試評 2005.05.28 by 土屋誠一

既に2ヶ月以上前の話題になってしまったが、遅ればせながら取り上げる。松江泰治の新作作品集が、2点同時に刊行された。2冊とも、森山大道のレゾネを刊行した、大和ラヂヱーター製作所を発行元とし、写真集としては、手頃に入手できる価格が設定されている。タイトルは、サバンナや砂漠、岩場など、その多くが人の手が入っていない、未開発の自然の光景が写し撮られたほうが『gazetteer』、高層ビル群や住宅がひしめく都市の光景のほうが『CC』と名付けられている。前者は「地名辞典」を、後者は “City Code” の略、すなわち空港で使用される都市のコード名を示している。

帯文には森山が文章を寄せている。参考に、それぞれの文句を記しておこう。「あまりにも、あまりにもドラスティックなトポグラフィー。」(『gazetteer』)「この視界は、ほとんど都市を暴くビジュアル・スキャンダルに他ならない。」(『CC』)この森山の表現は、キャッチ・コピーとしては的確に松江の写真を表現している。しかし、この2つのコピーは、それぞれのシリーズの差異を抽出しているが、実質的にはこれらの写真に差異は無いように見える。いや、次のように言ったほうが、より正確かもしれない。モティーフの明らかな差異を持った、これら2つの作品群は、その差異を差異として了解するよりも、この差異を等価なものとして読んだほうが、より興味深い、と。

松江の作品の特質を語る際に、人間の視覚を超えた視点という評言が多いように思われる[註1]。しかしながら、それぞれを注意深く見れば、その全てではないにせよ、多くの写真の中には、撮影者の位置が測定できるような指標が、各々の画面に含まれていることが分かるであろう。地表を超越的な視点で統御するような主体が存在するというのは一種の錯覚であり、実は、撮影者の位置が、目立たないながらも、しかし確実に記されていると言ったほうが、より正確な特徴を言い当てることになるのではなかろうか。今回の作品集で言えば、『CC』のほうは勿論であるが、より被写体との距離が測りづらい『gazetteer』のほうであっても、注意を凝らして見れば、例えば動物や住居や木々のサイズによって、その大まかな距離を推測することができる。『gazetteer』の写真が興味深いのは、松江の作品に特徴的な、視点の「高さ」のみならず、乾燥しひび割れた大地や、水際の水面を撮影したような写真に見られるように、ほとんど足元から広がる水平面を捉えたような、より近接した視点、言い換えれば、視点の「低さ」さえも、そこに含まれているということだ。しかも、この高低の落差を持った写真の系列は、それぞれ隅々まで焦点が合わされていることによって、一様に平面的なパターンとして認識され、遠近法的な奥行感がほとんど示唆されない。被写体との距離を異にするこれらの写真は、それ故に、ほとんど等価な二次元的表象として、認識されることであろう。そこから抽出される差異は、ただ高い低いというよりも、より抽象的な「距離」の差異である。超越的な視点が、人間の視野を超えた視界を表象することであるとすれば、松江の写真に表される視点は、決してそのようなものではなく、むしろ被写体との測定可能な概念としての「距離」という、数量的な差異の表象である。

一方、『CC』の方はどうか。都市を撮影した後発のシリーズ[註2]であるこちらは、先行する松江の写真と比べて、より場所の固有性を強く喚起させる。ほとんど同様の手続きを経て撮影されたようなこの2つのシリーズではあるが、この違いは、都市のランドマークとして機能する高層ビルディングの特徴的な造形や、広告板などに散見できる文字、あるいは、建築様式の時代的・地域的相違において、とりわけ顕著である。ここで、今回の2種の作品集における、デザイン上の相違を見ておこう。『gazetteer』は、ソフト・カヴァーの装本で、袋綴じに製本されており、全て断ち落としで写真が配列されている。そのため、撮影場所も被写体との距離も異なる写真が、見開き、あるいは頁の表裏で連続したことなる写真さえも、一枚の抽象的な平面パターンのように見えてくる。すなわち、一つのフレームが構成する個々のイメージの自律性は、レイアウト上の操作によって、疎外されていると言って良い。一方『CC』は、ハード・カヴァーで製本され、頁ごとに周囲に余白を残し、各々のイメージはそれが内在的に導き出す固有性において、自律的に扱われている。

しかし、より注意深く見ると、このような判断が、次の要因によって一筋縄ではいかないことが分かる。一見自律性を欠いた『gazetteer』には、個々のイメージに対して、撮影された場所や年代、また作品番号が、むしろ場所や歴史を明確に規定するかのように、詳細に記されている。対して、場所性がより強くあらわれている『CC』においては、イメージに付随する情報として、まさにタイトル通りに記号化されたシティ・コード、すなわち “NYC” や “PAR” や “TYO” といったコードに還元されており、あとは単に作品の(恐らく)通し番号が記されているだけである。

