Papery 2006 by 前田恭二

2006.01.11. ピクニック

瀬戸正人写真集『ピクニック』 (2005年12月、Place M発行、月曜社発売) を見る。大きな公園のあちこちに座っているカップルを撮影したシリーズ。写真集としては、木村伊兵衛賞受賞作をまとめた1996年の『部屋-Living Room Tokyo』以来だという。実に10年ぶりということか。部屋のシリーズは私的な居住空間を対象としていた。今回もまた公共空間ながら、やはり普通は目を向けにくい「2人だけの空間」を撮っている。そこに瀬戸的な視線を感じることができるし、その仕事が私的空間と公的空間のありように関心を寄せてきたという意味では、ドキュメンタリー的な性格を見ることもできるかもしれない。ところで、まとまった形で見ていると、これらの男女におそらく現代のアダムとイブという意味を潜ませているように思えてくる。背景には、大きな樹木を配していることが多い。公園なので当然と言えば当然だが、巻末に置かれる掌編小説風の文章には「彼と彼女がはじめて出会ったのは、噴水がよく見えるその<大きな樹>の下だった」とあり、この一節が帯に引用されている。つまりは<大きな樹>の下の男女像。それでアダムとイブなのかな、ということなのだが、今日の愛情、それから羞恥心のありようをこの写真集に見て取る際の参照項ともなるように思う。

2006.01.12. 日本的1

年も明けたばかりで、写真をめぐる話題もまだ手元に乏しいので、絵画展の感想を記してみよう。まずは「須田国太郎展」 (1月13日-3月5日、東京・竹橋/東京国立近代美術館) 。この日は内覧会。いわゆる玄人好みなのかもしれない須田の絵画を順々に眺めながら、戦前の作品を面白く思う。1891年生まれの須田は1919-23年、スペインを中心に滞欧生活を送っている。以降描いた作品で32年、初個展を開催し、やがて洋画壇に独特の存在感を示すに至る。これまで文献などを調べてみたこともないのだが、滞欧以降の初期作品はセザンヌ以降のモダニスティックな形態把握と、土色に近い赤に代表される大地や風土性の感覚を兼ね備えている。このことは須田が滞在した時期のヨーロッパ絵画の傾向との平行関係を感じさせる。第一次世界大戦後の画壇において、例えばピカソのごとく「秩序への回帰」が広がったのは周知の通り。彼が拠点としたのはスペインだが、しばしばパリを通過している。語学にも堪能であったはずだから、そうした動向を多少知っていたのではないだろうか。いわばモダニズムを経由した形で風土性を表現したとおぼしき画風は帰国後、この会場で見る限り、1938年の「水田」あたりまで引き継がれる。この作品は牛といい、人物といい、いかにもゴヤを意識したふしがあるが、背景にはピカソ風の人物が不意に描かれている。これも素朴な連想ながら、37年のパリ万博における「ゲルニカ」公開の翌年であり、図版か何かで見ていたのではあるまいか。しかしながらカタログを見る限り、こうしたモダニズムとの接点については、ほとんど言及が見られない。須田が美術史を講じた人であり、バロック等の古典的な絵画を主に対象としていたからなのだろうか。それもまた、当時のヨーロッパにおける美術史の動向とおそらく無縁ではなさそうな気もするのだが。こちらの見誤りということも十分あるという前提で言えば、ともあれ須田の作品は同時代のヨーロッパ美術の動向とは無関係であったか、あるいは無関係だということで今日でも理解されているようである。なお、須田には日本の寺社を描いた作品がある。それらは彼のなかでも、不思議に強くグラフィックな傾向を示している。その一つ「窪八幡」 (1955年) がしばしば代表作に挙げられる通り、総じて有名なのは、戦前の豊かな達成ではなく、戦後を中心とするグラフィックな作品群である。この意味でも須田は日本的な洋画家であったらしい――と言えば、皮肉になるだろうか。あと、取って付けたようだが、同館3階常設展の写真コーナーでは田村彰英の1970年代の連作「午後」が特集展示されている。ちなみに正方形のフォーマット。

2006.01.13. 日本的2

須田国太郎展は京都国立近代美術館からの巡回展だが、やはり同じ美術館から巡回してきた「堂本尚郎展」 (12月17日-2月12日、東京・砧公園/世田谷美術館) に足を運ぶ。1950年代のパリでアンフォルメルの寵児となったのをはじめ、輝かしい成功を収めてきた人。79年にはパリ市立近代美術館で回顧展も開かれているが、日本人芸術家としては最初にして、現在まで唯一なのだそうだ。その主要なシリーズを眺めつつ、アンフォルメルとはあらかじめ存在する内的なイメージの表現などでは決してなく、表現されるものが表現行為そのものによってしか生まれ得ないという転換をはらんでいたとする宮川淳「アンフォルメル以後」の論旨に従えば、その課題を手放さなかった人なのかな、と思ったりもする。ところで堂本といえば、伯父は京都日本画の革新者であった堂本印象であり、自身も初期に日本画を描いている。おのずと日本的な要素があるのかどうか、と頭の片隅で考えてみることにもなるのだが、時として面白い現れ方をしているのかもしれない。アンフォルメル時代から「連続の溶解」シリーズに移行する時期、言い換えれば荒々しい弧状の筆触を整理し、横方向の帯状の筆触を縦に積層させる――つまりグリッド的な構造に接近していく過程で、堂本は金箔を使用している。言うまでもなく金箔は方形であり、さらに言えば、ふつう地に用いられる。それを図として画面に使用した経験は、当人が意識した、しないにかかわらず、上記の変化に何らかの作用を及ぼしていないだろうかと思わせる。もとよりこの展覧会のシークエンスで見る限り、という話だが。なお、カタログの主要なテキストは尾崎信一郎氏の執筆。これも取って付けたようだが、愛知県美術館で開催中の「吉原治良展」 (12月16日-2月26日、6月以降、東京国立近代美術館と宮城県美術館にも巡回) のカタログによれば、戦前期の一見デ・キリコ風の作品に見受けられる即物的な描写について「むしろ露出過多の写真の白々としたイメージに近いように思われる」と指摘したのも氏であるらしい。

2006.01.18. 皇居

笹岡啓子展「観光 Kanko」 (1月17-26日 photographers’ galley) 。観光シリーズの新作は皇居周辺を撮影している。なかなか作品にするのは難しい場所だと思うが、写真の質はこれまでと変わらない。そこをいいなと思う。特に人物が何かの影の中に入ったりして、どうにも不活性な感じがするあたり。あるいは見学の子供が長い列をなして皇居に向かうところを横から撮影したカット。これらはしかし、観光でなく、広島を撮影した「PARK CITY」を思い出させる。今回の皇居の写真はつまり、観光のシリーズと広島のシリーズを結ぶものとなり得るのかもしれない。ほかに今回は長野で撮影したという風景も。草むらの向こうの空の色合いがバリエーションをなす。ただ、それと皇居との関係は会場ではよく分からなかった。逆に関係が出ると、個人的には皇居周辺の写真を作品にするのは難しいと思うゆえんに収まりかねない気も少し。

2006.01.19. 南北

「発掘された不滅の記録 1954-1975 VIET NAM それは、戦場だった」 展 (1月14日-2月19日、東京・恵比寿/東京都写真美術館) 。ベトナム戦争の記録写真展。よく知られる南側、米軍側から撮影された写真に加えて、今回は北ベトナムの写真家が撮影した写真が多数含まれている。南と北の写真をともに見ることができる点で、興味深い展覧会。端的に言うのは多少はばかられるが、沢田教一、酒井淑夫らの写真はドキュメンタリー写真そのものというか、今日ドキュメンタリー写真と考えられている範疇の原形をまさに彼らの仕事が形作っている。その観点からすると、北ベトナム側の写真はプロパガンダに近いという印象を受ける。会場を歩きながら、妙な感じのする写真があることにも気づく。1966年、米軍機が撃墜されたという写真。煙をはいて墜落する機体と脱出したパラシュートが写っている。ただし、全体としては相当ぼやけているにもかかわらず、パラシュートの紐を見て取ることができる。少し不思議に思ってカタログを見ると、展示カットとは別の写真が掲載されている。比べてみると、おそらく同一カットのトリミング違いかと思われる。だが一方にはパラシュートがあり、他方にはない。また、このカットは当時、日本の新聞にも載ったというので、確かめてみると、同年9月7日付けの朝日新聞と読売新聞に、それぞれ別の通信社の配信で見出すことができた。ほぼ同じ位置に機体が写っているのだが、しかし、朝日新聞のカットでは煙は直線的で、読売新聞ではモクモクとしている。これ以上言う必要もあるまいが、つまりは相当異なるパラダイムに属する写真が南北から発信されていたようである。そうしたことも含めて、確かに「それは、戦場だった」ということなのだろう。

2006.01.26. 台湾

「金星の彼方へ――台湾若手女性写真家3人展」 (1月16日-2月9日、東京・銀座/ガーディアン・ガーデン) 。アジアの若手写真家を紹介する展覧会の第5弾。当地のキュレーター呉嘉寶の協力を得ているよし。郭慧禅は作者自身なのか、頭髪をそった裸体の女性が花いっぱいの室内にいて、蝶が乱舞している、といった合成写真。林珮熏もいわゆる幻想的なイメージを合成で作り出す。林芳宇は<アートセラピストの指導のもとに、私自身の鬱病の心理療法として撮った>というモノクロ作品で、さすがに迫力を感じさせるが、3人とも端的に言って、心象風景の表現という印象がある。いまストレートに心象風景ですね、と言ってほめ言葉になるかどうか、日本では多少微妙なことのような気もするが、それは日本においては、ということなのかもしれない。グローバルに流通し得る写真というメディアにも、やはり今日も地域的なパラダイムの違いは存在しているようだ。

2006.01.26. 皮膜

「永遠なる薔薇 石内都の写真と共に」 (12月7日-1月29日、東京・銀座/ハウス オブ シセイドウ) 。石内都が薔薇の写真と映像作品を出品している。企業イメージを体現したこのスペースによく合っている。意外な気もするが、「Mother’s」にもリップスティックのカットがあったなと思い出したりもする。気付かれることの一つは、花弁の表面の、はじかれた水滴に関心を寄せる一方、花弁が水分を失い、枯れていく様子も撮影していること。内外に別々に存在する水とはアイロニカルだが、結局のところ、花弁が水をはらんだ皮膜というべきものであることを意識させる。壁であれ皮膚であれ、石内はそれらの皮膜を写真それ自体と重ね合わせてきた。今回もまた花弁という皮膜を独特の粒子感を備えた写真にとらえているわけだが、水をはらみ、生命感を宿した花弁は石内的な皮膜の質を体現している。あるいは格好の被写体にしてしまったというべきか。ちなみにベネチア・ビエンナーレ日本館のカタログに、石内がある時、席を立った人の、椅子の凹みを撮影したという興味深いエピソードが載っていた。実のところ、その凹みがまだ宿していた体温のようなものも関心のうちに入っていたのではあるまいか。

2006.01.31. ベトナム2

相模原総合写真祭「フォトシティさがみはら2005」プロの部入賞作品展 (1月31日-2月13日、東京・西新宿/新宿ニコンサロン) へ。お目当ては「さがみはら写真アジア賞」のドアン・コン・ティンの写真。北ベトナム人民軍新聞の従軍写真家だったという人で、東京都写真美術館でのベトナム戦争写真展にも何点か出品されていた。より多くの写真を見ることができたが、基調は写真美術館で見た北側の写真と変わらない。兵士はたいてい笑顔であり、逆に苦悶の表情を浮かべているのは<深い悲しみと大きな後悔に苛むサイゴン軍>。同賞のガイドブックに載る自作解説を引いてみよう。<私は、祖国を守る軍人として対アメリカとの戦争に参加した。新聞記事を書き写真を撮りたいという自分の欲望にも励まされ、私は戦場写真を撮る軍の記者となった。私が特に興味をひかれたものは、軍人として戦う兵士、この戦争が一般人でも兵士となり得る人民戦争であること、戦争の罪を知らしめること、そして、戦場で戦う兵士に対する人民感情を表現することであった。また、人民や兵士の精神的な強さや彼らの勝利に対する楽観的な自信を描写することにも興味をひかれた>。自己規定としては対米戦争を戦う軍人であり、ジャーナリズムへの関心もあって軍の写真記者になった、ということか。兵士の笑顔はつまり、精神的な強さや勝利への楽観的な自信の表現なのだろう。ただし、彼が活躍したのはテト攻勢以降、北側が優位に立ちつつあった時期であるようで、あるいは実際にも笑顔が交わされていたのかもしれない。となるとプロパガンダなのかドキュメンタリーなのかという、イメージ自体からはしばしば解きがたい話も改めて浮かび上がるわけだが、一つ言えそうなのは、両者は必ずしも背反するカテゴリーではない、ということだろうか。プロパガンダの写真はおそらくドキュメンタリーだと信じられることによって、より有効に機能する。ともあれ時を経て、「発掘された不滅の記録」と銘打つ写真美術館の展覧会で紹介され、記録性に力点を置くこの写真賞を受賞しているのを前にするのは、なかなか感慨深いことではある。

2006.01.31. アレ・ブレ1

王子直紀展「XXXX Street Snapshots」 (1月27日-2月4日、pg) 。川崎周辺のスナップショットを連日サイトに掲げる「風来節」は3年半ほどでいちおう一区切りとなったようだが、今年は毎月、連続展を開催するという。その初回の展示。一見したところ、たいてい人物が写っていた「風来節」とは違い、人物抜きの写真が多くなっている。にもかかわらず都市風景ではなく、あくまでもスナップショットだと思わせる。撮り口としてアレ・ブレ・ボケが回避されていないということは一つあるのかもしれない。ただし、どう言ったらいいのか、これまで見てきたスナップショットのそれとは少し違っているような気もする。アレ・ブレは知られる通り、撮っている写真家の身体や行為を見る側に意識させ、私的な視線とか感情を想像させる契機になることもあるわけだが、ここでは単にアレ・ブレであって、それ以上でもそれ以下でもない。ただ歩き、撮る――つまりはスナップショットをリテラルに遂行した結果として、そうなっただけ、という感じがあって、そこを面白いと思った。


