試評 2005.12.17 by 土屋誠一

tsuchiya-monoha

12月にもなり、2005年の美術を振り返る記事が、新聞紙上でもちらほら目につくが、国内のトピックたる展覧会として、「もの派―再考」をその一つとして挙げることに、異論は少なかろう。展覧会そのものも、その評価に値する充実したものであった。今回の「もの派」の回顧展は、1995年に全国を巡回した展覧会[註1]から数えれば、約10年ぶりということになる。重要な歴史的動向として、特に評論家の峯村敏明によって積極的に評価されたのが1980年代中頃[註2]だとすると、ほぼ十年ぶりの周期が、今年に入って巡ってきたというわけである[註3]。
時代の周期性はさておくとして、展覧会の内容に話を移そう。まず、この展覧会において、何が「再考」されているのだろうか? 注目すべき「再考」点としては、当時の美術集団「幻触」の作家たちが、今回の出品作家に名を連ねていることである。「幻触」とはいかなる集団であるのか、そして、このグループが今回の展覧会において扱われているコンテクストはどのようなものであるのか、簡単に説明しておこう。このグループは、1966年に静岡を中心として結成された前衛作家の集団である。グループの理論的主柱となった評論家の石子順造が、このコンテクストでのキー・マンとなる。石子は、同じ評論家の中原佑介とともに、1968年、東京画廊と村松画廊において、「Tricks & Vision展 盗まれた眼」を組織する。さらに遡れば、この「Tricks & Visions」には明確な源流がある。それは、高松次郎の「影」の絵画と、それを受けて書かれた中原によるテクスト「影と神秘の画家たち」[註4]である。ここでの「影」とは、高松の逆遠近法を用いた立体作品などと同様、「見る」ことの制度を問い直す作業において要請されたテーマである。中原のこのテクストは、石子や宮川淳を巻き込みつつ、ある言説空間を一時期において形成したが、これは、絵画や彫刻といった伝統的な制度的枠組の相対化を受けての、時代的必然性をもってもいた。中原のテクストに象徴的なこの種の議論は、石子においては既に数年前から組織化されつつあった静岡の前衛美術集団の指針として、すなわち「幻触」という集合を生んだ。作品としては、「見る」ことの観念を絵解きしてみせるような作品が多く、ルネ・マグリットを思わせるような記号操作や、「だまし絵」的作品によって特徴付けることができるであろう。一方では、メンバーの小池一誠の石を使った作品のように、後の「もの派」の作品を彷彿とさせる先駆的な仕事も、このグループに含まれる。

先の「Tricks & Vision」は、高松は勿論であるが、「幻触」のメンバーや、後に「もの派」の代表的な作家になる関根伸夫の初期作品が出品されたことにおいて、重要な意味をなす。この展覧会のタイトルがそのまま示すように、高松~幻触の系譜にある、視覚的「トリック」を通した「見る」ことの制度がそのテーマであり、これは一般的な「もの派」に対するディスコース(とりわけ、この展覧会から数年後に展開された、李禹煥のそれであるが)である、現象学的な「もの」の立ち現れを作品によって記述するという態度、つまりは、存在論的な作品規定とは異なる態度が、当初の動向には見られたということだ。このことは、李や菅木志雄の最初期の作品にも現われている傾向であるが、このような「読み」の文脈に従うならば、後に「もの派」の典型的作品であると目されるところの、関根伸夫による<位相―大地>もまた、円筒形の形態が、雌型と雄型とに分離されるというまさに「だまし絵」的作品として、見ることを促されるのである。作品を読む端緒に、「幻触」という文脈が置かれると、当時の複雑な人的ネットワークが意味あるものとして見えてくるであろう。例えば、李と石子の最初期における関係や、多摩美術大学の斎藤義重スクール周辺における「もの派」の作家たちと高松次郎との関係、そして「影」への注目から「もの派」のひとつの到達点である「東京ビエンナーレ」[註5]に到るまで一貫して関わる、中原佑介という存在の関わり、等々である。このような従来とは異なるコンテクストを担うのが、今回の展覧会の冒頭で展示された「幻触」の作品群であり、そこがこの展覧会の特質であるのだ。

