Revised Edition “〈見ること〉の確かさにむけて:宮本常一と岡本太郎” by 戸田昌子

昨年3月、毎日新聞社から『宮本常一 写真・日記集成』(*1)が出版された。それに合わせて『季刊・東北学』第4号(*2)では「宮本常一、映像と民俗のはざまに」と題して民俗学者・宮本常一(1907-1981)の残した膨大な写真群に焦点をあてた特集が組まれるなど、近年の宮本民俗学への再評価の流れのなかで、その写真が占める位置は重要なものとなりつつある。宮本の残した写真はざっと10万コマにおよぶというが、そのうち3000カット弱を掲載したこの『写真・日記集成』は、民俗学というジャンルで蓄積されてきた写真「資料」というものの意味や可能性について、再考を促すきっかけともなるものであろう。

『宮本常一 写真・日記集成』上巻より〈「杉山のバアさん」と妻アサ子〉(178頁)
『宮本常一 写真・日記集成』上巻より〈「杉山のバアさん」と妻アサ子〉(178頁)

さらに、東京都写真美術館では「写真展 岡本太郎の視線」展として、川崎市岡本太郎美術館に所蔵されている岡本太郎(19911-1996)の写真群が展示されており、近年になってにわかに民俗写真への興味が高まっているようにみえる。岡本太郎は1996年に亡くなっているが、その後、岡本敏子氏の尽力によって再評価が進み、ほとんど神格化されたといってもいいアーティスト・岡本太郎は、ふたたび若い世代の注目を集めているようである。岡本のこの再評価プロセスのうちに、「写真」というファクターが重要な位置を占めていることは面白い。しかもそれは、岡本太郎という芸術家の全体像を理解するための補助的位置づけであるというより、「写真家・岡本太郎」という軸の導入こそが、岡本の存在を現代に新しく蘇らせることを可能にしている、ということが興味深いのだ。写真をめぐる宮本常一と岡本太郎の再評価、これらのことの背景には、「写真民俗誌」というものの可能性が、いまきわめて現代的な問題として捉えられているということがあるだろう。

民俗学という学問は、その初めから、「資料化する」ということをひとつの学問の基礎に据えている。それは、忘れられた人びと、文字を持たぬ人びとなどの生活をひろいあげて記述する、つまり「資料化」することから始まるものである。民俗学は時に、ある町や村に保存されてきたさまざまな埋もれた資料を発掘しつつ、時に「聞き書き」や「観察」、スケッチといった手段によって記録されてこなかったもの、失われつつある民俗を記録してゆく。民俗学における写真とは、この資料化の一手段として長らく使われてきた事実があるのだが、それらが写真「資料」であったがゆえに、写真史のなかではそれほど注目されてはこなかった。それだけではなく、民俗学においても写真資料の位置づけは、資料の生産者や、画像資料を使う学者などによってさまざまで、いまだはっきりした方法論が確立されているわけではない。ゆえに、民俗資料としての写真とは、写真史のなかでも民俗学のなかでもあいまいなまま、そのはざまに放り出された格好であった。

しかし、写真にこだわらず、広い意味での「映像」民族誌あるいは民俗誌への興味は広がりつつある。文化人類学において映像の意味や可能性を検討するという試み、「映像人類学」と呼ばれる試みとはその代表的なものであると言えよう。港千尋は「映像人類学」の射程として、ひとつには映像メディアを利用した人類学という「映像による」人類学=「人類学的映像」と、映像を人間の経験としてとらえた上で、その歴史的、文化的な経験の本質を追求するような「映像の」人類学=「映像の人類学」のふたつの研究領域を挙げている(*3)。前者が人類学の資料としての映像を研究に利用することである、とすれば、後者は映像民族誌といったものの存在を問題化するような領域であると言えようか。つまり、「映像の人類学」という問題設定とは、「人類学的映像」という膨大な資料群を読み直してゆくような試みとしてあるのであり、「映像民族誌/民俗誌」への期待はそこにある。