2006.02.13. アレ・ブレ2

須田一政写真展「Kineticscape」 (2月8-25日、東京・丸の内/ギャラリーパストレイズM/A丸の内) 。主に風景とヌードだが、不意にまたアレ・ブレ写真を目にすることになった。けれどもスナップショットではなく、8ミリカメラで撮影したフィルムからコマを選び出し、それを撮影した作品なのだという。アレ・ブレはいわばオートマチックに生じているわけで、身体性を帯びたスナップのそれとはやはり違っている感じがある。今回8ミリを関与させたのは、シャッターを切る瞬間に入り込む撮影者という主体の、意識的・無意識的な選択をいったん相対化しようという意図によるものらしい。大半の作品はインクジェット出力のようで、それも外部的な工程に委ねようということかもしれない。むろん他方では、コマを選ぶという段階が設定されているわけで、そこでは主体の判断が求められる。結果として須田的イメージをどこか連想させるのは、それゆえのことか。いずれにせよ、選ぶや選ばざるや、という写真の大事なところに触れる作品ということになるのだろう。ちなみに画像自体は8ミリという、かなりローテクな機材によるマシナリーな切断のせいか、ずいぶん昔に撮影されたかのような雰囲気がある。ところが出力はインクジェットなので、いつの作品だか見当が付かないような不思議さを醸し出していた。

2006.02.15. パートブック

いわゆるパートブック、分冊百科形式のシリーズ「名作写真館」を小学館が刊行し始めた。全30巻。初回は白川義員「世界百名山」、三好和義「南国の楽園」、竹内敏信「桜と日本列島」、星野道夫「アラスカ」の4冊同時刊行。それぞれの仕事と生涯を30ページ強で紹介している。それに日本写真史と赤瀬川原平のコラムが載る。掲載写真のうち、オリジナルプリントが購入できるカットも指定されており、巻末ページに価格も記されている。今後のラインアップについては、おおむね初回4冊の線に沿う顔触れで、例えばネイチャーに一つの力点があり、他方で土門拳、木村伊兵衛らの巻も予定されている。複数巻出る写真家もいて、土門が3冊、白川、三好、篠山紀信が各2冊。逆にVIVO、プロヴォークの写真家は一人も採用されていない。どのような写真がこの出版形式にふさわしいポピュラリティーを持つと考えられているのかをうかがわせる感もある。ちなみに篠山の2巻は「樋口可南子」「digi-KISHIN」であるよし。

2006.02.16. ニュースより

この日の朝日新聞夕刊によると、ニューヨーク・サザビーズで14日、スタイケンの作品「ザ・ポンド-ムーンライト」が写真としては過去最高額の約3億4000万円で落札されたとのこと。ところで先月はニコンのフィルムカメラ事業の大幅縮小、コニカミノルタのカメラ事業撤退が相次いで報じられた。いわゆるアナログ/デジタル問題の行く手を象徴するようなニュースが続くわけだが、それを決定づけているのは写真の原理をめぐる話ではなく、一つにテクノロジー、そして多分にエコノミーであることもよく理解される。

2006.02.16. 誰が「日本画」を必要としているのか

東京都現代美術館のMOTアニュアル「No Border『日本画』から/『日本画』へ」展 (1月21日-3月26日) について。この日、<「No Border」と銘打つ展覧会は、逆に日本画をめぐる境界の存在を強く意識させる>云々という記事を書いてみた。ところが後日、ほめていましたねと言われて、ぎょっとした。いや、ほめてなかったと思うのですが・・・。というわけで、再度、その理由について。展覧会は1980年代末に始まる「日本画」ジャンルの再検討という文脈の中で構成されている。作家は7人ピックアップされている。その一人である天明屋尚はしかし、明治期に成立したジャンルとしての「日本画」とはほとんど関係がない。日本画教育を受けた人ではなく、画材はアクリルである。モチーフについても、仏画や浮世絵といった近世以前の日本絵画を意識しつつ、ヤンキー文化など当世風俗と掛け合わせている。「ネオ日本画」と自称しているというが、近代日本の絵画ジャンルとしての日本画という意味では「『日本画』から」とも「『日本画』へ」とも言いにくい。続けよう。同じく出品作家の一人である町田久美の作品は確かに白描風だが、意識的か無意識的かは別にして、むしろ戦後の少女文化である「ぬりえ」をベースに、それをブローアップしつつ、白描の筆法を掛け合わせているように見える。カタログは「やまと絵の白描に近似する」と述べる。むしろ仏教美術に近い印象を受けるが、ともあれ白描は東アジアの絵画技法の一つであり、日本の専売特許ではない。近代の日本画においても、さほど一般的な描法だとは考えにくい。もう一人、松井冬子はカタログに寄せたコメントで、山雪、蕭白、応挙の幽霊画 (どれが応挙の真筆なのか、筆者などには分からないが) を挙げている。他方で、19世紀末西欧の耽美趣味への共感を見いだすことも難しくない。彼らの引用源はつまり、日本画以外への多様な広がりを見せている。日本の絵画ということに着目するにせよ、東山魁夷、加山又造、平山郁夫を引用した会田誠とは異なり、むしろ近世以前の引用の方が際立つ。にもかかわらず、カタログは<「日本画」とされてきたものを客観的に受け止めたうえで、自らの選択肢のひとつとして選び、作品の要素としていることになる>と位置づける。すべては結局、日本画というジャンルの出来事として回収される。なぜ、そうなるのか。展覧会を企画する側が結局のところ、日本画という枠組みに依拠しているからではあるまいか。ここで見方を転じよう。この展覧会が開催されたのはほかでもない、「現代美術」の美術館である。そこでは引用という手法は一般化して久しい。しかし、その方向に議論は開かれない。無理もない。引用の一般化という文脈を持ち出せば、おそらく作家の選択は意味を失う。「No Border」という言葉はカップヌードルの宣伝でおなじみだが、世界中でカップヌードルを食べている中で、日本産の原料を含むカップヌードルを食べている人を選び出しているとも言えようか。ともあれ日本画というジャンルに依拠し、むしろジャンルを囲い込む形でしか成り立たない展覧会が「No Border」と掲げている。その身ぶりにはほとんど共感できなかった、ということなのだが。


2006.03.01. アンティミスト

『長谷川潔 作品のひみつ』 (1月15日、玲風書房刊) を眺める。横浜美術館で開催されている「銅版画家 長谷川潔展 作品のひみつ」 (1月15日-3月26日) のカタログを兼ねて、発行された。展覧会でも興味をそそられたが、長らくパリで活動し、アンティミストと評される版画家の意外な側面に触れることができる。1930年代前半、長谷川は卓上の花とレースを組み合わせた一連の版画を残している。レースの部分は描画による花やグラスとはイメージの階層が異なる。何やら写真のようにも見える。今回理由が明らかにされているのだが、長谷川は実物のレースを使って、版を制作している。いわば版を介したコラージュとも見なせよう。時代背景を考えれば、パリの前衛たちの仕事をけっこう意識していたのではあるまいか。そのつもりで見直すと、戦後、深い黒を生かした代表的な静物画もオブジェの美学の残響を宿している。あれこれの小物の中に時折、小鳥が描かれている。すべてではないにせよ、その幾つかは実は生ける小鳥ではなく、小鳥の人形である。展覧会では、その人形を見ることもできた。そうした影響が見えにくいところに、アンティミストたるゆえんがあるとも言えるわけだが。

2006.03.06. ロダンとカリエールと写真

国立西洋美術館「ロダンとカリエール」展 (3月7日-6月4日) の内覧会。ロダンの同時代人であり、親交も深かった画家ウジェーヌ・カリエールを再評価し、それによってロダンの制作のある独特な側面にも光を当てている。こういう展覧会ならば、開く意味がある。日本における西洋美術研究者の意地のようなものも感じられる。実際、引き続きオルセー美術館に巡回するとのこと。ただし眺めながら、知りたく思ったことがある。写真との関係である。2人の画家・彫刻家は共通して、曖昧模糊とした絵画空間ないしは不定形な彫刻の素材から形象が浮かび上がる、言うなればイメージの出現への強い関心を示している。芸術家の特権的な職能である「創造」という概念を直接、視覚的に表現したものか。さて、そのイメージの出現という点で、カリエールの絵画は何やら潜像が浮かび上がるような印象を与える。色彩を抑制し、いわゆるセピア色に近い色彩を基調としているせいもあるのだろうか。ふと心霊趣味と写真の関係も思い出される。彼は果たして、写真をいじったことがあるのかどうか。会場にはスティーグリッツによるロダンのポートレートが出品されていたが、カタログにもこの方面の記述は見受けられない。まあ、本題ではないということか。

2006.03.13. 新進作家展

東京都写真美術館「私のいる場所-新進作家展 Vol. 4 ゼロ年代の写真論」展 (3月11日-4月23日) 。このところ3階、2階、地下1階で、それぞれ比較的短いサイクルで展覧会を開催しているが、今回は全フロアを一挙に使っている。従来の新進作家展とは異なり、国内だけでなく、7か国15の作家・グループを取り上げている。力の入った企画だということになる。さて、こうしたグループ展を見る際、テーマ以前に気になるのは、参加した作家ができればよく見える、少なくとも損はさせないような展示であるかどうか。その意味で言うと、塩田千春や染谷亜里可の展示はどうなのだろう。染谷の起用については、ある意味で大胆だとも言える。たしかベルベットを脱色した作品は写真イメージの転写でなく、脱色剤を浸した筆で「描いている」のではなかったか。だとすれば、一種のフォト・ペインティングだということになる。写真・映像の美術館として、極めて多様なフォト・ベースの表現をどこまでカバーするのか、その判断は一回の展示にとどまらない。この作家を起用した以上、写真をもとにした絵画は今後除外できない。極めて広範な作家が手がけている中で、染谷以外の作家をどう扱っていくのだろうか。このほかジャクリーヌ・ハシンクの「女王蜂」シリーズはすでに5年前、東京都内のギャラリーで展示されていたのではなかったか。みうらじゅんの起用についても種々考えさせられたが、愛読者にとっては見慣れた写真が大半だった。

2006.03.14. 花

「VOCA 2006」展 (3月15日-30日、東京・上野/上野の森美術館) の内覧会。カタログの中で選考委員の一人、建畠晢は次のように指摘している。<受賞者たちはいずれも何らかのかたちで植物をテーマに取り上げている>。確かに今回の顕著な特徴の一つだと言える。VOCA賞を射止めた小西真菜のフォト・ペインティングはともかく、VOCA奨励賞の佐伯洋江、佳作賞の兼未希恵、佳作賞・府中美術館賞の高木紗恵子、大原美術館賞の蜷川実花は明らかに花をモチーフとしている。建畠の選考所感は続けて<一概にいうことはできないが、デジタル文化のさなかに育ってきた世代にとって、植物とはアンビバレントな自然としてのある種のオブセッションを感じさせるモチーフであるのかもしれない>と述べている。先に挙げたうち、南島の墓地にささげられた造花を撮影した蜷川実花、また、もう一人のVOCA奨励賞であるロバート・プラットの作品は、なるほどそういう見方もできるかな、と思わせる。けれど同時に、ほかの作家については、むしろ何を描かないことによって、花というモチーフが選択されているのか、という風に考えてみることもできるかもしれない。


2006.04.19. らしさ

第31回木村伊兵衛写真賞の受賞式。今回は鷹野隆大『IN MY ROOM』 (2005年3月、蒼穹舎刊) が受賞した。選考経過を聞くと、幾つかの最終候補作の一つに、安村崇『日常らしさ』 (2005年9月、オシリス刊) も含まれていたらしい。残念ながら受賞に至らなかったわけだが、何となく興味をそそられた。鷹野の作品はジェンダーにかかわるものとして理解されている。その面白さは例えば人体像の切断など、もう少し違った角度から考えてみることもできそうだが、確かにそういう面はありそうだ。その文脈に限って言えば、つまり男らしさ、女らしさといった「らしさ」を揺さぶる仕事ということになる。「らしさ」とは、イメージとして、そう見えるということ。前々回の木村賞をさらった澤田知子の仕事もまた「らしさ」にかかわっている。結婚、職場、学校と社会集団をたどる形で、それぞれティピカルな「らしさ」を順々に演じている。この日のスピーチのなかで、いわゆるガーリー・フォト以降、新たなトレンドが見えないといった話が出ていたように思う。もしそういう何かのくくり方が強いて必要だということなら、「らしさ」をめぐるイメージ批判という文脈は、あれこれの違いはあれ、3者に共通するといった言い方もできるのかもしれない。

2006.04.25. 人道的

水戸芸術館現代美術ギャラリー「人間の未来へ ダークサイドからの逃走」展 (2月25日-5月7日) 。企画者としては力の入った展覧会であるようで、会期終盤ながら出かけてみた。現代美術の作家と報道写真家をともに起用している。前者はゴームリー、アバカノビッチ、ビル・ヴィオラ、オノ・ヨーコ、シリン・ネシャットなど。後者だとナクトウェイ、広河隆一、長倉洋海といった名前を挙げることができる。会場にはさらに、谷川俊太郎やトルストイといった人たちの詩や名句が掲げられている。え、トルストイ?と思う人もいよう。端的に言えば、本展が差し出すのは「ヒューマニズム」である。その着想の源を、カタログ所収のテキストは明らかにする。それによると、企画者の逢坂恵理子は少女時代、日本に巡回した写真展「人間家族 (ザ・ファミリー・オブ・マン) 」を見ており、しかも、出品作の一つであったユージン・スミス「楽園への歩み」を覚えているという。その作品や「田舎医者」シリーズなどが本展覧会に出品されているのはそれゆえのことなのだろう。ちなみにカタログ中、「人間家族」展の日本巡回は1955年と記載されているが、たまたま手元にあった『高島屋百五十年史』によると、1956年3月20日-4月15日に東京店で、同年5月8日-20日に大阪店で開かれている。<東京店では連日1万人を超える入場者でにぎわい、天皇陛下も3月23日に、ご覧になった>とのこと。それはさておき、だとすると、それからぴったり50年後、「人間家族」的なヒューマニズムをいま再び世に問う展覧会が開かれたということになる。そんなテキストを読みながら、しばらく前に読んだある書評をふと思い出す。「西洋美術研究」10号 (2004年、三元社) に載っていたMary Anne Staniszewsky『The Power of Display』の、鷲田めるろ氏による書評である。それによると「ニューヨーク近代美術館の展示の歴史」という副題の本書は、その第4章で「勝利への道」といった戦時中のプロパガンダ展と、戦後の「人間家族」展の連続性を指摘している。「勝利への道」展と「人間家族」展を企画したのはともにスタイケンだが、両者の類似を丁寧にたどり、その変化を<アメリカという一国の平和を守るという論理から、世界の平和を守るという論理への変化として捉えている>という。それに続けて、鷲田氏は冷戦終結後、「人道的介入」の問題がクローズアップされるなかで、<他国の迫害される個人を守ることが別の暴力を正当化するとき、迫害される人間の一人一人の顔を見せることは戦争プロパガンダでもあり得る><今日の複雑な状況の中で、美術館はどのように行動するべきか>と問いかけている。


