試評 2006.04.14 by 土屋誠一

須田国太郎は異様な画家である。その異様さは、同時代的動向に回収し得ないある反時代性ゆえに看取されるものであり、それが須田の絵画の特質を形作っていることは間違いない。では須田について、手放しで優れた画家であると言い得るかと言えば、必ずしもそうではない。その短いながらも決して少なくない作品を残した画家は、その画歴において常に充実した作品を継続的に生産し得たわけでもないのだ。しかし、ある達成を見せる幾つかの絵画においては、観る者の意識を繋ぎ止めるに足る、興味深い視点を持っているのは間違いない事実である。

須田の絵画の異様さについて、その素朴な理由を述べるのは簡単である。端的に言って、ほとんどの絵画においてもその画面が、徹底的に暗いのである。この暗さは、観る者を容易に寄せつけないほどであるし、そのことは、画家の生前より与えられた形容である、須田の絵画の「難解さ」という印象を導くであろう。須田の履歴に即して言うならば、例えば須田自身が所属していた独立美術協会[註1]が大枠としてのその特徴を示す、彩度の高いフォーヴィスティックな明快さは、須田の絵画に全く欠けている。では、その暗さが、ある抒情や詩情のような雰囲気を導き出しているかと言えば、そういうわけでもない。つまり、須田の暗さは何かに寄与するために与えられたものではないように見えるのである。一言で言ってしまえば、須田の暗さは、単に、無媒介的に「暗い」。

須田の画面の多くは、褐色のトーンが占めており、所々に置かれるより彩度の高い色、そして、しばしば画面前面か最後景に置かれる帯状の黒によって構成される。しかし、この画面の構成は一方で、非常に堅牢な画面を形成する。須田は最初期から晩年にかけて、多くの風景画を手がけているが、とりわけ1920、30年代の作品においては、暗く沈んだ前景のゆえ、後景に広がる光景(家並や山の斜面)のリアリティが強調され、独特なイリュージョンを発生させる。これは、しばしば指摘されるように、主としてバロック絵画を意識した明暗対比に基づくものであるのは確かであるが、バロックに見られるような劇的な光の効果とは随分印象を異にする。というのも、須田の絵画には確かに明暗の効果を認められはするものの、その効果の明瞭さは随分とぼやけたものであるからである。この不明瞭さについて、輪郭のはっきりとしない形体の描写や、彩度や色相の明確な対比を持ち込まず、画面の部分を除いてほとんど褐色から黒の無彩色との間のみで色を扱うことなどに、その理由を指摘することができる。しかしなによりも、絵画面の近くに目を凝らせば理解できるように、まるでクールベによるペインティング・ナイフでの擦れた塗りの効果を思わせるような、いや、それよりもさらに荒れた表面のテクスチュアは、ひょっとすると下層に描かれているかもしれない、あるいは、描かれ得たかもしれない明瞭な形体の立ち現れを想起させる。

この画家は、一枚の絵画に対して長い時間をかけて慎重に絵具を置き、効果が思わしくない場合には拭い取るか削り取るかをし、さらに絵具を置く、というプロセスを何重か経て画面を組み立てていくという。この漸進的なプロセスに付言すれば、須田は、一度発表された作品に対しても再度手を加え、絵画をさらに変化させるといったことすら行っている。ともあれその結果、現在残された絵画には、そのプロセスを経た荒れた表面が痕跡として記されるわけであるが、形体を区切る輪郭を隔てて全面的に展開する、その荒れたテクスチュアは、絵画を劇的な奥行きの効果よりも、平面的な薄い皮膜に、より近づけるかもしれない。あの使い古された平面性の神話。しかし、「近代」の画家である須田の絵画は、必ずしもその神話に馴染むものではない。成功した作品には、強烈かつ奇妙な奥行きの効果が、明らかに認められるのである。さらに言えば、この奇妙な効果は、他の同時代の画家の作品からは経験できないものでもある。では、この奇妙さは、一体画家自身のどのような目的に差し向けられているのであろうか。

