Revised Edition “沖縄との出会い、あるいは出会い損ね: 比嘉豊光写真展「わったー「島クトゥバで語る戦世」-684―」について” by 甲斐義明

 (C) HIGA Toyomitsu
 (C) HIGA Toyomitsu

沖縄県宜野湾市の中心部を占める普天間基地に隣接した佐喜眞美術館は極めてサイト・スペシフィック(site-specificその場に固有の)な美術館である。建物の外側にある階段を通って屋上へ昇ると、基地が見渡せるようになっている。そこでは基地が展示物となって、我々の視線の下に置かれる。しかし、普天間基地は代替地の提供を条件にやがて返還されることが1996年に既に決定されているので、それは近いうちに消滅するかもしれない展示物であり、その消滅とともに、この美術館のサイト・スペシフィシティーの一部は確実に失われるだろう。そもそも、今ここに美術館が建っているのは、館長であり土地の所有者である佐喜眞道夫が軍用地の貸与契約の更新を拒み、1992年に土地が返還されたのが発端なのであり、その意味では、美術館自体がその喪失に加担していると見ることもできる。

すると、ここ数年間に新しく建てられたいくつかの公立美術館がこぞって追い求めているサイト・スペシフィシティーと、佐喜眞美術館のサイト・スペシフィシティーは似て非なるものということになる。ある場所のサイト・スペシフィックな特質(文化でも自然でも)をその存在理由として新設された公立美術館が、今度は逆に、その場所のスペシフィシティーを裏づけ、補強し、その永続的な価値安定化に貢献するのとは反対に、佐喜眞美術館は、自らが拠って立つスペシフィシティーが、一時的なものであること、恣意的な(政治的な)ものであることを明るみに出す。これは同時に、美術館に備わった特質の永続性を否定するということでもあるから、それは自己破壊的な暴露でもある。結果的に、佐喜眞美術館はその存在自体が美術館のあり方についての鋭い問いを投げかける刺激的な場となっているのである。(例えば、住宅地に囲まれた佐喜眞美術館は今のようなインパクトを持ちうるだろうか? 平和のメッセージは場所を選ばないだろうか?)


その佐喜眞美術館で2007年6月6日から7月2日まで展示されていた比嘉豊光の写真も、同じようにサイト・スペシフィシティーについて、つまり、沖縄という場と、そこに暮らす人々について我々に深く考えさせる。展示室の四方の壁面を覆い尽くすように、びっしりと画鋲で留められた、数百枚の半切大のポートレート写真。60年以上前の自らの戦争体験について語る県民の表情をとらえたものである。展示室に入ってまず受けた印象は若干の戸惑いであった。身ぶりを交え何かを語っている老人たちを写した、様式としては特に目新しくもない写真。苛烈な戦争を生き抜いてきた県民の表情に刻み込まれた、えも言われぬ個性。これらの写真のメッセージは“ヒューマニズム”であろうか? しかしながら、部屋の中でそれらの写真に囲まれて次第に時間が経つうちに、それらの個々の写真の意味が、最初に感じたよりもずっと不明瞭であることに気がついた。(当日のシンポジウムで、被写体の表情が果たして“笑顔”なのか否かについて激しく意見が交わされたのは、その証拠だろう。)それと同時に、個々の被写体の可視的な“個性”以上に、それらの写真の集積が全体となって、私に迫ってくる印象のほうが、より重大なように思えてきた。その印象とは、彼(女)ら全員が、それぞれに何かを語っているということである。つまり、意味の曖昧さゆえに被写体となった人物たちに感情移入できなかったとしても、少なくとも彼(女)が語っているということは、その表情や身ぶりから明白なのであり、私はそれを否定しようがない。それも、ひとりやふたりではなく、何百人もの人間がいっせいに語っている。彼(女)らが何を話しているのか、何を考えているのか、そして、どういう人たちなのか、私にはわからない。けれども、そのように切り詰められているからなおのこと、彼(女)らが何かを伝えようとしているという事実、シャッターが押されたとき、今まさに語っていたという単純な事実が、圧倒的な説得力とともに示されるのである。(その点において比嘉の写真は、現在進行中の荒木経惟の「日本人ノ顔」プロジェクトと対照的と言えるかもしれない。荒木の被写体の多くは疑いようのない“笑顔”であるが、別に何かを(比喩的な意味ではなく、文字通りの意味で)語っているわけではない。)身体上(あるいは身体内)の傷跡として戦争の痛ましい痕跡がこれ以上もなく明白な形で示された写真もいくつか展示されていたが、それらが引き立つのは、語っている様を捉えた、その他の大多数の写真に囲まれていたからに違いない。