2006.05.10. 模型的想像力1

水戸芸術館ではもう一つ、気鋭の作家を紹介する小展示「クリテリオム」の第67回展として、本城直季展 (4月1日-5月7日) が開かれていた。実景を模型みたいに見えるよう、大半がぼやける独特の撮り方をした写真を雑誌で発表していた人である。水戸から帰って、ほどなく写真集『スモールプラネット』 (4月18日、リトルモア刊) も見ることができた。そのページをめくりながら、やはり思い出したのは安村崇『日常らしさ』だった。いや、何だかこだわっているみたいで、自分でも妙な感じなのだが、本城の仕事がいわば「模型的風景」だとすれば、安村は「模型的静物」を撮っていたと言うこともできるかもしれない。安村は「せめて惑星らしく」という風景のシリーズも撮っている。風景であれ静物であれ、それらを模型のごとく撮っているという点で、本城と安村の仕事は相通じるところがある。

2006.05.10. 模型的想像力2

さて、いま「模型的想像力」というタイトルを掲げてみたのだけれど、少し前、そんな言葉がふと頭をよぎった。用あって、椹木野衣氏の著書を最初から読み直した時のこと、彼が擁護してきた現代美術の作家たちの多くが「模型」によって想像力を働かせているように思われた。当然と言えば、当然のことだろう。椹木氏は『シミュレーショニズム』によって出発した人である。そこでシミュレーションについて、ボードリヤールを引きながら、<対象に近似な思考モデルの実際的活用>と説明している。いわく<それが実際に機能する限りにおいて、そこでは実在と表象との間のゲームの規則を放棄することによってしか獲得できないある自由が獲得されている>。それと「模型」とは極めて近い。近いのだけれど、ただし、違いもある。作家たちが利用したのは自身、幼少時に親しんだことだろう実際の模型でもある。村上隆や中ハシ克シゲとプラモデル、西山美なコとリカちゃんハウスといったことを思い浮かべているのだが、それら実際の模型はシミュレーションの理論では説明しきれないディテールを備えている。例えば戦後の少年・少女文化といった文脈。やがて村上隆は「リトルボーイ」展をキュレイションするに至る。それもある意味で、必然的な展開だったと言えるかもしれない。

2006.05.10. 模型的想像力3

閑話休題。そうした現代美術の事情を振り返ってみた上で、さきほど挙げたような最近の写真を見直すと、どうなるだろう。いま模型的想像力と言っているけれど、ひとつ違っているのは、実際の模型というよりも、模型みたいに見えるという「模型の視覚」を利用していることか。写真という視覚メディアだからなのかもしれない。ただし、結果として当然、イメージという問題が再び前面に出てくることになる。端的に言えば、それゆえ特に本城の仕事は<実在と表象との間のゲーム>のように見える。ついでに言い添えると、もし椹木的シミュレーショニズムの、写真における正嫡をひとり挙げるとすれば、片山博文になるだろう。その「vectorscape」は写真それ自体のシミュレーション――<対象に近似なモデル>という意味での――と見なすのがふさわしい気がする。

2006.05.10. 靴

東京都写真美術館「GUY BOURDIN」展 (4月29日―5月27日) 。1991年に物故したファッション写真家ギィ・ブルダンの回顧展。個人的にも身体のオブジェ化、あるいは断片化といった20世紀美術の作法を好んでいたようだが、それがシャルル・ジョルダンといった靴の広告写真に転用される。見せること、隠すことの操作による視線の欲望、靴や足に対するフェティシズムもまた同様に、うまく消費の欲望に重ねている。趣味と仕事が合致した、はた目にはとても幸福な事例のように思われた。

2006.05.17. オビ1

本城直季写真集『スモールプラネット』で、ちょっと面白いなと思ったことがもうひとつあった。帯を引こう。<都市の風景をミニチュアのように撮る写真家、待望のファースト写真集>。この写真集の世評は極めて高く、「BT」誌6月号に載る刊行記念展の展覧会評で、評者・高嶋雄一郎氏は<本作品に対する「ミニチュア的」という言葉は、そのすごみを柔らかく包み、口当たりよく巷に頒布する役目を果たす>と記しているのだが、面白かったのはそこではない。つまり<ファースト写真集>。初めて聞く言い方ではない気がする。思い出したのは『阿部和重対談集』 (2005年8月、講談社) の帯に記されていた、<ファースト対談集>。誰しも連想するのは<ファーストアルバム>といった、洋楽産業での言い方ではあるまいか。支配的な文化産業が言葉の上でも、他のジャンルに影響を及ぼしていく一例か。

2006.05.18. 位置

峯村敏明著『彫刻の呼び声』 (2005年12月、水声社刊) を読む。年若い読者としては過去の文章を読む機会が少なかった人の彫刻論集。恥ずかしながら、この批評家が本書所収「存在にさす移ろいの影」 (1980年) という興味深い写真論を書いていることもまったく知らなかった。一編はまずリチャード・ロングを取り上げ、多用される円形について、<何よりもまず、ある光景ないしある場所との出会いを枠取るという働きをなしている。あるいは、ある光景や場所をそのように枠取ることによって、それを出会いたらしめている>と述べ、その働きとカメラの機能との一致を指摘する。その芸術の根幹はつまり<歩行のもたらすさまざまな出会いの特異化、ということにあると言ってよい><石の彫刻は写真であり、風物の写真は彫刻なのである>。さらに若き野村仁による崩壊するダンボール彫刻とその写真、ブランクーシの「空間の鳥」と写真について論じた上で、<彫刻とは存在にかかわる芸術であり、写真もまたそうでありうるが、絵画は、宿命的にそうではない>と言い切る。かくて絵画と写真というセットとは別に、彫刻と写真という項を設定し、1960年代後半以降の美術に<何らかの意味で存在の定位を求める手段>として写真が用いられていることに注意を促している。この時点では、ロザリンド・クラウスのインデックス論 (初出=1977年) に近い位置にあったようなのだ。そうした作家を<位置派>と名づけ、その写真は絵画的な配慮を排除しており、<透明性に徹することによって、対象の不透明さにじかに達し、実在を打つものとなるのではなかろうか>とも述べている。

2006.05.23. オビ2

荒木経惟著『幸福写真』 (2006年5月、ポプラ社刊) について。やはり帯を引いてみる。<永遠になれ、そう思ってシャッター切ってるんだ。Byアラーキー 夏の日の少年、クリスマスの恋人たち、満開の桜の下の家族。いとおしくて、かけがえのない瞬間をおさめた、私たちの幸福アルバム。照れずにマジメに「幸福」を――写真の天才アラーキー、初の試み!>。おお、アラーキーの「いい人」化が進んでいる! このところ取り組む各地の人々の顔シリーズを思ってみても、その流れはまぎれもない。ただし、少し思うところもある。先ごろ写真家の生家に近く、その回想にもよく出てくる東京・三ノ輪の浄閑寺を初めて訪ねた。用あって――というのは、本欄の2001年、0629の項で触れた話を改めて書く機会があったというだけのことだが、浄閑寺は何より遊女の墓所として知られている。さらに仇討ちを果たせず、返り討ちにあった兄弟の墓、心中した男女の比翼塚があり、それらに魅せられた永井荷風の筆塚もあり、という風に、性と死と情念が渦巻く場所なのだった。こういう場所で遊んで育った写真家にとって、「真実」とはここにあったもの、そうではないものが「嘘っぱち」ということなのかもしれない。その意味では浄閑寺にも、他方で下町の人たちの幸福そうな笑顔があったはずで、それもまたアラーキーにとっては「真実」の側に入っているのではなかろうか。逆に言えば、「いい人」化しつつも、やっぱり性も死も撮り続けるということになりそうだが。

2006.05.26. 降霊術

写真の作家が現代美術の企画系ギャラリーの扱い作家になるのは、どういうことなのだろう。以前から時折展示を見ていたもので、田口和奈展 (5月26日-6月17日、東京/六本木・TARO NASU GALLERY) はまず、その意味で目をひいた。本欄でも記したことがあるけれど、田口は複数のイメージをもとに架空の人物をリアルに描き、それを撮影した写真を作品として提示する作家。今回はグレーの額、展示の点数などもぴたりと決まった印象があった。展示が決まるというのは、素朴にいいことかもしれない。同時に商品価値が高まる可能性もあるが、それも決して悪いことではない。ただし、見せ方がある形を得たことで、その仕事の変わらなさが逆に際立つ感もある。簡潔に記してみよう。以前に「不思議な回転扉のように-写真と絵画の交流-」というグループ展にも参加していたが、確かに田口の作品は写真と絵画を往還する性格を備えている。そこでは写真の、ある働きが特に利用されている。描かれた架空の人物は、写真イメージに置き換えられることによって実在感、あるいは半実在感を帯びる。現実をイメージにするのではなく、「ない」ものが「ある」と思わせるための、写真の使用法。あるいは存在しないものの、存在証明としての写真。こうした写真の働きが最もよく生かされているのは心霊写真にほかならない。田口の作品がどこか心霊写真のように見えるのは、当然のことなのである。キャッチフレーズ風に言えば、イメージの降霊術。その背景にあるのは、あるいは写真と絵画をめぐる議論ではもとよりなく、心霊写真が世の興味を引く理由と思われる、ある種の怪奇趣味なのかもしれない。そういえば今回、隠微なエロティシズムは誰の目にも明らかだったはずだが、それも怪奇趣味を取り巻く一要素か。むろん怪奇趣味もそれはそれで、逆に絵画と写真をめぐる議論に特異な角度から接近するような展開になると、また考えがいも出てくるのかなという気もする。


2006.06.02. サンバシスト

東京・恵比寿の東京都写真美術館へ。たいてい2つか3つ、関係のない展覧会が同時開催されているので、ふっと思いがけないリンクが張られることがある。例えば前回記したギィ・ブルダン展と、現在も開催中のデスティニー・ディーコン展 (4月29日-6月11日) 。前者ではつややか、かつ、つやめくファッション写真、オーストラリアの先住民作家の個展である後者では、ポラロイド写真のプリンター出力が基本をなす。その画質の違いは、ここではハイ・ファッションとその拒否のしるしとして機能している。興味深いことに、前者ではスナップ的なポラロイド写真も展示に加えられており、それもまたファッション写真家の、いわば別の顔を印象づけることになっている――といった具合。さて、この日立ち寄ってみたのは「写真の町東川賞海外作家コレクション」展 (6月1-18日) を見たかったから。いきなりルイス・ボルツだし、初めて見るグンドゥラ・シュルツェというドイツの写真家も魅力的だったし、北海道の写真の町、東川町の20年あまりの活動に、素朴に感心させられる。海外作家賞の受賞作家だけでなく、この町の変遷を撮り続けた飛弾野数右衛門という人の写真が展示に加えられていて、こちらもいい感じだった。そこで地下展示室に行ってみると、マイケル・ケンナ展「IN JAPAN」 (5月20日-6月25日) というわけである。そこには北海道の写真がかなり含まれている。むろんケンナにとって、北海道とは飛弾野数右衛門が暮らした場ではなく、例えば雪景色にフリードリヒ風の枯木がたたずむ、といった絵を得るための一種のスタジオだとも言える。むろんピクチャリズムの大家だから当然だけれど、その徹底の度合いにはさすがと感心させられる。ひっそりと仏像が立ち並ぶ絵などもお気に入りの一つであり、それが少しは古そうな石仏であれ、近ごろの丸っこくかわいらしい量産品であれ、どちらでもケンナにとっては構わない。いま絵を得るための、と言ったけれど、少し言い添えると、その絵の向こうに精神性――と呼んでよいのかよく分からないけれど――を感じさせることもまた目指されているようである。その意味では、これも以前に記したような気がするけれど、岸辺から海なり湖なりに桟橋が伸びていくカットは、やはり優れてケンナ的なイメージかと思われる。この展覧会に幾つあるのか、数えてみなかったけれど、ピクチャリズムならぬサンバシズムという言葉がふと頭をよぎった。

2006.06.06. 主義1

東京都現代美術館「カルティエ現代美術財団コレクション展」 (4月22日-7月2日) について、何となく考えてみる。何となく、こう、ふっと少しいやな感じがしたのはどうしてかな、と。コレクション展と言っても、ただ買い集めただけではない。表記の財団は新作を依頼し、展覧会を開いてきた。ただしパリの美術館は割に小さい。おおむね東京都現代美術館の展示室1室程度と言ってよいのかもしれず、そこで展示されてきた作品を今回は順々に眺めることができる。本展覧会はつまり、財団の活動のダイジェスト版だとも言える。出品作の水準について言えば、これはどうかなーというものも当然あったけれど、メーンビジュアルに採用されたロン・ミュエクの女性像やナン・ゴールディンのスライドショーなど、ごくティピカルな作品も少なくない。コミッション・ワークではありがちなことだ。それ自体、いいとか悪いとか言っても仕方ない。そういう風だから、見たことがない作品は素直に眺め、たまたま現地で見た作品とも再会したりして、それなりに楽しんだわけなのだが、にもかかわらず、何となく……だったのだ。おそらく理由は財団が掲げる多文化主義にかかわる。日本の作家たちを例に説明してみよう。というわけで以下、次項。

