時評 28 “道なり” by 上野修

以前、助手席で道案内をしていたときに、「そこ、道なりにね」と言ったら、「え?道なりって何?」と聞き返されたことがあった。道なりとは何か、説明しようとするとなかなか難しい。広辞苑によると、「道のまま、それに沿うこと」とあるが、これもあまり上手い説明とは言えない気がする。

「道なり」と言えば、「自分なり」という言葉もある。「道なり」の意味に倣うなら、「自分のまま、自分に沿うこと」といった意味になるのだろうか。道に沿うというのは、誰かが道に沿うのだから、まだ何とか意味がわかるが、自分が自分に沿うというのは、いったいどういう意味だろうか。考えれば考えるほどわからなくなる。

自分が自分に沿うこと、それは可能であり、不可能である。なぜなら、自分はすでに自分に沿っているからこそ自分なのだから。にもかかわらず、「自分なり」という意味不明の言葉があえて使われているのはなぜだろうか。その理由は、はっきりしているように思う。それは、「自分なり」であることが、暗黙に正しいこととされているからである。

この正しさは危険である。「自分なり」という言葉は、かつてはおそらく何かの対立項として使われたものであろう。対立項として正しさが主張されるのと、そのものの正しさが主張されるのでは、根本的に位相が違う。

「自分なり」であることそのものが正しさを担っている場合、「自分なり」であろうとしたとたん、あぶりだされるのは「自分なり」ではない自分である。「自分なり」であろうとすればするほど、自分はふたつの存在に引き裂かれてしまう。その結果、「自分なり」である自分は、より「自分なり」であろうとするほかない、という循環に導かれることになるだろう。

このような引き裂きと循環は、近代に宿命的な自己教化のプロセスでもある。正しさに裏打ちされた「自分なり」が危険なのは、この自己教化のプロセスのもっとも圧縮されたものであり、教化のための教化へと瞬く間に自己を導くからだ。教化のための教化とは何か。それは暴力そのものである。「自分なり」であろうとしたとたん、自己が識ることもできない意識の闇のなかで、暴力の嵐が吹き荒れる。