Revised Edition “写真における「消去性」の問題” by 調文明

デジカメの廉価化や多メディア化により、デジタル写真が非常に広範の人々に慣れ親しまれるようになり、デジタル写真を用いた写真家も出始めてきたことで、写真評論の中でもデジタル写真を扱う分量が増えていった。そうした中で、飯沢耕太郎は2004年に『デジグラフィ デジタルは写真を殺すのか?』という書物で、大嶋浩は同年に『痕跡の論理 写真はおのれを何と心得るか』という著作で、それぞれデジタル写真について語っている。両者の共通した視点は、デジタル写真の「消去性」への注目である。それは、従来のフィルム写真との対比で、デジタル写真はクリック一つで跡形もなくデリートされてしまうのに対して、フィルム写真は「削り取ったり、切り刻んだり、焼却したり、塗りつぶしたり、さまざまな方法が考えられるが、どれも完全なものではない」のである。こうしたこともあり、デジタル写真は、フィルム写真とは全く違った種類に属するのであると飯沢は主張する。

しかし、ここで飯沢は取るべき一つの作業工程を意識的にか無意識的にか無視しているように思われる。それは、19世紀における写真のあり方である。そもそも19世紀を通じて写真は常に像の定着との戦いであったことは注意すべき事柄であるように思われる。19世紀において、消えてしまう、あるいは不安定な像を定着させる試みが何度となく繰り返され、湿板から乾板、そして19世紀末にロールフィルムへと至ったことは写真史においてもよく語られている。19世紀全体が写真の「消去性」との戦いであったのである。飯沢がデジタルカメラに対して「消去性」を強調するとき、フィルムにおける「消去性」はずっと昔に克服されて、今はもう問題にする必要もないという印象を受ける。だが、果たしてフィルム写真において、「消去性」は完全に克服されたのだろうか。

私はここで、イーストマン社が1888年にコダックカメラを販売したときに、同時にフィルム現像・プリントまでを請け負うといった謳い文句に注目したい。すなわち、19世紀まで写真界を賑わせていた「像の定着」という事柄が、企業の現像所というブラックボックスの中に完全に吸収されて、見えなくなってしまったのである。従来は、フィルムの装填や現像のときに写真家は注意深く作業をしなければならなかった。しかし、イーストマン社がそれを全て請け負うようになったことで、人々の目の前から写真の「消去性」は完全に隠蔽されてしまったのである。現在はほとんどの人がラボに現像・プリントを注文している。「消去性」は克服されたのではなく、隠蔽されたのである。しかし、19世紀から20世紀へ移行するとともに、写真の「消去性」は、自身の現像ミスやフィルムの装填ミスのときにふっと現れるくらいで、ほとんど思い出されることもなくなった。そのため、飯沢もフィルム写真の非-消去性を信じて疑わなかったのであろう。

さらに、飯沢が「消去性」と言うとき、デジタル写真の像をフィルム写真の像と比べているのではなく、フィルム写真の支持体と比べているというのは興味深い。つまり、潜像だった像が現れることを当然視し、フィルム写真の像と支持体(フィルム)を同一のものと捉えている。飯沢の主張では、デジタル以前の写真に対しては紙やフィルムの物質性に注目しているが、例えばフィルムは一瞬でも感光してしまえばそれで像は「消去」されてしまうのではないだろうか。物質としての紙やフィルムを消去するにはいろいろと大変だが、像を消すこと自体は簡単である。フィルム写真の像と支持体を同一視するのは明らかに、20世紀的な思考のように思われる。このことを考えるためにも、写真の初期段階について、とはすなわちタルボットのカロタイプについて考察する必要がある。

タルボットの発明したカロタイプは、しばしば現在のネガ・ポジ法の原型として受け取られ、現在のロールフィルムへと発展していく初期段階に位置づけられている。そして今、デジタル写真の登場により、ロールフィルムとデジタル写真との間に断絶を置く写真批評家は少なくない。一方で、カロタイプとロールフィルムは依然として発展関係に位置づけられたままである。しかし、その関係はそれほど自明のことであろうか。それよりも、デジタル写真の「消去性」がクローズアップされたことにより、逆にカロタイプとロールフィルムとの関係が発展的なのかどうかが疑わしくなってくるように思われる。タルボット自身は、カロタイプに対して、その消去性、脆さを強調している。

タルボットは『自然の鉛筆』の最後の図版で、こう述べている、「ヨウ素が残ったままだと、コピーを何度も作ることはできず、その画像は徐々に色が落ちていっていく」し、「オリジナルの画像が偶然にも破れたり汚れたりしたら、もちろんそれ以上コピーは作れない」。これを単なる初期の技術の未熟さだけにしておくことができるのだろうか。フィルム写真の消去性、脆さは現代において、あまり意識されてこないが、それはある種隠蔽されていることもあるからではないかと私は考えている。消去性という言葉に注目してみると、カロタイプとロールフィルムの関係を発展的なものとして簡単に主張することはできないように思われる。

だからといって、デジタル写真がカロタイプの再来であると言いたいわけではない。「消去性」という言葉は同じだとしても、その内実は両者においてかなり違っていることは明らかであるからである。デジタル写真はカロタイプやロールフィルムのように像の支持体が明確にあるわけではないし、潜像という概念もあやふやである。しかし、「消去性」といったときに、19世紀の写真の歴史を抜きに語ることはできないのではないだろうか。19世紀の「消去性」とデジタル写真の「消去性」とを比べることで、写真の歴史全体への考察を含めたものとして提示できるのではないだろうか。デジタル写真とロールフィルムとの比較だけでは、あまりにも写真の歴史を捨象し過ぎているように思われる。この場では、その対比を実際に表すことは今のところできないが、デジタル写真への注目が高まっている現在において、19世紀の視点を持ち込むことは議論の足がかりとしても重要になってくるのではないかと思われる。

写真の技術的側面よりも、「無意識」や「欲望」などの言葉のほうについつい魅力を感じてしまうのはよく分かることではある。しかし、技術の変化に関する考察をないがしろにして、我々の視覚や思考について考察することなどできはしない。瞬間写真が我々に「視覚的無意識」を、「スナップショット」を与えたことを考えれば、技術的側面をないがしろにすることはできないことが分かるであろう。デジタルカメラという技術革新が我々の視覚や思考にどのような影響を与えるのか、あるいは何も与えないのか、今後このサイトの中で考察していきたい。