時評 21 “個人” by 上野修

条件反射的にヒステリックな嫌悪感を覚える言葉がある。「個人的」という言葉がそのひとつだ。

個人的には…、という言葉を読んだり聞いたりした瞬間に、個人的というのはいったい何だ、それではそこまでの言葉は公的なものなのか、個人と公人と二重化しているのか、そもそも個人を強調することが必要なほどしっかりした建前があるのか、だいたい個人的と言うときのその誇らしげな表情は何だ、といった想いが一気に押し寄せ、自分の方が憮然とした間抜け面をさらけだしてしまう。

冷静になって、個人的というのは控え目に自分の意見を言うときに使うのだという説明を読んだりすると、なるほどとも思うし、実際、個人的(personally)という言葉を用いた感動的な文章だってある。条件反射的に反応してしまうのは、例えば、嫌な奴の名前がたまたま上野だったりすることが何回かあると、上野という奴を全部嫌いになってしまうようなものなのだろう。

とはいえ、この嫌悪感の理由もないではない。そもそも何かを語るときには不可視だが自明の前提として、〔私は~と語っている〕という語りが貼りついている。ということは、個人的とあえて言っているときには、個人と公人という二重化以前に、〔私は個人的に~と語っている〕と自分を二重化しているわけだ。私と個人をいかようにも行き来できる語りには、どこにも責任(responsibility)が生じようがない。なぜなら、不可視の〔私は~と語っている〕という語りから生じる理不尽な責任を負うからこそ、個人が成り立つのであり、それゆえ二重化されてしまった個人はすでに何の問いにも応える(response)必要のない、欺瞞にまみれたものだからだ。

しかし、やはりこの理由は私にとって建前にすぎないのだろう。というのも、「個人的」を凝縮したかのような「私的」という言葉や、「僕」をわざとらしく開いて個人を強調したように感じる「ぼく」という言葉には、「個人的」という言葉に対するような嫌悪感は覚えないからだ。

では、「私的」や「ぼく」には何も感じないかというと、そういうわけでもない。例えて言うなら、その二重性に触れてしまったときには、片足にガム、もう片足には犬の糞を踏んでしまったような気分になる。だが、そういうときに何ごともなかったように歩くふりができるように、とりあえずヒステリックな反応はさらけださずに、何とかやりすごすことができるのである。