Revised Edition “正方形の系譜 1” by 調文明
今の世の中には、様々な寸法の写真が溢れかえっている。ビルの壁面に非常に縦に細長い写真が貼られていたり、また一方で街中を走るバスには横に細長い写真が貼られていたりもする。授業では、縦長や横長の写真が順不同にプロジェクターで映写されている。雑誌には縦横無数の写真が溢れかえっている。家に帰れば、L判のプリントが家族アルバムに収められていたり、棚の上の写真立てに入れられていたりする。考えてみれば、本当に様々な寸法の写真を毎日、昼夜を問わず我々は見ているのである。
そうした様々な寸法の写真がある中で今回、私が注目したいのは正方形の写真である。ただ単に正方形といっても様々に設定し得るだろう。例えば、それはトリミングを施した写真なのか、あるいはフォーマットが正方形なのか、などである。今回はフォーマットが正方形の状態、例として挙げれば、6×6のサイズや4×4のサイズなどの正方形を指していると考えてもらって構わない。ちなみに、6×6が1950年代後半くらいまで好んで使われたのは、上下左右にトリミングし易いからということもあったようで、逆にトリミングしないで正方形のまま使うということは当時珍しかったそうである(*1)。
まず、正方形の起源であるが、これがなかなか調査が困難であって、白松正の『カメラの歴史散歩道』には正方形の判として1929年の二眼レフカメラ「ローライフレックス」の6×6cm判が始めに登場している。しかし、これはブローニーフィルムの規格に沿った、ある意味一般共通的な事象であって、もう少し年代をさかのぼって個別に考察していく必要がある。
そこで、更に見ていくと、イーストマン・コダック社が1895年に販売を開始したNo.2 Bulletは画面寸法が88.9×88.9mm(3_×3_inch)であり、101フィルムを使用していた。その後も、1898年に発売されたNo.2 Eurekaは画面寸法が88.9×88.9mmで、106フィルムを使用し、1900年には画面寸法が57.2×57.2mmで117フィルムを使用したThe Brownieが発売された(*2)。いずれのフィルムも、ブローニー判の規格である120フィルムではなく、個々のカメラ用に作られた専用フィルムである。ただ、ロールフィルム以前の乾板や湿板で正方形のプレートやカメラがあったかどうかは、今のところ調査段階であり、今回は対象外とする。正方形の技術的な面に関する議論はこれくらいにして、次に以前正方形の写真に関して仲間内で議論になったことを取り上げてみたい。
その場で議論になったのは、ダイアン・アーバスや川内倫子の写真には何か気持ち悪さを感じさせるときがあるというものであった(*3)。そのときは、正方形という画面寸法に焦点が当たり、更に視覚の問題へと話の中心が移っていった。この問題に対して、人間の視野は正方形ではなく横長の長方形に近いため、生理的に不快感、不安感や違和感を生じさせるというのが通説のようによく言われるが、より深く考えてみると縦長の長方形も人間の視覚にはないはずなのに、それに関しては何も言われていない。これは明らかに不自然であろう。そうすると、ここで一つの仮想的な問いが浮かんでくる。その問いとは次のようなものである。我々が正方形を不自然だと感じるのは、写真的な長方形を自然だと感じてしまうようになっているからではないか。我々は写真のない世界を想定して、そのときの視覚を自然なものとして前提にしようとするが、果たしてそのようなことができるのか、甚だ疑問である。
それよりも生まれたときから、すでに周りには長方形の写真が無数に溢れている。生まれた直後から今現在まで親が撮った厖大な量のL判の写真、雑誌の形に合わせた長方形の写真、そして、写真ではないがテレビのかたちもL判の写真に似た長方形の形をしている。つまり、我々の周りには避けようのないほどに長方形の写真が溢れているのである。そうした状況にいる中で、果たして「自然」な視覚などあり得るのだろうか。あるとしたら、それは長方形の視覚を自然とみなすということだけではないかと私は考える。
そう考えると、正方形がなぜ気持ち悪く感じられるかという問いは非常に20世紀的な問いなのかもしれない。20世紀以降、タブロイド紙やグラフ雑誌が急速に世界中に広がり、安価なカメラがごく普通の家庭でも手に入るようになり、写真を見ない日はないというくらいにまでなったことを鑑みると、あながちありえない話でもないかもしれない。いや、より深く問うならば、正方形が気持ち悪いという見方が、ある種神話化している可能性があるのではないかということも考えられる。そのような様々な問いに対し、一つの手がかりを与える可能性があるものとして、1930年代のシュルレアリスム期に目を向けてみよう。
アーバスよりも30年程前の1930年代に6×6の画面寸法のまま、写真集を出した人物がいた。その人物とは、シュルレアリスム期の球体関節人形で有名なハンス・ベルメールである。彼は1934年に第一の人形を、1937年に第二の人形を撮影したのだが、前者は長方形の画面寸法であるのに対し、後者はローライの6×6判二眼レフで撮影した。このことは、ベルメールの研究書でもほとんど触れられていない。ベルメールの画面寸法が正方形であるということがこれほどまでに強調されていないという事実は、逆に1937年という時代が、日常生活に写真が溢れかえる時代の始まりに位置している、つまりまだ長方形の写真がそれほど生活に侵食しておらず、長方形を自然な視覚として馴致していない時代に位置していることの証左のようにも思われる。
ベルメールの写真が正方形であるという事実を改めてここから広げることで、彼の写真に対して「気持ち悪い」という表現が使われるかどうか見てみるのも興味深い。正方形の魔力が一体何によるものなのか。それは生理学的なのか、文化的なのか、神話的なのか。現代の眼でベルメールの写真を見ることで、その一端が分かるかもしれない。また、ベルメールの写真研究においても、正方形という特徴は重要な問題となってくるであろう。今後、このサイトで「写真家」ベルメールに関する論文を発表していくこともあるかもしれない。
最後に、写真史といえば、技術的な面や表現の面から述べられることが多いが、画面寸法に関して論じられることなど今までなかった。しかし、正方形に対する一種のイデオロギーまでが垣間見える現代において、画面寸法は早急に取り上げられねばならない課題なのかもしれない。本論文が、その第一歩を示せていたならば幸いである。
1) ただし、正方形という形がトリミングを「前提」として登場したかどうかは今後の研究に委ねる。
2) イーストマン・コダック社のカメラに関する情報は、Revised Edition の同じメンバーである戸田昌子氏から教えていただいた。この 場を借りて、感謝を示したい。ちなみに、1901年のNo.2 The Brownie から現在も使用されている120フィルム(いわゆるブローニー 判)に変更になったことを付け足しておく。
3) 正方形に対する「気持ち悪さ」がどこまで一般的に示せるかという問題は残る。ただし、今回は仲間内だけでもそうした感覚を共有できていたことに注目してみたい。