時評 29 “衛星” by 上野修
Googleマップの日本版が公開されている。使ってみれば一目瞭然なので、説明するまでもないのだが、このサービスは、衛星や航空撮影で集めた画像を地図情報としてデータベース化した技術を用いたもの。使い勝手も直感的でなかなか洗練されており、地図と簡単に切り替えられるので実用的に使うこともできるし、いろいろと検索しながら、ただ眺めていても新鮮だ。photographers’ galleryはこのあたりだろうか。
テキストと違って、画像の検索というのは難しい。はっきりとしたキーワードが設定できる画像なら、言葉と関連させて検索することもできるだろうが、そうでない画像も多い。それに何よりも、キーワードから画像を検索するのは、直感的ではない。同じGoogleのサービスのイメージ検索が、今ひとつポピュラーにならない理由は、そのあたりにあるのだろう。自分が撮った画像を整理する場合も、キーワードで整理するのではなく、時系列で整理している場合がほとんどではないだろうか。
Googleマップの興味深さは、ひとつは言うまでもなく、画像のバーチャルな可能性を示していることだろう。もし制限なく拡大できるようになって、しかも座標を三次元で動かせるようになり、さらにそれに時系列の選択肢が加われば、居ながらにして、さまざまな時代のあらゆる風景を見ることができるというわけだ。しかし、SFめいたこの発想は、実現の可能性が乏しいというだけではなく、仮に実現したとしても、けっきょくはリアルの追求なので、あまり刺激的ではない気がする。
それよりも興味深いのは、Googleマップが、画像を探す手がかりとして、時系列だけではなく、緯度経度、あるいは地名が、非常に有効であることを示していることである。現在でも、デジタルカメラの画像には日時などの情報が埋め込まれているが、もしGPSが内蔵されたデジタルカメラが生まれて、画像データに経度緯度を埋め込むことが可能になり、それを地図に関連させて表示させることができる洗練された技術が登場すれば、画像の直感的な検索性は飛躍的に向上するのではないだろうか。
コンピュータにおける検索という概念は、現在、共有という概念と分かちがたく結びついている。何らかのデータベースがなければ、検索という行為は成り立たない。そして共有は、効率よくデータベースを構築する方法のひとつである。インターネットもwwwという柔軟なドキュメント共有システムがあるからこそ、データベースとして機能するのであり、だからこそインターネットの普及とともに、検索機能も成長してきたのだろう。
ところで、かつて写真表現で、地誌学の調査や人工衛星の写真のように中立的な云々という文脈で形容された潮流があった。また、それより以前には、意図や技巧を廃した匿名的な云々という文脈で形容された潮流もあった。そのような潮流から生まれた写真の多くに決まって記されていたのは、地名や年月日といったデータである。しかしながら、そうした潮流から、画像の共有システムが提案されることはなかった。現在でも、すでに地名や年月日といったデータを含んだそうした写真が共有されれば、かなり充実したデータベースが即座に構築されるように思われる。が、それもありえないだろう。ありえるはずがない、それらの作品にとって、地名や年月日は作家に属する固有の出来事であり、データではないからだ。
かつて、中立性や匿名性を標榜した作品が、いま、作家と著作権というささやかな閉域の中で、人目に触れぬまま消えゆこうとしている。何と皮肉なことだろう。