6月23日(「慰霊の日」)のシンポジウムで上映されたビデオ作品「島クトゥバで語る戦世(いくさゆ)」(1時間ヴァージョン)が私にとって忘れがたいものになったのも、同じ展示室の中で上映されたその映像が、上で述べたような印象をヴィヴィッドに増幅するものだったからだろう。その内容は、自分が暮らす地区の言葉(「島クトゥバ」) ―同じ沖縄県内でも、他の地域や離島の言葉が聞き取れないことは珍しくないそうである― で戦争体験について語る県民を比嘉のビデオカメラがひたすら捉え続けるというものである。(つまり、器用にも、写真家はビデオカメラとスチルカメラを同時に操っているということになる。)ビデオの中では、写真が持っていたイメージの意味の不明瞭さは、パロール(語られた言葉)の不明瞭さに置き換えられる。東京育ちの私にとって、自分と同じ日本国籍を持った人々が、ほとんど外国語のようにしか聞こえない言葉で、日本人としての戦争体験を語っているのを聞くのは、それだけで当惑させられる経験である。それでも断片的に聞き取れる言葉に耳を集中させ、時に過剰に標準語に翻訳されて表示される字幕と頭の中で照合させながら、私は何とかして、語る者たちのメッセージを受け取ろうとする。しかし結局のところ思い知らされるのは、彼(女)らが自らの意思で語っているにもかかわらず、私はそのメッセージにたどりつくことさえできないかもしれないという怖れである。

上映作品を見て特に印象に残っていることが二点ある。一つは、ほぼ一方的に語り続ける県民の映像の中に時折差し挟まれる、「うん、うん」とも「ああ、ああ」とも書き起こせるような、短い相槌の声である。自然に、自発的に、間髪入れずに発せられるその相槌は、私には入り込むことのできない、語り手と聞き手だけの親密な世界があること、そして私はそこから疎外されていることを否応なく感じさせる。しかしそれは同時に、すべての会話はそのような相槌を通して成立するということ、この極限まで簡素化された「うん、うん」という頷きの言葉が、彼(女)らの語りを引き出しているという、極めて当然ながら、つい我々が軽んじてしまう真実も同様に気づかせる。だから、映像に収められた県民たちの語りは決して独白ではないのだ。

もう一つは、被写体をとらえる比嘉のビデオカメラの細かな動きである。被写体となった人物たちは座って話しているので、カメラが大きく移動することはない。けれどもそれは、手振りや身振りとともに彼(女)らの頭の位置が移動するのに呼応するように、わずかながらも絶えず動きつづけている。考えてみればこれは不合理な動きである。被写体の動きを計算に入れて一回フレームを定めれば、ビデオカメラを動かす必要はない。あとはカメラがその表情や身振りの一切を一滴も取り逃がすことなく捉えてくれるだろう。しかし、この不合理な動き、いわばこの映像の《細部》が、いったん私の目に知覚されると、その動きこそが、映像自体を基礎付けているようなものとして、その全体に浸透しているように感じられてくる。(ロラン・バルトにかぶれすぎだろうか?)その動きの背後に控えているように見えるのは、被写体をまさに逃すまいとする撮影者の意志、常に動き続けていれば被写体を逃さずに済むかもしれないという不合理な―しかしその不合理さゆえにそれを見る者の胸を打つ―意志である。(バルトに反して、私はそこに撮影者の存在を感じ取る。)


