時評 19 “テクスト” by 上野修
かなり昔のことなので記憶が曖昧なのだが、こういう話を読んだことがある。
野鳥の保護の国際シンポジウムに出て、「飛行機のエンジンに吸い込まれて死ぬ鳥がいる。問題だ」という発言に対して、「それではあなたも何羽か殺した飛行機に乗ってここに来たんですね」と思わず質問してしまった。それは大人げない発言だったが、云々…。
私はそれを読んだとき、何が大人げないのかわからなかった。今も腑に落ちない。その話に限らず、腑に落ちない話はしばしばある。例えば、いわゆるテクスト論がそうだ。テクスト論というものが出てきたとき、作者は死んだ、作家や作品なんて古い、ということが口々に言われた。ところが、作者は死ななかったし、作家や作品は今でもある。
そもそも、テクスト論が流行していた当時も、多様な読み万歳という、ひとつの話ばかりが目についた。作家もいろいろ、作品もいろいろ、写真もいろいろ、か。だが、いろいろな写真とは何だろう。具体的には、この読みとか、あの写真しかありえないだろう。ほんとうのテクスト論というのは云々…、テクスト論の誰それが言っているのはほんとうは云々…、という話もよく見かけた。テクストは多様でも、テクスト論には真正の読み方があるとでもいうのだろうか。
テクスト論については、腑には落ちないが、今にして思えばわかったこともある。要するに、ひとつの潮流として多様な読み万歳と言われてはいたが、実際にはそんなことは作家や作品とは何の関係もなかったのだ。げんに、そう言っていた作家が何ごともなかったかのように作品を作っているのだから、そう考えるしかないだろう。そして、作りたいものを作りたいように作り、読みたいものを読みたいように読む、読みたくないものは存在しないがごとく振る舞う、という潮流だけが残った。それで何が悪い? 悪くはないかもしれないが、そうした潮流は多様性の対極だろう。
こんなことを今さらくどくど言うのは、ほんとうに大人げない。それもわかるようになった。私も今ではどうでもいいことだと思っている。
ただひとつ個人的に残念なのは、そのような潮流によって、都合の悪い問いにも応えるという姿勢も流され、失われてしまったことだ。そうした姿勢を求めているわけでも、懐かしんでいるわけでもないのだが、それによって生まれていた自己弁護のための支離滅裂な美辞麗句すら読めなくなったのは寂しい限りだ、と瞳をとじてふと想う。