺のスナップ。ノー・ファインダーのためか、画角は傾いていることが多い。前回見た個展は、それらを右下がり、左下がりの配合、さらに展示室の四隅との関係も考慮しながら並べており、ふと「スタイリッシュ」と言いたいような感じもした。今回もおおむね同様ながら、ただし、なぜか傾斜に説得されるところがあった。なぜかは、よく分からない。

2007.06.01. びんらん

瀬戸正人写真展「BINRAN」 (5月28日-6月3日、東京・新宿/PLACE M) 。PLACE Mは実に20周年だそうで、その記念展の第2弾。台湾の椰榔ショップを撮っている。先ごろ台北に行ったところ、20年前にはたくさんあったスタンドが見当たらず、聞けば市の中心部にはなくなったとのことだった。その説明が正しいとすれば、写っているのは郊外やロードサイドのショップということか。ちょっとしたショーケース風になっていて、それぞれセンシュアルな感じの女の子が座っている。BINRANは椰榔の横文字表記だが、みな色彩はけばく、パワフルなB級感が漂う。ともあれ公然と存在しながら、まじまじと見るのがはばかられるたぐいのセンシュアルさであって、それを撮ってしまう独特な視線の質をやはり感じさせる作品。

2007.06.02. 霞谷

「幕末の写真師夫妻 島霞谷と島隆」 (4月21日-6月3日、群馬県高崎市/群馬県立歴史博物館) 。10日ほど前に某所でポスターを見て、開催を初めて知り、いまさら行けないかとも思ったが、やはり見たくて出かける。島霞谷については、木下直之著『美術という見世物』 (1993年、平凡社) に教えられ、その後も断片的な紹介に触れてきたが、今回の展覧会で壮大な全体像が現れたかというと、必ずしもそうではない。写真、美術、活字その他、近代的技術の移入に幅広くかかわったダ・ヴィンチ的存在とむりやり持ち上げることもできなくはないが、むしろ展示から伝わってくる営みのつつましさ、手作り感の方が実のところ、本来の姿に近いのではないか。興味深かったことの一つは展示解説にあった、霞谷の絵が着物の質感を伝えることに意欲的だという指摘で、これは実際に作品を見ながら、なるほどと納得。リアリティーの位相はまず、そのあたりにあったということか。改めてどういう制作事情か、不思議だったのは、1860年代の筆と推定される「水浴図」で、油彩による3女性のヌード。水浴図はもとより浮世絵の好色主題の一つだが、それとはまったく違う西洋的な道具立て、身体表現で描かれている。これが1860年代だとすれば、ずいぶん早い。霞谷の写真帖には舶載されたとおぼしき西洋のヌード写真がたくさん収められているそうで、史料に残らない形で進行していた東西交流の厚みに思いをいたすべき、と実感させた。

2007.06.05. 空

会田誠、山口晃の2人展「アートで候。」 (5月29日-6月19日、東京・上野/上野の森美術館) 。当代の人気作家2人の競演。ともに名門・東京芸大のご出身だが、竹の台を挟んで、会場が上野の山の南側に位置する美術館というのも味わい深い。写真関係では母校・東京芸大写真センターの展覧会「写真で語るⅣ」 (1995年) に会田誠が出品した作品を見ることができた。簡単に言えば、車窓から偶然的に撮影したカットの中から、見るべき作品がどのくらい生まれるものか、確率を検証してみたというもので、それをしかも、高校の文化祭みたいな体裁で安っちくプレゼンするという、悪意に満ち満ちた作品。それぞれのカットにも、さすがのコメントが添えられている。空を撮ったら写真はおしまいだ、みたいなことも書いてあった。そう言えば、あのころ空を撮った写真が多かったなと思い出す。あ、いまもか。

2007.06.08 1983年/口上

東京芸大写真センターによる「写真で語る」展は1988年から95年まで、計4回行われた。それから10年余り、今年は「《写真》見えるもの/見えないもの」展 (5月29日-6月17日、東京・上野/東京芸大大学美術館陳列館) が開かれている。その関連イベントとして9日、写真家6氏による座談会の司会を引き受けたもので、その下調べをする。出席者は山崎博、柴田敏雄、小山穂太郎、中里和人、佐藤時啓、鈴木理策氏。手近な資料を見直したり、簡単な年譜に落とし込んだり、といった程度のことだが、ちなみに年譜の項目が最もふくらんだのは1983年。いわば任意の参照点として、当日の話題にするのはどうかなと思い、どういう年だったのか、試みに「美術手帖」「アサヒカメラ」のバックナンバーを眺めてもみた。そんな範囲の調べ物に過ぎないのだが、多少なり興味をひかれることもあったので、1983年をめぐる私的なノートを以下、心覚えにアップしてみる。なお資料による記述でもあり、本項目も敬称略です。

2007.06.08. 83年/美術と写真

「《写真》見えるもの/見えないもの」展のカタログで、展覧会実行委員長の佐藤時啓が触れている通り、1983年、東京国立近代美術館で「現代美術における写真」展が開催されている (10-12月、翌年にかけて京都国立近代美術館に巡回) 。おおまかに言うと、1970年代を回顧し、ポップ、コンセプチュアルアートの中で、写真が使用されていった現象をたどり直す内容だ。3部で構成されている。まずポップと写真 (ハミルトン、ホックニー、ラウシェンバーグ、ローゼンクイスト、ウォーホル) 。次に日本人作家 (畦地拓治、今井祝雄、河口龍夫、小本章、野村仁、山中信夫など17人) 。最後がコンセプチュアルアートと写真で、バルデサリ、ベッヒャー、バーギン、ディベッツ、ハーケ、コスース、クルーガーにフルトンやロング、さらにギルバート&ジョージまで取り上げている。ただし明確な限定が存在している。「美術家」による写真の使用だけを扱い、「写真家」による仕事を美術の枠内で取り上げるつもりがなかったことだ。<本展は写真家の写真による展覧会ではなくて、美術家による写真をとり入れた作品展である>。そう巻頭の論考で、藤井久栄は書いている。また、<美術家と写真家との区別を問われれば、素人と玄人の違いとでもいおうか。ここでの美術家とは写真を利用しているだけであるから>とも藤井は言う。当時の写真と美術をめぐる国立館の意識を物語って興味深いが、この展覧会、写真界での評判はかんばしくなかったようだ。

「美術手帖」12月で、写真欄を担当していた飯沢耕太郎は3点を挙げて、順々に批判する。まず70年代を扱うのなら、ポップアートの部は不必要ではないか。次に日本作家の数が多すぎる。日本作家の作品は一部を除いて弱く、<写真映像と実物 (現実) との落差から生じるトリック的なめくらましの効果を追掛けることに終始していることからも生じているに違いない>。最後に「写真家」による「現代美術」的なアプローチを外したことに、批判の矢を向ける。藤井の<素人と玄人>という言い方に対して、<一つのメディアを使用することに、「素人」も「玄人」もまったく関係ないはず」と正当にもかみついている。そして具体的には、杉本博司、田村彰英、山崎博、シンディ・シャーマン (!) ら「写真家」たちの作品と「美術家」たちの作品との間に質的な差異があるならば、その差異が明らかにされなければならないし、そうでないならば、<一種のセクショナリズムを感じざるをえない>とコラムを結んでいる。ちなみに同誌は当時、ほかのジャンルの時評欄を設けており、写真欄もその一つ。飯沢は1年間担当し、その時評は『写真の現在 クロニクル1983-1992』 (1993年、未来社) の巻頭に収録されている。今日まで続く時評的な活動のスタートはこの年のことだったようだが、ともあれ「現代美術における写真」展に対する最大の違和感は、結びに記す<一種のセクショナリズム>にあったのではなかろうか。「アサヒカメラ」に目を転じると、桑原甲子雄の展覧会評が載っている。桑原は世代もあるのか、ラウシェンバーグやウォーホル、ホックニーが面白かったというのだが、やはり美術と写真の「差別」をかぎとり、写真が美術でない保証はどこにもない――と書いている。

「現代美術における写真」展は、写真関係者に排除や差別を感じさせたようだ。その感覚の前提にはまず一つ、当時はいまよりも美術、写真というジャンルの枠組みは強かったという事情があるのだろう。飯沢がシンディ・シャーマンを「写真家」の側に組み入れ、今日の感覚では妙な感じがするように、そもそも区別するのは難しい。スーザン・ソンタグ『写真論』が言うように、同列に論ずべきジャンルでもないわけだが、もう一つの前提は、そのソンタグの翻訳にも関係する。写真界の側が違和感をもったのは、おそらく写真は現代美術と交錯するようなジャンルとなり得る、という自負を強めていたからではなかったか。実のところ、日本の写真界は“写真論の季節”を迎えていた。きっかけの一つは79年、ソンタグの翻訳で、そのあたりを契機に、写真をめぐる論説が目につくようになった――と、飯沢は「美術手帖」7月号の時評に記している。例としては西井一夫『写真というメディア』、三浦雅士『幻のもうひとり』、多木浩二『眼の隠喩』を挙げているのだが、実は大きな役割を果たしていたのが、三浦の表題エッセーの初出誌でもある、大島洋を中心とする「写真装置」誌だ。80-86年の刊行で、83年4月には第7号「写真論のパラダイム」を刊行している。通算12号の中でもかなり厚くなっており、飯沢の時評が写真論の高まりに言及したのも、この7号を受けてのこと。そういうなかで、東京国立近代美術館「現代美術における写真」展が開催されたわけで、その「美術家」限定のスタンスに対して、飯沢や桑原が不快に思ったのも無理はなかったように思える。

では現代美術の側は、この展覧会をどう受け止めたのだろう。もっと探せば反応を見つけることができるはずだが、さしあたりよく分からない。ただし、70年代末からの“写真論の季節”を基本的に共有していたことは間違いないようだ。「美術手帖」は78年12月号で「写真の座標」、80年3月号で「美術に拠る写真、写真に拠る美術」という特集を組んでいる。前者は写真に挑発性の回復を、という程度の趣旨だが、後者は60-70年代美術における写真の使用をめぐって、<客観的な眼=写真が、肉眼を前提として存在する美術の表現形式のなかでどのような展開を示すのか>と問いかけ、山崎博、山中信夫、ディベッツ、ベッヒャー、ヒラードらの作品を紹介している。また、峯村敏明の優れた写真論「存在にさす移ろいの影」が掲載されたことでも記憶されてよい (後に05年、水声社刊『彫刻の呼び声』に収録) 。関心のありようとしては「現代美術における写真」展と先取りする内容だ。さらに81年3月号では、特集「写真家名鑑 海外編-写真史の101人」。力が入ってきていたわけだが、さて肝心の83年、同誌はどういう風だったかというと、すっかりコンセプチュアルアートと写真などという話は消し飛んでいる。ニュー・ペインティング旋風が上陸したのだ。82年10月号に「ドクメンタ7」のレポートがあり、ビュラン、アンドレ、グラハム、ボイス、ルウィット、河原温らと、クレメンテ、バゼリッツ、キア、ロンゴらの作品が入り混じっていた様子が伝えられている。ところが83年に入ると、雑誌として大きく舵を切ったふしがある。年間を通じてシュナーベル、バスキアその他、日本からは横尾忠則が大きく扱われる。写真入りでメアリー・ブーンの来日が紹介されてもいる。「現代美術における写真」展が開かれ、飯沢の批判が載った83年12月号の特集は「ミニマリズムから表現主義へ」。ニュー・ペインティングの歴史的な正当化を図ったものか。その巻頭に寄稿した藤枝晃雄は「横尾がゆくべき最適の場所は予備校のデッサン室」などと罵倒を浴びせているのだが、少なくとも「美術手帖」の読者にとって、「現代美術における写真」展がどの程度のインパクトを持ちえたか、これは厳しいものがあったように思える。

