Revised Edition “写真とカラー・フィールド・ペインティング — マイケル・フリードのジェフ・ウォール論” by 甲斐義明

※以下のテキストを大幅に改稿したものが、『photographers’ gallery press no.6』(2007年)に掲載されています。

 
 
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パリ国立近代美術館発行の『カイエ』誌2005年夏号には、マイケル・フリードによる「ジェフ・ウォール、ウィトゲンシュタイン、日常性」という論文が掲載されている。(※1)フリードの名前を知る者の多くは、この論文のタイトルに引きつけられるのではないだろうか。1939年生まれのマイケル・フリードはクレメント・グリーンバーグのモダニズム美術論の最も正統な後継者として、1960年代を中心に、アメリカの抽象表現主義とそれにつづくカラー・フィールド・ペインティング、具体的な名前を挙げれば、ジャクソン・ポロックから、バーネット・ニューマン、マーク・ロスコ、ケネス・ノーランド、フランク・ステラ、モーリス・ルイスらに至るまでの画家、そして現代彫刻の最良の例としてイギリス人彫刻家アンソニー・カロの作品を支持してきたことで知られる。その一方で、1967年に発表された「芸術と客体性 Art and Objecthood」という論文では、当時一つの美術の流れを形成しつつあった、ドナルド・ジャッド、ロバート・モリス、カール・アンドレ、トニー・スミスらのミニマリズムをモダニズムの誤った進路とみなして激しく非難した。

気鋭の若手美術批評家として活躍していたフリードは1970年頃、ちょうどカラー・フィールド・ペインティングが下火になっていく時期を境に、モダニズム絵画の起源を探るべく、関心をもっぱら過去の美術へと向けるようになる。その成果は『Absorption and Theatricality: Painting and Beholder in the Age of Diderot(「没入と演劇性:ディドロ時代の絵画と観者」)』(1980年)、『Courbet’s Realism(「クールベのリアリズム」)』(1990年)、『Manet’s Modernism(マネのモダニズム)』(1996年)の三部作を中心とする、数冊の著書として結実した。

同時代の美術に見切りをつけ、美術批評家から美術史家へと転身して久しいはずのフリードが、再びジェフ・ウォールという現代の作家を正面切って論じている。しかも、モダニズム絵画の最も頑なな支持者のひとりであったはずの彼が、“コンストラクティッド・フォトグラフィー”などの呼称で、80年代のポストモダン美術の文脈の中で捉えられることの多い写真作家を論じているのである。しかも、それは一時の気まぐれではないらしい。フリードによると、『Ontological Pictures. The Argument of Recent Photography (「存在論のピクチュア 近年の写真についての議論」)』という題がつけられる予定の本を現在執筆中で、このウォール論はその一部だという。(※2)いったいフリードはウォールの写真について何をどのように論じているのだろうか。

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フリードはまず、1992年の作品「Adrian Walker, artist, drawing from a specimen in a laboratory in the Dept. of Anatomy at the University of British Columbia, Vancouver」(参照図版)について記述する。ウォールの写真作品の特徴のひとつは、大きく引き伸ばしたポジ(この場合、横幅約1.6メートル)をライトボックスにはめ込んで展示する点にあるが、この作品もそうした形式で展示される。解剖された上腕部をスケッチする男は、タイトルが示唆するように、実在する画家のアドリアン・ウォーカーである。つまり、ウォールは現実に起きているであろう光景、あるいはウォール自身が目にした光景を、再びセットアップして、念入りに画面を構成した上で、撮影しているのである。このような方法をウォール自身は「near documentary」と呼んでおり、近作に至るまでの制作の方法論の根幹となっている。フリードが注目するのも、この「near documentary」の手法である。ここでフリードは『Absorption and Theatricality』において彼が論じたシャルダンの絵画との対比を読者に促す。18世紀フランスの画家であるシャルダンの描く人物画の登場人物は、何らかの日常的行為に没入(absorption)していることが多く、それが観者に媚を売るような悪しき演劇性(theatricality)とは反対の効果を生んでいる。「Adrian Walker」の主題にも一定の「没入」を見出すフリードは、しかし、そのあからさまな人工性、つまり、それがセットアップして撮影されたことが明白な画面に、「演劇性」の介在を指摘する。確かにフリードの言うとおり、「Adrian Walker」には自然さとわざとらしさが奇妙に混在している。(※3)