京都帝国大学で深田康算に師事し、「写実主義」にかんする卒業論文[註2]を提出したのち、もとより画家を志していた須田は、プラド美術館でヴェネツィア絵画の実物を間近にすることを目的として、スペインを中心的な逗留地としたヨーロッパ外遊に出かける。須田の画壇デビューとしてしばしば言及の対象になる、資生堂画廊における個展[註3]で発表された、ティツィアーノ、ティントレット、エル・グレコなどの忠実な模写[註4]は、プラドで目の当たりにしたそれら名画との出会いによるものである。須田が参照点としたヴェネツィア派からバロックという、絵画の様式展開の歴史的期間は、描かれる対象の図像的含意よりも、絵画的効果への関心がより強い時期である。須田は、自身が残したテクスト[註5]の中でも、図像についてはほとんど問題視していない。語られるのは、油絵というメディアがいかに「絵画」を表象するのかという、いわば素材論的な観点である。またあるいは、「ルネサンスとバロック」という二項を様式論的観点から明確に腑分けした、ハインリヒ・ヴェルフリン[註6]の立場をそこから想起するかもしれない。さらに、須田の学際的バックグラウンドを指摘するならば、彼の卒業論文中にも述べられているように、コンラート・フィードラーの純粋視覚性の立場[註7]との関連を示すことができるであろう。当時の京都帝大の学際的な環境を考えてみても、須田が師事した深田康算は勿論のこと、なによりもフィードラーを自身の論文において重要な参照考とした西田幾多郎、とりわけその「純粋経験」という概念への寄与[註8]は知るところであるが、その西田が中心となる京都学派という知的環境の影響は――須田自身が西田をどの程度読んでいたかは不明であるが――無視できないように思われる。

ともあれ、奥行きの問題に戻ろう。先にも述べたように、須田は、後景のリアリティを強調して描く。この点に関して、写真機のカメラ・アイが捉えたイメージとの相同性を指摘している論者もいる。例えば田辺彦太郎は、須田が絵画を描く際、写真をよく参照していたという目撃談を述べつつ、須田の絵画の動的な性質はこの写真的視覚の故であると説明している[註9]。さらに例を挙げよう。マドリッドの考古学博物館の展示ケースの一隅を描いた<グレコ・イベリヤの首>(1931年)には、画面中程に縦に走る、二条の白い帯が見受けられる。展示ケースにかなり接近して描かれているので、絵だけ見てもよく判らないが、この絵画の明らかなモデルである、須田自身によって撮影された博物館内の記録写真を見ると、展示ケースのガラス面に反射した光を、写真に忠実に、白い帯としてトレースしていることがわかる[註10]。しかし、このような事実関係を基にして、須田の近代的視覚を指摘するというのはあまりにも早計である。この後景のリアリティは、写真の影響という視覚のメディア的条件に則って理解されるべきではなく、近代絵画の枠組の中でいかなる位置を占めるのであるかという観点で考えなければならない。

まず、後景の強調は、観者に対してどのような視覚的効果をもたらすか。通常、再現的な絵画は、そこに描かれる中心的な主題から連続的に他の対象へと無理なく連続して描かれる。あるいは、中心的主題から切り離されたその他の要素は、主題を取り巻く従属的な位置を占める。須田の絵画において、ある一点、その多くは画面の後景に位置することになるその強調は、観る者に奇妙な奥行きの感覚を与えるが、その奇妙さは、前景と後景が全く滑らかに連続していないという事実による。それは言い換えれば、再現的な奥行きのレイヤーは、各レイヤーそれぞれに、異なったリアリティを付与されているということでもある。山の斜面や家並を描くのは、距離ごとに立ち現われるレイヤーを、それぞれ異なるリアリティで描き分けるということからしてみれば、須田の方法論にとって格好のモティーフであると言える。あたかもアニメーションでセルを重ねて行くような、数えることの可能な複数のレイヤーを、須田の絵画は持っているのである。この点に関して、下山肇はアドルフ・ヒルデブラント[註11]による遠隔視/近接視という対立項を当て嵌めながら、須田の絵画について論じているが[註12]、須田のそれはその両者の総合というよりも、分離の強調である。例えば須田が近代絵画史上において、明らかに自らの制作に関連して意識的な対象としている画家にセザンヌがいるが、セザンヌの絵画においては、絵画平面上における知覚の分離を、筆触において総合し、結果的に個々の知覚のリアリティが画面全体として殺到するように仕向けるのに対し、須田の場合は、ある一点のリアリティを確実なものとするために、分離を分離のままとし、その差異によって強調された中核的リアリティを前面に押し出すのである。