2006.06.06. 主義2

日本の側から眺めると、カルティエ現代美術財団はかなり熱心に日本人作家を取り上げてきたようにも思える。今回の出品作家で言えば、森山大道、川内倫子、それから村上隆のGEISAIにインスパイアされて財団が企画した新人作家展で脚光を浴びた松井えり菜。ほかにその村上や杉本博司、横尾忠則といった名前を挙げることができる。けれど、体系的に日本のアートを取り上げようとしたふしはない。森山大道も杉本博司も川内倫子もそれぞれいいよね、というノリ。それはしかし、アリだと思う。財団の言い方によれば、他者との出会いを求める姿勢ということになりそうだが、無責任なほどの好奇心がコレクションをむしろ風通しのよいものにしていると思う。ところで、今回の展覧会を見ると、そうした日本人作家の紹介は、より大きな多文化主義のなかに位置づけられていることが分かる。作家の出身地はほとんど各大陸に及ぶ。日本人作家もアフリカの作家もみんないいよね、というわけである。それが順々にパリの美術館に現れ、次の好奇心に場所を譲っていくということなら、素朴に楽しいと感じられるかもしれない。ただ今回のように一望できる形だと、多文化主義という主義のレベルが浮上してくる。もっと言えば、Aの立場からBを否定するのではなく、また、Bを否定せずともAに特化するというのでもなく、AもBも両方いいよねと肯定する際の、超越的な審級が現れてくる。それ抜きで、AもBもありという状態を出現させることも、不可能ではない。つまり祝祭的な形で、どさくさまぎれに、という場合。しかし、1室ごとに1作品程度を整然と並べた展示は多文化主義のプログラムが着々と進行している印象をむしろ強めていた。そこに秘められている政治性に対して、ふっといやな気分がしたのかもしれない。

2006.06.10. マンダラ1

「愛知曼陀羅-東松照明の原風景」展 (6月2日-7月23日、名古屋市東区/愛知県美術館) を見に行く。一連のマンダラ展としては長崎、沖縄、京都に続いて、4か所目になる。恥ずかしながら過去3回を見ておらず、それらとの比較ができない。聞くところによれば、長崎などでは時間的な前後関係を無視した展示だったという。愛知ではシリーズごとの緩やかなまとまりが維持されている。若干は入り交じっているのだが、1950年代の初期作品を中心とする展示は、愛知大学在学中の「皮肉な誕生」に始まり、1960年代に入ってからの「石油コンビナート」などで幕を閉じる。おおまかであれ、時系列は維持されている。だから東松照明の離陸の瞬間、つまり戦後写真の一転機をそこに探ってみるという見方もできなくもない。しかし、会場を何巡かした後、とにかく疲れた、という印象があった。情けない限りだが、本当に疲弊した。出品作は200点だから、必ずしも多いとは言えない。理由を考えてみると、一つにイメージの全面性ということがあったかもしれない。というわけで以下、次項。

2006.06.10. マンダラ2

全面性と言うと、写真って面でしょ、と言われそうだ。確かにまあ、そうなのだが、ここで全面性という意味は2つある。1つは今回の出品作がすべて、ネガをデジタルで取り込み、劣化を修整した上でのプリンター出力だということ。個々にオリジナルプリントと比較できないので、単なる印象にとどまるけれど、かなりディテールの均質性が強まっているのではないだろうか。見る側としても意識的、無意識的に目でスキャンしてしまうわけで、相当な量の画像情報に接したのかもしれない。そのことと、もう1つの全面性は、奇妙な角度で関係している。つまり1950年代当時、すでに東松照明のイメージはある均質さを志向している。最も初期に位置する傷痍軍人のカットは、通りを俯瞰し、そこに散在し、まちまちの行動を取る人々をとらえている。主題的な中心であるべき傷痍軍人が点景にとどまるところに、実は時代性を表現する意図があったという解釈もあり得るはずだが、こうした意味論的な中心を持たず、また、構図がぴたりと決まるという意味でのグラフィズムにも収まらない、イメージそのものが一挙に目に入ってくるカットは、この後もしばしば登場する。それが独特の物質感の表現と重なり合う時、「家」シリーズのような名作が生まれることになる。そこでのモノに迫る視線はむろん圧倒的だが、しかし、いま言ったようなイメージの全面性の登場はむしろ時期的に先行し、なおかつ今回は物質感の表出に優れる銀塩プリントでなく、デジタル出力で出品作をそろえている。してみると、イメージの全面性の上に、物質感の表出が成り立っていると想像してみることもできなくはない。その全面性は実のところ、一連の回顧展にマンダラという言葉を与えてきたことともかかわっているのかもしれない。しかしまあ、そんなどうでもいいような解釈以上に実感されたのは結局、見る側が疲弊するほどイメージをこともなげに差し出す、写真家の“目の体力”だったわけだが。

2006.06.10. 位置余話

名古屋から引き上げる途中、静岡・草薙駅で途中下車。静岡県立美術館ロダン館で開かれている特別展示「彫刻を『撮る』?-ブランクーシの写真・自作への視線-」 (6月6日-7月9日) へ。見たかった理由は、前回0518「位置」の項目で紹介した峯村敏明著『彫刻の呼び声』で、ブランクーシの写真に興味を持ったから。けっこう楽しみにしていたけれど、かなり小規模なもので、さほど大きくない展示室の壁面2つに計14点が並ぶだけ。ヴィンテージはうち6点。ブランクーシの彫刻は、写真の中で、時に光の繭のように見える。この美術館の常設展示にも1点が並ぶ「ポガニー嬢」シリーズを撮ったカットでは、磨き上げられた彫刻の表面に三脚が映り込んでいる。量塊感がイメージに転化する瞬間に、ブランクーシは関心を持っていたのではないかという気にさせられる。誰にでもお勧めできる展示かどうかは微妙だが、美術館としてのメーン企画は「コレクション20年の熱情? 心にひびく風景画」展。会期は同じ。ピラネージのとても正気とは思えない「イクノグラフィア (古代都市カンプス・マルティウスのプラン) 」、幕末とはいえ、江戸時代の絵とは思えない大久保一丘筆「冨嶽明暁図」など珍品も幾つかあり。

2006.06.14. ベアト

横浜開港資料館編『F. ベアト写真集2 外国人カメラマンが撮った幕末日本』 (2006年4月、明石書店刊) 。『写真集2』となっているのは、『写真集1』も近く出るからで、そちらは1987年に出たベアト写真集の改題版。それよりも先に出版された本書は、旧版以降のコレクションを紹介しているよし。とりわけ斎藤多喜夫氏の解説編「横浜写真小史再論」を興味深く読む。古写真に疎いもので、ベアト周辺でいろいろ新たな研究成果が続いていたことを知る。例えば、ベアトの生年は従来1825年と考えられていたが、2001年、外国人研究者3氏の共同研究によって、実は1834年、ギリシャ西方の旧ベネチア植民地で、当時はイギリス領だったコルフ島の出身と判明したのだとか。ベアトの訪日は1863年と見られる。旧説だと40歳近いころだが、30歳前後で日本にやってきたことになる。案外大きな違いかもしれない。なお、ほかの新知見の出典を見ると、海外の研究成果が極めて多いということも顕著に分かる。

2006.06.21. 人工光

坂口トモユキ展「Home」 (6月19-29日、東京・銀座/ガーディアン・ガーデン) 。夜間の長時間露光で、住宅地を撮影している。建て売りとおぼしき住宅はどことなく模型のように見える。植物もプラスチックの観葉植物、空の色合いはテーマパークか何かの書き割りめいている。おお、何だか面白いぞ。どうしてそう見えるのか、しばし考えてみる。夜間の写真として、石川賢治の人気シリーズ「月光浴」を思い出す。光量の弱い月の光を長時間露光で集積し、撮影していたわけだが、この場合、ごく微量の人工照明を増幅していることになるのではあるまいか。だとしたら日中ではあり得ない、ほとんどすべて人工光による住宅地の写真になっているわけで、すべてが作り物めいて見えるのも、さほど不思議なことではないのかもしれない。

2006.06.23. 選択

東京都写真美術館「キュレーターズ・チョイス」展 (6月24日-7月17日) 。この日は内覧会。言ってしまえばコレクション展だが、仕掛けは確かに面白い。学芸員諸氏がそれぞれコレクションから作品を選択している。福原義春館長はモホイ=ナジのフォトグラム。4月に復帰した笠原美智子さんは、かつて泣いたというラリー・クラークの「タルサ」。石田哲朗さんは現代美術のスターのポートレートを選び、古写真に強い印象のあった三井圭司さんは乗り物写真で突っ走ってみせる、という具合。すでに本ウェブ上で、三島靖さんがほめている。なので、面白かったという以外のことを書かねばなるまい。この展覧会のタイトルは、同語反復的だと言ってよい。展覧会はどうあれ、大抵の場合「キュレーターズ・チョイス」展なのだから。ただし選択には、目的なり根拠が伴う。例えば写真美術館は昨年、4部構成でコレクションによる写真の歴史展を開催したが、その選択の目的は、写真史の提示ということになるだろう。今回の展覧会はタイトルの同語反復性が物語る通り、選択の目的なり根拠の初期設定を欠く。単なる「チョイス」の展覧会。かなりアナーキーな試みでもある。そのアナーキーさの前で、学芸員の方がどのように展示を成立させようとしたのかというところが最大の見どころかもしれない。繰り返すまでもなく、展示は選択にほかならず、選択には目的なり根拠が要る。私性を根拠にするか、学芸員としての専門分野を根拠にするか。設定の仕方はさまざまだ。なおかつ展示キャプションと出品リストのなかで、そこをあえて説明させられている。いいことだ。見る側にとっては。かくて逆に、確かに選択しているにもかかわらず、全体を象徴するかのごとく提示する展覧会、選択の根拠は恣意的だとしか思えないのだが、そこはもとより説明していない展覧会その他、いろいろだよなー、などと通常の展覧会における選択のありようを思い出させもする展覧会になっている。

2006.06.30. 変転

畠山直哉展「Zeche Westfalen I/ II Ahlen」 (6月24日―7月22日、東京・清澄/タカイシイギャラリー) 。炭鉱町を撮影したシリーズ。ロッカーの形状、ガラス窓の張り紙、何か無数の鳥かごのようなもの、はたまた丹下健三の東京カテドラルさながらの空間など、人間が作り出した形態の不思議さに目を見開かされる。むろん個人の創作というより、集団的に作り出された形態であって、そうした形態への着目はおのずとベッヒャー夫妻の仕事を思い出させる。実際、Nazraeli Pressから刊行された写真集には、あえてベッヒャー風に撮ったとおぼしきカットが含まれている。しかし、写真家の意図は人間が作り出した形態の、通時的な相に向けられている。展示壁の一方には、古い建築物の爆破をとらえた連続写真が並べられている。爆発の瞬間、鳥が飛び立ち、鯨の潮吹きのごとく垂直に煙を噴き上げ、倒壊していくさまは否応なく目をひきつける。このシークエンスの最後はフリードリヒばりの雪景にたどり着くのだが、ベッヒャーであれフリードリヒであれ、ここでは形態の生成流転の一場面に位置づけられている。


2006.07.01. 写真的条件

「アルベルト・ジャコメッティ 矢内原伊作とともに」展 (6月3日-7月30日、神奈川県立近代美術館 葉山) 。ジャコメッティにはチューリヒ、パリに財団があり、このうちアネット夫人の没後10年を機に近年設立されたパリの財団の協力を得た展覧会。アトリエに残されていたものは基本的にパリの財団が継承したようで、日本初公開の作品も多いとのこと。けれど単純に、久し振りにまとまった形でジャコメッティの作品を見る機会として楽しんだ。それこそ数え切れない批評や論考が書かれているのだろうし、何をいまさらという気もするが、心覚えに感想を記しておこう。改めて印象づけられたのは、ジャコメッティの彫刻が正面視を強く要求すること。斜めから見ることの禁止と言ってもよい。1920年代の板状の初期作品から一貫して変わらない。例の横方向から圧縮されたような人体像も、真正面から見た時にのみ、恐るべき存在感を開示する。にもかかわらず、ジャコメッティの彫刻はしばしば斜めから撮影されている。ここには多少、考えるに値することが含まれている。斜めから撮影したくなる理由はおそらく、真正面からだと、彫刻の奥行きをとらえにくいからである。真正面という言葉には「面」という字が含まれる。対象を面に還元すると、面である以上、原理的に奥行きは表現できない。ふだんは経験的、想像的に回復しているに過ぎない。ジャコメッティが「見える通りに」と繰り返し、悪戦苦闘している時に起こっていたことはつまり、そういうことではなかったか。ジャコメッティは対象と正対する。対象は面としてとらえられる。すると遠近、奥行き、距離などは一切表現できない。にもかかわらず、それらは存在する。凝視すればするほど、面になる。逆に面になればなるほど、ジャコメッティは凝視し、ディテールを描き込むことになるだろう。その不可能事への苦闘の結果、凸面鏡で見たかのごとく、関心の中心は遠く、なおかつ高密度になった作品が残されたように思われるのだ。ここでは面とは、あるいは顔と言い換えられるかもしれないし、以前に読んだことのある宮川淳の批評に従えば、イマージュということになる。『鏡・空間・イマージュ』 (手元にあるのは1987年、水声社版) の巻頭に置かれる「鏡について」は事実上、ジャコメッティ論だと言ってよい。宮川は、ジャコメッティはイマージュの遠ざかりをとらえようとしたのだ、と述べている。展覧会場で流れていたビデオで、彫刻家は外界の新しいヴィジョンを得てからは、「写真的なadequate vision of the worldを信じなくなった」と語っていたが、実のところ、<ジャコメッティというほかならぬ現代芸術が生み出した現象の真の意味は (中略) 単に存在論としてばかりでなく、イマージュ論として捉え直さなければならないのだ>という指摘に同意したい気がする。