83年のトピックとして、いま70年代の美術における写真使用を回顧する展覧会とその周辺を振り返ってみたが、すでに触れた通り、“写真論の季節”を担ってきた「写真装置」誌が第7号「写真論のパラダイム」を刊行したのもこの年だった。1926年から65年、中井正一から三浦つとむまで12本の写真論を再録し、海外の未邦訳文献11編の梗概も収める。日本編はのちに再構成・増補した形で東京都写真美術館叢書『再録 写真論』 (99年、淡交社刊) となった。未邦訳文献の中には、バルト『明るい部屋』が含まれている。ちなみに「美術手帖」誌81年3月号に「ロラン・バルトの写真論」という一項があるが、そこではまだ記号論的な一面しか触れられていない。『明るい部屋』が多大な影響力をふるうようになるのは、83年以降なのだろう。ともあれ極めて充実した誌面だったわけだが、しかし、大島洋のあとがきは悲観的だ。15年前の初個展――60年代末、実は日本におけるコンセプチュアルアートの先駆と評されてもおかしくなかった「ひかり」展と、それに対する写真誌の時評の一言<この写真展は、とりあげるにあたいしない>を振り返り、19世紀から1983年の現在まで、<「写真批評」は寸分も破綻することなく、この一行のレベルと原則の姿勢を崩さないでいるのだといってよい>と書きつけている。“写真論の季節”のピークに立ちつつ、ほとんど先行きを期待してもいないかのようなのだ。実際、この年の「美術手帖」誌はもはやニュー・ペインティングしか眼中になかった。何だかすごい話なのだ。今日では、いくらけなしても構わない程度に思われていそうなニュー・ペインティングにしても、そこに写真とのひそかな結託が潜んでいることは「photographers’ gallery press」5号の中の脚注で、倉石信乃が指摘している通りだが、こうしたすれ違いを経て、90年代に入るころになると、美術と写真の交錯は一気に全面化しはじめる。議論の場、制度的な枠組みは別々のままで。80年前後の議論がもう少しかみ合う形で続いていたら、という感もなしとはしない。

2007.06.08. 83年/観測

すでに何度か名前が出てきた通り、山崎博は83年当時、現代美術と接するような位置にある写真家と目されていた。第1写真集『HELIOGRAPHY』を刊行したのは、この年のことだ。年譜によると69年、フリーランスとなった山崎はしばらく舞台写真などを撮影していたが、74年の「OBSERVATION・観測概念」展で、以降に続く仕事をスタートさせる。この「観測概念」という展覧会タイトル、まず「概念」で当時のコンセプチュアルな美術の動向との接点をうかがわせるが、「観測」という言葉の方により興味をひかれる。この当時、少なからぬ美術家が「観測」を志向していたふしがある。最も壮大な例を挙げれば、タレル「ローデン・クレーター・プロジェクト」だろう。場所を定めたのは74-75年あたりのようで、宇宙や光の観測をもくろんでいる。日本で言えば、例えば野村仁「moon score」 (75年) が思い浮かぶ。野村は60年代末、「Tardiology」で段ボールの仮設構築物が自壊するさまを写真によって記録していた。あるいは崩壊を通じて時間を観測した、と言えるかもしれない。そして写真の世界では、田村彰英が69年発表の「家」シリーズで、定点観測的な仕事を始めている。

このうち野村を含む「写真を用いた美術」を80年の時点で分類しているのが、先にも触れた峯村敏明の論考「存在にさす移ろいの影」だ。「存在の定位にかかわる仕事」を位置派、そうした要素のない映像本位の仕事を映像派と呼び、野村をはじめとする位置派に時代の特有さを認めている。峯村の言い方で言えば「存在の定位」、ここでの文脈に引き寄せて言えば「観測」を志向する、写真ベースの仕事が広がっていたわけだ。さしあたり山崎の仕事に同様の関心を見て取ることは不可能ではない。言い添えれば、構図はミニマルな性格が強いし、水平線から光の棒として突き出す太陽の光跡は、個人的な印象ではダン・フレイヴィンの作品もふと思い出させもする。実のところ、発表形式の面でも個展にウェイトを置き、従来の写真家の行き方から踏み出していた。コンセプチュアルアートの領域で高く評価されて、何の不思議もなかったように思えるのだ。

しかしながら、83年の「現代美術における写真」展に山崎は含まれていない。山崎自身、自分の仕事はあくまでも「写真」であって、コンセプチュアルアートとまったく同列に扱われるのをよしとしていなかったふしがある。初出はよく分からないのだが、「コンセプトに写真を奉仕させるのではなく、写真にコンセプトを奉仕させる」という挑発的な発言もあったようだ。実際、山崎は写真による存在の定位なり観測を目指したわけではない。観測を成立させる機構、つまりは写真そのものの考察を志向していたようなのだ。写真界にも当時、そういう見方があった。「写真装置」誌第9号に『HELIOGRAPHY』の書評が載る。評者の市川和は<山崎にコンセプチュアルな部分はまったくないと思う。むしろ、カメラに内在するメカニズムに興味をもっているサイエンティフィック・フォトグラファーかテクニカル・フォトグラファーというべきだと思う>と言い切る。結論としては、<カメラに内在された時間論を顕在化し、“つまらない”中性的な対象によって、カメラマンの曖昧な主観性を撃っているのである>という風に結ばれるが、写真家の主観性批判に収斂していくあたり、山崎は「美術家」ならぬ「写真家」であって、そのように論じるべきだという明確なスタンスが伝わってくる。

とはいえ<コンセプチュアルな部分はまったくない>という断言には、ちょっと驚かされる。コンセプチュアルアートへの憎悪というか、逆向きのセクショナリズムのにおいも多少しないではない。その後、山崎自身は87年、栃木県立美術館の「現代美術になった写真」展に参加することになる。89年には第2写真集『水平線採集』を刊行し、そこでは74年以降の仕事を包含する形で、より整理された見解を書きつけている。海に向かって撮影したのは、ありふれた海岸という「平凡な状態」の内で写真を作り出して行こうとしたのであって、そのために「水平線に向けてカメラを水平に構える」コンセプトを必要としたのだという。コンセプチュアルアートの中で、むろんヒラードなども写真の機構に関心を寄せているわけだが、彼らの多くが作品を成立させるために使用した写真それ自体をいわばコンセプチュアルに突き詰めてきた軌跡――山崎の言い方によれば<コンセプトに写真を奉仕させるのではなく、写真にコンセプトを奉仕させる>仕事は、やはり独特なものだと言ってよい。特にコンセプチュアルアートとの複雑な位相は、なお考えられてよい点を含んでいるように思われる。

2007.06.08. 83年/日常

いま引用したように、山崎博『水平線採集』には「平凡な状態」という言葉が記されている。この一文は「1989年夏、平凡な日、いつもの場所で」と結ばれる。昭和が終わった年であり、東欧革命が進み、やがてベルリンの壁も崩壊するのだから、そうした含みも一考を要するが、内容としては74年以来、海の撮影は「平凡な状態」を意識したものだったという意味合いである。実際に、市川和は『HELIOGRAPHY』評で「“つまらない”中性的な対象」と言っている。「写真装置」誌12号では山崎自身、「ミニマル化した対象」という言い方もしている。平凡さ、中性性、ミニマルさにとどまること、逆に言えば劇的なスペクタクルを拒否する感覚は、言うまでもなく同時代の現代美術でも広く共有されていた。自分で「photographers’ gallery press」5号の脚注に書いたことだが、アルテ・ポーヴェラその他、70年前後の美術動向を考える時、同語反復性や反修辞という切り口は意外に汎用性がある。飯沢耕太郎が83年の展覧会で<写真映像と実物 (現実) との落差から生じるトリック的なめくらましの効果>と評したのは、修辞批判とそれを純化させた同語反復性の提示だったはずで、その文脈はすでに当時、説得力を失いつつあったということかもしれない。

ところで、それは日常性ということとも、どこかで関係していなかっただろうか。いま手元にある渋谷区立松涛美術館「大辻清司の写真」展のカタログからの孫引きだが、大辻は「カメラ毎日」68年6月号で、いわゆるコンポラ写真について考察している。<積極的に単純素朴な撮り方をするこのような態度を裏側から見るならば、写真や表現の手練手管を潔癖なまでに否定していることだといえよう。しゃれた技巧や構図や、その他諸々のこれ見よがしの写真表現術に対して、足元にぺっと唾をはいて横を向いてしまうような背の向け方である><もう一つ、画面の上に目立つ特徴を取り上げてみよう。それは取り上げる対象が、日常ありふれたなにげない事象が多いことである>。反修辞と日常性が並んで顔を出している。71年、牛腸茂雄・関口正夫は写真集『日々』を刊行している。クロノロジカルな事柄で言えば、その牛腸が世を去ったのも83年のことだった。

2007.06.08. 83年/interlude

何しろ近い過去のことなので、どういう立場から振り返っているのか、自分でも奇妙な感じがする。いったん自らを振り返ることにしよう。83年は大学に入った年だが、それからしばらく、現代美術や写真の記憶はほとんどない。逆に80年代初めについては、かすかに思い出せることもある。地方都市のアート小僧で、タイムライフ社の美術全集を見て育った。ジオットにはじまり、デュシャンに終わるという巻構成で、デュシャンを尊敬していた。「現代詩手帖」誌を読み、80年、初めて買った詩集は谷川俊太郎『コカコーラ・レッスン』。コンセプチュアルな傾向を強く示す詩集だ。さっぱり動機も思い出せないが、美術部に一瞬在籍し、1点のみ描いて去った絵はコンパスを実寸大で精密に描いたもの。コンセプチュアルは片田舎の高校生にまで及んでいたらしい。谷川の詩集に「写真展の印象」という詩編があるが、写真展でなく、代わりにクイックフォックス社の「11人のフォトグラファー」シリーズが何冊か家にあったのをよく眺めていた。ウィージーとラルティーグは今でもいいなと思える。そんな風だったのに、大学に入ったとたん、ほとんどすべて忘れ去った。83年は浅田彰『構造と力』が刊行された年にあたる。いわゆるニュー・アカブームのさなかにあって、思想書を読む方が面白かった。分かったかどうかは別として。美術史学科に進んだものの、今度は日本・東洋の古美術に入れ込んだ。先輩諸兄が魅力的だったのと、世間的な有用性のなさが気に入っていた。地方で仏像を調査したり、台湾に宋元絵画を見に行ったり。ニュー・ペインティングやボイス、キーファーへの熱狂は、そんなことがあったの? という感じ。現代美術とやらに再会したのは90年、地元記者として接した水戸芸術館のオープン以降のことになる。「作法の遊戯」展であいまみえた現代美術は、かつて地方のアート小僧を魅了したクールなそれとはかなり違っていた。美術・写真の83年はつまり、知っていても不思議はない、しかし、まるですれ違っていた時期にあたる。

