Papery 2002 by 前田恭二
2002.01.04. 子供
ホンマタカシ写真集「東京の子供」 (リトル・モア、昨年12月31日刊) を見る。子供とは、ながらく「自然」の表象になってきた。成長するにつれて、文明の側に属すようになった大人が、それとともに失った自然状態をより多く持っていると見なし、ノスタルジーを託してきた存在。それゆえ「生き生きとした表情」や「わんぱくさ」が求められ、いまも撮られているわけだが、ここでの子供は、あきらかに都市という人工的な環境を生き抜くすべを、大人よりも多く備えた存在として立ち現れている。ダグラス・クープランドは、本書に寄せたテキストで、「この子供たちは、人類の次の<アップグレード種>となる」とのべている。なるほど、いくつかのカットにおいて、子供たちはどこか現在と異なる時空を生き、時として、未来の側から見返しているかのような印象を与える。実体的に<アップグレード種>なのかどうか分からないけれど、“写真の中の子供”は新しいフェーズに入ったのかな、と思わせる快作。
2002.01.15. 子供2
そんなホンマタカシ氏の「この家の子供になりたかった」という惹句が添えられた島尾伸三写真集「まほちゃん」 (オシリス発行、河出書房新社発売) を見る。子供の写真集ながら、先の「東京の子供」とはまったく違って、幼かったころのわが子を撮ったスナップショットをまとめた一冊。だれでもわが子の写真を撮るのだし、かの島尾家とはいえ、その知名度ゆえに特別な一冊なのだとは言いにくい。むしろ話は逆なのだろう。つい見入ってしまうとしたら、こうした写真――プライベートな、しかも過去の写真――に、作品を名乗る意味ありげな写真の切実さをふと疑わしく思わせるような輝かしさがほとんどつねに備わっているからにほかならない。それをあえて公刊した写真家もまた、ひそかにそのような疑念を抱えているのかもしれない、とも想像させられる。
2002.01.17. 仮象
小林のりお「デジタルカメラによる、自宅キッチン周縁の光景」展 (1月15―21日、新宿ニコンサロン) 。一昨年の「デジタルキッチン」展にも同じようなステイトメントがあったかどうか思い出せないのだが、会場に掲げられる一文が目を引く。小さな窓から光が差し込むキッチンを一種の暗箱に見立てている。だとしたら、「キッチン周縁の光景」とはそれ自体、まったくの仮象として受け取られていることになるのではないだろうか――というのは勝手な想像なのかもしれないが、それをデジタルでうつしとった映像は、おそるべき軽さ、明澄さを示している。ブレボケでさえ、ひたすら存在感の希薄化を祝福するかのよう。デジタルにいち早く本拠地を移した写真家は、さりげなく、しかし、徹底した形で、イメージとしての世界を生きはじめているようにも思われて、その仕事からはやはり目が放せない。
2002.01.17. 蔵さんのLove
蔵真墨「Love Machine」展 (1月12-28日、pg) 。6×6によるスナップ。瞬発力のある35ミリとは違った、いわばぎこちなくもある対象への近づき方が、かえって魅力。サッと撮ってしまうのでなく、心の中で、かなり細かなツッコミをあちこちに入れながら――という感じ。いかにもなオバハンの服に「utterly modern」という文字がいくつもプリントされているのには、笑いました。そういうおかしさも醸し出す視線によって、写真家はむろん、ひとつの関係を取り結ぼうとしているのに違いなく、それを「愛」と呼ぶならば、「Love Machine」とは、カメラのことになる、のかな。
2002.01.25. イメージ
小林正人展 (1月11日-2月16日、佐賀町・Rice Gallery) 。ペインティングの作家だが、イメージの生まれ方に興味をそそられたので、一言だけ。以前の宮城県美術館での個展では、不明のいたりで、「絵画」に賭ける情動的な側面を印象付けられるにとどまった。今回は作家の描き出すイメージがどのような性質であるのか、ああ、そうかという感じがあった。中心的な作品はギャラリーの窓側に、外光を背にして置かれている。崩れ賭けたキャンバス。そこに描かれた光のイメージが現実の外光と拮抗する強度を持っていることに、まず感心させられる。しかも、それは矩形のキャンバスがあるがゆえに成り立つイメージではない。木枠から崩れ落ちたキャンバスに、それ自体が図として成り立つ性質のイメージ。このようなイメージに至った理由のひとつは、手 (正確には手袋をはめているが) でキャンバスに絵の具をこすりつけるという方法に求めることができそうだ。その距離のなさが、それ自体で図として成り立つ形のイメージを生成させたのだろう。その意味で、作家が木枠からキャンバスが崩れ落ちる形でしか発表しなくなっているのも理にかなっている。ここでのイメージは、木枠=矩形のフレームを必要としないのだから・・・港千尋さんの「洞窟へ」を読んだとき、非投影型のイメージというのがピンと来なかったと書いたけれど、これもまたその一つなんだろうな。
