時評 22 “引用” by 上野修
かつて、歴史的な写真家の作品そのものを再び撮影して作品にした作家がいた。いま、その二人の名前でイメージを検索してみると、当然のことながらいくつかの作品がヒットする。
その作品は例えば、あえて芸術と共犯関係を結び歴史的な写真を引用することで、表現や独創性といった概念に鋭く異議申し立てをする戦略、というような文脈で語られていた。もちろんその頃には、インターネットによる検索という概念はなかった。しかし、それが可能になった現在、その作品を同じ文脈で評価することは可能だろうか。もし可能だとすれば、それを検索するという行為も、鋭く異議申し立てをしていることになるのだろうか。
また例えば、あえて広告の手法を逆手にとって引用することで、メディアによる再現表現を破壊する戦略、という似たような文脈で評価されていた作品もあった。いま、その作品はユニクロのTシャツになって売られている。すると、ユニクロはそれをさらに逆手にとり、それを買う者はさらにさらに逆手にとっているということになるのだろうか。
言葉遊びのようなそうした今日における意義はともあれ、当時においてはそれらの戦略はそれなりの成果をあげたのかもしれない。しかしそう考えるなら、インターネットやユニクロはもっと成果をあげたことにはならないだろうか。けっきょくのところ引用による相対化という概念や戦略は、こうした循環に陥ってしまう。
商品は市場によって厳しい評価にさらされる。作品や批評はどうだろうか。結果が問われないのであれば、どんな威勢のいい戦略も謳えるだろう。だが、成果があがらなかった戦略は、やはり誰も真面目には信じなくなるだろうし、現に信用が暴落し、誰もまともに信じてはいないファンタジーになっているのではないだろうか。