2007.06.08. 83年/NY

83年1月の「アサヒカメラ」増刊号「いま写真とは」を開いてみると、山崎博、石内都、北島敬三の座談会が載る。おそらく“ホープ”という位置づけなのだろう。山崎が話をリードする感じで、興味をひかれるところでは、3人とも展覧会育ち、印刷メディアの比重が相対的に落ちてきた――とも語っている。同誌3月号では、木村伊兵衛写真賞が発表され、北島の写真集『NEW YORK』 (82年、白夜書房) が受賞している。選考委員は安部公房、石元泰博、渡辺義雄、重森弘淹といった人たち。掲載される書影には「反解釈の写真」と大書した帯が付いている。受賞に際して付された帯だそうで、西井一夫の一文によるものだとは思うが、ただちにソンタグを思い出させる言葉がバーンと記されているあたり、やはり時代を感じさせる。

実は先日、photographers’ galleryに立ち寄る機会があって、ちょうど北島自身が編集していたシリーズのDVD版を少し見せてもらった。以前にプリントを見た時も同様の感想をもったけれど、スナップショットの名作という世評はそれとして、いまとなっては一つの記録という性格を帯びてきている。どういう記録かというと、80年代初頭、ニューヨークにおける視線の力学がはっきり伝わってくる。多くの人々が「見せる」気まんまんだ。しかも奇妙にも、見られているか否か、さして気にかけていない。見られることに無頓着とも言える。通常の見る/見られるという関係とは異なる、独特な視線のありようという感じがする。それに対して、見せられているようで見ている、無防備な人も当然見るという北島の応答が、この写真集を成り立たせている。DVDを駆け足で見終わった後、こうした視覚環境に反応したシアターなどの動向もあったかもしれませんね、と口走ったところ、後ほど、シアターではないが、バスキアなんかが登場するころでしたね、とのことだった。断っておくと、ニュー・ペインティングそれ自体と連動する性質の写真集ではない。しかし、それを生み出した視覚環境を写しとどめた写真集が83年、木村伊兵衛賞を射止めていた、とは言えるかもしれない。

2007.06.08. 83年/風景

長くなってきた。このあたりで切り上げよう。やはり今回気が付いたことだが、柴田敏雄の第1写真集『日本典型』 (92年、朝日新聞社) の冒頭のカットもまた、83年の撮影である。最も時期の遡るカットであり、名作の撮影はこのころに始まったと思ってよさそうだ。いま全体を見直して、自然と人工その他の議論はひとまずおいて、何より印象的だったのは、どう見ても60-70年代の現代美術を通過してきた、むしろそれによって培われた視覚によって、風景がとらえられていることだ。土木構築物における同一形態の反復、グリッド状の分節に反応している。あるいはコンクリートの無表情な形態や質感、不意に現れるエレガントさ、それらすべての自然への介入。逆に露光時間の長い、水の美しさが際立つカットはむしろ例外的で、ミニマルアートやランドアート、ふざけてマイケル・ハイザーもあればハミッシュ・フルトンもあると言いたくもなるような極めて多様な語彙が、どういうわけか日本の土木現場に出現している。そのことをモノクロの描写力を駆使して伝えている。「墨絵のよう」と評されるプリントの美しさはまぎれもないが、この写真集が美学的だとすれば、ミニマル以降、特にランドアートに反応するのと同じ感受性を有しているからであり、それが現実の風景の中に見出されていることによって、現代美術を逆照射するような仕事にもなっている。

柴田自身の年譜をたどると、比較的知られている通り、東京芸大で油絵を学び、辰野登恵子とは同級生だった。辰野と柴田、さらにもう1人を加えた3人は71年、「コスモスファクトリー」というグループ展を開いている。この時、柴田は正方形の合板を赤、青、黄色に塗り分けた絵画を出品したと伝えられている。ミニマルの動向に反応していたようだ。その後、75年にベルギーに留学し、日本に帰ってくるのは79年のこと。この間、辰野はグリッドに手書きのグリッドを重ねる地道な版の仕事を続けていた。同じではないにせよ、ミニマル以降の世代として、その先を切り開こうとする意識をともにもっていたとしても不思議ではない。柴田は表現手段として写真を選んだわけだが、まず作品化し得たシリーズに少なからぬ“グリッドのある土木現場”が含まれていることは、偶然そういうものが写った、という風には到底思えないのだが。

そんな風に、60年代末に始まる現代美術の諸動向をくぐり抜けてきた人物による風景写真集『日本典型』は結局のところ、何を表象しているのだろうか。土木工事の行われた風景の中に、ランドアートみたいな語彙が見て取れる。それを撮影することで、両者を下支えする同時代の造形的マトリックスを露頭させているのではないだろうか。例えばベッヒャーの仕事が一方では工業的、他方では芸術的な形で現れる産業社会のマトリックスを扱っているように。見かけはかなり違うが、意外に近い仕事と見ることもできそうな気がする。『日本典型』というタイトルも意味深長だ。きっかけはワープロの誤変換で、「点景」が「典型」になった――とどこかで読んだ記憶もあるが、そうだとしても、選び取られた「典型」の語を、ここで言うマトリックスの謂いと読み替えてみたい気もする。ともあれ現代美術を出自とする柴田が、そんな写真の仕事を成り立たせていったのも83年ごろのことだったのだ。

2007.06.14. イリュージョン

高木修展 (6月4-23日、東京・日本橋/ヒノギャラリー) 。興味深い彫刻。メッシュのある鉄板による3点を出品する。一望性を担保する大きさ、板状の折り曲げから面で囲われた立体まで、3点それぞれの構造の振り分けを見るだけで、よく考えられた仕事という第一印象を受ける。興味深いのはその先で、メッシュの鉄板だから、その重なり合いによってモアレが出る。そのモアレがイリュージョナルな面と化し、彫刻に非実体的な印象を与えている。ちなみに周囲を歩くと、モアレが動き、酔いそうなほど強い錯視をもたらすのだが、ふと考えさせられる。確かにイリュージョニスティックな彫刻が実現している。それはただし、モアレという錯視、多分に身体的なエフェクトによって支えられている。何というのか、“乗り越え”感がある。会場に置いてあったカタログなどを見ると、フォーマリズムを信奉する方のようで、熟慮の上のことなのだろう。それゆえ、ちょっと興味をそそられる。

2007.06.14. 松

須田一政「千代田の松」 (6月1-23日、東京・日本橋/パストレイズ) 。上記の彫刻展の後で、この写真展を見るという脈絡のなさが、ギャラリー回りの面白さ。皇居回りの松はこれまで何人かの仕事を見たことがあるけれど、さすがの独特さ。赤外線写真みたいなトーン、不定形の幹のアップなど幾つかの撮り方を見せるが、いずれも松の不思議な存在感を引き出している。大伸ばしにして、桃山時代の障壁画などと並べてみたいような写真。

2007.06.15. 水

展覧会のよしあしは結局、好き嫌いだという風に言われるが、妥当性のある基準もないではない。まず広く知られざる作品を世に出しているかどうか、次に既知の作品であっても、それらに新しい文脈を与えているかどうか。むろん「モダン」な考え方だし、この2点を満たしても、なぜか嫌な気持ちにさせる展覧会もまああるけれど、その意味で、横浜美術館「水の情景」展 (4月21日-7月1日) はいい展覧会だったと思う。最初の点では金村修をはじめ、何人かが新作を手がけている。2番目の点でも「水」という月並みなフレームながら、作品個々の並べ方は意欲的で、興味をそそる文脈を見つけて楽しむことができた。日本画はあまりピンと来なかったけれど、日本画展示の通弊なのかもしれず、だとすれば横浜美術館だけに過大な期待を寄せるわけにもいくまい。ちなみに以前、2度開かれた「風景表現の近代」チームと重なる顔触れが担当している。最後のパート「水と人」は横浜美術館を去った倉石信乃の担当で、ジョン・マーティンの聖書もの版画とルイス・ボルツの黙示録的風景の対照、あるいはこの展覧会にいきなり沢田教一「安全への逃避」を持ち込み、それを香月泰男の出征直前の油彩というイントロダクションなどを経てきっちり見せてしまう手際に説得された。この先は私的なメモ。金村の「Room Full of Telepathy」は横浜近辺で水のある風景を撮ったとのこと。計88点。おミズの風景かなあと思えるカットもあるけれど、それも水の属性と関係ないわけでもないか、などと思い直す。ともあれ、意外にしっとりしたカットが多数含まれていた。横山大観とクールベに挟まれる形で展示されていたのは柴田敏雄のダム写真。「日本典型」以後の1996年、アメリカでの撮影。流れ落ちる水は画角の設定によって上昇に転じ、ダム湖に滞留する泡は不意に宇宙的な雰囲気を漂わせる。それを眺めながら、「アースワーク」と言う時のアースとは、大地と同時に、宇宙と対比した意味での地球という含意を持っていなかったのかな、などという思いつきがぽかりと浮かぶ。

2007.06.20. HCB

「アンリ・カルティエ・ブレッソン 知られざる全貌」展 (6月19日-8月12日、東京・竹橋/東京国立近代美術館) 。最晩年に設立された財団による展覧会。2003年から世界巡回中で、日本では東近美のみでの開催とのこと。ヴィンテージ・プリントを含む、膨大な作品・資料 (素描も含めて) を紹介し、見ごたえは十分。展示構成としては、撮影地域別となっている。ジャーナリスティックな形で世界中を渡り歩きながら、「作品」を残していったHCBにふさわしいというべきか。基本的に人間への関心を失わなかった人であって、ほとんど地域ごとの視線の違いを感じさせないこと、さりとてアメリカ編だけはやや調子が違うかな、といったことも気付かれる。思った以上に入っていて、若い人たちが熱心に見ていた。自分もまた大いに楽しんだのだが、素朴な事柄としては、ヴィンテージを除いて大半の作品に付随する黒枠が気になった。いや、もちろん残す人は残すものだが、一つにはHCB自身が一貫してフレームに対して厳格かつ意識的だということがある。構図の整斉性はそれなくしては成り立たない。のみならず、現実の場面に見いだされる窓等のフレームを執拗なまでに構図の一要素として使い、メタレベルでもフレーム意識を主張する。そうしたHCBの写真の外側を縁取る黒枠も言うまでもなく、フレーム意識を強化する役割を果たしている。かくて見ている側もついフレーム・コンシャスになってしまうわけだが、それはさらに、「作品」と版下原稿、アーティストHCBとジャーナリストHCBを分かつ指標のようにも、本展では見えなくもない。

