時評 23 “平年” by 上野修

 今年の夏は暑かった。
 今年の冬は寒いだろう。

季節が変わるたびに、暑い寒いと毎年繰り返しているが、そもそも天気予報などで基準として使われている平年とは何だろう。実は平年にはWMO(世界気象機関)によるきちんとした定義がある。

平年値とは西暦の1の位が1になる年から30年間の平均で10年ごとに更新される。つまり、現在使われている平年値は1971~2000年の平均である。この平均はたんに足して30で割ったものではなく、例えば気温なら高い方と低い方のそれぞれ9年分を捨て、残りの12年分で平均を求めることになっている。

異常気象についても、それなりの定義がある。気象庁は「過去30年の気候に対して著しい偏りを示した天候」、WMOは「平均気温や降水量が平年より著しく偏り、その偏差が25年以上に1回しか起こらない程度の大きさの現象」、としている。

ところが最近では、25~30年以上に1回しか起こらないはずの現象がしばしば観測されるので、異常気象という言葉も頻繁に使われるようになってきた。それに乗じて、異常気象と呼ぶべきでない程度の偏りも、異常気象と呼ばれてしまうことがある。異常気象に注目しそれを予測すること、原因を解明して可能であればその対策を練ることは、確かに重要な課題に違いない。しかし同時に、異常気象という言葉の乱用は、いたずらに危機を煽るだけだろう。

先にふれたように平年というのは平均値であって、じっさいにはそれに収まるような年の方がずっと少ない。冷夏だった去年や、暖冬だった今年はあっても、平年という年はないのだ。にもかかわらず、平均値を見ると、それを実体的に捉えてしまいがちである。

例えば、平均的体型の数値を見ると、それに収まる人がたくさんいるようにも思えてしまうが、そうではない。平均的な体型の人こそ少数派なのである。普通の人というイメージについても同様だろう。じっさいにはどこにも存在しない普通の人に比べれば、誰もが多かれ少なかれ変わり者なのだ。近代というのは、個性的であることを強いられる時代だ。しかし自ら求めるまでもなく、多少変わっていることは、実はとてもありふれたことにすぎないのである。

いささかこじつけめいているが、平年に比べてどうのこうのと異常気象という言葉が乱用されているのを見るにつけ、現代人の異常さ非凡さといった個性への憧れを感じてしまう。というのも、このところ歴史的快挙や歴史的記録がやけに多すぎるし、百年に一度の天才・鬼才・奇才・異才も、どうも多すぎる気がするのだ。人間の偉業も気象のように、百年に一度しか起きないような現象が頻繁に起きているわけでもあるまい。もし、こうした現象のなかに異常なことがあるとするなら、むしろ、ありふれた異常さに異常に憧れてしまうような、その平凡さではないだろうか。