Papery 2009 by 前田恭二
2009.03.05. ミレー茶話
青森県立美術館「小島一郎 北を撮る」展 (1月10日-3月8日) のチラシには、惹句として〈戦後の青森が生んだ写真界の「ミレー」〉が掲げられている。実際、「ミレーを思わせる」といった形容は展覧会の紹介記事にも散見される。もっとも個人的な印象を言えば、小島の写真はさほどミレーを想起させるものではなかった。
むろん惹句が不当だというつもりはない。小島自身、1963年刊行の『津軽 詩・文・写真集』所収、「私の撮影行」の中で〈晩秋の夕焼の下で働く農夫の姿には、ミレーの「晩鐘」をほうふつさせるものがある〉と記している。展覧会に併せてまとめられた『小島一郎写真集成』で言えば、23頁に神々しいような光の注ぐ水田が現れ、表紙にも使用される81頁の稲刈りの写真が確かに含まれている。ほかにも稲作や農具のカットがあり、農事と結びついているのかもしれない祭礼の写真もある。その限りでは「青森のミレー」という言い方に半ばうなずくこともできる。けれども、展覧会紹介の挿図にしばしば使用される107頁の写真などは雪にとざされ、「稲垣」という地名とはうらはらに、荒涼たる印象を与える。大地と労働、それがもたらす豊穣をミレーが讃仰したとすれば、それとは縁遠い風景の多さが際立っている。そこに投げかけられるミレーという名前は、近代の農村イメージの系譜に小島を置き直してみたい気持ちにさせる。
日本におけるミレーの受容史については、2007年から2008年、埼玉県立近代美術館などを巡回した「田園讃歌」展のカタログにくわしい。特に積みわらのモチーフに注目しながら、ミレーからモネへ至る線をたどり、さらに日本近代への波及などを扱った意欲的な展覧会だった。ただし、日本における初期受容史については、掘り下げられていない視点があったように思う。近代洋画における農村モチーフと国家の結びつきである。
象徴的な事例を挙げておこう。1889年、上野で開催された明治美術会の第1回展には皇后が行啓し、5点の作品を買い上げている。当時の新聞記事からタイトルを拾うと、 佐久間文吾「田家」、浅井忠「山村」、小山正太郎「山村嫁女」、渡辺鉄太郎「雉子」、本多錦吉郎「麗日」 となるが、このうち本多「麗日」は他の史料と照合すると、養蚕農家を描いた作品である可能性が高い。買い上げ5点のうち「田家」などもタイトルから察するに、農村風景であったのではないか。だとすれば農耕と養蚕の組み合わせであり、いわば伝統的な「耕織図」の油絵バージョンを皇后は買い上げたということにもなる (耕織図をご存じない方のために言い添えておくと、2月21日-3月22日、町田市立博物館で「耕織図の世界」展が開かれている) 。ちなみに、本多は長く陸軍で教えた人である。近代洋画において農村風景を描くことはつまり、ミレー的な西洋絵画の摂取であると同時に、国家の礎である農業をたたえることでもあっただろう。もう一つ言い添えていくと、1889年と言えば、ほかでもないミレー「晩鐘」が競売にかけられ、いったんアメリカに流出してしまうという出来事が起こった年にあたる。これはフランス国民の憤激を招き、たちまち母国に買い戻されることになる。泉下のミレーは知るよしもないが、折しも日仏両国で農村風景はナショナリスティックな文脈に置かれたのである。
年譜によれば1944年、徴兵された小島は画家を目指す同郷の友人、川嶋悌吉と交誼を結んだという。展覧会場ではミレーとの出会いも、この友人と結びつけられていたような気もするが、ともあれ1933年、岩波書店が「種蒔く人」を商標に採用した通り、すでに大衆的な知名度をもっていたことを思えば、芸術青年の間でミレー談義が交わされること自体はありふれた挿話に過ぎないというべきだろう。そんな小島は大陸から復員後、川嶋の支援も受けながら、津軽を撮り始める。再び「私の撮影行」に戻ると、〈敗戦の虚脱した空気の中に目覚めることなく、仕事に身の入らない怠惰な毎日を過ごしていた〉という小島は、農村風景に感動した。〈農夫が果てしもなく広い大地に鍬を入れたり、陽の没するまで働き続けている姿をみて激しく私の胸をうつものがあった〉という。ミレーの「晩鐘」さながらと書きつけられるところの農村風景である。
明治20年代のミレーと昭和20年代のミレーは同じではあるまい。ただし、戦後の農村風景もまた、日本というものを背負っていたことは否定できない。戦中から戦後、濱谷浩は新潟を撮り続け、1956年、第一写真集『雪国』をまとめている。写真家自身の言葉によれば〈日本人の生活の古典を記録した本〉である。1952年、木村伊兵衛も秋田を撮り始める。濱谷の言う〈日本人〉の奥行きは慎重に見定めたいところだが、ともに稲作地帯に向かっていることは軽視すべきではないだろう。
小島もまた稲作地帯を撮っている。『小島一郎写真集成』では、すでに挙げたものに加えて、70頁から80頁あたりに多く収録されている。しかしながら、それらはいかに豊穣というイメージから遠いことか。ミレー「晩鐘」のような労働に感銘を受けたと言いながら、数少ない収穫の場面でさえも陰鬱な暗さに沈んでいる。さらに小島は津軽から下北半島に向かう。そこでは稲作らしき風景はもはや見当たらない。階調の豊かさもまた捨てられる。古きよき日本の象徴なのか、戦後日本の陰画なのかはともかく、あり得べき日本的な農村イメージに連なろうとしながら、不毛さへ向かっていると言える。
ここで一つ、イメージ上の連想を記しておこう。1956年、小島が米国ロチェスターの国際写真サロンに出品、入選したという初期作品「The way home」は、エマーソン「沼地からの帰還」を思い出させる。小島がこの名作を意識していたかどうか、知るところはない。ただし、二つの写真はちょうど裏焼きのような関係になっている。つまりエマーソンが帰還する人々を出迎える位置から撮影しているのに対して、小島は背中側から見送っている。タイトルに言う「home」の側にはいないとも言える。小島的なイメージには歩く人々が頻出し、写真家自身の歩行を自己言及的に示唆しているのだが、そこでも同じ視角が蹈襲される。小島は家路に向かう人を撮ったが、彼自身の歩行は「home」には至らない。その先に下北のシリーズがあり、頓挫した北海道撮影行が位置している。むしろミレーからはるかに遠く、と思うべきだろう。
ちなみに展覧会は最終部、豊島重之キュレイションによる一室が設けられている。そこで特別な重みを与えられているのは田本研造の撮影と見られる、昆布取りのアイヌ女性の写真である。これまでたどったような文脈を思い浮かべてきた筆者にとっては、特異な〈収穫〉のイメージであるように映った。稲作とは異種の〈収穫〉。その〈収穫〉の〈収奪〉という風に。