とはいえ、「幻触」や石子に対する再評価は、この「もの派―再考」において初めて為されたわけではない。静岡にある“虹の美術館”で2001年に開催された「石子順造とその仲間たち展」で幻触が取り上げられたのを皮切りに、この展覧会から派生する出版物[註6]、そして、鎌倉画廊で今年の6月に開催された「幻触展」などが、その再評価の役割を担った。しかし、衆目に対する最も大きな影響は、椹木野衣氏が『戦争と万博』[註7]において、石子と「幻触」、そして、李と石子の関係を論じたことであろう。この展覧会に一つだけ文句を言うとすると、この椹木氏の論考に対して、展覧会とそのカタログの中において、何の言及もないことである。これは、その論考の影響力から考えれば、あまりにも不自然である。私は椹木氏の論考に対してはむしろ批判的ではあるが[註8]、この不自然な黙殺は、先行する論者に対して礼を欠いている。展覧会という場が、ポリティカルな力学によって左右されざるを得ないものである以上、常に公正であれとナイーヴに申し立てるつもりは無いが、論じる対象が一致している以上、肯定するにせよ批判するにせよ、先行するものに対して言及することは、言説空間において何かを発言する際の、最低限の倫理である。

さて、先に述べたように、この展覧会に付け加わったものは、高松次郎と「幻触」を中心とした「見る」ことの制度を問う作品群である。これは、「もの派」に対して、別の起源を設定することを意味する。従来のもの派史観においては、その起源に関根の「位相―大地」と李の言説をおくのが一般的であった。「もの派―再考」においては、別の起源を明らかにすることで、その後の「もの派」の展開をも、別の起源から発する文脈において読み替えるという意図があるようだ。しかし、今必要なことは、様々なる起源の探索ではない。いくら別の(複数の)起源を設定してみたところで、いくつかの際立った作品やその作家の質が、明らかになるわけではないからだ。たとえ関根の<位相―大地>の発想源を、「Tricks & Vision」の文脈に求めたとしても、その作品の特質を捉えることは、永遠に先送りにされるであろう[註9]。作品の構造に見ることができる視覚的なトリックを強調してみても、作品そのものの「もの」としての実在感を記述することにはならない。もし「再考」を作品に対して行うならば、あくまで作品を経験することを基礎として、作品を言語において明らかにしなければならない。そうでなければ、作品の周囲を取り囲む「文脈」のみが問題になるばかりで、作品そのものの実体=実態を無闇に神秘化することに繋がってしまう危険性がある。

では、作品そのものから、どのような特徴が読み取れるか。それは、素材へのある種の感情移入であると仮に言うことができる。これは、カタログ所収の中井康之氏の論考においても若干指摘されていることである。中井氏は、「東京ビエンナーレ」に出品した海外の作家に比べ、国内の「もの派」の作家たちによる作品は、素材の扱いがより作家自身の生理に近いと表現している[註10]。素朴な印象論から離れて、もう少しこの感覚を整理してみよう。「東京ビエンナーレ」における海外の作家は、ミニマリズム、あるいは、アルテ・ポーヴェラに属するか、あるいはその系譜に位置する者がほとんどである。確かに、マイケル・フリードがミニマリズムの作品に対して「客体化」という語を与えたように、物質とそれを扱う主体の距離は、過去の絵画や彫刻よりも、より遠い。「もの派」の作品もまた、ミニマリズムやアルテ・ポーヴェラの作品と同様に、還元された物質を作品として提示しているにもかかわらず、全く別の表情を持っているように見えるのはなぜであろうか? それは、一般にもの派の中核的な作家と看做されている李、関根、菅、小清水漸、吉田克朗、成田克彦にではなく、その傍系と位置づけられがちな、榎倉康二、高山登、原口典之の作品に特に見てとれる性質である。例えば、榎倉における革の裂開は、皮膚の破裂を否応無しに想起させるし、あるいは彼がしばしば用いる油の染みは、皮膚感覚に近い粘着質の物質感を露呈させる。また、高山のタールに浸された枕木という素材には、生木とは違い、産業社会の粗悪な産物としての意味が否応無しに付着している。この意味では、原口の作品はさらに象徴的である。作品の形式だけとりだせば、日本の作家では珍しいほど正統的なミニマリストであるようにみえるが、ワイヤーロープの作品がそうであるように、工業製品の持つ重みやテンションが、その製品の特質そのものとして表象されているかのようだ。また原口は、本展には出品されていないものの、廃油を使用した作品をしばしば制作しており、産業社会に対する明らかなコメンタリーになっている。このような意味との連合が、物質性をより具体的な想起として強調させるわけである[註11]。

