試評 2004.01.01 by 土屋誠一

phase1968

この冬、日本の戦後美術史上での記念碑的作品が、再び制作されるということを知り、東京・町田にある和光大学のキャンパスへ訪れた。今まで語られた文献や記録写真が教えてくれる情報によれば、その作品は、野外へ設置される作品であり、高さが3メートル近くある円筒形のフォルムを持った巨大なものであるという。その作品は、初めて制作された当時、ある野外彫刻展に、その展覧会の会期中のみ仮設的に制作されたものであり、その後一度の再制作の機会を別として、記録としてのみ知ることができる作品となっている。また、日本の戦後美術史を振り返る際に、必須の作品として常に参照され、一つの歴史の転換期を明確に示したものでもある。私自身、いよいよ「それ」が実見できるという事態に対して、相当の期待を持っていた。

大学の入口に掲げられている案内板によれば、キャンパス内の裏側へと逸れる道を歩んでいくと、「それ」が設置されているはずであった。だが、そこで目の当たりにしたものは、写真によって見慣れているはずの円筒形の巨大な土塊である「それ」ではなく、土の小山でしかなかった。

1960年代末頃から、日本の現代美術史において重要な動向とされる「もの派」において、主要な作家の一人と見なされる関根伸夫は、1968年に開催された第1回神戸市須磨離宮公園現代彫刻展において、<位相-大地>を出品する。この作品は、直径2 m2 0cm、高さ2m70cmの土でできた円筒形と、それと全く同サイズの、大地に穿たれた穴からなる[註1]。制作の手順としては、穴の部分の土を掘り進めながら、そこから直径の2倍分、4m40cm離れた傍らに先のサイズの円筒形を積み上げていく。つまり、あたかも大地から積み重ねられたシリンダー状の形態を、大地からすっぽり抜き去ったように見せるのである。関根は、この作品を先の展覧会に出品することによって、美術界における評価を確定的にし、この時には大賞に次ぐ賞を獲得している。

そのような世俗的な評価を別としても、この作品によって、もの派の動向が開始されたことは、ほぼ事実といって良いだろう。現在は著名な美術家である李禹煥は、まだ批評家として認知されていた当時に著したいくつかの論考において、関根のこの<位相-大地>を、その当時主流であった「ネオ・ダダ」を代表するところの「反芸術」的傾向、あるいは「イヴェント」や「ハプニング」のような傾向に対する、明確な転換の契機として捉えた[註2]。また事後的には、もの派の動向は、アメリカではミニマリズムからポスト・ミニマリズムへの移行期、フランスではシュポール/シュルファス、イタリアではアルテ・ポーヴェラといった動向と、時代的にほぼ一致するものとして捉え返され、日本独自の動向であるにもかかわらず、世界的な視座においても同時性を持つものであると、高く評価されることになる。

日本の美術史上で言えば、この作品は多くのプロブレマティックを内包しており、先に述べたように李禹煥は、現象学を思想的背景として、超歴史的な物自体の顕在化によって世界を一挙に把握するという目論見の現実化したモデルとして、関根の<位相-大地>を当てはめ、それ以前の近代の歴史概念に対置して、近代主義を批判する糸口とした。後にもの派と呼ばれるこのような思想を形成する、ある種のイデオローグ的機能をそのテクストによって果たした李に対して、よりリアル・ポリティクスに関わる「美術家共闘会議」(=美共闘)の中心人物である彦坂尚嘉によって、歴史主義的な相からの、李の非歴史主義[註3]に対する批判といった事態に発展し[註4]、近代主義批判における方法の争点を与えるきっかけとなったのである。

普通に考えれば、相当無意味で馬鹿げた行為でしかないようなその作品は、却ってそれゆえに、普段体験できないような強烈なモニュメンタリティを放っていただろう。しかし、この作品を実見できるという貴重な再制作の契機に際して、遭遇し得たのは、あの写真の中で知っていたモニュメントではなく、恐らくその円筒形が倒壊したでのあろう、ただの土の小山だった・・・。そもそも今回の<位相-大地>の再制作というこのプロジェクトは、和光大学で非常勤講師として教鞭を執る彫刻家、鷲見和紀郎氏の提案で、彼のゼミの一環として開始された[註5]。ゼミであるという都合上、10月4日から、ほぼ一週間のうちの一日が制作時間に当てられ、一般公開の初日である12月13日を目指して、その制作は、ゆっくりしたペースで徐々に進行したとのことである。円筒形は、荒縄で固く結ばれた枠型に土を詰めていくことで出来上がるのだが、お披露目の日にようやく荒縄が解かれた途端に、パンパンに詰まった土が木枠を押し倒し、一瞬で倒壊してしまったそうだ。1968年にオリジナルが制作されたときは、一週間という短期間で、集中的に作業が行われた上に、その土地の土も、粒子の細かい砂のような状態であったという。それに対して、和光大学の再制作ヴァージョンの場合、制作された場所の土のコンディションが良くなかったことと、長期間に渡る製作期間中に何度か雨に降られたことがが、土を円筒形に固めることに災いしたようだ。私が訪れたのは、一般に公開された3日間のうち、2日目だったのだが、その倒壊現場は木枠や、荒縄を取り外すときに使ったであろう脚立までも、倒壊した瞬間そのままに放置されていた。