2007.06.26. 古写真

先週、東京・上野の東京国立博物館の特集陳列「古写真-記録と記憶-」展 (6月5日-7月1日) を見に行った。同館は膨大な幕末・明治の写真コレクションを有するが、これがおそらく初めての特集陳列だという。ダゲレオタイプ「島津斉彬像」が重要文化財になったのが1999年のこと。この間の古写真の公的認知はめざましく、ついに東博も写真展かという感慨を抱かせるが、実は同じ99年から目録3巻 (各図版編とデータ綜覧編で計6冊) を出している。というわけでこの日、図書館にその目録を見に行く。特集陳列は文化財行政、近代化の諸相、幕末・明治の有名人ポートレートと、バランスよく紹介するものとなっているが、目録を見ると、まだまだ面白い写真がたくさんあるようだ。西洋絵画・彫刻の写真が相当数入っている。重要文化財「万国写真帖」もそうだし、ルーヴル美術館の所蔵品写真は、明治29年、日本の宝物写真と交換で手に入れたものなのだという。そんなこともあったのか。まったく個人的な興味だが、「万国写真帖」12巻「ベルギーとドイツ (1) 」に、ダンネッカー「アリアドネー」という彫刻が載っている。文学史上悪名高い「裸蝴蝶」論争の際、巌谷小波の批判に対して、山田美妙は、ドイツ系の勉強をしたあなたなら「ダン子ッケル」くらい知っているだろうと返しているのだが、こういう写真も日本には入っていたのかと分かって、何だかすっきりする。ちなみにウィキペディア英語版によるとJohann Heinrich von Danneckerは1758~1841年、シュツットガルトの彫刻家。「万国写真帖」の彫刻も「パンサーに乗るアリアドネ」として掲げられている。代表作の一つなのだろう。

2007.06.29. ヒーロー・ヒロイン

東京都写真美術館のコレクション展「昭和 写真の1945~1989」の第2部「ヒーロー・ヒロインの時代」 (6月30日-8月19日) 。この日は内覧会。率直に言って人寄せ感も漂う企画だが、なかなか見られないコレクションが出ているので、ふむふむと楽しむ。そう言えば以前、ここで<「森山大道展」と言えば、まさかカリスマ写真家があれこれのポーズで写っているとは思うまい。写真集もまた同様で、「土門拳写真集」は写真家の、「井上和香写真集」は被写体の名前を指すわけだが>云々という戯れ言を書いたことがあって、先日、「10+1」誌47号、鈴木一誌さんの「地表への接近」を読んでいたら、同じことが「知人から聞いた話」ということで書いてあった。話が回っているのか、偶然の一致なのか、この「ヒーロー・ヒロインの時代」展にもそういうところがあって、1枚の写真の価値は被写体・撮影者の双方に相わたる。戦後まもなくは明らかに被写体側に力点があるが、秋山庄太郎、篠山紀信をはじめ、写真家自身の中に人気者が現れてくる。ほかにも気付かれることは幾つかあって、出品されるプリントでは時として、肌の質感などがリアルに写っている。印刷に回す時はそれ向けの焼き方なり修整を施していたはずで、そうなると、いま見ているプリントは何なのか、「作品」としてまた生まれ変わったものを見ている、ということかもしれない。そこから逆向きに想像できることもあって、いま目にしているプリントの中にも、ザラ紙のグラビアに映えそうなもの、もう少しいい紙質の表紙などで映えそうなものとあって、例えば秋山庄太郎の白バックは後者の好例のように、いま見ると思われた。しかし、そんな話はさておいて、強い印象を残したのは石元泰博のポートレートの突き抜け方。最近、刊行された新作「シブヤ、シブヤ」 (6月8日、平凡社刊) にも驚かされたが、それはまた他日にでも。


2007.07.05. 歩く1

久しぶりに東京駅八重洲口から新橋まで、ゆっくり歩く。まず面白いなと思ったのは、 槙原泰介展 (7月3-14日、京橋/art space kimura ASK?) 。鷹見明彦キュレイションによるシリーズ「ON THE TRAIL」の第1弾。会場は小さな金管楽器を幾つかコーナーに配した、さりげないインスタレーション。加えて、映像作品3点を見せている。骨法を踏まえた――と言っては失礼になるかもしれないが、きちんとした映像作品で、結局、全部見てしまった。一つは家屋の取り壊しを撮影し、通常の映像と逆回しの映像を組み合わせた作品。同語反復はコンセプチュアリズムの常套句。しかし、逆回しの映像の中で、がれきの山から鳥居のような骨組みがすっと立ち上がったりする面白さがあった。次は雪道に黄色い色料の残る足跡があり、それに足を埋めては、色を消しながらたどり直していく、というもの (実際の撮影方法はともかく、そういう風に見える) 。これも同語反復的な語法を踏まえつつ、どこか違うなという感じだが、3点目は一転、鹿のような骨組みに電球のついたワイヤーをからめてあって、それを暴力的に引き剥がす。引き剥がしていくうちに電球が明滅し、やがて死物のごとく光が落ちていくという作品。などと紹介しながら、実はどういう作家の方なのか、ポイントがどこにあるのか分かっていないのだが、また見てみたい気がする。

2007.07.05, 歩く2

最後の方で、入ってみたのが清水淳展「IN ANOTHER LAND」 (7月2―14日、銀座8丁目/ギャラリーせいほう) 。清水は1975年生まれ。木彫をやっている。初めて見る作家ではなく、やはり銀座で偶然、飛行物体をイメージした快作を見、また東京芸大の陳列館で巨大なウルトラ怪獣みたいなものを作ったのを目にした。今回はスーパーサイヤ人みたいな異星人風の木彫を見せている。つまり人体彫刻に近づいたわけだが、怪獣以上にイケナイ感じが漂う。それはなぜかと考える。基本的な話として言えば、人体という彫刻の規範に近い分、侵犯性が際立ってしまうからだろう。いわゆるサブカルチャーに由来する発想はまぎれもないが、本来、日本の木彫に一貫していた規範を逸脱していくモーメントがそれによって、いっそうあらわになっている感がある。ちなみに最近、銀座に新しくできたギャラリーで、やはり芸大出身の若い彫刻家だという保井智貴展 (6月12-30日、銀座5丁目/MEGUMI OGITA GALLERY) を見たが、こちらも乾漆像に工芸的な素材をちりばめ、なおかつエジプト彫刻を連想させる正面性を実現してみせるというアクロバティックさだった。保守本流のはずの芸大出身の若い彫刻家がこんな風だというのは何だか面白く、今日的な感じもする。

2007.07.15. シブヤ

触れる機会を逸したけれど、やはり改めて。石元泰博写真集「シブヤ、シブヤ」 (6月8日、平凡社刊) 。巨匠のストリートスナップについては以前、本欄2001年0410の項で、うわずったようなことを書いている。素朴に驚いたのでそうなっているのだと思うが、今回もまず単純に驚いた。5年前と違って、今回はしっかりピントの合ったスナップ。そうやって、ひたすら若者の背中、主にTシャツその他にプリントされた絵柄を撮っている。80半ばの写真家がそっと背後に近づき、ノーファインダーですっとピントを合わせて、撮り続けているわけで、失礼をかえりみず言えば、やはり異様な感じがするし、巻末、リー・フリードランダーさながらに、女性の背中にぴたりと自身の影をはりつけたカットに至っては、ぎょっとするほかない。タイトルは言わずとしれた、あの名作を踏まえているから、つまり自信作なのだと思う。何がここまで、巨匠の関心をひきつけているのか。さしあたり、まずTシャツの横文字なのだろう。例えば「Saint and Sinners」「64」そして手錠の絵、といったプリントを見て、なにゆえ彼らはこうした文字を背負っているのかと不思議な思いにかられたことは想像にかたくない。街頭では、逆に和風のデザインも入り交じっている。端的に言えば、その無国籍感に目をみはり、これがシブヤであり、今日の日本なのだと撮り続けたように思える。そして最も興味深いことは、それを撮っている石元自身が日米のはざまを生きてきたということだろう。アメリカでモダニズムの写真を体得し、モダニストとして桂離宮その他の日本美を撮ってきた人が、どういった思いでこの無国籍な文字を背負った若者たちの背後に立ち続けているのか、想像を超えるようなところもある。

2007.07.15. 写真家の展示

渋谷つながりになるが、これも触れる機会を逸していたので、改めて。「大辻清司の写真」展 (6月5日-7月16日、渋谷/渋谷区立松濤美術館) 。最初に企画を聞いた時、うーん、また大辻さんですか、という反応をしたことは事実であって、それはすでに東京国立近代美術館フィルムセンターで回顧的な展示があり、これ以上望むべくもないと思える書誌もしっかりまとめられていたからだが、結果、前言撤回するしかない興味深い展覧会となっていた。大辻という写真家の展覧会という以上に、写真家という存在をどう考え、展覧会にするのかという意味で、ひとつ見晴らしのよいところに連れ出してくれるようでもあった。「出会いとコラボレーション」と副題にある通り、大辻がいわば作家として発表した仕事と同時に、「人間と物質」展や斎藤義重作品の写真、北代省三や山口勝弘、阿部展也らとの協働制作をきちんと紹介している。例えば今日も、多くの写真家は作品らしい作品をつくる一方で、名前も明確にはクレジットされない仕事にも携わっているはずで、そうした写真メディアの生理に沿った広がりの中で、大辻という写真家をとらえ直そうという展覧会の作り方だと言ってよい。展覧会や美術作品を撮りながら、そこで何を考え、どう対応したのか、ということも考えさせて、やはり大辻という写真家をよりトータルな形で浮かび上がらせることに成功していたと思う。さて、もうひとつ興味をそそられることがあるとすれば、これが大辻だから成立したのかどうかということ。たしかに大辻は、こうした展覧会を許すだけの、言い換えるなら写真というメディアに対して懐の深い考え方をする人であって、多様な仕事を通じて、メディア観を自ら問い直していたようだが、では、ほかの写真家についても、こういうアプローチを取ることで、その仕事のありようが生き生きと浮かび上がってくるのかどうか。分からないことに属するので、本展につづく企画を楽しみにしたい気がする。

2007.07.17. 教室

森村泰昌「美の教室、静聴せよ」展 (7月17日-9月17日、横浜美術館) 。オープニングをのぞく。回顧展に近い内容。なおかつ作家自身の音声ガイドが用意され、いわばレクチャーを聞きながら見ていく展覧会。ひょうひょうとユーモアを交えた語りは、いかにも森村らしい。森村らしいと言えば、今回は「美の教室」というタイトルだが、不思議なほど教えるということに熱心な作家でもある。これまでの著書のタイトルを挙げても、一目瞭然だ。『美術の解剖学講義』 (1996年) 、『超・美術鑑賞術』 (2001年) など。日本で現代アートをやり、人気者になるということは同時に、啓蒙的な役割を引き受けるということでもあるのだろう。そういう事情は思い浮かぶ。しかし、それだけかどうか。森村にとって「まなぶ」ということは「まねぶ」、つまりは20年余り続けてきた「まねる」という手法とほとんど重なり合っている。そのことは自身、説明してきた通りだ。森村はゴッホをはじめ、先行する作品なり美術史なりを「まねる/まなぶ」。その森村が教えるというのだから、教えられる側も「まねる/まなぶ」よう求められている。理屈の上では、そういう風になるとも言えよう。ちなみに「教室」ということだと、かつてマリリン・モンローに扮して、東京大学に降臨した人でもある。さまざまな解釈ができるイベントだし、「教室」の攪乱者としてふるまったような感もあるのだが、見方を変えると、近代的な講義の場に、それとはまったく異なる「まねる/まなぶ」という行為を出現させたと見ることもできる。そう考えてみる時、不思議な存在感とともに浮上してくるのが、森村自身による音声ガイドだろう。美術に正解はないというようなことも言っていたはずだが、意味はどうあれ、森村はたえず耳元でささやき続けている。声とは言うまでもなく、身体的かつ直接的な働きかけである。昨年11月14日の項で、森村の「まねる」を「もどく」と言い換えてみたい、というようなことを書いた。さらに「くどく」と言い換えるなら、この展覧会における観客は「くどく」声を、まぎれもなく身体的な次元で受け入れるように求められている。「静聴せよ」というのは、だから単なるキャッチフレーズではない。そういう感想をもった。否定的な意味で言っているのではない。すぐれて啓蒙的とも言えそうな展覧会が、他方では啓蒙とは別種の、その制作をおそらく持続させてきた衝動と結びついているのではないか、というほどの意味なのだが。