次にフリードは、2001年のウォールの対談を引用しながら、日常性の中に見出される美という、彼いわくボードレール以来の芸術の大きなテーマを追求するために、「near documentary」の方法が採用されていることを述べ、そして、作家自身によって「美学的な問題、つまり、美、喜び、質についての考えの優位」が表明されていることに注意を促す。つづいて、視覚的にも知的にも、もっとも成功している作品の一つとして1999年の巨大な(187×351cm)「Morning Cleaning. Mies van der Rohe Foundation, Barcelona」(参照図版)の詳細な分析に移るのである。このあたりはまさに、フォルマリスト、フリードの面目躍如たるところで、ポロックあるいはマネの作品分析を行った時のような細やかさで、「Morning Cleaning」の描写を記述していく。ウォール自身の言葉を適宜引用しつつ、モダニズム美術を特徴づける「反省性(reflexivity)」(作品自体が内包する過去の美術との関係性)や、写真の本質である「液体(liquid)」(イメージの偶然性、不可知性)といった特質について述べた後、最後にフリードは、(最近のウォールの大半の作品で使用されている)デジタル合成によって、光の効果を計算しながら適切な位置に置かれた掃除夫が、見事な「没入」、言い換えれば「反演劇性」の印象を生み出していると述べ、「Adrian Walker」からの進歩を見てとる。

フリードが、ウォールの写真におけるシャルダン的な効果を重視するのは、彼の考えによれば、写真によって日常の美を表現するために、それが不可欠な要素だからである。それを例証するために、フリードの著作においては馴染みの名前である、ウィトゲンシュタインが引用される。ウィトゲンシュタインは日記(1930年8月22日)の中に友人との次のような会話を記した。(※4)友人は書きためた原稿を読み直して、その内容に改めて満足し、それをそのまま出版したいと考えるが、その話を聞いてウィトゲンシュタインは、芝居の中で俳優が演じる日常的な仕草のことを連想する。それが素晴らしく見えるのは、あくまで超越的な立場から、俳優の行動を観察するからである。友人の原稿の場合もそれと同じで、芸術家によってある正しい視点を与えられないことには、退屈な「自然の断片(a piece of nature)」にしかならないだろう。(ウィトゲンシュタインは、撮影者だけにしか面白みのない風景写真を見せられた時のことを思い出すとも記している。)そして、フリードは日記中のウィトゲンシュタインのこの考え方こそ、「near documentary」におけるウォールの方法論を正当化するものに他ならないと主張する。

フリード自身が言及しているように、ここでは67年の「芸術と客体性 Art and Objecthood」における彼の芸術信条が未だに存続しているのは明らかである。「芸術と客体性」においてフリードは、ミニマリズムの彫刻は、観者の身体を巻き込む「演劇性」によって特徴づけられるような単なる物体であって、観者の身体性とは切り離されたところで瞬間的にすべてを開示する(フリードはそれを「現前性 presentness」と呼ぶ)真のモダニズム美術と一緒にしてはならないと説いた。(※5)それだけでは「自然の断片」であり、単なる物にすぎない写真に、デジタル処理まで加えながら、「没入」による「反演劇的」な印象を巧みに生み出し、(写真という媒体と切り離せない関係にある)日常性を美的に表現することに固執するウォールに対して、フリードは強い親近感を感じるのである。論文の終わりのほうで彼は案の定というか、次のようにさえ言い切ってしまう。「Morning Cleaningのようなイメージは、私が1966年と1967年に「形式としての形態 Shape as Form」や「芸術と客体性」などの論文でその野望について論じた、モダニズムの絵画や彫刻の反演劇的な衝動を、時代に逆行する、不規則な動向として、再解釈あるいは復活させているのだ。」(※6)

このような結論は、自分の美術批評と美術史研究の間に自ら断絶を認め、「芸術と客体性」における非難の対象である「演劇性」と、シャルダンの時代における「演劇性」が同一視されることを拒んだ1998年の文章を自ら覆している。しかし、それについてはここで議論するのは止めておこう。というのも、フリードの論文はここでは終わらず、最後に何とも奇妙な比較を行っており、むしろそれに注目しておきたいと思うからである。フリードは言う。「個人的な観点から述べれば、2002年にフランクフルトで初めて「Morning Cleaning」を見て以来、モーリス・ルイスのUnfurledのシリーズ-例えば、Alpha Pi(参照図版)― の奔流(ruissellement)への連想を追い払うことができなかった。ここではその近接性について詳しく語ることはしまい。よく似たフォーマットとサイズ、基本的な要素を画面の左右にまとめるやり方、それに由来する全体的な構図の開かれ方、そして、ルイスの色彩の流れとMorning Cleaningの窓の水洗いの示唆的な類似だけ述べておけば充分である。」(※7)