ここまで随分わかったようなことを書いてきたが、私は比嘉の仕事を解釈し終えたとか、沖縄を十分に理解したとか言いたいわけではない。むしろ事実はその逆かもしれない。実は、今回の二日間にわたるイベントでは、私は話しかける相手をうまく見つけることができず、ほろ酔い加減の参加者たちが盛り上がる中、ひとりで黙って立ち尽くしている時間も多かった。(そういう人が、こういう文章を書いていること自体、滑稽なことかもしれない。)せっかく誰かを紹介されても、会話はぎこちなくすぐに途切れてしまった。二日目の夜には色々とあり、正直言って少し気疲れした私は、その翌日、気がつくと、読谷から海岸線を50キロほど北上したところにある、美ら海水族館へ向かってレンタカーをひたすら走らせていた。映画館のスクリーンのような巨大な水槽の前に立つと、そこには確かに、期待通りの美しく無垢な光景が、つまり、私たちが望む通りの「沖縄」が眼前に広がっていた。いや、括弧などをつけて良識ぶるのは止めておこう。そこには確かに私が望んだ沖縄があったのだ。アクリルガラスの向こう側をしなやかにひらひらと泳ぐ魚たちは、過不足なく、完璧なまでに美しい。美しいものを美しいと感じて何が悪いのか。

そのようなこともあって、佐喜眞美術館で出会った比嘉の写真と映像作品の強烈さにもかかわらず、何か沖縄に、沖縄の人々に出会い損ねたという印象が強く残っている。しかし、自己弁護と自戒の入り混じった気持ちで、敢えて一般化させてもらうならば、この出会い損ねの感覚こそ、まさに写真が喚起するものであるとは言えないだろうか。もっと言えば、何かに出会い損ね続けるにもかかわらず、それでもなお、その何かに出会おうとすること、それこそが写真の本質なのではないだろうか。(水族館に写真が必要ないのはそのためである。というのも、そこでは常に完全な出会いが保証されている。)これはつまり、そのどちらか片方でも欠いた時点で、写真の営みは終了するということである。写真によって何かに出会ったと錯覚させられた瞬間、あるいはその逆に、写真では何かに出会うことができないという虚無感に屈服した瞬間、その二つの瞬間によって写真は絶えず脅かされている。この場合の「何か」は、人でも物でも、その本質でも外観でも、その都度変わってくるだろう。問題はその「何か」が何であるかということよりは、その「何か」に写真を通して、どう対峙するかということである。(だから、ジャック・ラカンを連想させるこの「出会い損ね」という言葉を、私はもっと広い意味で使っていると理解してほしい。)写真に対する真摯な取り組みが不可避的に呼び起こすこの出会い損ねは、比嘉の写真行為についても当てはまるだろう。一見「ウチナー」同士の打ち解けた心の交流を表象しているかのように見える比嘉の写真やビデオも、ある部分では、被写体となった県民たちに出会い損ねているに違いないのだ。そして、比嘉自身もこのことに自覚的であるように思われる。(シンポジウムの質疑応答で、比嘉の写真には、東京の都会人にはない、沖縄の県民ならではの豊かな表情が写っているとコメントした人がいたが、そのような理解は、発言者の意図とは裏腹に、上に述べたような理由で彼の写真行為を脅かしていると思う。)しかし、いや、だからこそ、写真家は戦争を体験した県民たちが自らの意思で語る様子を、ほとんど愚直とも言えるような方法で記録し続け、そのアーカイブを蓄積してゆくのである。

だから、私も、どんなにもどかしさを感じたとしても、出会おうとし続けなければならないだろう。そして、この出会いをめぐる葛藤においてこそ、写真は我々の心の動きと最も深い関わりを持ち、それゆえに、それは我々の生に対してリアリティーと切実さを持つのである。

*付記
 この文章はいささか話が普遍的な方向に傾きすぎているかもしれない。(例えば、私は上映作品で語られた言葉の内容についてまったく言及しなかった。)そう感じられた方には、目取真俊『沖縄「戦後」ゼロ年』(生活人新書、2005年)を読んでいただくことを強くお勧めする。