時評 30 “自注” by 上野修

どんなテーマであれ、連載をはじめるときには、独特の楽しさと、緊張感がある。表のテーマと、裏のテーマを考え、それを表現する技法を考える。それがうまくいくときも、いかないときもあるが、そうしてあれこれと考え、自分から離れて何かを書くことは、連載でしか味わえない感触だ。

はじめてのインターネットでの連載ということもあり、インチキくさく、そしてわかりやすいタイトルをと考え、contemporaryというタイトルはすぐ決まった。説明するまでもなく、映画のタイトルからの引用である。だが、contemporaryというタイトルにしたのはもうひとつ理由があって、その頃読んだ「裏切りはもっともコンテンポラリーなコギトの形式である」という文章に感銘を受けていたからだった。

contemporaryというパロディのようなタイトルのもとに、ばかばかしいほど生真面目に写真のコンテンポラリーを語ること、わかりやすく言えば“コンテンポラリーでよろしかったでしょうか?”というノリで書くことが表のテーマだったとすれば、裏のテーマは毎回誰かに宛てたきわめて個人的な手紙として書くことだった。というのも、それまで読み手を想定せずに書いた経験がなかったので、どうしようかと考えたとき、手紙を書く相手の10人や20人くらいならいるだろうと想ってのことだった。

しかし、このプランは初回から崩れてしまった。どれだけ考えても自分には、手紙を書くような相手は、すでにひとりもいなかったのである。そんな自分のさみしさはともあれ、こんな単純なこともわかっていなかった自分の愚かさには呆然とした。連載というのは、裏のテーマを書くために表のテーマがあるようなものなので、書く前から振り出しにもどってしまったことになる。

呆然としながら、けっきょくは表のテーマも裏のテーマもないまま、しかし、何もなくてはどうしようもないので、思いのままに思いついたことをわかりやすく率直に書くことにした。ありていに言えば、自分自身に向けた手紙のようなものだが、もとよりそんなものが手紙であるはずもなく、思いのままに書くという、これだけは絶対にやるまいと固く決めてきたことを、気まぐれに破ってみたというだけのことである。そんな自分への裏切りは、どんなコンテンポラリーなコギトの形式なのだろうかと想いながら。

ところが、今回この原稿を書くために本を探してみたら、「裏切りはもっともコンテンポラリーなコギトの形式である」というのは記憶違いで、じっさいには「裏切りは現在もっともアクチュアルなコギトの形式である」だった。プランも何も、はじめから間違っていたとは。間違いから導かれた裏切りは、たしかにアクチュアルであり、そしてコンテンポラリーではなく、それゆえそこから生まれた文章は、ただただわかりやすかった。