須田の絵は暗い。その暗さは、ここまで見てきたような明暗の分離によるものであるが、では須田の絵画制作において、色彩の問題はいかに扱われたか。例えば岡部三郎は、須田の色彩について、次のように述べる[註13]。まず、須田自身の19世紀的な自然主義に対する関心は、印象派の絵画と深い関係を持つが、印象派、とりわけモネの絵画に見られる色彩の扱いは、描かれる対象の固有色から離れ、色彩の自立的な展開を見せる一方、対象そのものが持つ実在感を捨象することになる。そのため、対象の実在感が存分に描かれ得たバロックの時代へと回帰することになるが、そこで逆に獲得し得ないものは、陰影の中に埋没した色彩であるという。そこで、須田自身が滞欧期に盛んに模写した絵画、すなわちティツィアーノやティントレットなどヴェネツィア派の絵画に、色彩と形体との一致を遡行的に見出し、それを須田自らの絵画制作の規範としたと言うのである。しかし、須田の絵画を見ても、そこには、ヴェネツィア派が誇ったような、鮮やかな色彩は全くもって顕著ではない。結局のところ、須田の方法論では、色彩を描き得なかったのではなかろうか。なぜなら、先のレイヤーの分離は、対象のリアリティの度合をそれぞれ異にするため、例えばセザンヌが異なる色彩の階調を統一的な筆触においてなし得たような、色彩を総合するような地点を持ち得なかったからである。須田の絵画において色彩が明確に扱い得る場合は、そのような分離を分離としてそのままに、例えばしばしばモティーフとする花を描く時のように、明確な固有色を持ったものである場合には、あたかも塗り絵のように色が置かれる。しかし、そのように色彩が導入されたとたんに、須田独特の奥行きの感覚は台無しにされ、日本風のフォーヴによく見られるような、やたらと色ばかりを強調した退屈な画面へと堕することになるのである。

須田の絵の暗さは、すなわち、必然的な暗さである。須田は、自らの絵画において、対象のリアリティをいかに再現するかに腐心しつづけた画家である。そして同時に、そのリアリティを確保するために、色彩の達成は常に頓挫され、褐色の階調の変化のみに留まらざるを得ないのである。だが、なぜこのような事態に陥るのか。冒頭で、須田の絵画制作に関して、その反時代性を述べた。しかし、その反時代性は、須田自身もしばしば述べているように、西洋絵画という素材と技法、そしてなによりも歴史の堆積によって規定されたジャンルを、その外部にある日本というローカルな場において、いかに成立させ得るのであるかという問いに由来する。同時代性の名の下に、無媒介的に「現代」と接続することを退けるのであれば、少なくとも「近代」を歴史的な遡行を経た上でやり直すことを避け得ない。ここで注意すべきは、須田が西洋絵画に見ていたものは、様式的次元に還元し得る絵画史の要素のみを抽象した、その側面のみに限定されていたことである。いわゆるフォーマリズムを基礎とした絵画の近代とは、視覚的な特性に還元し得ないその他の要素を捨象してきた歴史であるといえるが、地域的コンテクストを異にする画家としての須田は、絵画の近代主義を別として、もとより還元主義的であらざるを得なかったはずである。例えば西田幾多郎的な「純粋経験」の場とは、地域的ローカリティを捨象した経験のリアリティのみを抽象する空間である[註14]。須田がしばしば強調する絵画の「リアリズム」とは、絵画の一思潮や主義を指すのではなく、経験の直接的なリアリティを絵画というメディアにおいていかに実現するのかという問いに他ならない。一見した反時代性は、逆転した近代の要請に基づくものであり、須田の暗さは情緒的に解されるものでは全くなく、近代において絵画を描くことの「暗さ」そのものとして、理解しなければならない。