ウォールのライトボックスの写真とルイスのカラー・フィールド・ペインティング、我々には大きさしか共通点がないように見える2点の作品の対比を促して、フリードは論を締めくくるのである。

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ウォールの写真の技巧を、作品に美的な質を与えるために必要な過程とみなすのはフリードの恣意的な解釈ではなく、作家自身の立場でもある。2003年の「Frames of Reference(準拠枠)」と題されたエッセイで、ウォールは、コンセプチュアル・アーティストたちによる脱領域的な写真の使用や、1960年代以降アート・フォトグラフィーのカノン(canon 規準 )となりつつあったドキュメンタリー写真に可能性を見出すことができず、自分の関心があくまで、「写真の美的な問題」にあると述べている。(※8)その上で、すべての視覚芸術がそうであるように、過去の絵画や映画など、様々な「準拠枠」が制作の上で必然的に生じてくるのであり、(しばしば誤解されるのとは反対に)「パスティーシュ(剽窃)」すること自体が目的ではないと言う。したがって、彼の作品の観者を威圧するような大きさも、アート・フォトグラフィーのカノンに新たな方向付けを与えるべく、古典絵画や、戦後アメリカ絵画など、さまざまな「準拠枠」の中から選びとられたものなのである。

私はウォールの近作を実際に鑑賞(経験)したことがないので、ウォールのこのような意図がどの程度成功しているかについて判断することができない。(2007年2月よりニューヨーク近代美術館で回顧展が開かれる予定である。)それは当然、フリードのウォール論が的を射ているかどうかについても判断できないことを意味する。ただ、フリードの論文には、写真、特に芸術としての写真を批評する際の、重要な問題点が隠れているように思う。私の考えでは、それはフリードが行ったルイスとの比較から図らずも露呈すると思う。

そもそもフリードにとって、ルイスの絵画とはどのようなものだったのか? ルイスの死後、1970年に出版された作品集に掲載された論文で、フリードはルイスの作品をジャクソン・ポロックの達成をさらに発展させるものとして捉えている。(※9)グリーンバーグの強い影響の下、モダニズムの絵画は純粋に視覚的なイリュージョンを追求するべきと信じるフリードは、その過程において、絵画は現実再現性や触覚性、あるいは素描の身振りを削ぎ落とされなければならないと考える。それらはいずれも絵画固有の価値と比較したとき、不純な要素とみなされるのである。時に具象的形態や、絵具の物質性の強調へと逆行しそうになる危険をはらむポロックに対して、ルイスの非個人的な(impersonal)ステイニング(下塗りしていないキャンヴァスにアクリル絵具を垂らしこむようにして描く技法)絵画においては、色彩が支持体と一体化し、観者の視覚に直接的に訴えることだけが目指されている、とフリードは言う。

ただし、作品の形式における純粋性の追求は、個々の作品の質とは別の問題であるという認識をフリードが持っていることには注意しておかねばならない。「広げられた、または鋲で留められたキャンヴァスはすでに絵(picture)として存在する ―必ずしも成功した絵ではないかもしれないが。」(※10)というグリーンバーグの言葉をフリードが折りにふれて非難するのも、その還元主義的な発想が、ミニマリズム(彼の言葉を用いれば「literalist art」)に通じていると考えるからである。フリードにとっては(もちろんグリーンバーグにとっても)、作品の理想的な形式とは、芸術鑑賞の本質である美的な価値判断を、観者に自ら進んで委ねるような形式でなければならない。フリードが抽象表現主義の触覚性、あるいはミニマリズムの即物性や演劇性を批判するのは、それらが、作品と対峙したときの観者の価値判断を、絵画や彫刻の質とは無関係な手練手管で、巧みにはぐらかしていると考えるからなのである。(※11)

ルイス論の中でフリードは、ルイスの作品の様式の変化を時間軸に沿って丁寧に論じている。およそ35年後にウォールの写真と比較されるunfurled(広げられたもの)のシリーズは、ルイスの短い画業のうち後期に属するものである。ステイニング技法を習得し、すでに才能を開花させていたルイスのunfurledでのさらなる展開について、フリードは次のように述べている。