2006.07.02. 原寸

美術作品の写真複製は最近、新しい段階に入ってきた印象がある。一つには東京文化財研究所が進めている高精彩デジタル撮影。高松塚古墳の壁画や尾形光琳「紅白梅図屏風」での成果が公刊されたが、肉眼視をはるかに凌駕し、つまり複製による体験がオリジナルの体験を上回る事態が起きている。もう一つはもっとポピュラーな話で、小学館の『原寸美術館』シリーズ。こちらは美術図版が基本的にオリジナルより小さいことに着目し、原寸で図版を掲げている。やはり撮影・印刷技術の向上が背景にあるのだろう。よく売れているようで、既刊の「西洋編」に続き、『画家の息吹を伝える原寸美術館 日本編』 (2006年7月、小学館刊) が刊行された。著者は日本画家の千住博氏。「日本編」と言いながら、なぜか梁楷「雪景山水図」が含まれているのはともかく、東博「普賢菩薩像」にはじまる一巻は、その作品「ウォーターフォール」でしめくくられている。企画・構成の結城昌子氏のあとがきに理由が触れられるが、さすが巨匠とでもいうべきか。

2006.07.08. 版下

「名取洋之助と日本工房」展 (7月8日-9月3日、川崎市市民ミュージアム) 。充実の展覧会。カタログを兼ねて、すでに岩波書店から同名の書籍が刊行されているけれど、展示によって得るものは、やはり大きい。例えば「NIPPON」の裏表紙をまとめて見たのは、個人的には初めて。鐘紡の広告がしばしば出ている。写真・デザインと対外宣伝、戦争といったタームの中に、「産業」もまた加えられるべきなのだろう。山名文夫の軌跡も、その意味では自然な流れの中にあったかと思われる。また、その産業が絹糸という審美的な性格を持つ輸出品であったことも興味をひく。それ以上にありがたかったのは、写真と誌面を見比べることができたこと。日本工房当時の写真家にすれば、版下がこうして展示される時代がやって来ようとは……といったところか。けれど彼らが、誌面映えを強烈に意識しながら撮っていたことがよく分かる。たまたま机上にあるカレンダーの9月の写真は土門拳の「近藤勇と鞍馬天狗」。構図上の線が画面のコーナーを指す。こうしたスタイルは、個人的なものという以上に、グラフィックとの相互交渉のうちにはぐくまれた面があったのだろう。まあ、知っている人は知っている事柄なのだろうけれど。

2006.07.09. 断片的に1

ロバート・メイプルソープに「ポリエステル・スーツの男」 (1980年) という写真がある。性器を露出した腰の部分だけで、顔などは写っていない。ウォーホルが手がけたローリング・ストーンズの71年のアルバム「スティッキー・フィンガーズ」のジャケットを想起させもする。ひょっとしたら、倒錯したオマージュだったのかもしれない。ともあれ、モデルはミルトン・ムーアという黒人男性である。なぜ腰だけのカットになったのか、パトリシア・モリズロー著『メイプルソープ』 (2001年、新潮社刊) は、<家族の恥となるのを恐れていたムーアは、顔とペニスを絶対に一枚の写真に写さないとメイプルソープが約束するまで、撮影させようとしなかった>と記している。ムーアにとって、性器の写った写真はポルノグラフィーにほかならず、そのモデルを務めることは恥ずべきことだった。その現実的な制約はしかし、メイプルソープをさほど困らせなかったように思われる。むしろ逆に、性器の写った写真を、ポルノグラフィーでなく芸術写真、ないしは、ポルノグラフィーにして芸術写真というべきものに仕立てようとする試みを推し進めるきっかけになったのではあるまいか。

2006.07.09. 断片的に2

メイプルソープはもともと断片的な身体像をけっこう残している。メトロポリタン美術館のキュレイター、ジョン・マッケンドリーを75年、その死の直前に撮影した異様なポートレート、あるいは同年撮影の、画面の一方から顔と裸の胸をのぞかせ、他方まで腕を伸ばした有名なセルフポートレートなど。なかでも78年には、彫刻のトルソを撮影しているのが目をひく。ムーアの申し出によって、上半身と下半身を別々に撮影することになった際、メイプルソープは当然ながらトルソに代表される、断片化された身体の美学を承知していたのである。78年のトルソの場合、悪名高きメイプルソープが正統的な彫刻美をなぞってみせることで、むしろトルソを性的な含意のまとわりつく被写体におとしめている感もあるわけだが、それと同様に、「ポリエステル・スーツの男」もまた正統的な美学を踏まえることで、それを侵犯する作品となっている。ここでの断片化された身体像とは、公準化された造形的な美学を装う口実のようなものと言うべきかもしれない。撮り方としては造形性を強調し、見られる通りのファインなプリントに仕上げてもいる。それでいて古代以来の「性器抜きのヌード」という彫刻美学のクリシェをそっくり転倒させた、「性器を露出させた着衣 (しかも安手の) 像」を作品化している。もとより性器を撮影すること自体はポルノグラフィーではあり得ることで、その文脈では侵犯的ではない。つまり、十分に美学的な枠組みに則っていればこそ、侵犯的なのである。

2006.07.09. 断片的に3

ところで、さきに挙げた75年のセルフポートレートを高く評価したのは、ほかでもないロラン・バルト『明るい部屋』 (邦訳・みすず書房) である。彼が言うところの「快楽主義的な企図に還元された主観性」によって考察された前半部は、写真家としてのメイプルソープへの偏愛を隠していない。とりわけ前半部最後の一章「見えない場」。そこでバルトは、ポルノ写真の欲望と、エロティシズムの違いを持ち出す。いわく<ポルノ写真は一般にセックスを写し、それを動かない対象 (フェティッシュ) に変え、壁龕から外に出てこない神像のようにそれを崇拝する><エロティックな写真は、セックスを中心的な対象としない (これがまさにエロティックな写真の条件である) 。セックスを示さずにいることも大いにありうる>。違いはつまり、性器を写すか写さないか、という風に単純化した上で、さらにフレームの問題に言及する。<エロティックな写真は観客をフレームの外へ連れ出す>。ポルノ写真は、性器という中心に見る側の欲望を固定する。だからすぐに飽きる。だが性器が不在であるエロティックな映像は、それが示しているものの彼方に欲望を向かわせる。ここでメイプルソープのセルフポートレートの登場となる。<腕を伸ばして明るく微笑んでいるこの青年の場合、その美しさは決して型にはまったものではなく、彼の身体はフレームの一方に極端に片寄って、半ば外にとび出してしまっているが、しかし軽快なエロティシズムを体現している>。

2006.07.09. 断片的に4

こんな風に要約すると、性器がフレームアウトしているがゆえに、メイプルソープのセルフポートレートを気に入ったかのように読まれるかもしれない。だとすれば「ポリエステル・スーツの男」は論外の、単なるポルノ写真ということになる。ただし、バルトが嫌悪したかどうか、そこは多少微妙なことのようにも思える。さしあたりセルフポートレートの絵柄を見ながら、再読してみよう。バルトの思索は性器の有無という以上に、むしろ固定されたものと、それを逃れ出るものという大きな枠組みの中で進められている。前者に穴をあけるのが、例のプンクトゥムというわけだ。フレームアウトもまた前者の否定である。固定されたもの、意味的に完結したものについて、本章では<蝶のように麻酔をかけられ、そこに固定されている>という標本の比喩が与えられている。ところがメイプルソープの写真を見直すと、まさに身体を無防備に投げ出すようなポーズを取る。あたかも標本として差し出すかのごとく。さきの2項の関係は、おそらく排他的ではない。いかにも固定的で、意味的に完結しているようで、そうではない。すべてが与えられているかのようで、与えられない。この状態こそがバルトを誘惑し、エロティシズムを駆動していたのではないか。断片とはそれ自体、一つの全体ともなり得るわけで、全体が想定されてこそ初めて断片たり得る。全体への欲望をかきたてる標本のポーズを取りながら、下半身をフレームアウトさせたセルフポートレートは、断片なるものの不全性を、分かりやすく絵解きしている。さて、問題の「ポリエステル・スーツの男」なのだが、ずばり性器が写っている。ただし、ポルノグラフィーのように屹立しているわけではない。その際の大きさをあからさまに想像させつつも、なお不全の状態にある写真を、ひょっとしたらバルトは気に入ったかもしれない、という気もするのだ。

2006.07.09. 断片的に5

これまで断片的に振り返ってみた流れの中に、鷹野隆大写真集『 IN MY ROOM 』 (2005年3月、蒼穹舎) を置いてみると、どう見えるだろうか。その仕事の参照項となるのは、やはりメイプルソープの作品のように思える。かつてのシリーズ「横たわるラフ」は、美術史的な裸婦の形式を借りながら、正統的な美学には収まりにくい男性の裸体を撮影していた。その侵犯性はメイプルソープ的と言えなくもない。ただし鷹野はおそらく、美学上の侵犯を目的としていない。先に言ってしまえば、被写体となる人物の全体像をとらえたいという欲求が強いように見える。『 IN MY ROOM 』の代表的なイメージは、性器を除いた全身ポートレートである。むろん性器の分離は目をひく。ムーアの危惧したこととは多少異なり、性器の有無のみが問題となる法的事情への配慮も幾らかあったのかもしれない。それゆえ展示可能なシリーズともなっているのだが、しかし、写真集ではそうではない。この方面から深く考えるべきことではないのかもしれない。むしろ注目したいのは、メイプルソープが試み、バルトが魅入られたような断片の問題が、それとは異なる形で作品化されていることである。いま全身像と言ったばかりだが、実際は知られるとおり、平常の状態にある上半身と屹立した状態にある下半身という、2つの断片的な身体像によって成り立っている。屹立した状態はむろん侵犯的には違いない。しかし、平常の状態と相補的な関係に置かれている。上半身と下半身。平常の状態と屹立した状態。むしろ被写体となる人物の全体像をとらえようとする欲求が、相補う形で2つの断片化された身体を組み合わせる手法を取らせているのではないかと思うのである。あるいは愛情と呼ぶべきかもしれない。モデルは総じて、無防備な様子でカメラの前にたたずんでいる。十分に与えられているにもかかわらず、彼の思うような人物の全体像は結局のところ、2枚の写真によって構成されるしかない。性器の除去についても、それらを加えると、ダブルイメージであることが明らかになることが考慮されているのかもしれない。かくて鷹野の仕事は全体をとらえようとする愛情と、断片であるしかない悲しみと、写真をめぐる両義的な感情を伝えるものとなっている。

2006.07.09. 断片的に6

唐突に書き連ねてみた理由を少し。鷹野の作品については、本欄 04.19.「らしさ」の項で、<その面白さは例えば人体像の切断など、もう少し違った角度から考えて見ることもできそうだが>と書きながら、別の仕事と関係づけている。その直後、某所でばったり本人と会った際、ああした文脈付けだけで、それ自体を見ないような書き方はよくなかったという気分がよぎった。そこで力及ばずながら、追記してみた次第である。

2006.07.10. 写

「美術のなかの『写』-技とかたちの継承」展 (7月11日-9月3日、東京・日本橋/三井記念美術館) 。古美術を見る時も、オリジナリティーという考え方は今日、もはや抜きがたい。例えば、注文があって初めて描かれる障壁画であれ、まことしやかに絵師の私的な動機なるものが語られたりもする。だが描く、見るとは、今日とはおよそ異なる体験であったかもしれないということを、改めて実感させる展覧会。出品作は永楽保全・和全らの唐物写し、能面、円山応挙と子孫の国井応陽による2つの「雪松図屏風」、その応挙画を手本に三井家の人々が描いた素人画、はたまた自然の写しということで、精巧な自在細工や院体風の折枝画をそのまま立体化した牙彫、さらに茶道具における「利休好み」といった趣味の写しなど、極めて幅広い。それらがみな「写し」の一語で語られ得るわけで、それは驚くべきことだという気がする。こうした言葉について、古美術の方面でもう少し深めて、教えてもらえるといいなとも思う。ちなみに写真絡みの方面に脱線すれば、例えば撮影の「影」とは物象の影ではなく、あるいは、そうした一般的な意味とともに、御真「影」という時の「肖像」という意味を色濃くまとっていたのではないか、といまだに思っているのだが、それはさておき、本展はカタログが作られていない。残念だ。出品作はこの美術館のコレクションで、つまりは館藏品展なのだけれど、あまり見かけない切り口の展覧会であるだけに。

2006.07.20. 青森1

オープンまもない青森県立美術館を訪ねる。建築、開館記念展、常設展の順に、メモ程度の印象記を少しだけ。建築については、開館前に一度訪ねている。その時は空間の存在感がせり出し、まがまがしい印象さえあった。こうして展示が始まってみると、ああ、ちゃんと美術館になるんだな、と少しホッとする。何も展示されていない状態の美術館を見る機会がまれだということもあるけれど、すでに内覧が行われた東京・六本木の国立新美術館では、空間の存在感がどうのということは思わなかった。建築それ自体については、そのうち専門家の批評が出るのを待つとして、ふと思い出すのは、とても写真を撮りにくかったということ。素人だから、ということはもちろんある。けれど外観は、全景を入れると、白い煉瓦を手作業で積んだ妙なテクスチャー、それをしかも上から吊っているというヘンさは写りにくい。面白みのない白い箱になる。展示室の方は、絵になりそうなカットが撮れそうな気がまるでしない。もともと写真でスケール感そのものを伝えるのは難しい。展示室を撮った写真の一つに、ヴィオラを持った女性が写っているカットがある。それはつまりブツ撮り写真におけるマッチやタバコと同じ役目をしているわけで、つまり身体を尺度にしないと、スケール感が分からない。そのあたりは多分に写真の側の話なのだが、それ以上にディテールと空間のボリュームの関係が、見知った建築とはどうやら違っていそうだ。ディテールを見る「寄り」の視覚と、全体を見る「引き」の視覚が別々に存在するのではなく、後者の全体を見る「引き」の視覚が容易に設定され得ないようにできていて、前者のディテールを見る「寄り」の視覚がばらばらに組み合わされていき、結果として、全体のボリュームが知覚されるといった感じ。ばらばらに、というのは、部分がちゃんと全体を構成するとされるモダニズム彫刻などのあり方とは違うという意味で、そのばらばらさが特色か。というふうに、そういう方面に連想が行く建築なのだが、ともあれ設計者の青木淳が『COPLETE WORKS 2 青森県立美術館』 (INAX出版) の撮影者として選んだのは、鈴木理策である。なるほど、というところもある。