<位相-大地>は本質的に、実物を通した経験が不可能な作品なのではなかろうか? オリジナルが制作された1968年当時、一ヶ月強というさほど長くはない展示期間を終えるとともに、円筒形は崩され、穴も埋め戻されたという。1970年の大阪万博に伴い開催された、万国博美術展で再制作されたことを除けば、その後は一度も再制作が行われていない。この事実は奇妙である。80年代以降、もの派に関する回顧展が、決して少なくない回数、行われてきたにもかかわらず、である。勿論、それなりに巨大な作品であるということや、土が剥き出しの地面が必要であることなどといった諸条件によって、再制作が企図されながらも見送られてきたということもあるかもしれない。しかしながら、今回の試みまで、約30年もの長期に渡って、この作品が再制作されなかったという禁止は、そのような実際的な条件とは別の所に、その原因を求めるべきかもしれない。

関根の<位相-大地>が制作された当時、アメリカの動向に目を移せば、ランド・アートやアースワークと呼び倣わされるような傾向の作品が多く制作されていた。例えば、ロバート・スミッソンや、マイケル・ハイザーなどが行った試みは、美術作品は美術館やギャラリーで展示されるものであるというコンヴェンションから脱却し、文字通り、開かれた大地の上で、その制作を行うというものであった。それを制度論的に、ごく単純化して要約するならば、いわゆる展示室のニュートラルな空間に作品が設置されるという、モダニズムに特有な芸術の自律性の行き詰まりに対し、場所性のコンテクストを作品に導入することによってそれを回避するという企図であったはずだ。

しかしながら、それらの作品のサイト・スペシフィシティにもかかわらず、多くの場合、記録写真を通して体験されてきたはずである。仮設的な関根の作品とは異なり、例えばスミッソンの代表作である<スパイラル・ジェッティ>(1970)は、ユタ州のグレート・ソルト・レイクに今なお存在している。だが、人が滅多に入らないような、北米大陸の荒野の直中に造られた作品を、わざわざ実見しに行く人が、一体どの程度の人数いるというのであろうか? この疑問は勿論、批判ではあり得ない。なぜなら、我々はその作品が実在するという事実を知りつつも、記録写真を見ることによって、代補的に作品を経験するからである。これは、月面に降り立った宇宙飛行士の写真を通して、熱狂的な人を例外としても、充分にその事実そのものの特殊さを、理解できるという事態と似ている。

ポスト・ミニマリズム以降の写真使用の意味は、場所性のコンテクストを強調すると同時に、それが写真によって伝達されるが故に、場所性を要請しないということであったはずだ。つまり、特定のサイトを要請すると同時に、サイトを偏在化=複数化させるという、全く逆の事態が同時に生起しているということだ。スミッソンの「ノン・サイト」という概念は、単に場所性の否定であるだけではなく、以上のような引き裂かれにおいて、理解すべきものである[註6]。

<位相-大地>に即して言うならば、この写真使用については、次のように言うことができるだろう。<位相-大地>は、写真において受容されたが故に、美術史のメルクマールを成す作品として位置づけられた。オリジナルが存在せずに、記録写真しか残らなかったことによって、逆説的にアウラが発生し、歴史にその存在をとどめたのだ、と。さらに誇大妄想的に、次のようにこじつける誘惑に駆られる。写真的な反復によってアウラを獲得するというテロスが、オリジナルが恒久的に存在することを許さなかったのだ。「ノン・サイト」というアウラの偏在を実現するためには、オリジナルは消去されねばならなかったのだ、と。先に述べたような<位相-大地>を再制作することの禁止は、現実的な諸条件とは別に、作品に内在する上記のような規定性のゆえであったといえるのではなかろうか?