「unfurledsの経験は目まいを起こさせるものになりうる。傾斜した細流(rivulets)―振動する、鋭い色彩がここでも決定的なわけであるが― は、それまでよりも徹底的に、絵画平面を開示する。あたかも我々は、最初の印づけを見ながら、初めて空虚を見せられるかのようである。手を加えられていないキャンヴァスの、目をくらませるような虚ろさ(blankness)は、目を追い払うと同時に、目を包み込む。それは、平面の表面の上に我々が記した最小限の印の背後に開示する無限の深淵、あるいは、もし芸術と人生の両方における無数の慣習(convention)が、我々の芸術の行く末を制限しないのならば開示するであろう無限の深淵のごとくである。」(※12)

つまり、unfurledの画面構造は、中央の空白部分を物質としての無地のキャンヴァスではなく、「空虚 void」そのもののイリュージョンとして体験させる(空虚は実在物ではないので、それを体験できるというのは、まさに絵画のイリュージョンとしての効果に他ならない)ように仕向けているというのだ。これは確かに、我々が実際にunfurledの前に立った時に受ける印象をうまく説明しているように感じる。

けれども、なぜフリードはルイスの作品の中から、よりによってunfurledのシリーズをウォールの作品と比較したのだろう。水洗いされるガラス窓、あるいは写真というメディアが持つ「液体性」との類比をするならば、むしろunfurledよりさかのぼるveilのシリーズのほうがしっくりくる。フリードもとりあげているように、ウォールは過去に「Photography and Liquid Intelligence」(1989)というエッセイで、現像やプリントにあたって液体が不可欠である写真は、完全にメカニカルな機構になりきれないという点で、ある種のアナクロニスティックな性質を持つ、と述べている。(※13)液体は、偶然性や不可知性を写真にもたらすのである。キャンヴァスの上にいくつかの色面が絵具の液体性を強く主張しながら縦横ににじみわたり、まるでイメージが形成されつつある途中であるかのような印象を与えるルイスのveilと、現像液に浸され、latent image(潜像)がまさに姿を現す直前の状態の感光板や印画紙の間にはどこか似たところがある。

それに対してunfurledでは、中央の白い部分がひときわ目を引く。上に引用したフリードの言葉を用いれば、そこには「空虚 void」がある充実をともなって、観者の前に現前するのである。(※14)この「深淵 abyss」は決してその奥へと観者を引きずり込む暗闇ではない。それどころか、彼自身はそのような言葉は決して使っていないとは言え、フリードはそれを宗教的とも言えるような光の顕現として捉えているふしがある。(※15)しかし、unfurledの「空虚」をフリードがあふれだす光と捉えていたとして、そのような絵画をウォールのMorning Cleaningと対比しているとするならば、これは皮肉と言わざるを得ない。というのも、Morning Cleaningの画面の背後には人工の、文字通りの(literal)光、蛍光灯が存在するからである。

さらに言えば、フリードはその光に気をとられて、本当のところ、Morning Cleaningの表面(描写)をまったく見ていなかった、または、まったく関心を払っていなかったのではないか、とさえ疑いたくなる。確かにフリードは上に述べたように、「没入」の効果を生み出す画面構成から、そこに写っているものの意味に至るまで、実に詳細に論じている。(フリードは2003年にも、ウォールのFieldworkという作品について短い文章を書いていて、その内容は2005年の「ジェフ・ウォール、ウィトゲンシュタイン、日常性」を予告するようなものになっているのだが、そこでもフリードは作品分析を実に丁寧に行っている。(※16))しかし、ここで注意すべきは、フリードが写真に写っているものの意味について語るとき、それは常に写真自体を指し示しているものとして説明されるということである。

例えばフリードは、Morning Cleaningは「(写真の暗い部分の:筆者註)不明瞭さが、写真装置や暗箱における場合と同じく、根本的な役割を果たしているかのようなイメージ」(※17)であると述べる。あるいは、ウォールの「Photography and Liquid Intelligence」を引いて、画面の様々な部分に現れる「液体」の重要性を指摘する。(※18) (ただし、Morning Cleaningは「liquid intelligence」の単なるアレゴリーとして見るべきではないと彼は留保を加えている。なぜなら、そこには、ある程度の偶然性や、もしそれが絵画であるならば、明暗のコントラストという点で「欠点」とみなされるような特質が観察されるからである。(※19)フリードによると、これらはいずれも写真的な特質である。)