このような分類と視座というものは、もちろん民俗学においても適用可能なものであろう。しかしながら、民俗学における写真あるいは映像資料の位置づけについては、人類学などに比べて遥かに遅れていると言わざるをえない。その理由としては、民俗学においては未だ、資料としての写真や映像の扱いにさえ一定の方法論が確立されていないことが挙げられよう。それゆえに、民俗学においてはいまだ「映像民俗学」において映像の体験を論じる段階にまで至ってはおらず、それどころか、映像民俗誌、あるいは写真民俗誌というものの存在自体が民俗学という学問のなかで認知されているとは言えない状況がある。民俗学の名において撮影されてきた写真、「民俗写真」という問題についてさえ、まとまった検討はこれまでなされたことはなく、管見の限りでは菊地暁が柳田国男の写真観を検討しつつ、芳賀日出男の民俗写真と対照させて論じた『柳田国男と民俗学の近代』(*4)、そして小川直之による折口信夫の写真への検討およびそれに基づいた画像資料論(*5)があるだけであろう。宮本が数多くの写真を残していたこと、そして岡本が『日本の伝統』をはじめとした著書(*6)のなかに自ら撮影した写真を掲載していたことなどは知られていたにも関わらず、文字どおり黙殺されてきた。菊地が指摘する通り、彼らの写真は「写真の記録性・客観性に対する民俗学者の安易な過信」と「民俗というあまり美的とは言い難いモチーフに対する写真研究者の無関心」(*7)とのはざまに落ち込んでしまっていたのである。「民俗学における写真」も、「写真における民俗」も、ともに長らく注目を集めるテーマではなかった。

しかしここで、この「民俗学における写真」「写真における民俗」ということについて論じるには、この問題はとても大きすぎる。しかし、宮本常一と岡本太郎という、その仕事の仕方も人物としても対照的なふたりを対照させてみたとき、「写真と民俗」という問題から、私たちが何を引き出せるのかが見えてくるのではないか。言ってみれば、宮本の写真とは「民俗における写真」において無視されてきたものであり、岡本のそれは「写真における民俗」において黙殺されてきたに等しい。しかしこのふたりを、「民俗における写真」「写真における民俗」という二項において見るのではなく、「写真民俗誌」という項へとスライドさせて見たとき、別々の事情において評価されてこなかったふたりの写真群を同時に論じる土台が見えてくる。それは、このふたりに共通する「見ること」への飽くなき欲望と追求としての写真民俗誌、という場ではないだろうか。

宮本常一が民俗を記録する手段として写真を使い始めめたのは、1939年に宮本がアチック・ミューゼアムに入所した頃のことであるという。宮本が写真を始めたきっかけははっきりとはしていないが、1921年にアチック・ミューゼアムを設立し、民俗学の形成期において重要な役割を果たした渋沢敬三、そしてこのアチック同人たちの影響が指摘されている。宮本の戦前の写真については、1945年7月に大阪市堺鳳の自宅が被災したために失われているが、1000枚あまりのうち400枚ほどが写真帳の形で残存しており、これは『写真・日記集成』別巻に収録されている。しかし面白いのは戦後になって、1955年に入手したアサヒフレックスI、そして1960年に購入したハーフサイズのオリンパスペンS(露出計付き)で撮影された写真群である(*8)。特に、オリンパスペンは気に入っていたと言い、壊れるとすぐに買い換え、使い倒したと言われている。

『宮本常一 写真・日記集成』上巻より〈見島・宇津・魚網の上〉(339頁)
『宮本常一 写真・日記集成』上巻より〈見島・宇津・魚網の上〉(339頁)

宮本は、1966年に設立した観光文化研究所のメンバーに「おやっと思ったら撮れ、はっとしたら撮れ」と繰り返し語っていたという。同年、航空自衛隊の写真家から転身して観文研入りした須藤功に対しても、「何だ、すかすかじゃあないか」と厳しく写真を評していた(*9)。この観文研には「写真を読む」という研究会があり、それはひとつの地域を写した数点の写真をもとに、その写真が撮影された地名を当てるといういわば「地名当てゲーム」であった。観文研のメンバーは早くて5分、長くても20分も話し合えば全ての地域が特定できたと言い(*10)、ここでは写真が明確な方法論をもった手段として認識されていたことがうかがえる。