『gazetteer』と『CC』は、相補的な関係にある。前者の風景が表わす無個性さには、明確に固有名が記されている一方、後者の一見個性的な風景には抽象化された固有名、或いは記号化された、無個性的な固有名が対応するのである。つまり、風景と撮影データの固有性と非固有性との対応が、ちょうど反転して各々が対応するような構造になっているのだ。しかし、このほぼ同様の手法で撮影された写真は、被写体の属性(都市であるのか、あるいは自然の風景であるのか)によって分類されているだけで、実は風景の属性そのものには取り立てた意味はなく、ほとんど等価の対象としてたまたま選別されているだけなのではないだろうか? ひょっとすると、この二つの系列の作品群は、一つの統一的な作品データを持つべきなのかもしれない。例えば、すべてのイメージに対して特定の場所の名が記されていれば、個々の場所の差異が際立つであろうし、逆に記号化・抽象化された地名が記されていれば、イメージもまた、中性化された等価なものとして認識されるであろう。しかしながら、松江が作品データにおいて試みているのは、このような表象されたイメージと、文字が示す指示性との一致ではなく、このような一致は恣意的に設定されるものであり、そしてその一致という慣習的な信仰を、決定不可能にするということであろう。それでは、この決定不可能性は、いかなる目的に対して差し向けられているのであろうか。

松江は以前、自らの作品制作におけるプライオリティを、イメージの完成度よりも、作品制作に派生する「地名」の収集に置いていると語っていた[註3]。一枚のタブローとして見ても、高い完成度を持つ松江の作品は、このタイトルの偏差において、それぞれのイメージ、さらにはこの二つのシリーズそれぞれの固有性が、むしろアーカイヴァルなイメージの束として把握されることを示すであろう。先に指摘した松江の写真における等価性とは、いわば形成されたアーカイヴの中に、個々のイメージが代入されることによって発生する性質であると言えよう。まさにこれらは、収集(コレクション)の欲望の反映であるように見える。

世界を一望するような俯瞰写真の撮影そのものは、勿論さほど新しいことではない。既に19世紀中頃において、ナダールによる気球写真が撮影されていたように、この世界を俯瞰することは、近代において胚胎された欲望である。ただし、写真のような近代以降の視覚装置による俯瞰の欲望が、現実の世界と表象されたイメージが完全に一致するという信仰を前提とすることによって満たされていたとするならば、松江はむしろ、そのような世界とイメージとの一致を切断しようと試みているように思われる。つまり、イメージに土地の具体名と撮影年代を一方で記すことによって、特殊な空間と時間を示唆しつつも、もう一方では撮影年代を廃し、場所の名を抽象化することによって、例えば空港で指示される記号化された地名と実際の場所が実際には隔たっているように、表象と表象される現実との癒着を、切断するのである。

ところでこのような切断は、現在のメディア環境化において、どのようなアクチュアリティを持ちえるのであろうか? 表象と現実との同一化が、イメージの内部においてだけではなく、現実の世界をも侵食しつくそうとしている現在において、この切断を、「写真」という表現メディアに特殊な批評性であると、ナイーヴに肯定することができるであろうか? この現実を見ずに、「写真」というジャンルの自律性を信仰することは、原理的に言って不可能である。なぜならば、例えばデジタル・メディアにおいて、写真の特殊性を確保してきたインデキシカルな機能が失効しつつあることが示すように、写真を「写真」として確定することが、より困難になりつつあるからだ。もし、このような場所や時間の固有性を抹消することに対して抗おうとするならば、我々は――例えば歴史が保障してくれる大文字の「写真」のといったような、囲い込まれた地点に退行するのではなく――別の場所や時間を見出さなければならないであろう。このような場所や時間を確保し、さらに一旦確保された場所を不断に読み替えていく作業において、例えば写真という「実践」を位置づけることは、いかにして可能なのであろうか? 我々は、この問いを実践において思考することで、アクチュアリティへと接続しなければならない。

Taiji Matsue, gazetteer
Taiji Matsue, gazetteer
Taiji Matsue, cc
Taiji Matsue, cc
[註1]試みに、そのいくつかを抜き出してみよう。「この特異な鳥瞰の視野は、人を超えた超越なるものに近づいていて、今日的な環境問題を示唆する地球的スケールの優れたドキュメントでもある。」(土田ヒロミの評言。『アサヒカメラ』2002年4月号。) 「切りとられ、凝縮されて、人間的なスケールでそれをみることはかなわない。」(山本さつきの評言。『美術手帖』2002年3月号。)勿論、これらの評言は、松江の写真のある側面を説明するものであり、不適切であるわけでは全くない。
[註2]最初の発表は、2002年のTARO NASU GALLERYでの個展であるとのことだ。
[註3]「松江泰治 地名コレクターの孤独な旅」『芸術新潮』2002年9月号。

※この出版に併せて、東京・表参道の“NADiff”において個展が開催されている。(http://www.nadiff.com/archives/2005/matue/matue.html)また、この展覧会の直後から、ドイツのMuseum Schloss Moylandにおいて、『gazetteer』と『CC』のシリーズ両者を出品している個展 “landscapes” が開催されているようであり、同時にカタログも刊行されている。