このようにフリードは実に的確にMorning Cleaningの“意味”について説明しているように見える。けれども彼は、具体的なこと、個別的なことについてはほとんど語っていない。(本物であることのみ言及される、掃除夫はいったいどんな人物なのか? それに一番興味を引かれる人もいるだろう。)もっとも、このような語り方はフリードがシャルダンの絵画に援用してきた方法でもあった。(例えば、「トランプの城」の空白のトランプは、少年の没入状態の暗喩として見ることができる、など。)Morning Cleaningにおいても、すべての意味は究極的には「写真」のアレゴリーとして説明される。言い換えれば、「写真」と無関係のいかなる意味ももたないのである。

しかしここで我々は、誰もが知っている、写真と絵画の最も根本的な差異に戻らざるを得ない。シャルダンの少年は実在しなくてもよいが、Morning Cleaningの掃除夫は実在しなくてはならない。写真は常に「何かの写真」である。(あるいは写真には常に“外部”が存在する。)もちろんフリードはこのような見方を嫌うだろう。彼は写真の「インデックス index」としての特質(使い古された議論である)にふれることを、周到に避けているように見えるからである。(※20)その代わりにフリードは、ウォールの作品の「反省性 reflexivity」を強調し、Morning Cleaningの作品としての意識は、常にそれが「写真」そのものに、一般的な意味での写真という媒体に向かっていることを主張するのである。(フリードはMorning Cleaningの描写に関心を払っていないのではないか、と上で私が述べたのはそのためである。)しかし、ここにある種の抑圧が働いていることは改めて言うまでもないだろう。その抑圧の果てに、フリードはウォールの写真と、ルイスのステイニング絵画の間に幸福な連想を抱くことができるのである。

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けれども、「この写真の意味は、『これは写真である』ということである」(あるいは「この写真は「写真」のアレゴリーである。」)というレトリックによって、写真を絵画や他の媒体と同じような自己完結的な自立体として安定させようという(意識的か無意識的かはともかく)態度は、モダニズム絵画の守護神を自任するフリードに限られることではく、写真を美術(あるいは、それと同等以上の価値あるもの)として評価しようとする人々の間に広く浸透しているのではないだろうか。それは、「写真は写真だけの固有の(美的)価値がある」という今まで繰り返し語られてきた、しかし、どうしても曖昧にならざるを得ないテーゼよりも有効なのである。

ここから先、論を進めていく準備が今の私にはないが、一つの例だけ最後にあげておきたい。森山大道の作品に「光と影」という写真集がある。(※21)森山の写真集のなかで私がもっとも好きなものの一つだが、このシリーズは額装して壁面に展示したときに、特に美しい。敢えて比較するならば、浜口陽三や長谷川潔のメゾチントにも比すことができるようなモノクロームの美が、街角にありふれているような素材から生み出されている。一方で、この時期の森山は、「写真の原景」への回帰を盛んに主張している。(※22)何よりも「光と影」というシリーズ名が示唆的である。「光と影」、このシリーズ名は写真そのもの、別の言い方をすれば、写真以外の何物も意味していない。したがって、森山の“原点回帰”は、上に述べたような「この写真の意味は、『これは写真である』ということである」式のレトリックとも切り離すことはできないだろう。我々は、そのテーマが「光と影」にすぎない、つまり「写真」そのものであると知らされることによって初めて、安心して写真を美的に鑑賞することができる。森山によるシリーズ名や言葉は、ある面では、我々の写真の見方を誘導しているのである。

美術館やギャラリーで写真を鑑賞するという経験は、絵画や彫刻を鑑賞する以上に、特異な経験である。(我々が写真を目にしている瞬間の99パーセントは、日常的な時間である。それに対して我々は日常的に油絵や彫刻を目にしない。)フリードはこの特異な経験を何とか美的な経験に昇華させようとして、あくまで彼の立場から、写真論に取り組んでいると言えるかもしれない。我々に求められているのは、その経験をフリードとはまた違った仕方で、語ることではないだろうか。

 

