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“Street View” by 三島靖

outside the frame 2008.8.19:三島靖

 この文を、いまパソコンの画面で見ているかたには「Google Street View」の説明は不要だろう。
 8月初旬にこの機能の国内主要都市版が使えるようになったとき、パソコンを見てヒックリ返ったのも、わたしだけかもしれない。
 しばしヒックリ返った後、起き直ったわたしは、以後いかに議論が沸騰するか楽しみにしてきたのだが、これといって大きな世論の動きはないようだ。わたしが気づいていないだけで熱心に声を上げておられるかたがいたらこういう言い方は申しわけないが、最近なんとなく「世論」という言葉さえもが古い気がする。
 偶然にも、ひとつ前の文でわたしは、現在いかに作品として「ストリート」で撮影して発表することが困難になり、撮影そのものが自己規制されつつあるかという話を書いた。
 その文脈でも繰り返したと思うが、わたしはかなり以前から、非常に多くの日本人が、プライバシーの保全を根拠に未知の視線にさらされることを強く拒否するようになった一方で、セキュリティの保全を根拠に未知の視線に監視されることをまったくいとわなくなったという、奇妙に矛盾した態度を怖ろしく感じてきた。
「Google Street View」を歓迎しているのは、まさにそういう人たちではなかろうか。
 気色が悪いとはこのことだ。
 ちなみに私がヒックリ返ったのは、地図(Google Map)上の特定の場所で、地面に立った視線で周囲の眺めを見渡すことができ、マウス操作で画像を動かすことであたりを自在に見回しながら、あたかもその場所を歩むかのように道を進んでいけるという、その機能に驚いたからではない。
 パソコン上で画像を結合してパノラマ的視野を合成し、見た目でリアルに画像を動かせるという機能は、たとえばQuickTime VRという形でマッキントッシュ使用者には以前からよく知られていたし、Google Mapでも空から見た写真を地図と対応させてピンポイントで表示したりスクロールして見られる機能は実用化されていたから、画像の技術的進化はさして驚異には感じなかった。
 私が驚かされたことのひとつは、いったい何人のスタッフが動員されたのかは知らないが、顔も姿も数も見えない人びとによる組織が、たとえば東京なら東京じゅうのほとんどあらゆる道を複数のレンズをつけた球状のカメラ(であろう)を搭載した車で走り抜き、写真を撮り「つくして」しまったということだ。
 プライバシーとセキュリティという議論からすれば、旧東欧の秘密警察か、新しいところではスパイアクション映画「ボーン・アルティメット」で主人公のジェイソン・ボーンをあらゆる監視システムで追いかけるCIAに「やられてしまった」かのような不愉快さを感じるのが普通だろう。しかし一方で「Google Street View」は、たとえばアジェがパリで本来達成しようとしていた仕事を、あるいは現代日本でGPS装置を使って写真画像と地図をリンクさせ歴史的かつ有機的な都市の「マップ」を再構成しようとしていると聞く熱心な人たちのいくつかの試みを、完璧に実現してしまった素晴らしい「作品」なのではないか? 「無名性」とか「記録性」とかいった、写真家個人が撮った写真を「作品」と位置づけることに利ありとしてしばしば使われた言葉は、「Google Street View」に一瞬にして「総取り」されたのではなかろうか? 壮大なカネと時間を持つ組織の、無記名の不気味な意志と献身に、写真は結局、すべて吸収されてしまうのではないか?
 だが、私が「Google Street View」に驚かされた本当の理由は、もっと別のところにある。
 この「街路の眺め」には、人がいない。
 いや、人が写っていないというのではない、それは不正確だ。人の姿は写っている。ただし写った人は個人として存在しないように顔を消されている。顔があることを自動的に判断して「消し」を入れるソフトウェアが使用されているようだ。撮影行為そのものは無断だが、公道から撮っている限り写った写真はプライバシーの問題には抵触しないという判断である。実際の画像をみるとその論理には問題がないとはいえないが、公開された個別の映像に対して問題があるというユーザー側の指摘は受け入れ、実際に機能させながら落とし所をはかっていく、というのがGoogle側の考えだ。こうしたことも含め、まずは写されてしまった人が特定されないように顔を消す、ということは正当な配慮である。
 しかし、プライバシーだかセキュリティだか知らないが、わたしはこういいたいのだ。
 街路の人々の顔を認識し自動的に消す--それ、ムチャクチャ怖ろしくないですか?
 被写体が笑顔になるとカメラが自動認識しシャッターが切れるようにする機能が、デジタルコンパクトカメラにはよく装備されている。
 同じことだ。
 気色悪くて死にそうだ。
 認識するとは、隠蔽することだからである。
 そもそも写真は、デジタル技術の進化などには関係なく、そもそもの始めから、撮る行為によってことの本質をわざと見落とせる都合のいい可能性をうかがわせていて、そのことゆえにこそ、誰もが広く使うようになる装置だったのだ。

 この夏は遠出ができず、イタリア文学者がわたしの好きなイタリアを旅して書いた美しいエッセイ集「イタリアをめぐる旅想」(河島英昭/平凡社ライブラリー)を再読している。
 著者はトリノを訪れたとき、この街と深い縁のある作家、あの不安に満ちたリアリズムで「故郷」を書いたパヴェーゼが自殺したホテルの部屋を訪れて、こう書いている。

「急いで数回シャッターを切った。いつもあとで思い当たるのだが、シャッターを切ると何かを見逃してしまう。それで、そのときも、見るべき細部のいくつかを見逃してしまった。」(霧の拱廊)

 そして著者は、トリノ滞在中にシチリアを思い、岩波文庫版「カヴァレリア・ルスティカーナ他」の解説を書いたのだと書きつづる。
 その「カヴァレリア~」のオペラの舞台を、わたしは去年、初めて観た。
 できるだけ近いうちに、またシチリアに行こう。
 かつて行ったときはフェリーのストライキで、イングリッド・バーグマンが山頂で「前に進む勇気をお与えください」と叫んだ有名な火山島、ストロンボリに渡ることがついにできなかったのだ。
 わたしには本来、カメラは必要なかった。旅行の写真を撮る習慣もなかった。
 グラフ雑誌の記者となり、のちにカメラ雑誌の編集者となって、その仕事が長くなるにつれ、仕事のために仕組みを知るなどといってカメラを買うようになり、いつしか「どこかで見たふう」な写真を撮るようになってしまったのだ。
 さいわいシチリアにはまだ「Google Street View」のマークがない。
 もちろん、石畳の路地の片隅からいつも見るともなくこちらを見ている、あの怖ろしい無言の視線たちをまったく無視して「写真カー」が走れるはずはないと、思ってはみるのだが。