このことは、柳田国男をはじめとして、その門下の学者たちが写真記録を重視しなかったことと好対照をなしている。柳田は『民間伝承論』(1934年)で、民俗学の対象とする世界は三つに分け、「目に映ずる資料=旅人学」「耳に聞ける言語資料=寄寓者の学」「真意感覚に訴えて初めて理解できるもの=同郷人の学」として、三番目の心意現象の世界を明らかにすることが研究の根本意義であるとした。このことは、目に映ずる資料を相対的に軽んじることにもつながったといえ、菊池暁が(*11)批判するように、写真資料の誤読という結果もまねくことになる。しかし宮本の写真民俗学とはもっと徹底したものであり、最終的には写真資料集成のような形で出版をも意図した壮大なアーカイブ構想を持つものであった。しかしそれは生前には完成されることなく、今回の出版という形で全体の10分の1ながら実現することになったのである。

木村哲也は、宮本が民俗記録に写真を積極的に用いるようになった動機として、名取洋之助が編集長をつとめた岩波写真文庫(*12)との関係を挙げており、中でも宮本が監修に携わった「新風土記」シリーズ(1957年5月から刊行)の重要性を指摘している。同様に須藤功も、宮本の写真には名取の影響があるのではないかと示唆している(*13)。しかし、写真を表現手段としてよりは記録手段として捉え、明快な写真、「読ませる写真」を主張した名取の写真論が、観文研での「写真を読む」といったような研究会での写真の捉え方と通底するものではないかという須藤の指摘は、単純には納得しがたい。「誰にでもわかりやすい、誤解のない写真」としての読ませる写真、つまりは写真の記号化をめざした名取の写真論と、写真に写された情報を徹底して読み解く技倆を磨くことを指導した宮本のアプローチとが同じものとなるだろうか。宮本が主張した、写真を「読み解く」ことの伎倆の追求の真の意味とは、むしろ「見ること」の徹底ということを目指したものではなかっただろうかと思われるのである。

『宮本常一 写真・日記集成』上巻より〈志摩・国崎・茶屋念仏〉(336頁)
『宮本常一 写真・日記集成』上巻より〈志摩・国崎・茶屋念仏〉(336頁)

宮本にとっての写真の役割、それは、記憶の代替物としてのそれではなく、「見た」ことの確かさを確認するためのものであった。宮本は晩年「記憶されたものだけが記録にとどめられる」と述べていたというが(*14)、強靭な足腰を持って歩き続けた宮本が、このように記録と記憶の関係を捉えていたということは示唆的である。宮本は、しばしば自分が写真を撮影していないからこの地域にはそのようなものはなかった、と述べたと言われる。それは、写真を撮ることに先立つものとしての、「見ること」の確かさを示すものではないだろうか。宮本は、写真を、自らの記憶の補助手段として捉えていたわけではなかった。むしろ、自分が「見た」という事実を確定するための手段として捉えていたのであり、写真が時に見なかったことを情報としてとどめていたとしても、いつも宮本にとっては「見ること」の確かさが写真に先行していた。宮本が須藤の写真を評して「何だ、すかすかじゃあないか。これだけしか見てこなかったのか」(*15)と述べたと言われることはこのことを証明していよう。こんな写真しか撮れなかったということは、こんなものしか見ていなかったということの証明であるという宮本の主張。その宮本の態度とは、写真に撮っておいたから観察しなくてよいというような、写真という記録媒体への甘えとは対極にあるものである。