このような物質性の強調は、既に他の展覧会において主張されたことである。それは、尾崎信一郎氏が組織した二つの展覧会である。一つは1997年に移転前の国立国際美術館で開催された「重力 戦後美術の座標軸」であり、もう一つは昨年から今年にかけて催された「痕跡―戦後美術における身体と思考」である。物質性の文脈から述べれば、いずれもロザリンド・クラウスらの「アンフォルム」以降の理論的枠組が展覧会の根拠になっているし、「もの派」の作品もこれらの展覧会で再読された。しかし、私がここで述べたいのは、近代美術のディスコースを読み直すための別の理論的枠組の構築を、物質性という言葉に込めたいということではない。なぜなら、少なくとも日本の現代美術における文脈に即すならば、必ずしもクラウスのような西洋における近代以降の理論の枠組に沿って作品を読むことの必然性を欠いている可能性があり、もしそのような読解可能性が作品の内に存在したとしても、その前の手続きとして、より世俗的な物質とその背景についての連合を明らかにすべきだと考えるからである。これをさらに述べるならば、次のようなことになる。「物質性」という理解の枠組は、必ずしも普遍的な「もの」の表出として現われるわけではなく、ローカルなコンテクストを伴うことで、物質的な属性として読まれ得るのである。この「もの」の露呈という契機は、戦後の日本の美術史においても、この時代の作家をおいて他にはない属性である。ならば、その特異点を抽出することが、「もの派」の問題を考えるにあたって重要な解読格子になり得るであろうし、同時に、先に述べた李や<位相―大地>などの正統的な「もの派」作品を違った文脈において再度評価する契機にもなりえよう。そしてそのことはまた、現代美術において失われた、作品を規定する実体的なフレームとしての物質性を、再度美術に導入するための、ひとつの試行にもなり得る。「もの派」を今日において「再考」するならば、その起源を拡張することではなく、その顕著な動向において試みられた、「別の」可能性を読む作業でなければならない。

[註1]カタログ書誌情報は以下。『1970年—物質と知覚 もの派と根源を問う作家たち』読売新聞社、1995年。
[註2]当時の展覧会と同時に発行された、以下のような出版物を参照せよ。『もの派とポストもの派の転回 1969年以降の日本の美術』多摩美術大学、1987年。『モノ派』鎌倉画廊、1986年。またもの派の評価には、千葉成夫の『現代美術逸脱史 1945-1985』(晶文社、1986年)が果たした役割も大きい。
[註3]本年の同時期に、「もの派」の中心的な作家である李禹煥と小清水漸の個展が開催されている。李の個展に関しては、先の「試評」において論じたので、そちらを参照のこと。小清水の個展は、「小清水漸―木の石の水の色―」として、久万美術館において開催された。なお、この展覧会のカタログは、一般の書店でも購入できる。
[註4]中原佑介「影と神秘の画家たち イメージと影についての考察」『美術手帖』1965年9月号。
[註5]1970年に開催された、「第10回日本国際美術展<人間と物質>」のこと。
[註6]『石子順造とその仲間たち 対談集』環境芸術ネットワーク 虹の美術館、2002年。『石子順造は今・・・』環境芸術ネットワーク 虹の美術館、2004年。
[註7]椹木野衣『戦争と万博』美術出版社、2005年。
[註8]私自身の『戦争と万博』に対する書評は、以下に所収。『美術手帖』2005年4月号。
[註9]<位相―大地>に関しては、この「試評」の過去の回を参照のこと。
[註10]中井康之「もの派―再考」『もの派―再考』国立国際美術館、2005年。
[註11]「もの派」の時代の美術を読むにあたり、原口の存在は再考すべきであると考えるが、その原口と日本大学において同級であったという倉重光則の存在もまた、この問題圏において評価されるべきだと思われる。そのささやかな試みとして、以下の拙論を参照のこと。「倉重光則―照射される「痕跡」」『美術手帖』2004年2月号。