時評 24 “カタカナ” by 上野修
たしか小学生の頃だったと思うが、はじめてヴァイオリンという文字を見たときは驚いた。ヴ?…何と読めばいいのだ?…。おそらくバイオリンのかっこいい書き方だろうと推測してはみたものの、読み方は見当もつかない。濁点から類推してグァイオリンと読んでみたものの、どうも違っているような気がして、それ以来しばらくバイオリンという言葉を口にするのが憂鬱になってしまった。
ヴァイオリンほどではないが、中学生になってルネサンスという書き方を教科書で見たときも驚いた。これはきっと間違いだろうと思ったが、板書もルネサンスだ。先生の発音はどう聞いてもルネッサンスなのに…。
大人になるにしたがって、いちいち驚かなくはなったが、発音と表記が違うカタカナが多いことにはずっと驚かされている。ウォーホールではなくウォーホル、コンピューターではなくコンピュータ。ある日、そうした書き方に気づき意識的に見てみると、たしかにほとんどの場合そう表記してあり、平気でコンピューターと書いていた自分の無知が気恥ずかしくなってくる。
発音と表記が違う以前に、どうカタカナで表記するか定まっていない場合も多い。メイプルシロップではあるまいし、Mapplethorpeをメイプルソープと読むなど音韻学的にもありえない、どう考えてもマップルソープだろうというようなことを有名な知識人が書いていたのを読んだ記憶があるが、けっきょくは本人がメイプルソープの方が近いと言ったとか言わないとかで、現在はメイプルソープに落ち着いているようだ。本人に確かめるといえば、古い話だが、ある日メディアがいっせいにリーガンからレーガンに表記を変えたこともあった。だが、本人がそう言ったというのはどれほどあてになるのだろうか。しょせんはどちらも違う発音なのだから。
それはともあれ、表記が定まっている場合はまだいいが、時代とともに表記のバリエーション、というかヴァリエーション、というかヴァリエイションが増えてしまっている場合は困ってしまう。例えば、Duane Michalsを検索してみると、たった60件足らずの検索結果のなかに、デュアン・マイケルズ、デュアン・ミカルス、デュアン・マイカルズ、ドゥエイン・マイケルス、ドゥェイン・マイケルズ、デュアンヌ・マイケルスといった表記が出てくる。いったいどれを使ったらいいものか。
表記は定まっているものの、あるこだわりから違った表記がなされる場合もある。メールをメイルと書いたりするのがそれだ。なぜそう表記するのかわからなくて、検索してみたところ、メイルは自動的にメールに変換されるらしく、こだわりの理由を知るにはまったく役に立たなかった。メールと書く人から見るとメイルと書く人がどこかにこだわりがあるように見えるように、メイルと書く人から見るとメールと書く人は鈍感で無頓着に見えるのかもしれない。そう考えると、メイルと書かれたメールに返信するときは、メールと書くと開き直っているのだと見えやしないかと思い、かといってその時だけわけもわからずメイルと書いて同調するのも変だろうし、これまた憂鬱だ。
McDonald’sがマクドナルドと表記されマクドやマックと略され、イー・メールがメールと略され、そのくらいならまだしも、ファーストキッチンがファッキンと略され、若者だけでなく中年までもが嬉しげにそうした略語を口にしているこの国で、そもそもカタカナ表記の工夫やこだわりがどれほどの意味があるのか。そんなことを考えることすら疲れるので、ぼくとしては慣用に合わせようと思うだけだが、それでもやはりレベルと書くとレヴェルが低いと思われるのではないかと不安になり、かといってヴェルヴェットやヴィヴィアンなどと冗長な書き方をするのもまた気恥ずかしい。それというのもネガティブであるはずの差異が、カタカナになるとネガティヴにポジティブに顕在化してしまうせいだろう、と言ってみたところで、なかなかポジティヴにもなれないのだが。