2006.07.20. 青森2

開館記念展「シャガール 『アレコ』とアメリカ亡命時代」展 (7月13日-9月24日) には、がんばったなあと感心。シャガールというと、美術通を任じるような人には評判が悪い。青森の開館展にも、シャガールねえ、というような反応が聞こえていた。むろんずいぶん前に購入した舞踊背景画「アレコ」ありきのテーマ設定ではあって、そこから離れるわけにもいかない制約があったように思うのだが、逆にアメリカ亡命時代に絞り込んだことで、面白い展覧会になっていた。この時期のけっこういい絵を借用しているし、メキシコ行き、ベラの死といった契機をたどって、飽きさせなかった。つづいて常設展。出身作家、ゆかりの作家を取り混ぜつつ、基本的に1人1室という個展形式で見せるという方針は見ごたえがあって、いいなあという感じ。しかも、各室に担当学芸員の名前が張り出されている。面白かったのは、例えば今和次郎・純三の部屋だが、他方で、部屋によっては、うーん、この展示はどうなんだ……と首をかしげることも。でも、それも含めて、堂々と名乗っているわけだから、いさぎよいと思ったことだった。

2006.07.20. 八戸

八戸市美術館でのICANOF企画展「TELOMERIC vol.3」。 (7月19日-8月6日) 。前夜泊で青森、八戸と回って、そのまま帰京というスケジュールのため、豪華なメンバーによる討議も聞かず、展示のみ駆け足で一巡。このところのはがきプロジェクトが階段にずらりと張られていて、改めて見るだけでもテンションの高さを再認識させられたのだが、ここではpgメンバーの西村康の作品についてだけ。以前にも見た、女性のシリーズ。ビデオモニターから撮影したスチールと、実際の女性を撮った写真を見せるモニターを組み合わせた展示構成。動画と静止画が相補的な関係に置かれているせいか、ふと欲望の三角形などということが頭をよぎる。いいことか、悪いことか、ともあれ写真は驚きで見るものでもないし、ありそうもないシチュエーションのもとに成り立つこのシリーズをとても魅力的だとも思うのだけれど、少し妙な気分が残った。

2006.07.22.-23. 越後妻有

「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ2006」 (7月23日-9月10日、十日町市、津南町全域) 。2日間バスで回っても、全体のごく一部を見たことにしからない大きなプロジェクトを実現し、かくて3回目まで継続してきた労力には率直な敬意を払いたい。しかし、その敬意はともかく、こうしたサイト・スペシフィックと称される作品や滞在制作という手法について、しみじみと考えさせられた。地元の人にアンケートしたり、話を聞いたりする。地域の人の衣服や布団など、布を使った作品もあちこちで見かけた。布は記憶とか何かに関係するのだろう。そうした手法が多いのは、何も越後妻有に限らない。限らないのだが、あまりに次々と見せられると、それ自体はサイト・スペシフィックでも何でもなく、どこの国・地域から来た作家であれ、また彼らがどこに行こうともやってみることで、要するに、もはや非サイト・スペシフィックな様態に至っているという気がする。逆に印象的だったのは、堀浩哉らの「ユニット00」による廃校でのインスタレーション。1つは校内にあった世界地図、日本地図を集め、まさに地元の人々が外の世界に出ていきたいと思ったからこそ、ここが廃校となっているということを正面切って提示していた。それがかなり例外的に見えるほど、里山が広がる地域をたたえ、景観の美しさに目を向けさせる作品が多かったとも言えるわけで、それを称して「里山PC」などという造語もぽかりと頭に浮かんだ。


2006.08.02. 新潟2

新潟に行く機会が続く。別の用事の道すがら、「漂着物からみた越後・佐渡」展 (7月15日-8月25日、柏崎市立博物館) を見る。会議室にもなりそうな展示室だったが、気持ちのこもった好企画だった。柳田国男-島崎藤村の椰子の実ではないけれど、漂着物はどこかロマンを誘う。無用で、持ち主不明となった物体の、とぼけた味もある。けれど太平洋側と日本海側とで、漂着物の内容はおそらく異なるのだろう。そこに、不思議なリアリティーがある。標木「峨眉山下橋」は江戸時代、良寛さんらに一大センセーションを巻き起こしたが、実は本家の峨眉山がある中国でなく、朝鮮半島から流れ着いたもので、その当時、かの地で豪雨災害があったことまで分かっているという。それで海に流され、柏崎に漂着したらしい。何しろ近いのだ。漂着物が越えてきた、見えない国境なるものをふとリアルに感じさせる。

2006.08.03. 若冲

「ブルータス」599号「若冲を見たか?」を買う。プライス・コレクションの里帰り展「若冲と江戸絵画」 (7月4日-8月27日、東京・上野/東京国立博物館) に連動した特集だが、2000年、京都国立博物館の若冲展に続き、またロケットに点火したかのごとく若冲ブームは高まるばかり。本誌の編集にも力が入っているが、個人的には、古美術商の柳孝氏の話が面白かった。プライス氏や辻惟雄氏らが注目されていた当時、若冲は無視されていたかのようなイメージになっている。だが、柳氏は当時も名前はあって、ただ、コレクターには人気がなかった――という風に語っている。たぶんそうなのだろう。何しろ近代に入っても、夏目漱石「草枕」はその鶴の絵を、読者周知のこととして登場させ、ある谷崎潤一郎の短編も絢爛豪華さの象徴として、若冲を引き合いに出している。他方で、茶道具を軸とする価値体系の中では今日でも評価しようがない。しかも例のモザイク画にまつわる「隠し球」もちらりと披露して、とても興味深かったのだ。ちなみに、このたびのプライス展の盛り上がりについては、彼自身の純粋さは疑うべくもなく、すばらしいコレクターだと思うのだが、結局は浮世絵のごとく、「里帰りする日本」こそが日本美術なのだ、という思いを新たにする。

2006.08.04. ポーランド

「ポーランド写真の100年展」 (7月25日-8月27日、東京・渋谷区立松濤美術館) 。国立ウッチ美術館のコレクション展。ほとんど知っている作家がいない。でも、かなり面白かった。一つには20世紀に入ると、世界的な写真の同時性が強まる。おおまかな変遷は、例えば極東・日本でさえ著しく異なるわけではない。だから、ある程度は類推が働く。例えばイェジイ・レフチンスキって、ポーランドの東松照明かな、などと思ったりする。いや、もちろん違うわけだが、この作家は1950年代半ばから、シュルレアリスムなどに興味を示し、イメージとしては重厚な力強さを、語法としては晦渋さを感じさせる。さらには71年にはファウンド・フォトの手法も手がけ、その多岐にわたる写真思考をうかがわせる。この作家を含め、出品作は1点から数点程度。もとより全容は知りようもない。だが、もっと見てみたいと思わせる作家はほかにも少なくなかった。それだけでも、意義のある展示だと思われた。

2006.08.04. ユペール

ふらりと「イザベル・ユペール展」 (7月1日-8月6日、東京・恵比寿/東京都写真美術館) 。映画 (特に芸術的な) をほとんど見ないので、こうした展覧会が行われるだけの女優だとは知らなかった。何しろカルチェ=ブレッソンのドキュメンタリー映画にコメンテーターとして登場していて、初めて名前を聞いたというありさまだ。だから、HCBはもとより、ロバート・フランクだとか、実に様々な写真家が彼女を撮影していることに驚いた。何か魅力があるんだろうなあ。そばかすを強調したり、しなかったり、という撮り口の違いも楽しい。ところで、こうしたタイトルもまた、なにがしか面白さを感じさせる。「森山大道展」と言えば、まさかカリスマ写真家があれこれのポーズで写っているとは思うまい。写真集もまた同様で、「土門拳写真集」は写真家の、「井上和香写真集」は被写体の名前を指すわけだが、ただし、「篠山紀信写真集」にして「高岡早紀写真集」というちょっと微妙な場合もある。「荒木経惟写真集」だと、しばしば本人も写り込んでいるし、「福山雅治写真展」のように被写体かと思いきや、撮影者だということもある。なんだか融通無碍なのである。

2006.08.11. 左甚五郎1

ヴィクトル・I・ストイキツァ『ピュグマリオン効果』 (松原知生訳、6月25日、ありな書房刊) 。美術史畑の翻訳書で、面白さと射程の長さにおいて、ストイキツァはやはり苦労しても読むに値する。本書はピュグマリオン伝説に見られる、人間が作り出した像が、逆に人間を魅了するという現象を、古代から中世を経て近代まで、西洋の人文知を駆け抜けるようにして、一気に論じ去る。副題は「シュミラークルの歴史人類学」。現代性への目配りも怠りない。しかも巻末まで読み、日本語版への後記で再び驚かされた。左甚五郎と梅ケ枝の伝説を取り上げ、河鍋暁斎「左甚五郎と京美人図」を使い、1890年に英外交官エドウィン・アーノルドが見たという晩餐会での出し物で、鏡が重要な役割を果たしていることに注意を促している。たしか暁斎の絵は最近、学術誌で紹介されたばかりではなかったか。これをさらさらと書き、訳書のおまけにつけるというのだから、底が知れない。

2006.08.14. ちりぢりに

「ばらばらになった身体」展 (8月5日-10月15日、東京・竹橋/東京国立近代美術館) 。タイトルの英語表記は「Body in Pieces」。そう言われると、リンダ・ノックリンに「The Body in Pieces」という文章があったなと思い出す。しかし、パンフレット、会場ともにノックリンについての言及は見当たらない。関係があるのかないのか、よく分からない。関係があるのなら言及すべきだし、関係がないのなら、同じようなタイトルを掲げるのはよくない。と素朴に思う。ともあれパンフレットには、次のような説明が読まれる。<たとえば頭部。とくに愛する人の頭部を身体の他の部分から切り離す表現は、長く美術家たちに好まれてきました><あるいは手。こちらに触れるやさしい感触を呼び覚ます手は、やはり美術家たちの深い愛着の対象として、しばしばクローズアップで描き出されます>。ふと「Love and Pieces」なんて言葉がよぎる。さらにトルソの話があり、続いて<都市の孤独な生活の中で、ふと自分の身体がばらばらになる恐怖におそわれる、そんな感覚をとらえて表現した作品もあります>。つまりは<「ばらばらになった身体」というテーマをさまざまな角度から紹介するものです>。会場には、スティーグリッツや高梨豊、サルガドといった写真を含む作品が並べられていたのだが、<さまざまな角度>とある通り、見ている側の思いもちりぢりになりぬるよう。

2006.08.21. 左甚五郎2

馬場章編『上野彦馬歴史写真集成』 (7月1日、渡辺出版刊) を見る。1904年の没後百年を記念し、編まれた「写真開祖」の写真集。東京大学の先生方が力をこめて作られたようで、写真を歴史資料として位置づけた編集方針がことさら強調される。台紙や裏面の商標デザインも掲載されている。他方でクールな顔つきをした彦馬の、かなり腹の据わったお大尽ぶりなども面白かったが、ところで、ストイキツァの本を読んだ余録で、一つ気付いたことがある。図版番号66「京人形姿の上野しげ」は、京人形と大書された箱の前で、娘のしげを撮影している。キャプションには「京人形に扮装している写真」と記されているが、単なる扮装ではなく、むしろ左甚五郎ものの歌舞伎「京人形」の翻案と見るべきだろう。歌舞伎の入門書には、類似した構図の歌舞伎役者の写真も載っていた。おそらく生人形に代表される、幕末・明治の特異なリアリティーの高揚のさなかで、この演目は人気を呼び、そこでの人形に命を吹き込む左甚五郎の名人技と拮抗する、写真の生き写しの力をアピールするものとして、この一点の撮影は企図されたのではあるまいか。そう思うと、リアリティーをめぐるジャンル間の抗争にも関連し、多少考えるかいのある写真のようにも思える。


2006.09.02. ライフ

「ライフ」展 (7月22日-10月9日、水戸市/水戸芸術館現代美術ギャラリー) 。予想に反して、会場で何だか説得されてしまった展覧会。出品者のほぼ半数が日本の、いわゆるアウトサイダーアートの世界では知られた人々である。個人的には、この世界に明るくない。どう語ればいいのか、アートを語る枠組みがふだん依拠する主体なるものを、安易に適用してはいけない気はする、という程度にとどまる。それはつまり保守性の現れなのかもしれないけれど、会場を歩いてみて、すんなり見て行ける感じがあり、自分でも不思議だった。冒頭は、心臓の鼓動に合わせて心電図みたいなドローイングを描き続けてきたHEARTBEAT DRAWING, SASAKIの部屋。それに、好きなテレビ番組のタイトルを書き重ねる齋藤裕一のペーパーワークが続く。紙との接触、その反復と痕跡といった連続性は誰の目にも明らかだが、障害者の齋藤をハイアートに引き上げるというよりも、美術家であるHEARTBEAT DRAWING, SASAKIと齋藤を、分かりやすい共通項を示すことで、ともに語り得る局面を作り出そうと試みている。この「描く」「書く」の基層をなすものとして、今村花子を起用し、その制作における「掻く」行為を、作品と映像 (カタログ中の出品リストには記載されていないようだが、佐藤真監督の作品だろうか) によって示唆してもいる。凄艶な女性の顔を描いて人気の川島秀明と障害者である佐々木卓也の並置などにも、同様の語り口を更新する企図がうかがえる。担当したのは高橋瑞木という人。「LIFE」というタイトルなども意見が分かれそうだし、これでアウトサイダーアートが分かったなどと言うつもりもないが、展示のセンスに感心させられた展覧会。ちなみに吉永マサユキの暴走族写真は、照明がプリントに反射し、暗い展示室の床に光跡のようなものを描き出していて、目をひいた。