2007.07.27. ハワイ

森村大道展「ハワイ」 (7月27日-8月25日、東京・新川/タカ・イシイギャラリー) 。前評判の高かった作品がいよいよお目見え。たしか「熱海のようにハワイを撮ってみたい」ということだったか。ともあれハワイと森山大道という結びつきが興味をそそるところだが、実のところ、強い光があり、それに物が焼かれているということで、実は似合わないロケーションどころか、その逆のように思われた。

2007.07.30. 代用品

上野の山で今年、ふいに写真がよく展示されるようになった。東京国立博物館で古写真の特集陳列が行われた。0626の項で触れた通りである。国立西洋美術館でも、「祈りの中世 ロマネスク美術写真展」 (6月12日-8月26日) が開かれている。六田知弘という方の写真展。ひとつ興味深く思うのは、それがインクジェット出力だということ。一見して、それと分かる。東京国立博物館の古写真展は、文化財という枠組みの中で写真を美術、工芸その他と同列に扱っていこうとする流れの中に位置する。一方、国立西洋美術館の写真展は、もう少し違った話かもしれない。西洋近代の美術館は原則的に、実物を持ってくる場所だと言ってよい。最も美術館に向くのはキャンバス絵画だ。最も動かしやすいから。彫刻はどうか。やはり動かして持ってくる。到底動かせない場合でも、やっぱり割ったり剥がしたりして持ってくる。それが西洋近代の美術館というものだった。ところが今回、ロマネスクの建築装飾を写真で見せている。言い換えれば、実物を持ってこなかった。ここでの写真はつまり、代用品としてのイメージである。だから写真それ自体の物的価値がどの程度であれ、別に構わない――そういう風にも思える。いま何でもないような、経済的な側面からも説明すべき話を、大げさにふりかぶって書いているわけだが、代用品としてのイメージに美術館がどのような地位を与えるのか、さらに公然と許容するのかどうか、ただ小さな変化とばかりも言えない気がする。なぜなら美術館なり展示とはどういうものか、というコンセンサスの変化を同時に意味していようはずだから。まあ、いずれまた書く機会があるかもしれない。


2007.08.16. フェイク1

例の、複製技術時代には芸術のアウラが失われるという話だが、本物とほとんど同一の複製品が機械的なプロセスで作られ、また、実際に見分けがつかなかった場合、どういうことになるだろう――そう足らない頭で考える。本物と複製は知覚の上では区別することができない。だから名辞上、いわば欄外注としてしか表示され得ない。アウラは消えるだろうか。本物、複製と欄外に注記されたものが並べられていたなら、答えは簡単だ。消失する。「いま・ここ」性、その見えざる背景としての歴史性に支えられた真正性の輝きは、その時点で損なわれるのだから。では、ラベルもなく、二つのものが並べられてもいなかったとしたらどうだろう。本物と思って見てしまえば、本物であれ複製であれ、それは知覚の上では本物でしかない。本物と思いなされるそうではないものを贋物と呼ぶわけだが、当人にとっては本物なのだから、同じく知覚の上のこととして、アウラは消えない。そうなるように思うのだが、実のところ、この状態を客観的にとらえれば、どのようにしても本物と複製は区別できないのだから、アウラが消えたか消えていないのか、それすら判断がつかないわけである。つまり宙づりの状態に置かれる。本物とほとんど同一で、また、実際に見分けがつかない複製品が日常的に作られるようになった場合、例えばの話、人間なのか、人間そっくりの何かに取り囲まれているのかも分からないような不安が恒常化するのかもしれない。とはいえ、現実にはしないかもしれない。複製すなわちミメーシスの欲望がはらむ遊戯性、競争に伴う高揚感によって埋め合わせ、忘れてしまうということは大いにありそうだ。そこでなお本物という名辞上のことにこだわるとしたら、それはおのずとアナクロニックな精神主義に傾くことだろう。こうした不安の常態化なり忘却なり、はたまた精神主義のよみがえりを、あの予言的と言われる思想家はどこかで見通してくれているのだろうか。いま読み直しもせず、漠たる考えをめぐらせているに過ぎないのだが、そうしているきっかけはほかでもない、「金刀比羅宮 書院の美」展 (7月7日-9月9日、東京・上野/東京芸術大学大学美術館) である。インクジェット出力の高精細複製を交え、応挙その他の障壁画空間の再現を試みたことを誇るこの展覧会は、本物と複製の区別については入り口に置かれた展示平面図、及び各室の説明パネル――つまり欄外注の形で表示している。そして、その種の説明をほとんど読む習慣のない者としては実際、複製部分があったにもかかわらず、最初の部屋ではそれを見過ごしていたのだった。

2007.08.16. フェイク2

例の、展示的価値という話だが、展覧会では当然、美術品は展示的価値のみを求められる。とはいえ現実には、真正性が展覧会を価値あらしめていたことも事実だろう。本来あるべき場所ではないけれど、展覧会でしかこの本物は見られないという、別種の「いま・ここ」性に発するアウラのようなものがそこには生じているとも言えそうだ。それゆえ展覧会は本物ということにこだわり、そのことによって価値あるものと見なされてきたように思う。その意味でも先の展覧会は画期的だとも言えそうだが、ところで今日、文化財の複製制作はいっそうの隆盛に向かっている。寺院の障壁画を複製と入れ替える話をよく耳にするようになった。日常的には複製を公開し、想像するに本物は特別な場合、とりわけ展覧会という場でしずしずとお披露目されるのだろう。展示的価値における真正性への要請は、そこでの別種の「いま・ここ」性に発するアウラのようなものと引き換えに、いまやかつてあった「いま・ここ」性の全面的な抹消に向かいつつあるようなのだ。そうした本来の場におけるアウラとともに本物を見たいと思って出かけると、そこには複製が置かれているというわけだ。むろん複製の高度化によって、遠目には本物か複製かおそらく分からないのだから、いっそ欄外注もなくしてしまえば、その旅行者も心安らかにアウラを感じることができるのかもしれないのだが。

2007.08.16. フェイク3

再び例のエッセイでは、アウラの説明の中に木の影が持ち出されていた。一つには時間の中におけるはかなさの相において、アウラはイメージされていたように思う。さて、今日の文化財の複製製作は聞き及ぶ範囲では、インクジェットプリンターを扱う企業が中心となっている。逆に言えば、カメラによる機械的な複製という段階はあまり重きを置かれていないふしもあって、どうせ本物そっくりのものを作るのなら、撮影のところにもっと意を用いていいのではないかという気もするのだが、それら海外系の企業であったり、日本生まれであっても国際的に知られる大企業であったりする各社は、かくも積極的に海外でも、文化財の複製製作に取り組んでいるのだろうか。例えば教会に掛けられた油彩画や礼拝堂の壁画を、インクジェットプリンターによる複製に入れ替えましょうと売り込んでいるのかどうか。そこは特に知るところがないのだが、どうあれ日本において、急速に複製製作が広まっているのは、伝統的な絵画の支持体や色料が極めて脆弱であるという認識が一般的に共有されているからではないだろうか。それがはかないものであればこそ、例のアウラも生じようというものだが、しかし、そもそもはかなさの認識とは、写真を含む複製制作の動機の一つなのだろう。とりわけ文化財のはかなさがしばしば語られ続け、その割には破壊の事例が最近またクローズアップされたりもした日本において、よきこととして複製製作が進められているのも、理の当然というものかもしれない。つまり、はかなさの美学と高度な複製技術が結託する文化財複製の隆盛は、かなり日本的な風景なのかもしれないという気がするのだ。

2007.08.25. ニュアンス1

藤本由紀夫展「+/-」 (7月7日-9月17日、大阪・中之島/国立国際美術館) に立ち寄る。今年は藤本イヤーで、広島での展覧会、ベネチア・ビエンナーレへの出品、そして夏は関西3美術館での展覧会となっている。国立国際美術館では大きな展示室の一方の壁に、グリッド状に多数のCDプレイヤーを配し、一斉にビートルズナンバーを流すという作品が柱となっている。素朴に、コンセプチュアルというよりも、ポピュラーな感じを受け取る。どこか森村泰昌にも通じる親しみやすさ、そして、それがよってきたるところの日本的なにおいと言ってもよいかもしれない。森村については前にも触れた通り、ひとつ別のこともまた思うわけだが、例えば音楽はビートルズである。もとよりポピュラー音楽だが、それ以上に、コンセプチュアルに選ばれた音というよりも、誰もが自分の居間で流したりもしたビートルズというような、かすかに甘酸っぱいような音として聞こえる気がしたのだ。甘酸っぱいというのも独特な言葉だが、そのニュアンスがいま言ったポピュラーな感じにつながっているようだった。

2007.08.29. ニュアンス2

田附勝写真集『Decotora』 (8月17日、リトルモア刊) 。世に言うところのデコトラ、アートトラックとも言うそうだが、それを車の持ち主、周辺の日常風景とともに10年がかりで撮影したという写真集。デザインとして面白がるのではなく、トラックを一つのアート作品と化そうとする人々に敬意を払い、その美意識にもとづき、写真集それ自体もまた自らのアート作品と化そうとしているようだ。やはりニュアンスとしか言いようがない微妙な感覚があって、例えばカバー表と背に日本語はなく、「Decotora」をはじめ、英語の活字のみがデザインされる。「Deco」は英語、「Tora」はローマ字表記だから、それ自体も日本的と言えば日本的だが、そこで選択されている字体そのものが、英語であるにもかかわらず、なぜか日本的なにおいを感じさせる。そういった微妙な感覚にも気づかせてくれる一冊。

2007.08.31. だまし絵

「Biombo/屏風 日本の美」展 (9月1日―10月21日、東京・六本木/サントリー美術館) の内覧会。「誰が袖図屏風」というものがあるのだが、そう思っている人には当たり前だろう、あまり意味もないようなことながら、ああ、これはトロンプ・ルイユなんだなと納得する。主題や制作動機について、いろいろの説があり、また、今日どういう議論に落ち着いたのか知らないのだが、トロンプ・ルイユないしは、それに近い楽しみを間違いなく備えていたのだろう。ということは、今日とは同じではないにせよ、あるリアリティーの水準が達成されていたことを物語る。現実と見まごうような表象と理解され得る水準、と言ってもよい。それが達成されたほかの絵画表象として、さて、どういうものがあるのか、いまよく分からないのだが。

