時評 31 “さよならロックンロール” by 上野修

†このところたまに聴いているのが、Stanford on iTunes。けっこう面白いのがある。たまに見ているのが、NBA.com: Video Podcasts 。NBAは現存する全試合の記録映像デジタルアーカイブ作成をはじめていて、ファンがオリジナルのハイライト映像を作ることもできるようになるらしい。同じような試みを日本の大相撲がやったりすると、絶対世界的にウケると思うのだが。

†少々時期外れの話題だが、ループする話題でもあるのでいつ書いても悪くはないだろう。金で買えないものはあるか。もちろんある。金である。金は金で買えない。ゆえに、蓄財する守銭奴はロマンティストである。こういうロマンティストを批判する者もまたロマンティスト、ナイーブなロマンティストである。ナイーブな、というのをわかりやすくいえば、あさましい、ということだ。こんなことは、誰でも書いているようなことだが。もちろん、誰でも書いているようなこんなことを書く輩も、当然あさましい。

†ナイーブであさましいといえば、昨年のある展覧会について書かれたいくつかの反応と批判と。たまたまいくつかのそれらを読んでしまったが、何とも気分が悪い。場末のスナックのママに説教されて、帰り道に嘔吐物を踏んでしまったような気分。

†先日ある本を読んでいたのだが、そこで一番興味深かったのが、昔写真集を作ったときに、出版社に渡してしまったので、プリントはおろかネガも残っていないというくだり。現在では驚くような話かもしれないが、特にジャーナリズムの分野では、数十年前まではこういうのが普通だったのだろう。要するに写真は作品ではなく、原稿だったということだ。原稿というのは、つまり本を作るための素材ということだろう。
文字の原稿の場合でいうと、自分の経験では、これまでに一度も原稿が返却されてきたことはない。返却してくれなどと言ったら、よほどの変人か、面倒くさいヤツと思われていたことだろう。タイプライター文化の人たちなら、カーボンコピーを作っていたのだろうが、日本の場合はどうなのだろう。コンビニもコピー機もそれほど昔からあったわけではないのだし。と、こんなことを考えていたら、名物編集者が人気作家の直筆原稿を売っていて、大量流出していたというニュースが(しかしこの大量流出という見出しはいかがなものか。煽ることだけを考えているのだろうが、どんなに多作な作家でも大量の直筆原稿などあるまいに)。
つまるところ、原稿は誰のものか、ということなのか。日本の場合は、原稿の内容についてすら、けっこうあやふやなのではないだろうか。いわんや、原稿というモノをや。原稿とは概念であり、それは読者のものなのだ、とでも言っておこうか。
それはそれとして、話がそれたが、興味深かったのはそういうことではなくて、写真集にしたからネガが残っていないという逆説である。写真集にしていなかったら、ネガは残っていたかもしれない。が、この場合は、その写真は知られることもなく、ネガの価値も薄れたことだろう。では、当時の出版社が重要性を認識していて、ネガに限らず制作のための素材をすべて保管していたらどうだろう。おそらくは、増え続ける素材の保管・整理に莫大な労力とコストがかかっていたことだろう。と、どのように考えてみても、逆説しか出てこないところが、興味深かったのである。

†小説の賞を受賞したある作家が、80年代に小説が急速に変貌し、エロと人殺しの話ばかりになったので、こういうところにいたくないなと思った、とエッセイに書いていた。そういう身の処し方もあったのだ。と言えるのは現在だからであって、当時の自分はエロと人殺しの小説ばかりを読んでいたのだから、そんなことに気づくはずもない。
その後、その作家が80年代か90年代に書いたエッセイ風の評論をたまたまた読んだのだが、上手くて賢くて、嫌になるくらいの絶品で、じっさい嫌になって読むのをやめてしまった。なぜ発表当時にこれを読んでいなかったのだろう。気づくはずもなかったからだろう。

†「見そこないとは、見ているものを見ないことであり、見そこないはもはや対象にかかわるのではなく、視覚にかかわる。見そこないは見るに関わる見そこないである。見ないことは見ることの内部にあり、それは見ることのひとつの形式であり、したがって見ることとの必然的関係のなかにある」(ルイ・アルチュセール「資本論を読む」)。

†うろおぼえで、どうしても思い出せなかった一節を、偶然見つけた。「近代は、性的な言説こそが真実の言説だと見なされる時代である」(ミッシェル・フーコー)。これは孫引きなのだが、検索してみてもヒットしない。もともとはもうちょっと違う文章なのだろうか。
性と自己、前世紀の遺物。さよなら、セックス、ドラッグ、ロックンロール(な人たち)。