2006.09.05. 切り貼り

木村恒久作品集『ザ・キムラカメラ』 (7月30日、パロル舎刊) 。編纂にあたった編集者の本郷活平は、所収の文章に、次のように記している。<9・11――その衝撃の映像は、リアルタイムのうちに報道された。同時多発テロ。ある画像が、とつぜんオーバーラップする。/いささか不謹慎な云い方をすれば、あの懐かしい『キムラカメラ』の頁ページが鮮やかによみがえってきたのである>。そう思った人は案外、多かったのかもしれない。自分としては疎く、よみがえってこなかった。けれど確かに、そうなのだろう。いま見ると、日没のツインタワーの前で、ミレーの農民夫婦が祈りをささげる「ニューヨークの晩鐘」はあまりにも不吉だし、同じくニューヨークの街並みに巨大な樹木が2本そびえ立つ「聖域」は崩壊後の光の照射を連想させる。どうして、こういうイメージが生まれたのか。見やすいところだと、『キムラカメラ』は文明と廃虚・自然という対立物を結合する発想を、繰り返し用いている。ニューヨークと大瀑布を結合した名作「都市はさわやかな朝を迎える」のように。ここでの9・11的イメージは基本的に、その系譜に位置している。また、作者は大戦下の大阪で、おそらく官庁から古書店に流出した洋書によって、西洋の新たなグラフィック・デザインに目覚めた、とうかがったことがある。現実の廃虚とデザインが交差するような地点から出発したのだと言えよう。ちなみに、9・11後、会田誠の「紐育空爆之図」が予言的な作品として注目されたものだが、実際にはすでに戦中期、ニューヨークを空爆する空想図が描かれている。その作品は過日、たまたま立ち寄った大分市美術館のボックスアート プラモデルパッケージと戦後の日本文化」展 (7月15日-9月4日) に出品されていたのだが、『キムラカメラ』の9・11的イメージもまた、先の大戦に由来しているのではないだろうか。ただし、もう一つだけ言い添えるとしたら、コラージュということになる。コラージュは図と図の切断及び結合によって、図と地からなる自然な空間から逸脱する。それはたぶん、現実の時間・空間の圧縮に対応していたのだろう。だから切り貼りによる『キムラカメラ』に9・11的イメージが出現していたことは、予言的というよりも、いわば必然的な成り行きなのかもしれない。

2006.09.08. ポピュラリティー

「日曜美術館30年」展 (9月9日-10月15日、東京・上野/東京芸術大学大学美術館) 。観客動員に桁外れの影響力を持つとされるこの番組を、仕事柄、見るべきだとは思うのだが、熱心な視聴者ではない。しかし、というか、だから、というか、この展覧会は面白かった。例えば語り手に、しばしば作家が起用される。明治この方の、文学と美術の密接な関係が戦後もなお、続いていた残響を聞き取ることができる。文学はよりポピュラリティーのあるジャンルとして確立されており、それを介して、美術のポピュラリティーの獲得が図られてきた感もある。ただし、いまや熱っぽく美術を語ることのできる文学者がどのくらいいるだろうか、という感慨も抱かせる。つまりテレビというメディアにおいて、どうポピュラリティーを担保していくのか、そこには苦労がありそうなのだが、ただし、ポピュラリティーとは常に事後的に訪れる性質を持つ。それをよく物語るのは、芸術家の制作現場を訪ねるコーナーだろう。主に大家や長老の回を見ることができる。彼らのポピュラリティーはすでに確保されているわけだが、カメラはそのキャリアを形作った過去でなく、現在しか映すことはできない。老境に抗しての制作、という暗黙のロマン主義的な芸術家像を裏切るようにして、それは多少、残酷なドキュメンタリーとなっているように思う。ロマン主義的な芸術家像と言えば、不遇のうちに没し、番組が取り上げた芸術家を紹介したコーナーも設けられている。この場合、番組は自らポピュラリティーを付与する立場になる。番組の放送開始以前に没した芸術家については、生前に評価し得なかった自責の念を覚えることもないが、この手法は最近、同時代の早世画家にも適用されている。やはりポピュラリティーの事後性は肯定されているようである。

2006.09.12. 箸

梅佳代写真集『うめめ』 (9月25日、リトルモア刊) 。笑えるスナップ写真集。箸が転んでも、という感じ。その瞬間がこの面白い写真集を生んだとすれば、箸が転んでもおかしくない年ごろ、というのもあるのかもしれない、とも思う。それだけじゃない、というところを次回作で見たいようにも思う。

2006.09.22. 展示

石内都「mother’s」展 (9月23日―11月5日、東京・恵比寿/東京都写真美術館) 。ベネチア・ビエンナーレ日本館の展示を再構成した帰国展。というわけで、会場は違っているわけだが、展示はうまく行っている。汎用性のある展示室の常として、展示に感心させられたことが少ない美術館であるにもかかわらず。そこはやっぱり、世代というのもあるかもしれない。ある程度以上の年齢の写真家にとっては、回顧展が初めての美術館での展示となるケースもありそうだ。しかし、比較的早い時期から、美術館での展示を経験してきた写真家も出てきているのだろう。

2006.09.25. ダリ

「ダリ回顧展」 (9月23日-1月4日、東京・上野/上野の森美術館) 。会場に1964年、東京と京都で開催されたダリ展のポスターが掲げられていた。そのキャッチフレーズは「幻想美術の王様」。そう言えば、幻想美術という言葉を聞くことはめっきり少なくなったなと思う。


2006.10.06. 身につまされる1

「プリズム:オーストラリア現代美術展」 (10月7日―12月3日、東京・京橋/ブリヂストン美術館) 。アイデンティティーなるものがオーストラリア美術にとって、いかに重要なテーマとなっているのかを理解させる展覧会。出品作家は35人。トレイシー・モファットのような国際展でよく見かける作家も含まれるが、特徴はアボリジナル・アートを中心に据えていること。そのアボリジナル・アートについては、率直に言って、先住民の視覚言語を、抽象絵画の視覚言語の枠組みに当てはめることで、了解可能なものにする様態が一般的であるように思われた。すべてがそうかどうか確かめなかったが、そもそもキャンバスに描かれていたりもする。批判するよりも先に、身につまされる思いがした。こうした手法は日本人にも無縁ではなく、伝統的なものの使用に際して、むしろ常套手段となっているのだから。

2006.10.06. イノセンス

「ルソーの見た夢、ルソーに見る夢」展 (10月7日-12月10日、東京・砧公園/世田谷美術館) 。アンリ・ルソーをはじめ、素朴派画家を積極的に集めてきた美術館の開館20周年展。それらの作品とともに、ルソーに傾倒した、ないしは影響を受けた日本の画家たちの作品を集めている。だから「ルソーの見た夢、ルソーに見る夢」。セザンヌやルノワールの一方で、ルソー・フィーバーが存在していたことを発掘した点で、意義のある展覧会。出品作のすべてを一方的、単線的な影響関係でとらえることは難しいが、両者の懸隔についても、実際の出品作品を見比べることで考えてみることができる。例えばルソーの作品の、面としての強さに、日本人画家たちは反応していない感がある。主に寂しい都市風景といった情緒的な側面、イノセンスを体現する不思議な子供といったモチーフの面に触発されていたように見える。写真との関係では、日本光画協会を席巻したルソー熱を掘り起こし、そこから出発した植田正治のルソー愛に言及している。手厚いリサーチを感じさせる。植田正治の写真にどこまでルソーの影を認めるべきか、そこは考えどころかもしれないが、ルソーら素朴派画家におけるイノセンスは言うまでもなく、モダニズムの進展と対になっている。この関係はそのまま植田の中にも引き継がれているわけで、その写真を考える要所と思われる時差の問題にもつながっていく指摘かと思われた。

2006.10.07. アイドル

「アイドル!」 (10月7日-1月8日、横浜市/横浜美術館) 。展覧会としてまとまっているかどうか、否定的な意見を聞くが、個人的には面白かった。出品作のうち、まるで異質だったのは山口百恵を撮った篠山紀信のテレビ番組だろう。始まってまもなく、静止画像だけで成り立っていることに気付き、なおかつ1時間近く、まったく飽きさせないという驚くべき映像作品だが、それは同時に、アイドルという人工的な偶像――偶像という言葉は古代における彫刻家ピュグマリオンの神話を思い出させもする――に、生命を付与する模範的な作品となっている。例えば呼吸。あるいは汗。篠山紀信の「激写」シリーズもまた思い返せば、この手法に則っていた。人工的な偶像を量産する一方で、それらに生命感を与える写真を撮り続けた篠山その人の往還こそが、かつてアイドルをアイドルたらしめていたようにも思える。ところが蜷川実花のアイドル写真は、汗も呼吸も感じさせることがない。人工と生命という枠組みを顧慮することなく、人工性を一方的に誇張してみせる。現実との相補的関係でなく、虚構のセカイ観への共感が蜷川の人気を支えているのだろう。おそらく、おたく文化などとも相通じる話のように思えるのだが、それを実感できるだけでも、面白かったのだ。

2006.10.18. 地図

川田喜久治展「見えない都市」 (10月12日-11月10日、東京・芝浦/フォト・ギャラリー・インターナショナル) 。タイトルはイタロ・カルヴィーノの小説にもとづいている。1977年には邦訳されてもいる名作だけに、該博な知識をもつ写真家は以前から、愛読していたのだろう。知られる通り、果てもなく拡張を遂げたフビライ・ハンの版図を、マルコ・ポーロの語りがいわば虚構の側から侵食していく小説である。それに関心を抱かせたのは、まず「地図」の写真家であること、次に、その作品を含めて、常に幻視する、イメージを重ね見る写真家であったことか。そして最後に、グローバリズム時代の地図のあり方を読み取った、ということかもしれない。カルヴィーノの小説には、例えば次のような一節がある。<地図帖 (ルビ=アトラス) にはまたこのような長所がある。すなわち、まだ形も名もない都市の形を明すことだ><形のリストは無限に続く。あらゆる形がそれぞれに自分の都市を見出すことができない限りは、新しい都市が生れ続けることだろう。形があらゆる変化を試みつくして消滅し始めるところで、都市の終末が始まる。地図帖の最後の数ページでは、初めも終りもない網の目が、ロサンジェルスの形をした都市が、京都=大阪の形をした都市が、形もなく溶けだしていた>。

2006.10.24. 翻訳

アンリ・カルティエ=ブレッソン写真集『ポートレイト 内なる静寂』 (10月5日、岩波書店刊) 。ポートレイトの撮影において、HCBは「内なる静寂をとらえたい」と語っていたという。本書を見ると、最も典型的な手法は、被写体がカメラから目をそらす瞬間をとらえることだったように思える。撮影者と被写体の関係性は表象されず、同時に、被写体が彼らの世界に立ち返ったことを意味する表象となる。この翻訳に説得力を持たせてしまう名人芸に感心する。それは多分に、一瞬の不意をつくようなノリで撮影されたようにも思えるのだが、ロラン・バルトあたりは、ほら撮ってみろよ、とでも言うように撮影者を眺めているのが何だか面白い。

2006.10.24. 暗室

森山大道写真集『t-82』 (10日25日、パワーショベル刊) 。トイカメラとポラロイドフィルムを使った写真集。弘法は筆を選ばず、と言いたいところだが、トイカメラ独特のピントや露光の不安定さは、例えば『水の夢』『4区』といった写真集でも見せた視覚によく合致している。この系譜のイメージは、「水の夢」というタイトルが示唆するように、現像液の中で揺らめくように像が現れるさまだとか、現像過多で黒がにじみ出すさまを思い出させる。以前、北島敬三さんが「アレ・ブレ・ボケと一緒にするけれど、アレは暗室内の話、ブレとボケはカメラの話で区別すべきだ」と言っていた。なるほどと思ったのだが、その意味では、暗室への偏愛を明かす作品系列と言えるのかもしれない。


2006.11.11. 間

鷹野隆大展「男の乗り方」 (10月13日-11月16日、東京・京橋/ツァイト・フォト・サロン) 。男性のヌード。撮影された空間にはホリゾントがあり、床には皺の寄ったシーツがある。美学的に保証された肖像写真の背景をなすホリゾントと、ポルノグラフィックなシーツを横切るように、男性たちのヌードは位置する。単純な図像上の話だが、このシリーズもそのような「間」の位置にあるようにも思える。

2006.11.14. もどく

森村泰昌展「烈火の季節/なにものかへのレクイエム・その壱」 (11月11日-12月15日、東京/シュウゴアーツ) 。個人的な記憶とも重なり合う20世紀のテロルの歴史を、森村自身が再演したシリーズ。すでに世評も高く、今年白眉の展覧会だろう。個人的には今回、ようやく森村がやっていることを自分なりに理解できたような気がする。それはシミュレーションでもアプロプリエーションでもなく、端的に「もどき」と呼ぶべき行為ではあるまいか。かつて浅田彰が「吉本」だとけなしたことがあったように思う。そうした非難の意味はさておいて、確かに森村の仕事は芸能的だ。しかも、古代にさかのぼるような意味で。外来の何かをもどく。もどきながら、受容する。禍々しい魂の訪れをもどく。それによって、魂を鎮める。作者もかなり自覚的なのだろう。それゆえ「レクイエム」なのである。森村を理解する最良のテキストは折口信夫かもしれないし、そのような芸能としての深度を獲得してきたように思う。2人を結ぶ大阪南部という地縁も何やら面白い。というのはついでに言ってみたまでのことだが、だから、森村の仕事がシリアスなのか滑稽なのか、そこを考えるのは意味がない。古来の芸能における「もどき」とはそうしたものだから。