1)Michael Fried, “Jeff Wall, Wittgenstein et le quotidian,”Les Cahiers, été 2005, Paris: Musée National d’Art Moderne, 4-27.
2)Fried, “Jeff Wall, Wittgenstein et le quotidian,”26, note 13.  この他にも最近フリードはトマス・デマンドとトマス・シュトルートの展評を執筆している。Cf. Michael Fried, “Without Trace,” Artforum, 2005 March, 199-203,262; Michael Fried, “Thomas Struth,” Artforum, 2005 Summer, 322.
3)ただ、「没入」と「演劇性」の区別は超時代的な基準ではなく、時代の変遷にしたがって変動する相対的な価値であることを、フリード自身が指摘していたことにも注意しておく必要があるだろう。Cf. Michael Fried, “An Introduction to My Art Criticism,” Art and Objecthood: Essays and Reviews, The University of Chicago Press, 1998, 52-53.
4)Quoted in Culture and Value. A Selection from the Posthumous Remains, ed. Georg Henrik von Wright, trans. Peter Winch, Blackwell Publishing, pp.6-7.
5)Michael Fried, “Art and Objecthood,” in Art and Objecthood: Essays and Reviews, 148-172.(邦訳は 川田都樹子、藤枝晃雄訳「芸術と客体性」『批評空間別冊 モダニズムのハード・コア』太田出版、1995年、66-101頁)
なお、私のフリードの理解は、次にあげる諸論文に負っているところが多い。林道郎「美術史を読む 第4回 マイケル・フリード」『美術手帖』1996年4月号、120-147頁、尾崎信一郎「現在性という恩寵」;尾崎信一郎「現在性という恩寵」、林道郎「演劇性(劇場性)をめぐって」『SAP Art Journal』No.7、セゾン・アート・プログラム、2001年;林道郎「写真のシアトリカリティ 1960-1970’s 〈演劇性〉について、再び ―写真を視野に入れながら」『photographers’ gallery press』no.5、フォトグラファーズ・ギャラリー、2006年
6)Fried, “Jeff Wall, Wittgenstein et le quotidian,”24.
7)Fried, “Jeff Wall, Wittgenstein et le quotidian,”24-25.
8)Jeff Wall, “Frames of Reference,” Artforum, 2003 Sep., 188-192.
なお、私にはコンセプチュアル・アートの作家による写真の使用にも、ある一定の美的な配慮があるように感じられるが、ウォールはそう考えていない。何をもって「美的」ととらえるかは、ここで結論を下すにはあまりにも大きなテーマである。また、このエッセイのなかで、ウォールは「芸術と客体性」の重要性についても言及している。ただし、彼はフリードの側に立ってミニマリズムを非難しているわけではない。作品のサイズと観者の身体性の関係を考える上で、ドナルド・ジャッドやカール・アンドレの作品は示唆的であったとも述べている。
9)Michael Fried, Morris Louis, New York: Abrams, 1970, 9-42.
10)Clement Greenberg, “After Abstract Expressionism,” in Clement Greenberg. The Collected Essays and Criticism, Volume 4 Modernism with a Vengeance 1957-1969, 131.
11)Michael Fried, “Art and Objecthood,”164-165.
12)Fried, Morris Louis, 33.
13) Jeff Wall, “Photography and Liquid Intelligence”,1989, reprinted in Thierry de Duve, et al. Jeff Wall, London: Phaidon, 1996, 90-93.
14)ここでの「空虚 void」と、「芸術と客体性」でのミニマズム非難としての「空虚 hollowness」は、辞書上は類義語ながら、実際には反対の意味合いで使用されていると思われる。林道郎「演劇性(劇場性)をめぐって」前掲、「key words」の項を参照のこと。
15)フリードのモダニズム絵画論が持つある種の宗教性については、註5にあげた尾崎氏の論文で論じられている。
16)Michael Fried, “Being There,” Artforum, 2004 Sep., 52-54.
17)Fried, “Jeff Wall, Wittgenstein et le quotidian,”15.
18)Fried, “Jeff Wall, Wittgenstein et le quotidian,”17.
19)Ibid.
20)写真の「index」性の議論については、註2のトマス・デマンド論を参照のこと。その中で、フリードはデマンドの作品を写真の「index」性を混乱させるものとして捉えている。
21)森山大道『光と影』冬樹社、1982年
22)森山大道「特集・光と影 ニエプスへの追走」『カメラ毎日』1981年11月号、島根県立美術館ほか『光の狩人―森山大道 1965-2003』展(2003年)図録(213頁)に抜粋。