このように捉えれば、宮本が構想していた民俗写真のアーカイブとは、非常に独自な写真民俗誌のビジョンであったということが浮かび上がってくる。それは、「記憶すること」の集積体としての写真アーカイブ、写真民俗誌である。それは、宮本自身が徹底して「見た」という事実の記録である。宮本の写真は、写真作品として練り上げられたものではない。しかし、一点一点に無駄がなく、すべての写真に「何か」が写っている。それは記録すべき住居の形態であったり、あるいは民具であったり、人々の風俗であったりするのだが、それは単なる情報として言葉に変換しうるものにおとしめられることがない。宮本の写真には、非常にデジタルな時間性が刻印されていて、そこには「ある日ある時」とか、「何年の何月頃」といった曖昧なものではない、何年何月何日何時何分というような確実な時間性がある。そしてそのことによって、その写真に写された「何か」は、確実に失われたものとしてわたしのまなざしのなかに立ち現れる。なぜならば、そこにある「それ」は、わたしのまなざしのなかにあるのではなく、宮本のまなざしのなかにあったものだからである。そのような確実性、それは例えば、「『杉山のバアさん』と妻アサ子」の瞬間の表情であり(*16)、「見島・宇津・魚網の上」で魚網の上に眼を閉じて横になる少年の横に写り込んだ宮本の影であり(*17)、「志摩・国崎・茶屋念仏」で海に向かって正座するバアさまたちを後ろからそっと撮るまなざしである(*18)。しかもそこで宮本は、バアさまたちの向こうに遊びに興じる子供たちの姿をフレームにおさめることも忘れない。このような「見ること」の確実さは、「城山へ登る道ばたの畑小屋。まだ桑畑がある」(*19)という写真にも見ることができる。単に農村の畑小屋の形態を記録しただけのような、一見、面白くもおかしくもないこの写真には、おそらくは私には分からぬような貴重な情報がつまっているのであろう、大地の勾配、畑の畝の形、生えている雑草の種類や生え方、そして天候の特徴についてまで、見る人が見ればそれは情報の宝庫となる。しかしそれが、写真から読み取られるべくして待たれている、未知の情報としてあるのではなく、それが理解され、そのように見られたものとして撮影されていることが、写真に確かな手触りを与えているのである。

『宮本常一 写真・日記集成』上巻より〈城山へ登る道ばたの畑小屋。まだ桑畑がある〉(171頁)
『宮本常一 写真・日記集成』上巻より〈城山へ登る道ばたの畑小屋。まだ桑畑がある〉(171頁)

このような確かなまなざし、「何か」が写り、その見られた「現在」において記録されている写真、このような確かさを、写真において私たちはどれほど見つめてきただろうか。このような写真は、写真の素人であるからこそ撮ることができたのだ、という関野吉晴の言い方は、おそらくは正しい(*20)。そしてこのことは、岡本太郎の写真についても言えることであろう。岡本が写真という手段を用いて、忘れられた日本の民俗を撮影し始めたのは1950年代半ばのことであり、宮本が戦後になって写真撮影を再開したのとほぼ時を同じくしている。そしてこのことはけして偶然ではない。1956年に出版された濱谷浩の『雪国』、1957年に開始された岩波写真文庫の「新風土記」シリーズにみるように、この50年代半ばという時期とは、日本の忘れられた民俗を「見ること」への興味が広がりつつあった時代である。岡本は、土門拳との対談で、客観至上主義の写真は平凡になってしまう、それじゃあただ写っているだけだということになる、という土門の発言に対し、笑いながら「ただ写っている写真が見たくてしょうがないんだよ」と述べたという(*21)。宮本が写真を用いて民俗を撮影したのも、岡本が民俗的なものへの興味から写真という手段に手をそめたのも、このような「見たくてしょうがない」という熱烈な思いに支えられてのものだったに違いない。そしてそのような欲求とは、単に民俗学者や芸術家だけのものではなかった。それは、濱谷浩が1957年に発した言葉、「日本人が日本人を理解するために」(*22)というこの言葉にあるように、日本人が日本人を見つめようとする、そのような思いとして日本人に共有されていたものだったのではないか。

