時評 20 “作品” by 上野修

ロンドンの美術館の掃除夫が、たんなるゴミだと思って、美術作品の一部を構成していたゴミ袋を捨ててしまったという、思わず苦笑してしまうような興味深いニュースがあった。

したり顔で現代美術をゴミと皮肉るような、古くからの風潮と重なってしまうような皮肉なニュースだというのが興味深いわけではない。そうではなく、美術作品とゴミの差異を偶然にも踏み越えてしまったところが何とも興味深いのである。

ふつう、美術作品はゴミではない、ということになっている。しかし、文化の他のジャンルでは必ずしもそうではない。例えば、本やレコードなどは捨ててあるのをよく見かける。複製物だからゴミになりうるのかもしれないが、考え方によってはその複製物がかけがえのない作品だとも言えよう。あるいは、せっかくの骨董のコレクションを、価値がわからない家族が捨ててしまったというような話もよくある。骨董とゴミは紙一重、わかる人以外にはその差異が非常に希薄でもあるからだろう。単純化して言えば、市場価値によって判断されるような作品は、価値の変動によってたやすくゴミにもなるということなのかもしれない。

すると、作品の非ゴミ性は、美術館という空間によって成り立っているものなのだろうか。図書館という空間では、ほとんどの場合、収蔵スペースに応じて本が処分されている。保存は期限があるものであり、永久ではないのだ。しかし、美術館で作品が処分されているという話は聞いたことがない。ということは、おそらく美術作品というのは、一度収集されたら、永久保存されるものなのだろう。

このあたりは、専門的な判断や解釈があるのかもしれないが、別に細々とした解釈に関心があるわけではない。そうではなく、収集された美術作品というものが、永久ではないにせよ、ゴミになるまでの価値の半減期が恐ろしく長いものであるなら、増えることはあっても減ることがないという当然の事実を、いささか衝撃的に感じるのである。市場価値によってではなく、保護されるべき貴重な文化というものもあるのかもしれない。しかしそれが有限のものではなく、延々と無限に増え続けるのならどうだろう。

ほんとうかどうか知らないが、アメリカのある美術館では、カラープリントの作品を収集するときに、一つは展示用、もう一つは冷凍保存用に、同じものを二つ買い上げるという話を聞いたことがある。保存用の方はけっして展示できないのだから、SFじみたナンセンスな話だと思ったが、延々と増え続け、いずれは保存することが自己目的化する貴重な作品というのも、何ともSFチックではないだろうか。