時評 6 “カナリア” by 上野修
情けないことに、いまだに夕暮れ時には無性に物悲しくなってしまう。特に部屋がだんだん薄暗くなってしまうのが嫌いで、早々と明かりを灯すことにしている。
不思議なのだが、そういう時間帯になぜか心に浮かんで来るのは童謡だ。童謡というのはどうして侘びしさを誘うような短調のメロディが多いのだろう、あるいは自分が短調のメロディばかり覚えているのかも知れないが。
「かなりや」はそんな時よく浮かんでくる童謡のひとつだが、考えてみると覚えている歌詞ははじめの部分だけで、なぜか心のなかではアメリカ生まれのセルロイド…という歌詞に繋がってしまっている。しかも、その歌詞の唄は「赤い靴」だと思い込んでいたが、女の子がセルロイドのはずはなく、正しくは「青い目の人形」の一節であった。こういう具合なので、ぼくの記憶のなかの童謡は、歌詞もメロディもかなりいい加減なものだと言わざるをえない。
調べてみると、「かなりや」の歌詞の内容は、唄を忘れたからといってカナリアをいじめずたりせず、やさしくかわいがればまた唄う、というものだった*1。動物愛護的な内容だと思われているが、じつは西条八十が、無名の自分を嘆いたものだったとか、詩が作れなかった時期の自分をカナリアになぞらえたものだとか、そういうことらしい。
カナリアにとっては、唄を忘れていじめられるのももちろん嫌だろうが、だからといって、唄うまでやさしくされるというのも迷惑なのではないだろうか。唄わないという選択肢がないのだから、けっきょくは同じことのような気がする。迷惑といえば、もっとも残酷なのは、唄うからといって炭坑に連れて行かれることか。いずれにせよ、カナリアにとっては唄ってしまったのが不幸のはじまりだったのかも知れない。炭坑がなければ連れて行かれることはないし、鳴き声を愛でる習慣がなければ、いじめられることもかわいがられることもないだろうから、生まれた時代や文化に左右されるところも大きいだろう。
もっとも、こんなふうにカナリアを擬人化して考えてしまうのも、いじめたり、かわいがったりすることと五十歩百歩に違いない。カナリアがアメリカ生まれのセルロイドだったら、そもそも唄うはずがないので、擬人化するのも難しいのだが。
何でも擬人化して考えるのは、人間の悪癖のひとつだが、動植物などを擬人化するのはともあれ、最も救いがたく残酷なのは、人間をも擬人化して捉えてしまうことだろう。人間中心主義を批判し、人間の終焉を謳い、じっさい人間が終わっているのだとしても、擬人化された人間は、ほかに選択肢を知らないというただそれだけの理由で、いましばらく生き延びるのだろし、セルロイドにはなれない哀れなカナリアも唄い続けるのだろう。