【付記】 このテクストは、今年の1月13日~3月5日までの期間、東京国立近代美術館で開かれていた「須田国太郎展」を受けて書かれた。現在、福島県立美術館に巡回しており、5月14日まで開催している。

[註1]独立美術協会における絵画の傾向を手っ取り早く知るためには、以下のカタログが有用である。『近代洋画の歩み 1930年協会独立美術協会による』(朝日新聞社、1983年)。
[註2]この卒業論文「冩實主義」は、次の書物に収められている。岡部三郎『須田国太郎 資料研究(叢書「京都の近代」1)』(京都市美術館、1979年)。この書物は、須田という作家について書かれたものとしては最も基礎的かつ現在においても有用であり、本論においてもしばしば参考とした。
[註3]この第一回個展に関しては、当時のあらゆる資料を動員して再現された展覧会が、近年に行われているほど、須田を論じるにあたって必ず言及される展覧会である。再現展のカタログは以下。『第4回資生堂ギャラリーとそのアーティストたち 須田国太郎第1回個展再現展 図録』(資生堂企業文化部、1994年)。
[註4]須田が模写したティツィアーノの名作<ヴィーナスとオルガン奏者>(1555年頃)は、現在日本国内で開催中の「プラド美術館展」にタイミングよく出品されている。
[註5]美術史の研究者としても看做されていた須田は、多くのテクストを残しているが、主要なものは以下の書物に収められている。『近代絵画とレアリスム』(中央公論美術出版、1965年)。
[註6]ヴェルフリンに関しては、以下の二書を参照のこと。『ルネサンスとバロック イタリアにおけるバロック様式の成立と本質に関する研究』上松祐二訳(中央公論美術出版、1993年)。『美術史の基礎概念 近世美術における様式発展の問題』海津忠雄訳(慶應義塾大学出版会、2000年)。
[註7]フィードラーに関しては、以下を参照のこと。「藝術活動の根源」山崎正和・物部晃二訳『近代の藝術論(世界の名著81)』山崎正和編(中央公論社、1979年)所収。
[註8]西田の「純粋経験」の概念を知るためには、『善の研究』(岩波文庫、1979年)を参照のこと。
[註9]田辺彦太郎「須田国太郎の芸術」『須田国太郎画集』(京都新聞社、1992年)所収。
[註10]この記録写真は、以下の展覧会カタログに収められている。『須田国太郎展』(京都新聞社、1981年)。
[註11]ヒルデブラントに関しては、以下の著作を参照。『造形芸術における形の問題』加藤哲弘訳(中央公論美術出版、1993年)。なお周知の通りヒルデブラントは、先のフィードラーと深い友愛関係にあった彫刻家・理論家であり、下山がヒルデブラントを須田の絵画の分析において持ち出すのは、決して見当外れな例示ではない。
[註12]下山はいくつかの場所で須田についての論考を残しているが、ここで参照しているのは、そのテクストのほとんどが下山自身によって執筆された以下のカタログである。『検証・須田国太郎の《筆石村》』(静岡県立美術館、1996年)。
[註13]岡部、前掲書。
[註14]西田に関して言えば、この抽象化された「純粋経験」が、逆説的に日本の国体を護持する立場へと容易に転化する契機を与えることになるが、同様に須田の戦中の翼賛的なテクストについても同様の思考様式を指摘することができるであろう。この点に関して論じるのは、別の機会に譲らざるを得ない。