倒壊した<位相-大地>を前に、奇妙な高揚感を覚えているところ、「せっかく壊れてしまったものを見に来たのだから、穴の中に入ってみないか?」と誘われた。この作品は本来、穴の中に入ることを、その鑑賞の目的としていない。だが、折角の機会と思い、2m70cmの円筒形に刳り抜かれた穴の内部に降りてみることにした。円筒形に刳り抜かれたヴォイドの内壁は、傍らにそびえるはずだった円筒形を想像的に回復させる。大地が切断されることによって現れる地層は、オリジナルが制作された場所とはここが全く違う場所であるということを理解しているにもかかわらず、堆積した30年の歴史を想起させる。しかしそれよりも、到底一人ではよじ登ることさえ不可能なほど深く掘り返された穴の中で、ただ空と、真っ直ぐに切り立った外壁しか見えない状態に、身を晒していることに対する不安感に襲われる。この穴は、日本の戦後美術史における陥没であったか? 助けを借りて地上に戻り、再び円筒形の残骸を眺めて、先に感じた高揚感の由来を、強く理解できた。この<位相-大地>の再制作の失敗は、約30年後の現在において、それが不可能であることの徴なのではなかろうか? 20世紀の試みは、写真というアーカイヴの中でのみ、その生存を保証されるものであり、その写真的無意識ともいえる規制によって、それを再び実体として甦らせることは、そもそも禁止されているのではなかろうか?

<位相-大地>が制作された1968年とはまた、変革の時代でもあった[註7]。また、60年代末とは、美術において集団的な動向が、様式や理念のレヴェルで生起するといった事態が起こり得る、最後の時代であったとも言える[註8]。その意味で、モダニズムのプロジェクトの最後に位置する時代に制作されたこの作品は、実体としては一瞬の間のみ生起し、その後は写真の中で虚のアウラを再生産してきたのではなかったろうか? 21世紀のこの時代において、虚のアウラを解き放ち、実体としてのアウラを回復させようとする企図が、不可能性の元に終始することを確認できただけでも、我々にとっては大きな教訓たり得るのではないだろうか? ここで目撃した残骸は、確かに再制作の試みが失敗したという敗退の跡でもある。しかし、この不可能性を認めた上で、我々は出発することができるであろう。この試みは、その意味において、プロジェクトの失敗という事実を超えて、より重要な可能性を提示していたように思われる。それは、恐らくこの課題が与えられるまで、<位相-大地>の歴史的価値などには、単に知らないばかりか興味さえなかったであろう学生たちの、作業を終えた後の不思議と落ち着いた表情に呼応していたような気がする。

[註1]作品の詳細については、以下のカタログが詳しい。『「位相-大地」の考古学(美術の考古学展図録 第1部)』西宮市大谷記念美術館、1996年。
[註2]李によってこの時期に書かれた一連の論考は、以下の書物に収められている。李禹煥著『出会いを求めて 現代美術の始源』(新版)、美術出版社、2000年
[註3]とはいえ、もの派における、政治性がほとんど感じられないほかの作家と比べて、近代主義に対する強い否定的姿勢をもっていたという点において、李の立場は興味深い。例えば、『プロヴォーク』の後に、中平卓馬、多木浩二、木村恒久、そして李といったメンバーで、雑誌を作るという予定すらあったという話を聞いたりすると、当たり前のことながら、単純に現在の観点からのみでは割り切れないような、党派性を超えた複雑な関係を感じることができる。
[註4]以下を参照。彦坂尚嘉著、「李禹煥批判 <表現>の内的危機としてのファシズム」『デザイン批評』第12号(1970年)所収。
[註5]この展覧会(?)の詳細は以下。「位相-大地」再制作2003 鷲見和紀郎ゼミプロジェクト(会場:和光大学キャンパス内、会期:2003年12月13日-12月15日)
[註6]この問題を扱ったものとして、以下の拙論がある。「失くしたものの在処をめぐって 斎藤義重、一九七三年、再制作」『美術手帖』2003年5月号所収。
[註7]本来ならば、68年前後の、日本の時代状況を考慮した上で、この作品について考えるという目論見があったのだが、ここでは手に余る。この点に関しては、次の機会に譲りたい。
[註8]例えば、80年代にはニュー・ペインティングや、ネオ・ジオ、トランス・アヴァンギャルディアといったような動向があったことは確かだが、それらは歴史をキッチュとして反復しているだけに過ぎない。