Revised Edition “不純な写真家、ヘンリー・ピーチ・ロビンソン” by 甲斐義明

写真で何かを表現したいと考えている人たちにとって、写真は芸術なのかという議論は未だに避けて通れないところがある。そして、それは写真術の発明が公表された1839年以来、繰り返されてきた問いでもある。
芸術の定義自体が流動的で曖昧なものなってしまって久しい今日では、「写真は芸術か、否か?」などという問いが無意味であることは理解しているはずなのだが、ダイアン・アーバスのオリジナル・プリントに数千万円の値段がついたり、あるいは逆に、写真を蔑視する美術関係者も依然たくさんいたりすることを考えると、芸術の枠組みとはまったく無縁に、写真で何かを語ることも、写真について何かを語ることも、とても困難なことのように思えてくる。

写真には固有の美的表現力があり、絵画を模倣する必要など全くないという、20世紀初頭の写真家たちの高邁な理想は、写真の理想というよりは、モダニズムの理想であった。そこでは、絵画、彫刻、音楽、建築がそれぞれの固有の特質を展開させることが求められ、写真もその末席に加えられたのである。
しかしそれによって、上に述べたような、写真と芸術との抜き差しならぬ関係は決定づけられたと思う。写真家たちは写真固有の表現、写真にしかできないことを追求する必要に迫られつつも、現在進行形のアートワールドから隔絶した場所において、それを行うことは不可能になったのである。そのこと自体は、良いこととも悪いこととも思えないとはいえ。

問題があるとするならば、写真の固有性を追求することが、まるで写真家の唯一の正しい態度であるかのように、未だに信じられているところがある点である。絵画の固有性や、彫刻の固有性というものが疑われてきたのと同程度に、写真の固有性は疑われてきただろうか。写真の芸術としての元来の地位の低さゆえに、写真は自らの地位と権利を声高に主張してきたが、そのことが逆に写真の利用の可能性を狭めてしまってはいないだろうか。

「写真らしさ」、「写真にしか出来ないこと」などといった機能主義的な概念に頼らずに、それでもなお、写真が我々に与える魅力や衝撃を語るには、どのような言葉が必要なのだろうか、と思う。それは、いわゆるハイ・アートの感動とは別種のものと感じる時もあるが、上に述べたように、同時代の芸術概念とまったく無縁に写真を鑑賞することは甚だ難しいことでもある。

写真と芸術との関係を考えるとき、今ではほとんど忘れられてしまった一人のイギリス人写真家のことが頭に浮かぶ。名前は、ヘンリー・ピーチ・ロビンソン(Henry Peach Robinson 1830-1901)という。

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「消えゆく」という1858年の作品がある。1858年というと、写真術の発明が公表されて20年にも満たない時期だ。写真史の本でロビンソンについて語られる時、この作品とともに取り上げられることが多いので、現在では彼の代表作となっているが、ロビンソンの“芸術写真家”としてのキャリアは「消えゆく」から始まった。
「消えゆく(Fading Away)」少女の命を、家族かあるいは召使の女性が、どちらかといえば無表情な面持ちで周りからそっと見守っている。窓際には、少女の父親だろうか、男性が後ろ向きに立っているが、その表情を伺えないために、見るものに不安な感じを与える。少女を冥界へと連れ去る死神なのかもしれない。その証拠に、男の脇に置かれた花瓶の花はすっかり萎れてしまっている。重々しいカーテンの隙間から覗く空模様も不穏だ。
それに対して、臨終を迎えつつある少女の表情の何と安らかなことだろう。少し開いた口元からはエロティックな匂いが漂う。この写真のオリジナルプリントに初めて向かい合った時、私は印画紙の様々な細部に目を近づけて、ゆっくりと吟味した。
当時、写真家たちに浸透しつつあった、アルビュメンプリント(鶏卵紙)とコロジオン湿板と呼ばれるガラス板ネガの組み合わせにより、現在の写真と比べてもほとんど遜色のない紙写真がすでに得られるようになっていた。「消えゆく」の繊細な細部も、そのような写真技術の発達に負っている。