2007.08.31. フィクション1

鈴木理策展「熊野 雪 桜」 (9月1日-10月21日、東京・恵比寿/東京都写真美術館) の内覧会。最初は熊野のシリーズ。続いて熊野の火祭りの写真が並ぶ黒い壁面の回廊へ。そこを抜けて、壁も床も白くしつらえられた展示室で桜と雪のシリーズを見る。この間、火祭りの小さな炎の点がちらつく雪に変わり、さらに桜吹雪に入れ替わったりもする。ところで展示室の黒と白のコントラストは素朴に、この写真家が青木淳設計の青森県立美術館を撮っていることを思い出させた。その仕事は『青木淳 Complete Works 2』 (2006年7月、INAX出版) にまとめられている。実際、鈴木自身の写真集という性格も備える一冊と言ってもよいだろう。そこにはこの建築の特色であるホワイトキューブ的な部分と土に似せた部分という白と黒のコントラスト、また、雪景色の中の白い外観がホワイトアウトしていくようなカットが含まれる。終盤では美術館に雪がちらつくカットが桜花のこぼれ落ちるカットに続き、さらに桜花の白でホワイトアウトするような写真で幕を閉じる。これに近いシークエンスが今回の展示でも設定されていることはいま言った通り。淡交社刊の本展カタログでの言及は見るところ、主要参考文献の末尾に簡単に挙げられているのみ。少なくとも鈴木の写真を考える上で補助線くらいにはなりそうに思うのだが。以下、簡単なメモ。

2007.08.31. フィクション2

青木淳は一時期、自作を「相」という言葉を使って説明していた。ルイ・ヴィトン表参道についての一文だが、<ひとつの実在がさまざまな読み取り方を許し、逆にそれによるさまざまな相の集合がひとつの実在をつくる>という言い方が読まれる。視覚に限ったこととして「見え」と読み替えると、分かりやすいかもしれないが、具体的にはそれぞれの相が図と地の関係に固定化されることなく、リテラルに実在の表象となることを回避しつつ、ある相が他の相を宙づりにするような関係を保つことによって、建築体験のリアリティーを生み出す――という風に、いま青森県立美術館ができあがった後では、勝手に注釈してみたくなる。というのも、そこでは図と地の関係に帰着しないよう白と黒が組み合わせられ、また、黒い部分については「土に似せた」と書いた通りで、ほかにも見えと実在の乖離が意図的に仕組まれてもいるのだから。さて、そうした建築を記録するにあたって選ばれたのが鈴木理策ということになる。実のところ、鈴木の写真も、いわば一つの相に過ぎないことを自ら明らかにする性質を持つ。シークエンスの設定は、カットとカットの間の時間の流れ、被写界深度の浅さはピントが合わない空間の厚みを示唆しよう。つまり写っていないものがあり、その場その時の体験を全的な形で代表しない一つの相としての写真と言えるかもしれない。その相によって、鈴木は体験そのものでなく、体験の感覚をもたらそうとする。そう考えると、青木としては同様に、青森県立美術館を相の連鎖として、また、そのことによってもたらされるべき体験を写真によって感覚させ得る写真家として、鈴木に撮影を依頼したのではないだろうか。逆にこの仕事を通じて、鈴木が何かを得たのか、得なかったのか知るよしもないが、青森建築美術館の仕事が少なくとも理解の補助線になりそうだというゆえんである。とはいえどんな場合であれ、分かれ道というものもあるはずで、単純に青森における白と黒の関係とは異なり、今回の展覧会では夜を抜けて、光の満ちあふれる白の世界で幕を閉じる展示構成にもなっている。


2007.09.19. trace

アキ・ルミ「Traceyspace」展 (9月1-25日、東京・京橋/ツァイト・フォト・サロン) 。以前に見た作品は、鋭利な線によって自動生成するように描かれた図形のような絵画だったが、今回はその支持体として写真を使っている。ありふれた風景が写っている。それは縦横を変えたりして、一つの図と見なされてもいる。風景の中の線などに半ば干渉しつつも、やはり自動生成するように鋭利な線が引かれ、複雑な図形が重ね合わされている。そこにはさらに、白抜きの形でトンボの羽が配される。この羽、一つにはその翅脈のシステム性によって、作者のそれを示唆する効能を持っているわけだが、ありふれた風景にもう一つの秩序を重ねていく作法が連想させる逸脱、自由への願望のエンブレムとなっているように思えなくもない。なお、作者はオノデラユキのパートナー。

2007.09.28. 接触

具本昌展 (9月14-29日、東京・代官山/TKG代官山) 。TKGというのは小山登美夫ギャラリーのことで、そのヴューイング・ルームとして使用されることになるというスペースだが、オープニングとして企画された写真展。白い画面にカラフルな、しかし明らかに使用され、すりへった石鹸が配されている。すりへる、ということから時間だとか記憶だとかいう写真論がいまにも語り出されそうな作品だが、話を聞いて興味をそそられたのは、カメラで撮影したのではなく、スキャニングで制作されたということ。スキャニングだということは接触という要素があるわけで、石鹸もまた肌との接触を抜きに使うことはできない。その意味で、時間なり記憶という常套句では多少違った、ある生々しさがここには宿っているということにもなろう。

2007.09.29. 見えないもの

「シュールレアリスムと美術 イメージとリアリティーをめぐって」展 (9月29日-12月9日、横浜・みなとみらい/横浜美術館) 。カタログの表紙はダリでもエルンストでもなく、携帯電話で読み込むQRコードが3つ印刷されている。試してはいないが、ブルトンやアラゴンなどの言葉が表示されるらしい。見えるものを通じて、見えざる無意識の世界を表現しようとした、逆に見えざる無意識の世界を見えるように描こうとしたシュールレアリスム絵画にちなんでのことか。こういう一工夫はいい感じだな。むろん見えざる無意識の世界と、見えざる変換式によって必ず決まった言葉に行き着くQRコードとはまったく違うとも言えよう。あるいはシュールレアリスムとの対比で、このデータベースの時代の味気なさを思ってもらおうというひそやかな批判精神のあらわれか。


2007.10.03. 私写録

「安斎重男の私・写・録 (パーソナル・フォト・アーカイブス) 1970-2006」展 (9月5日-10月22日、東京・六本木/国立新美術館) 。日本の現代美術の目撃者として知られる人の写真を並べる。2000年、大阪・国立国際美術館でも安斎氏の大展覧会が開かれたが、今回の方が膨大な感じがする。基本的には年代順。最初はむろん自分も知らない時代で、そのうち、そんなこともあったなと思い出す時代にさしかかるはずが、しかし、見てきたものの重なりは意外に少なく、見たはずの展覧会であっても、あれ、こんな感じだったかな、と記憶の中の展示風景とは少し違う気がする。多分に自分の記憶があいまいになっているのだろう。もう一つは撮影が1970年、特に「第10回日本国際美術展-人間と物質」展あたりに始まっていることとかかわるかもしれない。今日で言うインスタレーションの時代に安斎氏は同伴してきた。作品が作品それ自体というよりも、見る側の体験の中に存在する時代。むろん一貫した姿勢で継続的に現場をとらえてきた重要性ははかり知れないが、原理的に言えば、それら体験の中において、やはり相対的な位置にあると思われる。展覧会のタイトルに「パーソナル・フォト・アーカイブス」とある。控えめな物言いに聞こえるが、以上の消息を自明のことと受け止めてのことかもしれない。

2007.10.04. パトローネ

篠原有司男と榎忠の2人展「ギュウとチュウ」 (10月2日-12月24日、愛知県・豊田市美術館) 。まず篠原の巨大な壁画と巨大なオートバイ彫刻で、おおーとのけぞらせる。続いて近ごろ話題の榎作品。静的な美術館建築のせいもあって、まとまりすぎている気もするが、総じて好展示として楽しむ。さて、榎作品で目をひいたのは、フィルムのパトローネをブロック状に圧縮し、大量に積み上げたインスタレーション。何でも14トン分だそうだ。もとよりフィルムが“絶命危惧種”となったことを意識した作品だが、周期的に照明がゆっくり明滅することもあって、メタリックな緑色その他が群がる甲虫にも似た生命感を帯びる。積み上げ方は軍艦のようでもある。内部を保護する殻であるパトローネは守るべきものを欠いた廃物となり、闇の中で本来の排他性ないしは攻撃性をあらわにしているわけだ。その意味で銃やミサイル、大砲といった武器をモチーフとする他の作品にも通じる、榎らしい作品。このほか2人の制作風景を軸にしたドキュメンタリー映像が制作されているそうで、その予告編が流れていた。そこで篠原は「現代美術なんてものはいつも盛り上げてないと、すぐにぺちゃんこになっちゃうんだよな」といった意味のことを話していた。そうだよなあ、と少ししんみり。

2007.10.17. 偶然性

柴田敏雄展「In Color」 (10月6日-11月4日、東京・小金井市/双ギャラリー) 。これまでに比べ、カラーでの柴田調はこういうものだと明確に打ち出した感がある。モノクロの写真家がカラーに移行する時、ただ色が付いたという以上の変化が起こるものだが、このランドスケープの写真家も例外ではない。偶然性の取り込み方がより顕著に見て取れるようになった感がある。静的な整斉性に対して、偶然的な要素を受け入れながら、より上の次元で写真として持たせていく作法と言えばよいか。何しろ水面に落ちる雨滴の波紋、さらには人間の姿まで写っている。柴田の写真については以前、ランドアート的と記したことがあるけれど (本年0603 83年/風景の項) 、現代美術との結びつきはかなり直接的だと言ってよい。もともと現代美術の側から写真という手法を選び取った際、偶然的な現実を制作に取り込むことが意識されていなかったはずもない。加えて例えばランドアートにおいても、偶然性の取り込みは図られていた。スミッソンのエントロピーに対する関心など。そこでは人為と自然、より大きく言って時間の作用との関係が制作の中に取り込まれる。同様に柴田敏雄は知られる通り、当初から自然の中にある人工構築物を撮影してきたし、その写真がはかなさ、うつろいの美学を感じさせてきたのも一つには現代美術の文脈から説明されてよい事柄かもしれない。だとすると、モノクロームが必然的にもたらす整斉性を離れ、色という変数と向き合うことを通じて、本来あった偶然性の要素が強く出てきたという考え方もできそうだ。

2007.10.18. アーカイブ1

中本晋輔、中橋一朗著『コーラ白書 世界のコーラ編』 (2007年10月、社会評論社刊) を書店で購入。面白い本だ。コカ・コーラ、ペプシはもとより、こんなコーラもあったのかという変わり種まで500種以上を集め、くわしく解説する。一口にコーラと言っても、実は著しく多様なコーラが存在しており、本書での「コーラ」の定義は、常温で液体、パッケージにコーラとある、といったことになっている。よくグローバリズムの象徴と見なされるコーラだが、実のところ、グローバリズムは均質な形でなく、ローカリティーと結びつき、時にはマルチカルチャリズムとないまぜになって進行することも一目で理解させる。ところで、この書籍、ウェブ版のコーラ白書がすでに存在し、それがもとになって出版されているのだが、その意味で、ふと思い出すのは同様に、ウェブ上のアーカイブをもとに出版され、最近人気だという産業遺産系の写真のこと。