2006.11.16. 地

「コラージュとフォトモンタージュ展」 (11月3日-12月17日、東京・恵比寿/東京都写真美術館) 。一巡して、気になったのはコラージュにせよ、フォトモンタージュにせよ、その定義の難しさ。例えば郭徳俊「大統領と郭」シリーズが出品されている。確かにコラージュないしフォトモンタージュ的だが、大統領の顔を表紙に掲げた雑誌と、自分の顔が映り込んだ鏡とを持ち、それを斜め後ろから撮影している。つまり何ら操作されていない、ストレートな撮り方の写真を元にした版画であって、これがそうなら、写真や印刷物が写っている写真作品もまたフォトモンタージュになりかねない。むろんリーフレットには、<写真を使ったコラージュというテーマで展覧会を行うことを考えた時、まず突き当たってしまったのは、この言葉の曖昧さとあまりにも大きい意味の広さであった>と記されている。ということなのだろう。しかし、テーマ自体はやはり興味深い。少し無駄口をたたいてみよう。日本における初発的な例の一つに、江崎礼二「題不詳 (赤ん坊のコラージュ) 」 (1893年ごろ) がある。これが絵はがきとして流通した背景には、言わずもがなのことだろうが、唐子をたくさん描く伝統的な吉祥図がある。江崎はたぶん、それを写真でやってみたに過ぎない。さしあたり、そういう風に見える。ところで、唐子に限らず、動物などをたくさん描く吉祥図はいろいろある。それが可能なのは、東洋絵画においては、図様を組み合わせて描くことは当然の手法の一つだからだ。どんな例を挙げてもよいが、最近見たもので言えば、武蔵野美術大学美術資料図書館「御用絵師の仕事と紀伊狩野家」展 (10月16日-11月11日) で公開された狩野探幽筆「花鳥図屏風」なども、南宋絵画風の図様を組み合わせた、いかにもコラージュ的な作品だった。ほとんど誰もがそのようにして絵を描いていたわけだが、そこでは図と図の並置を可能にする地の問題はあまり問われない。矛盾が出そうな場合は、さすがに雲煙だとか、すやり霞が使用される。ところが、写真のコラージュの場合はそうは行かない。おそらく写真のリアリティーの水準が高いために、地もまた実体化してしまうのだろう。シュルレアリストたちを魅了していたのは、曖昧で、およそ見たこともない地の質感であったのかもしれず、さらに現実の空間における代用物を求めることで砂浜や砂漠のイメージが浮上した、という道筋ではなかっただろうか。さて、ここで江崎の絵はがきに立ち返ると、伝統的な吉祥図との違いは、赤ん坊の写真で平面を埋め尽くした、その過剰さにある。実は、写真と写真をコラージュした時に生じる奇妙な地の露出を、本能的に回避したのではないかとも思われ、もしそうだとしたら、そこに写真史的な意味があるのかもしれない。

2006.11.16. 忘れていた

宮本隆司展「forgotten 忘れていた」 (10月28日-11月25日、東京・六本木/TARO NASU GALLERY) 。今年は昔撮った写真を焼いてみた、という展示や写真集がなぜか続く。動機はそれぞれあるのだろう。きっと。この「廃虚」の写真家の場合、ダメになったネガも焼いていたのが目をひいた。

2006.11.17. 黒

「歩のあゆみ 大橋歩イラストレーション展」 (10月30日-11月24日、東京・銀座/クリエイションギャラリーG8、ガーディアン・ガーデン) 。当時の読者は分かっていたことだと思うけれど、大橋歩が1964年から7年間描いたという「平凡パンチ」の表紙イラストの男性たちは、基本的に黒人のイメージになっている。すごい話だ。占領下の日本にも黒人米兵は訪れていたはずだが、その記憶は薄らぎ、むしろカッコいい=ジャズ=演奏者は黒人、みたいな感覚に変わっていたのだろうか。次いで、銀座ニコンサロンの移転を記念した特別企画展の第3弾「世界の響き」 (11月15日-12月5日) へ。小川隆之「NEW YORK IS」 (1968年) 、北島敬三「BCストリート・オキナワ」 (1976年) 、さらに長倉洋海、瀬戸正人、小林紀晴と、世代の異なる写真家がかつてニコンで展示した作品を集めている。ともあれ大橋のイラストを見た足で、例えば北島が撮影した沖縄の黒人米兵を見ると、何だかめまいがしそうだった。

2006.11.17. クレマスター化

舟越桂展 (11月7日-12月9日、東京・日本橋/西村画廊) 。写真とはまったく関係のない、心覚えのメモ。舟越桂と言えば、遠い目をした半身像の彫刻で知られる。すでに変化の気配を見せていたが、今回はそれが全面化した。何というか、ほとんどクレマスター状態なのだ。「森に浮くスフィンクス」は両性具有。しかも革を使った長い耳が示唆するとおり、半人半獣のイメージもある。これまで無表情な人物像が中心だったが、会期後半に加わった「戦争をみるスフィンクス2」になると、眉をひそめ、険しい顔つきを見せる。こちらはどこか能面のようでもあるが、「森に浮くスフィンクス」で驚かされたのは、尻のあたりの、古代ギリシャ彫刻を思わせる量感だ。舟越桂の彫刻はそのまなざしが体現していたように、うつろさを特質としていた。それは父の舟越保武も同様で、実際に内部が空洞になった作品さえ残している。父子ともども、近代彫刻の日本的な展開なのかなと思ってきたが、今回は彫刻表現の基礎にあたる量感のとらえ方が一変している。作家というのは、ここまで変わることがあるんだな、と素朴に感心した。

2006.11.28. 和漢蘭

「揺らぐ近代 日本画と洋画のはざまに」展 (11月7日-12月24日、東京・竹橋/東京国立近代美術館) 。日本画と洋画が今日のような主題、素材、描法等の一定のまとまりを見せる以前の作例を集め、また、洋画から出発し、日本画方面に行った、あるいは両者の間を揺れ動いた画家の軌跡をたどる。1980年代末に始まった日本近代美術の制度史研究、「描かれた歴史」展 (1993年) のような近代美術再検証の展覧会を興味深いと思ってきた。その成果は日本画、洋画の画壇的な枠組みを揺り動かすテコにも援用されている。この展覧会もまた話題を呼んでいるのだが、不満が残った。最も大きな理由は日本画、洋画という枠組みの設定にある。冒頭に掲げられるのは、狩野芳崖「地中海真景図」。調べたことはないが、西湖図をはじめ、中国風景を描く一典型に即している。山下裕二氏言うところの「内海のイメージ」だ。この中国のイメージを基盤に、日本の景観も表象されたわけだが、芳崖はヨーロッパの風景を描くにあたり、それを採用している。和漢の枠組みを通じて、洋の表象が図られた意味で、歴史的な意味のある絵だと思う。しかし、こうした漢、中国という文脈はこの展覧会を通じて、ほとんど言及されていない。一つキャッチーな言葉を挙げれば、葛飾北斎が挿画を描いた黄表紙に「和漢蘭雑話 (わからんものがたり) 」 (1803年) がある。和漢蘭を言い換えれば、和漢洋である。前近代の基調であった和漢の枠組みが、今日の和洋の枠組みに再編成されるにあたり、おそらく和漢洋の時代があったはずで、19世紀初頭の黄表紙はそうした世界認識のフレームワークがすでに存在していたことを示唆する。翻って、本展に出品される作品群の中には、いかにも陳腐に見えるものが少なくない。それは一つに、こうした和漢ないし和漢洋の枠組みが示されていないことによるのかもしれない。また、中国という文脈は岸田劉生らの仕事の中に再浮上する。しかも、西洋ルネサンス期の絵画を通じて理解した「リアリズム」の枠組みにあてはまるものとして、宋元の道釈画や蔬果図等が再発見されるに至る。つまり狩野芳崖とは逆向きの軌跡をたどっているわけで、中国の問題を素通りする限り、そうした機微も見えてこないのではないか。メディウムの問題にも、関係しよう。カタログ所収の一覧表は、日本画の主要画材を<膠、岩絵具、墨>とする。今日ではそう思っている画家も多いのかもしれないが、個人的には、もし<墨>とそこに書き加えようとする瞬間、多少の躊躇を覚えたように思う。水墨画が少なくとも室町時代、中国を中心とする東アジアのインターナショナルスタイルだったことは疑う余地がない。江戸時代から明治初期の画家もまた、日本固有の画材だとはたぶん思っていなかっただろうし、その記憶は現在でさえまったく消えたわけではないように思う。つまりは一覧表が和洋の枠組みに依拠し、中国というチェックボックスを欠いているために、まさか洋画の側に入れるわけにもいかず、結局は日本画の欄に<墨>と書き込まれているのではないだろうか。いま漢文脈のことを言っているが、果たして、それだけだろうか。近代美術の展覧会を見ると、しばしば前近代の絵画表象の枠組みが十分に踏まえられていないと感じる。素朴に考えて、幕末に生まれ、明治に生きた画家たちが感じていたはずのリアルをとらえることができるのだろうか。


2006.12.06. 新鋭

伊奈信男賞・三木淳賞の受賞作品展 (伊奈賞=12月5-18日、三木賞=12月5-11日、東京/新宿ニコンサロン) へ。伊奈賞の港千尋「市民の色 chromatic citizen」は幸い発表時に見ており、三木賞の石川直樹「THE VOID」のプリントを見たいなと思った。石川はさがみはら写真新人奨励賞も獲得している。精緻にとらえた森林の風景をよく見ると、風で揺れたのか、葉っぱが微妙にブレている部分がある。それが森林の霊的な雰囲気を伝えるものなのか、技術的な話なのか、よく分からなかった。

2006.12.21. ストレートさ

土屋誠一さんに教えられて、和光大学へ。オキナワ映画祭の関連企画として、比嘉豊光の展覧会が3本同時に開催されていた。個展「島クトゥバで語る戦世-500人の顔・戦争の傷」「ナナムイ-宮古島の神女たち」、そして、内藤正敏との2人展「70年代の東京・沖縄」 (いずれも12月11-22日) 。東京では過去最大の展観だという。「ナナムイ」展から見る。これは確かに見るべき仕事だと思う。思いつつ、なぜそう説得されるのか考える。神事の場面をとらえた大きなプリントでは、強い光がカメラに差し込み、画像のあちこちが白く飛んでいる。それは霊的なムードを作り出しかねない写真だが、決してそう見えない。ストレートな撮り方に踏みとどまった結果、そのような写真になった、という風なのである。これは「島クトゥバ-」展でも同様だ。インタビューに応じ、語る老人たちは、おそらくその場の光の状態のまま撮影されている。光量が足らない場合はシャッタースピードを落としているのだろう。身ぶり手ぶりがブレている。時として、戦争によると思われる手先の欠損と不意打ちのように重なり合う感さえあったが、それもまたストレートな撮り方による結果なのだ。真実を伝えるという意味での、いわばドキュメンタリーの論理とは少し違うように思う。いま目の前にある出来事や人間のありようを、逆に言えば見ていないものへ拡張・回収しないことの禁止とともに、受け止める意志が選ばせたストレートさとでも言えばよいだろうか。写真におけるストレートさを、正当に行使してきた持続に、率直に言って圧倒されたのだった。

2006.12.22. 植物

「光と影 はじめに、ひかりが、あった」展 (12月23日-2月18日、東京・恵比寿/東京都写真美術館) の内覧会。光と影――それに関係していない写真はほとんどないだろうし、また大胆な企画だなと思わせるが、特にそれを主題的に理解できるような作品を集めている。フォトグラムだとか、森山大道「光と影」や山崎博「ヘリオグラフィー」など。さて、森山「光と影」については、植物の被写体が重要な位置を占めているように思う。一輪のシャクヤクを撮影することでスランプを脱し、このシリーズが生まれたというのだが、ここでの植物は光抜きでは生きられず、また光によって枯らされる、生死にわたるイメージを帯びてもいる。こうした解釈は森山ファンに一蹴されそうだけれど、光による化学変化で存在せしめられているという意味で、写真と植物のアナロジーを可能にする側面を、「光と影」シリーズは備えているように思う。そこで本展を見ると、意外に植物がしばしば登場してくることに気付く。たしか以前、「日本の新進作家展 新花論」の担当者でもあった企画者・中村浩美によるカタログの短いエッセーは、<一寸先は闇であり、また光でもある。そうして、われわれは日々新しく巡り来る「第二日目」を生きていくのだ>と、人生論的な感慨で結ばれるのだが、植物という媒介項を通じて、「光と影」という主題が人生論に行き着く道筋を少したどることもできるかもしれない。

2006.12.23. エッセンシャル

話題の「エッセンシャル・ペインティング」展 (10月3日-12月24日、大阪/国立国際美術館) へ。「エッセンシャル」という言葉をアマゾンで検索すると、デジタル系のプログラムガイドとか英語辞書、法律問題集などが続出する。つまり学習にまつわるタームであり、本展もまた西洋絵画の学習を目的とするようだ。出品作家はピーター・ドイグ、エリザベス・ペイトン、ジョン・カリン、ネオ・ラオホあたりに、デュマス、タイマンスなども加えた13人。会場はアートフェアさながらに区画されている。いわば啓蒙のためのショーケースとしての展覧会ということか。カタログのエッセーは<この13人が現在ヨーロッパとアメリカにおいて高い評価を得ている事実は、日本ではあまり知られていない>、さらに西洋美術での絵画ジャンルの重要性、なおかつ過去数十年にわたり「死んだ」ジャンルにおける彼らの活躍という<二重の特別さに共感した上で、この13人の作品に接することは、日本人にはほとんど不可能に近いのである>と断言する。まあ、そうかな。と、遅れた日本人の一人としては、ありがたく啓蒙されてみるべきなのかもしれない。実際、個人的にも何人かの仕事に新たな魅力を見いだすことができたわけだが、同時に、日本近代この方の啓蒙というモードを強調する美術館のスタンスに驚くべきか、それでも啓蒙が必要な現実を憂うるべきか、複雑な感慨をもよおさせる。この展覧会はそれゆえに、今年の美術界が社会に提供した最大の話題をふと思い出させもする。洋画家和田義彦氏は長年にわたり、イタリア人画家の絵から構図を借りていた。しかも確信的に、洋画家は西洋絵画を学ぶものであり、自分もまたその道のりに従い、マチエール等の面で独自の絵画を制作してきたと主張した。事情はともあれ、形式的には、西洋絵画の学習とそこからの創造という、日本近代の画家たちが取ってきた態度に合致している。ただし、学習対象とした絵と制作した絵の間に、世間一般の感覚から言って、オリジナリティーがあると認め得るしるしを欠いていると判断されたわけだが、では、そのしるしが付け加えられていたら、よかったのだろうか。これから、ドイグばりの、ペイトンばりの、そしてオリジナリティーを認め得るようなしるしを付加した絵が出てくるのかもしれないし、あるいは、すでに描かれているのかもしれない。和田義彦氏をめぐる問題をどんな風に感じたのか、それぞれの人によって異なるはずだが、ともあれ啓蒙のショーケースとしての展覧会はかくて開催されている。