岡本は述べている。「社会的にコミュニケート(交流)するという機能を捨ててしまっては残る道は退廃ムード、現実逃避しかないのだが、それは何の解決にもならない」(*23)。社会的にコミュニケートする写真、それはここではただのお題目ではない。それは、日本人が日本人を理解したいと切実に望むようなまなざしをささえ、それを可能にする写真への期待の言葉である。このようにして「ただ写っている写真」という言葉の物凄さの前に、私たちは何を言えるだろうか。岡本の写真のうちには、彼が見たいと切実に望んだもの、見たものが確かに留められている。このような「見ること」の確かさにむけて、写真は何をできるのだろうか。その答えとは、おそらくいつも、開かれたままである。

1)『宮本常一 写真・日記集成』全2巻・別巻1構成、上巻:昭和30~39年(1955-64)、下巻:昭和40~56年(1965-81)、別巻:戦前・戦中の写真帳および昭和20~29年(1945-54)の日記、毎日新聞社、2005年3月
2)「特集 宮本常一、映像と民俗のはざまに」『季刊・東北学』第4号、2005年夏号、柏書房
3)港千尋「映像の自然」伊藤俊治・港千尋編『映像人類学の冒険』せりか書房、1999年7月
4)菊地暁は『柳田国男と民俗学の近代 奥能登のアエノコトの二十世紀』(吉川弘文館、2001年10月)の第3章「民俗と写真のあいだ――芳賀日出男と民俗写真」を民俗写真について検討することにあてている。この第3章は第8回重森弘淹写真評論賞を受賞している。
5)小川直之(國學院大学文学部教授)は、國學院大学折口博士記念古代研究所に残された折口の写真資料をもとに、画像資料を用いた民俗学についての検討と行っている。小川の画像資料論については「折口信夫のまなざし」(『折口信夫全集月報』22、中央公論社、1997年)、「折口信夫研究の資料群」(『日本文學論究』第61冊、2002年3月)、および「画像資料と民俗学」(シンポジウム「画像資料論の可能性-國學院大学学術フロンティア事業の成果と展望-」 http://www2.kokugakuin.ac.jp/frontier/forum/1101.html)
6)岡本太郎『日本の伝統』(光文社、1956年)、岡本太郎『日本再発見』(新潮社、1958年)、岡本太郎『忘れられた日本<沖縄文化論>』(中央公論社、1961年)、岡本太郎『神秘日本』(三陽社、1964年)
7)菊地、前掲書、148頁
8)木村哲也によれば、宮本が使用していたカメラはコダックのベスト判カメラ、ウェルターのブローニー判カメラ、1944~45年までは友人から借りたシックス判のカメラであったという(『東北学』第4号、67頁)
9)『写真・日記集成』附録、15頁
10)田口洋美「映像民俗誌の可能性」『東北学』第4号、2005年夏号、144頁
11)菊池暁、前掲書。
12)岩波写真文庫は1950年岩波映画社から刊行が始まったB6サイズの薄いグラフ雑誌で、一冊100円という廉価なのと内容が啓蒙的であることが認められて1953年には菊池寛賞を受賞し、1959年に休刊されるまでに286冊を刊行している。この編集長であったのが名取洋之助であり、1933年にドイツ・ウルシュタイン社の特派員として日本に帰国して後、戦中に対外文化宣伝雑誌『NIPPON』を刊行して日本に報道写真の市場を確立することに心血を注いだ人物であった。
13)木村哲也「宮本常一、写真による民俗学の試み」『東北学』第4号、2005年夏号、70頁
14)佐野『失われた昭和』:180頁
15)宮本常晴「父の写真」『写真・日記集成』付録、15頁
16)『写真・日記集成』上巻179頁
17)『写真・日記集成』上巻、339頁
18)『写真・日記集成』上巻、336頁
19)『写真・日記集成』上巻、171頁
20)『東北学』第4号、11頁
21)楠本亜紀「写真家・岡本太郎は存在するのか」『写真展 岡本太郎の視線』カタログ、東京都写真美術館、2005年、112頁
22)濱谷浩『裏日本』新潮社、1957年
23)岡本太郎「アマチュア写真かへの提言 写真らしい写真はつまらない」『フォトアート』1964年3月号