2007.10.18. アーカイブ2

写真・石井哲、文・大山顕『工場萌え』 (2007年3月、東京書籍刊) をはじめ、ほかにダムや水門といった産業遺産の写真集が人気だそうだ。人気だということで、テレビその他のメディアで紹介されているのを時折見かける。コンビナートが風景として享受されるようになったのは端的に言って、風景として見ることのできる距離が生まれたことを意味しよう。柳田国男の言葉で言えば「要望なき交渉」、つまり果樹を生きる糧としてではなく眺めるのと同様の心理的な距離が、コンビナートの生産活動や労働との間にも生まれ、風景として眺められ、人気も博すようになった――というわけだが、しかし、それ自体は風景論の公式通りの話に過ぎない。興味を覚えるのは、すべてかどうか、ウェブ上のアーカイヴをもとにした出版が行われていること。デジタル写真の可能性ということが数年前、よく語られていたけれど、パーソナルで、趣味的な画像アーカイブが結局、果実の一つだったのかもしれない。

2007.10.25. 内

渡辺眸「hitomi watanabe early works全共闘の季節 1968-69」 (10月17-30日、東京・銀座ニコンサロン) 。当時を知るわけでもなく、話題の写真展ということで立ち寄る。バリケードの内側から撮影したと強調されており、その結果、建物内部の作品が少なくない。なおかつ外光が差し込み、建物の細部が粒子の中に飛んでいるカットが目をひく。つまり柔らかな光の粒子が「連帯を求めて孤立を恐れず」といった文字を柔らかく包み込みようにも見えるわけで、心情の投影ないしは内面的な連帯を意味するものなのかどうか、そうしたありようを含めて、一つの記録ということのように思われた。

2007.10.26. 曼陀羅

「東松照明 Tokyo曼陀羅」展 (10月27日-12月16日、東京・恵比寿/東京都写真美術館) 。この日は内覧会。沖縄、長崎、京都、愛知と続いてきた曼陀羅シリーズの最終パート。これまでは撮影地ごとの展覧会だったが、今回は撮影拠点としての東京であり、撮影地は全国にまたがる。時期的にも長期にわたる。今回もまた写真家自身の選択・再構成による展示であり、こんなものも撮っていたかと知らされる写真もある。例えば1956年、奈良での石仏の写真。それを展示に組み入れることは、アメリカニゼーションへの関心の基底に、日本的な風土への関心があったことも印象づける。すでに知られた写真でも荒木経惟を撮影したカットでは、新たにデジタル加工で改変されている。少し不思議だったのは昨年夏、「愛知曼陀羅」展を見た時ほどの疲労感はなかったこと。幾つか理由もありそうだが、一つには愛知では記録性を重んじた写真であり、なおかつ細部まで際立たせるプリントだったのに対し、こちらは実験的な手法を再び押し出していった時期にあたるからかもしれない。展示を眺めながら、実験写真家・東松照明、なんていう展覧会もあるいは別個に成り立つのかもしれないな、という空想も頭をよぎった。

2007.10.31. 微生物

少し前に届いていた『photographers’ gallery press別冊 写真0年 沖縄』 (2007年10月刊) を眺める。先にあとがきに目を通すくせがあり、「編集後記」を読む。中村大吾氏いわく、世に写真があふれる現実と<美術館なりギャラリーなりの写真展を訪れてみてそのとき口にされる趣味的な感興と、いったいどう釣り合うのだろうか>――自分もそうだなと思う。いまも趣味的な感興を書いているわけで、意味なしと言われれば一言もないな。続いて北島敬三「PLACES」シリーズを眺める。沖縄での撮影。これまでと違い、いやに黒ずんだコンクリートが写っている。数えるほどしか沖縄には行ったことがないが、こういう質感のコンクリートを見た記憶がある。言い換えれば場所の特殊性が写り込んでいるわけで、シリーズの大きな変化ということにもなりそうだが、それとは別に、なぜ黒くなるのかと思ってみる。コンクリートそれ自体の質によるのか、あるいは気候によって微生物が活発に働くからか。後者だとすれば人間のいない、人間の作った空間ないしは背景をとらえたシリーズには同時に、微生物が残したしみも写り込んでいることになる。まあ、そういう微生物とかしみのようなことに微生物のごとくかかわる感じで、また趣味的な感興でも書いてみるかなと思った次第。


2007.11.01. リアル

スン・ウー・バック写真展「REAL WORLD」 (10月26日-11月18日、東京・東神田/フォイル・ギャラリー) 。同名の写真集がフォイルから刊行されたのにあわせた展覧会。写真家は1973年、韓国生まれ。世界の観光名所を集めた母国・ソウルのテーマパークを撮ったシリーズ<REAL WORLD>と、北朝鮮を訪問し、おそらく隠し撮りのようにして撮影したスナップ<BLOW UP>を組み合わせる。なかなか面白い展覧会。視線の欲望が生んだテーマパークのヴァーチャルさと、北朝鮮における見ることの抑制・統制と。この対照は誰にも見て取れるだろう。社会学の好個のテーマになりそうだ。それは撮り口にも現れ、前者は引き気味に周囲を入れることで虚構性をそのまま伝え、後者は抑制された視線の欲望を自ら代補するように撮影カットの部分を引き伸ばす。ただし実際に展示を見ると、どちらの写真もある種、いやな感じを抱かせる。そこで対照項ではなく、共通項を求めるなら、どちらも「見せられている」ということになるかもしれない。テーマパークは言うに及ばず、北朝鮮の都市もまた見せられるために設えられているとされるのだから。全体の表題もあえて「REAL WORLD」にしているから、2つのシリーズを組み合わせた意図は一つにそのあたりにあるような気もする。ところで、だとすれば作者は見せられていることにいらだっている。裏返しの形であれ、ここではリアリズムが信じられている、ということにもなるのだろう。

2007.11.03. 沖縄1

羽田空港にたどり着いた時は正直、疲れていた。睡眠時間の少ない日が続き、あげくに前日も深夜勤務。40分ほど横になって、始発電車に乗る。「本当に沖縄に行くのか、おれ」と思いながら乗った飛行機の中で少しは寝たけれど、体も頭もひどく重い。那覇空港に着くなり、クイックマッサージに吸い込まれるというていたらく。そんな風でも沖縄に着たのは、オープンした沖縄県立博物館・美術館を見る必要があったのと、比嘉豊光、浜昇、北島敬三の3人展「写真0年 沖縄」展を中心とするイベントを見ておきたかったから。モノレールの駅の近い方ということで、県庁前駅の那覇市民ギャラリーへ。いま言った3人展「写真0年 沖縄」と、若い世代による「写真0年 沖縄-連動展」 (ともに10月30日-11月4日) がそこで開かれている。

2007.11.03. 沖縄2

3人展はそれぞれ70年代、沖縄を撮ったシリーズと現在のシリーズが出品される。つまり比嘉豊光は「沖縄闘争」 (1970~72年) と「島クトゥバで語る戦世」 (2000~07年) 、浜昇は「沖縄という名」 (1972~88年) とphotographers’ galleryから写真集の形で刊行されたばかり『VACANT LAND 1989』、そして北島敬三は「コザ/1975-1980」と沖縄で撮影された「PLACES」シリーズの新作 (2006~07年) 。なお、会場構成は倉石信乃。まず比嘉の「沖縄闘争」を見る。最近、渡辺眸による全共闘の展覧会を見たばかりで (1025の項) 、それとはずいぶん違うものだなと素朴に思う。もう一つ素朴に目をひいたのは観客の違いで、比嘉の写真を食い入るように見る年配の人が少なくないこと。ただし、ノスタルジーというのでもない、今日の日常との延長線上で見ているような感じも受ける。次に北島の「コザ」。1年ほど前、銀座ニコンサロンでその一部を見たが (昨年1117の項) 、当然のことながら80年代初頭のニューヨークに連続するスナップショット。なおかつニューヨークの写真で顕著になる、人間が背景から剥離するような質のスナップがすでに部分的に現れているようでもあった。人間と背景の分離・剥離は90年代以降の「PORTRAITS」「PLACES」の2シリーズに至るわけだが、それがもしコザから始まっているとすれば、よく意味を考えてみるべきかもしれない。と思いつつも、さほど考えは進まない。逆にコザの写真に一貫している、いわば「ありえなさ」の感覚がいかに微量であれ、今日の2シリーズにも潜んではいないか、これも気にしてみるべきかと思ってみる。浜昇「沖縄という名」はその写真を初めて見るということもあり、さしあたりの感想のみ。いわば場に溶け込むように視線が移動し、その延長線上で撮られていったスナップのように見える。もう一つさしあたりの印象として、いかにも自由な撮り口のようで、過去の先達が撮影してきた写真の記憶がひそかに折り畳まれ、それとの距離も冷静にはかられた写真かもしれない。それもあるいは視線の質のとらえがたさの印象につながっているのかなという気もする。こうした70年代を中心とする諸作とともに、それぞれ現在の仕事が見られるわけだが、しかし、過去と現在の間がきちんと制作歴として埋め合わされるわけではなく、時を隔てたシリーズがふと浮上し、それが遡及的に写真家の仕事の、見えざる時間的な持続を彷彿させる印象があった。受け付けの奥のソファに浜さんが座っていたので、ご挨拶。比嘉「沖縄闘争」に談及び、あれは生活と結びついた労働闘争から始まったのだよと教えられる。

2007.11.03. 沖縄3

「写真0年 沖縄-連動展」はこの那覇市民ギャラリーと、おもろまちのサンエー那覇メインプレイスの2会場。駆け足で見て、サンエー那覇メインプレイスの先にある沖縄県立博物館・美術館に乗り込む。博物館と美術館の複合施設だが、とりあえず美術館の開館記念展「沖縄文化の軌跡 1872-2007」 (11月1日-2月24日) に入ってみる。すると、最初の部屋に比嘉豊光や石川真生、平敷兼七の写真が展示されており、しかも「第4部」とある。えーと「第1部」はどこですかと尋ねると、上の階だということでエレベーターに乗ったのだが、その後も順路が何とも分かりにくい。これは一体・・・と思いつつ、何がどこに出品されているか、ひとまずチェックする。どうも逆順に見せる展覧会なのかもしれない。あとは明日、もう一度見るしかない。続いて「写真0年 沖縄」展関連のシンポジウム。3人展の出品作家の部と、鵜飼哲、仲里効、東琢磨の「沖縄表象の現在」という2部構成。疲れを御しがたくなり、終わるや否や、ホテルにチェックインして仮眠する。携帯電話で起こされ、懇親会に参加。少し元気が出て、2次会に向かう途中で、比嘉豊光さんに挨拶する。これまで紹介の文章を書いたことはあったけれど、これが初対面。2次会で隣の席になったので、かねて聞きたかったことを尋ねてみる。「島クトゥバ」シリーズは自然光で撮っている。しかし、写りにくい、ぶれるといったことでストロボを使いたいと思うことはないのでしょうか。答えは「写らなかったら、写らなかったでいいさ」。その仕事において何が重んじられているのか、酔余の記憶に残る。