実を言えば、写真史の記述において、ヘンリー・ピーチ・ロビンソンほど批判的に語られてきた写真家もいない。その作品は、センチメンタルで、わざとらしく、キッチュで、前近代的であると非難されてきた。何よりそれは「写真らしく」ない。ロビンソンが、「合成印画法(Combination Printing)」と呼ばれる合成写真の手法を積極的に奨励してきたのも、後世の“シリアス”な写真家たちの眉をひそめさせる要因となった。上では触れなかったが、「消えゆく」も5枚のネガを1枚の印画紙に焼きつけることで作られたイメージである。
しばしば誤解されているようだが、当時の芸術志向の写真家たちが、こぞってこのような合成写真の制作にいそしんでいたわけではない。ネガの感度の低さと、レンズの焦点距離の長さゆえに、いわゆるパン・フォーカスの写真は技術的に不可能だったため、たとえば前景と背景の合成などは、しばしば行われていた。けれども、ロビンソンのように5枚を超えるネガをパズルのように組み合わせて、一枚の「写真」を作り上げることは、ストレート写真の概念など存在しなかったヴィクトリア朝のイギリスにおいても、ラディカルな行為であった。(敢えて「ラディカル」と呼びたい。)当時の美術雑誌をざっと見ても、「こんなものは写真ではない」という非難が目につく。
にもかかわらず、「消えゆく」以降、40年以上にも及ぶ写真家としてのキャリアにおいて、ロビンソンは「合成印画法」の手段としての正当性を一貫して主張しつづけた。彼は死ぬまでに10冊ほどの写真芸術論や撮影ハウツー本を出版し、アマチュア写真家たちの好評を博したが、それらはロビンソンが自説を繰り広げる場でもあった。(「写真における絵画的効果」(1869年)を始めとするロビンソンの著書は、写真に対する現在の感覚からすれば「奇書」に近いが、写真の芸術性という難問に対して核心を突いているところもある。)

しかしながら、芸術写真家を自称したロビンソンの選択は、社会的文脈の中でとらえ直してみるならば、むしろ実際的とさえ言えるように思われる。少なくとも、写真の芸術性を履き違えた奇矯な夢想家というイメージは正しくなかろう。
20年代半ばで商業写真家として自らの写真館を構える以前には書店員として働いていたロビンソンは、出身階層としては決して高い位置には属さなかった。これは、写真術の発明者のひとりであるヘンリー・フォックス・タルボットが地主階級としての余裕にまかせて、カロタイプの実験にいそしんだのとは全く異なる状況である。
ロビンソンは写真を撮らないと食べていけなかった。矛盾めいた言い方になるが、だからこそ、芸術を志向したのである。ロビンソン自身の述懐によれば、技術的に簡便な名刺板写真が普及し、また、経済全体の不況もあって、1870年代には写真館は過当競争の状態に陥り、その多くが廃業に追い込まれたという。その苦境下において、ロビンソンは単なる技術者ではない、芸術家の端くれとして自らを位置づけることで、他の商業写真家との差別化を図り、なんとか生き残った。
つまり、「消えゆく」をはじめとするロビンソンの“作品”は自身のプレゼン資料でもあったのである。彼は主にアマチュアによって組織された写真協会の年度展に、入念に制作した写真作品を発表しつづけ、それらを自分の写真館のショー・ウインドウに展示した。
そのような意図を含んで作られた作品であるから、図像的には極めて保守的である。保守的というのは、ヴィクトリア朝文化華やかなりし頃の絵画のモードを完璧に遵守しているということである。(これを模倣と切り捨てるのは避けたいと思う。)私たちはヴィクトリア朝の前近代的な絵画などには、あまり関心を持たないように教育されているので、なおさら「消えゆく」のわざとらしさとわかりやすさに違和感を抱くが、主題といい、構図といい、見事なまでに、画家たちが目指したことを、写真を使って実現している。
もちろん、ここで例の「合成印画法」の使用が問題となるのだが、ロビンソンの弁によると、それが合成写真であることは普通の観客には見抜くことができない。確かに、よりテクニックを磨いていった晩年の作品になると、ネガとネガの継ぎ目はほとんど識別できないように加工されている。そのうえで、あえて自ら種を明かすことで、写真家の芸術家としての権利と能力を根拠づけようというのが、まさに彼の意図だった。

さて、随分とロビンソンに肩入れしているように思われるかもしれないが、本当のところ、時代的文脈において、それが写真家の自然な選択であったかどうか、などは私にとってどうでもよい。告白してしまうと、ロビンソンの“写真”に私が惹かれるのは、それが、センチメンタルで、わざとらしく、キッチュで、前近代的だからなのである。キッチュであることがコンテンポラリー・アートの一つの条件でさえあるような、今日の状況下において、こんなに面白い写真家をどうして無視していることができようか? 
絵画とみまがうような写真を制作することで、芸術家としての地位を主張したロビンソンは、やはり小者であったのかもしれない。だが、そのような事実とは無関係に、彼が残した100点近くの作品が放つ独特な魅力は、私をとらえて離さない。それに気づいたとき、「写真らしさ」とはいったい何だろう、と自問せざるを得ないのである。それでもやはり写真家は「写真にしかできないこと」を目指さなくてはならないのだろうか?

参考文献
Margaret F. Harker , Henry Peach Robinson: Master of Photographic Art ,1830-1901 , Basil Blackwell , 1988