試評 2004.12.23 by 土屋誠一
東京国立近代美術館で、非常に興味深い「木村伊兵衛展」を見ることができた。今回の展覧会は、通常の企画展示室において開催されているのではなく――ちなみにこちらでは「草間彌生展」が開催されていた――、常設展示室においてである。しかも、常設展示室の一室を、丸ごとそのための展示スペースに充てるだけではない。かの美術館が誇るコレクションによって構成された、日本の近代以降の美術史を示す、クロノロジカルな展示構成の間を縫うようにして――あたかも木村の「報道写真」が歴史の社会的背景を保証するかのように――散発的に配置されてもいる。わかり易い例を出せば、木村が東方社時代に撮影した『FRONT』のグラビアページは、戦争画のすぐ傍に展示されている、といったように[註1]。
断っておくと、私がここで「興味深い」のは、木村伊兵衛という著名な写真家の「作品」そのものではない。むしろそれは、日本近代の写真が自立的表現としての成立を歩み始めるその黎明期に活動を開始しながらも、広告や宣伝、報道といったあらゆるジャンルに関わりつつ、最終的にはある種の大衆性を伴った、固有の「写真家」として認められるに至る、木村の活動の軌跡のほうである。
「イキなもんです」が口癖の江戸っ子としての、また都市生活者のまなざしを持つフラヌールとしての写真家、木村伊兵衛。土門拳と双璧をなす、日本の写真史を代表する巨匠、木村伊兵衛。そのような一般的イメージは、戦後になって確立された一側面に過ぎないのではなかろうか。そのことを例証するように、今回の回顧展は、新聞の一頁から開始されている。その新聞の半面を占める広告は、長瀬商会(現・花王)の広告部長、太田英茂[註2]によってディレクションされた、花王石鹸の広告である。この有名な広告は、太田と、当時長瀬商会の広告部に嘱託として入社した木村とのコラボレーションであり、ここで築かれた人脈は、その後の日本工房、中央工房、国際報道写真協会、東方社と引き継がれるものである。この1929年における長瀬商会への入社は、それまでアマチュア写真家であった木村を、プロフェッショナルの写真家へと移行させる契機になっている。つまり、木村の写真家としての本格的な始動は、商品宣伝を構成する一職能としての写真家という位置であり、自立した写真表現からはほど遠い。この一連の花王石鹸の広告には、下町の風景や工場労働者のスナップが組み込まれており、明らかに低所得層をも含みこむ大衆への宣伝活動としての意識が強調されている。試みに、これらの広告の一つから、特徴的なコピーを抜き出してみよう。「質は最高原料に依って・純 價は大量生産に依って・簾」。つまりここでは、近代的な工業化によって、質の高い商品が廉価で市場に流通するという、資本主義のプロセスが示されているのである。この大衆化路線が奇妙なのは、この広告制作を主導したのが、マルキストとしての太田という人物であったということだ。ここでは、「大衆」というキーワードを蝶番として、共産主義と資本主義が重ね合わさっている。
このような二重化は、構成主義以降のデザイン言語において、その理念が一見ある特定の社会的イデオロギーと不可分であるように見えつつも、実際にはその形式主義ゆえに、いかなるイデオロギーであろうとも、そのデザインとの連合において交換可能であるということと無関係ではない。このことに関連して言えば、「写真」というメディアそのものが、イデオロギーの差異を問題にしない、ある種のブラックボックスであるといえるかもしれない。伊奈信男が「写真に帰れ」で「写真芸術」の自立性を強調した写真が、報道写真という外部に目的を要請せざるを得ないジャンルに接続されることを否定しないのは、故なきことではない[註3]。近代的な工業社会の産物たる写真技術は、写真が即、社会の表象であることにおいて、その自立性を獲得する。その場合、『光画』に掲載される写真芸術と、国際報道写真協会において制作された写真壁画における、ズタズタに切断され、再構成された報道写真との距離は、極めて近似したものであると言えるのである。
冒頭に展示された、花王石鹸の新聞広告をはじめとして、今回の回顧展においては、グラフ雑誌のグラビアや、ポスターなど、写真が掲載された印刷媒体が多く展示されている。勿論、オリジナルのネガが失われていることがその大きな原因であろうが、印画紙にプリントされた写真と、印刷媒体を通した写真とを見比べると、後者のほうがより鮮烈な印象を与えるのはなぜであろうか? カルティエ=ブレッソンと並び称される木村のスナップは、スナップの瞬間のフレーミングにおいて、その構図が天才的に自足しているということがよく指摘される。グラフ・ジャーナリズムにおける視覚伝達の効率化を重視した名取洋之助でさえも、木村の写真に関してはレイアウトのためにトリミングを加えることができなかったという。しかし、先の写真壁画や、『FRONT』での写真の扱われ方を見ると、特に戦前においては、むしろ積極的にレイアウトのための素材として、自らの写真を投げ出しているように見えてならない。
つまり、明らかであるのは、ほぼ第二次大戦を境にして、木村自身転向したということである。いまだ新鮮であった構成主義の流れを組むグラフィズム――とりわけ、チヒョルトやバウハウス、そしてロシア構成主義のヴォキャブラリーから影響を受けた、原弘によって主導されたと言ってよい――が、戦時下ナショナリズムの高揚に差し向けられたプロパガンダへと無媒介的に接続されること。この政治性は、芸術の意義を社会的に十全に保証するものではなかったか。いかなる造形的な実験であっても、政治的な機能にすぐさま直結され得ることは、「芸術」という制度内においてのみ理解されるようなものと、その視覚伝達の機能の確からしさにおいて、根本的に異なっていたはずである。戦後に振り返って「戦争が終わって、それまで関係のあった軍の仕事から解放され、今までの自分を反省すると共に、これからどう進むべきか、という精神的な苦痛を、いやという程味わせられた」と木村自身語っているが、客観的に観れば簡単に反省し去れない質を、当時の仕事において保っている。プロパガンダとは、特定のイデオロギーに対する反省や判断を先送りにすることによって可能になるのではなかろうか? この時期の木村は、グラフィック・デザインの枠組みにおいて、写真のあらゆる実験を行うという、ある意味では最も精力的な時期を過ごしていたのではあるまいか?
「旦那芸」と評される、戦後の木村のスナップは、確かに巨匠の名に恥じることない質を保ちつづけていたかもしれない。しかし、芸術と政治が直接的に結びついていたあの時代から比してみれば、それは明らかに「写真」というジャンル的枠組へ自らを撤退させていく軌跡であったのではなかろうか? この戦前と戦後における断絶は明白であるにもかかわらず、あたかも戦中の軍国主義に荷担した事実を隠蔽するかのように、むしろ「粋な」写真家としての連続性が強調されすぎたきらいがある。当然ではあるが、木村の可能性を測定するためには、そのような自明さを明確にする必要があるのではなかろうか。その意味では、今回の展覧会は、小規模とはいえ極めて正統的な回顧展と評価すべきである。これは所謂リヴィジョニズムではない。むしろ、不可解にも今まで全く検討されてこなかった、写真家の歴史を辿る、遅ればせながらの第一歩である。
[註2]太田に関しては、原弘門下として東方社にも直接関わった、多川精一氏による詳細な伝記がある。多川精一『広告はわが生涯の仕事に非ず 昭和宣伝広告の先駆者・太田英茂』岩波書店、2003。また、東方社に関しては、同著者による基礎的な文献として『戦争のグラフィズム 『FRONT』を創った人々』平凡社ライブラリー、2000がある。
[註3]伊奈信男「写真に帰れ」(『写真昭和五十年史』朝日新聞社、1978、所収)。