2007.11.04. 沖縄4

翌朝、沖縄県立博物館・美術館を再訪。今度は博物館部門をのぞいてみる。開館記念展は「人類の旅 港川人の来た道」 (11月1日-1月20日) 。沖縄で見つかった1万8000年前の港川人の化石を柱として、人類の生物学的な歩みをたどる。常設展示室も大規模な回廊式で、自然史、考古、歴史、民俗、美術工芸部門を擁する。美術については、この美術工芸部門が近世までカバーし、近代以降は美術館という割り振りになっているようだ。ということは博物館と美術館を合わせると、何と1万8000年前から現在までの歩みをこの博物館・美術館はカバーすることになる。すごいことだ。アイデンティティーなるものと歴史は切り離せず、そこに美術館なるものを加えることもできるが、この長大な歴史をカバーする博物館・美術館はアイデンティティーへの希求を、ひとまず強烈に印象づける。続いて前日に続き、再び美術館の開館記念展「沖縄文化の軌跡 1872-2007」に入る。今度は逆順に、自分なりにきちんと見た。地方の美術館では、地元での活動歴がいかに希薄なものであれ、中央で有名な画家に重きを置くケースをよく見かけるが、ここでは沖縄の美術史をしっかり語ろうとしている。また、逆順というのは、今日の視点から、という意図によるそうだが、同時に、起点の1872年に始まる通史として沖縄文化の流れを固化させない効果をもたらしていた。平板な歴史化の回避と言うこともできるだろう。その意味でこの美術館の開館記念展と、旧作を作家歴の中に収めない形で提示していた「沖縄0年」展とは響き合うものとなっていた。

2007.11.04. 沖縄5

さて、この開館記念展の枠組みについては、かなり力点が置かれている写真分野について紹介する方が近道だろう。ひとまず言ってしまえば、見られる沖縄から、自ら見る沖縄へ、つまり見る主体の回復がたどられている。木村伊兵衛、土門拳、岡本太郎ら本土から来た人々の仕事がまず置かれ、続いて1970年代に活躍する比嘉康雄、平良孝七、さらに伊志嶺隆の仕事が集められる。ただし展示では第3世代という位置づけで、比嘉豊光や石川真生、平敷兼七の仕事が登場する。ここで注意を要するのは比嘉らの仕事に隣接する形で、島袋道浩、照屋勇賢+大山健治の参加型作品が出品されていることだろう。照屋らの作品は、QRコードで掲示されるアドレスにケータイ写真を送信すると、会場の水晶の中に投影されるというもの。いわば写真を使ったリレーショナル・アート。比嘉の「光るナナムイの神々」「島クトゥバで語る戦世」もまた被写体との深い関係性の上に成り立っている。ここまでの見られる沖縄、見る沖縄という枠組みは必然的に他我の分離を前提とするが、順路で言えば冒頭にあたる比嘉らの作品を通じて、それを乗り越える可能性を探っている、というのが本展の大きな枠組みと言ってよいだろう。ポスト・コロニアリズムについてあまり詳しくないが、これまで数は少ないながら、近代の植民地との関係を扱ったものが開かれてきた (例えば東アジアを対象にした「油画の近代」展=静岡県立美術館など) 。この開館記念展はそれを今日に続く問題としてとらえた、さらに数少ない試みの一つと言えるかもしれない。もっとも、照屋らの作品と比嘉の写真を並べて考えてよいのか、何かためらわれる気がするのも事実だ。ただし比嘉の作品は確かに沖縄に発する一面を備え、また、リレーショナル・アートそれ自体も、例えばゴンザレス=トレスを一つの達成として考えるなら、そこでは性的なマイノリティーの意識が共同性へ回収されないような関係性への希求を必然的に生み出していたように思われる。こうした本展が示唆する関係性の可能性が、しかしながら、一般的に広く敷衍できるのかというと、必ずしもそうではないのかもしれない。それは一方で他我関係をくぐり抜けた先に位置し、なおかつ共同性に回収されないようなものでなければならないのだろう。言い添えると、この日のシンポジウム「沖縄を展示する」では、「写真0年」展の倉石信乃、この美術館の開館記念展を担当した翁長直樹、そして目下、沖縄展を準備しているという東京国立近代美術館の鈴木勝雄の3氏が登壇し、鈴木氏の「東京の視点から」という発言が論議を呼んだのだった――ここまで長々と、見てきた通りにたどってきた沖縄での話もそろそろ幕とするが、結果として、無理しても行ったかいがあったのだ。

2007.11.08. 埒外

楢橋朝子新作展 (11月2-27日、東京・八重洲/ZEIT FOTO SALON) 。このところ撮り続ける「half awake and half asleep in the water」を展示。会場に写真集が置かれていた。Nazraeli Press刊。聞くと、マーティン・パーが気に入り、同社と組んだ写真集10巻シリーズの第2弾として刊行となったよし。さすがマーティン、日本の写真をよく見てるものだと感心。シリーズについてはこれまでも何度か書いてきた。以前、少しスナップショットとの関連性について触れたことがある。楢橋の第一写真集は都市のスナップだったし、並行してスナップを撮り続けている。都市のスナップにおいて、一般に撮影者は見返されることがない。特権的な立場から見る力を行使するのと引き換えに、相互的な関係の外に出る。埒外の人というか、見られる側の社会なり世間になじまない存在となる。このシューターの位置と、海の側から陸地を眺める楢橋の位置はよく似ている。写されている陸地には神社から海水浴客まで、共同性を体現するモチーフをしばしば確かめることができる。そこにおいて、楢橋の仕事を民俗学的な角度から語ることもかろうじて許されるかもしれない。民俗学の大きな主題は共同性なのだから。例えばこのシリーズの楢橋の立ち位置と視線は、陸から遠ざかっていく補陀落渡海に赴く修行者のそれになぞらえてみたい気にさせるが、それは楢橋の仕事がどこか共同性から逃れ出る志向を備えているからなのだろう。

2007.11.12. 選択1

「日本彫刻の近代」展 (11月13日-12月24日、東京・竹橋/東京国立近代美術館) 。それをたたき台にして議論すべき通史がなぜ書かれないのか、疑問に思っていたので、国立美術館が日本近代の彫刻史を通覧しようとした試みとして、まずは評価すべきと思う。扱う時代は明治にはじまり1960年代まで。しかも出品数は100点ほど。平均すると、1年あたり1点ということになる。だから何が出ていないなどと言ってもはじまらないわけだが、あえて一つだけ言えば、人形を挙げることができる。人形は同じ近代美術館でも工芸館の領分となるらしい。それだからというわけでもないだろう。生人形はあまりにインパクトが強いので避けるとしても、森川杜園のような独特な存在を入れる意味はあったように思う。2004年、この美術館に近い宮内庁三の丸尚蔵館の「近代日本の置物と彫刻と人形と」展は、それら多様な立体物を併せて並べ、「彫刻」以前の立体物の多様性を実感させた。意味のある展覧会だった。先行する展覧会の上に、また開かれる展覧会は成り立つものだと思っている。いまはそうでもないようだが。そんなわけで三の丸尚蔵館の展覧会の一項だった人形を欠いたことが気になった次第。ちなみに以前、東京国立近代美術館で開催された「揺らぐ近代」展について、ここで中国というファクターが欠けていないかと書いた記憶があるが、三の丸尚蔵館では明治宮殿の装飾を通じて、和洋中が鼎立した時期があったことを示していたように思う。

2007.11.12. 選択2

もう一つちなみに、会場でふと思ったことがある。「彫刻」以前の立体物が次第に「彫刻」へと収斂していく過程として、自分も日本近代をとらえているように思う。しかし、西欧社会において、「彫刻」はそれほど自明な概念であり続けたのだろうか? 素朴な話だが、現地に行くと記念碑としての野外彫刻があり、他方では宮廷趣味もあらわな陶器の小彫像があり、実際、エティエンヌ=モーリス・ファルコーネのような人だと、その両方を手がけていたりもする。例えば1873年の万国博覧会に際し、ウィーンに行ったとしても、当時の人々にはこれが彫刻だという理念的な把握はほとんど不可能だったのではあるまいか。あるいはロダンとその移入以後の彫刻理解に依拠し、日本近代初期の立体物を「分かっていないな」と見下すようなところがありはしないか、省みたい気がする。

2007.11.15. リアリズム

「民衆の鼓動 韓国美術のリアリズム 1945-2005」展 (10月6日-11月25日、新潟県立万代島美術館) に出かける。戦後から現代まで時間軸は長いが、ハイライトは1980年代の民主化闘争の過程で生まれた作品群。日本では戦後まもなく勃興した抵抗的なリアリズムが遅れて出現したように見えるかもしれないが、話はそう単純ではない。国際的には60年代後半から進行した反修辞の動向が一転、ニュー・ペインティング等と称される過剰な修辞の時代を迎えるのが80年代であり、日本も例外ではなかったわけだが、韓国では抵抗的なリアリズムと複合したらしい。例えば呉潤 (オ・ユン) は日本の戦前にもあったような木版画を手がけているが、同時に、伝統的な十王図の形式を借用した絵画やメキシコ絵画ばりの作品も描いている。それぞれにおいて社会的に有効な手法が選ばれているとも言えるが、その選択可能性は同時に、80年代的という印象をもたらす。こうした機微に触れる上で、また、日本の80年代美術について考える上でも、一見の価値のある展覧会。特に呉潤という作家は面白く、もっと作品を見てみたいものだと思ったら、韓国では近年、大きな回顧展が開かれたらしい。

2007.11.21. 量

内原恭彦写真集「Son of a BIT」 (青幻舎刊) 。ウェブで活動している人とのこと。まず量的に膨大なスナップがあり、なおかつ複数のカットを接合し、画像量をでかくした作品も含まれているようだ。この量ということがデジタル化の一つの功徳なのだなと納得させる一冊。このところダムや工場、さらに変わった猫の写真集などがウェブ上の量的な集積からピックアップされているわけだが、この量という話を作品化しようとした試みとも言えようか。ちなみにアジアで撮影された写真が多いことも目をひく。結果的にそうだということか、それとも量と関係する選択なのだろうか。

2007.11.28. 般若心経

みうらじゅん「アウトドア般若心経」 (幻冬舎刊) 。笑ってしまって、気づきにくいことだが、みうらじゅんはほとんど常に写真を使ってきた。街角の珍物件を撮る時も、自身の珍コレクションを見せる時も。その中には絵はがきやグラビアなども含まれる。ついには東京都写真美術館の展覧会に起用されたりもしたが、その多年にわたる写真とのかかわりの中でも、際立って面白い。般若心経の文字を街角の看板から一文字一文字探して撮影し、その写真によって経典を一冊に編んでいる。例えば「若」はちゃんこ屋さんの「若」だったり、という具合。これが本当の“写経”というわけだが、看板の文字は世俗のただなかにあって、なおかつはかない。そこから集字することで、その世俗と背中合わせにして経意が遍在することを、そしてはかないようなもの悲しさを感じさせる。今年、意表を突かれ、なおかつ感心した写真集の一つ。