2002.01.31. コイぱく
川内倫子写真集「うたたね」 (昨年10月、リトル・モア刊) を改めて眺める。3冊同時刊行で話題となったうちの1冊。ある写真が、しばしば被写体の形のあからさまな類似や連想によって、次の写真に続くように編集されている。エサをもとめて、池でばしゃばしゃ、ぱくぱくしているコイの口が、たくさんの目玉焼きの写真に続く・・・といった具合。それはまあ、そうしたかったのだろうということなのだが、ふと思ったのは、この写真集に限らない、まるでトリビアルなこと・・・つまり、ある種の写真に、本当によくコイがぱくぱくしている場面が出てくるなー、ということ。アブジェクション系と言えばいいのか、この写真集の場合は全編そうだというのではなく、その要素がさりげなくも巧みに入れてあるわけなのだが、それが一度ならず、コイだったりもする。
2002.02.07. 記録
ほほう、と思った話。クリスティーズ・ロンドンでのオークションで6日、グルスキー「Untitled V」 (1997) が43万ポンド (約8000万円) で落札された。現代写真作品としては最高記録との由。エスティメイトは15-20万ポンドだったから、なおさらグルスキー人気を印象づけられる。
2002.02.07. 下降
小出直穂子「赤い線」展 (1月29日-2月18日、pg) 。楽しみに出掛けた理由のひとつは、案内状のよさ。下降していく階段の写真を使っている。その下降する感覚は、展示の内容と深くかかわっている。タイトルが示すところの“土地の履歴”を手掛かりに撮られたとおもわれるスナップ。だが、それがいま、目に見える形であらわれているのかどうか、目の前にある建物の細部、壁の質感といったものが果たして、土地の履歴とかかわっているのか、容易に分かることでもあるまい。それゆえ土地の履歴への接近は、手探りで、行く先の見えない深層へ一歩一歩降りていく冥府下りの様相を帯びる。現代美術が好きな方には、いま売れっ子のグレゴール・シュナイダーみたいと言ってみたい気もするが、けっこうそれに近い面白さがある。壁一面のプリントで驚かせた前回の展示とは異なり、今回は比較的オーソドックスな展示となっているが、それぞれのカットが以上のことを思わせる手ごたえを感じさせた。
2002.02.08. 在る
稲田智代展「在ること」 (2月4-9日、銀座ニコンサロン) 。タイトルから想像されるとおり、会場にも、とてもシリアスな感じのメッセージが掲げられている。モノクロの写真は、ざっくり言ってしまえばアブジェクション系に寄っていて、やはりコイがぱくぱくしていたりもするわけだが、けっこう好きでした。というのは、アブジェクション系の中に、しらじらと現れる静かな感覚があったので。錆びた金網に這う植物の白さ、とか。
2002.02.08. オープニング
杉田和美写真展「The Opening」 (1月28日―2月9日、銀座・コバヤシ画廊) 。前回に行きそびれて、見たかった写真展。国内で行われた現代美術展のオープニングばかりをスナップしている。老いも若きも、作家も学芸員もギャラリストも、あの人もこの人も、写っている。こういうタイプの先行例があるのかないのか知らないけれど、あり得べき仕事だとは思う。AさんとBさんが談笑し、CさんがDさんのグラスにビールを注ぐ。言うまでもないけれど、実体的な作品の価値ばかりでなく、こうした場があってこそのアートなのであり、ここには抽象表現主義の作家だって、ばっちり写っている。意識下の、というか、そういうことになっている部分を、スナップショットは端的に指し示している。
2002.02.14. ホックニー
デビッド・ホックニー展 (2月12日-3月16日、銀座・西村画廊) 。幅広い時期にわたる版画を並べている。これというテーマはないわけだが、かえって複製イメージに対して、ホックニーが多岐にわたる関心を寄せてきたことが分かる感もある。いまや常套的な手法となった写真コラージュもあれば、「painted enviroment」という初めて見るタイプの仕事もあった。カラフルな抽象絵画を画架に置き、さらに同じ系統の抽象絵画を壁一面に繰り広げ、その光景を写真に収めた作品。位相の異なるイメージを併存・結合させ、ひとつの画面を埋め尽くしている。ちょっと奇妙な味がただよっていて、しばらく見入ってしまった。
2002.02.15. ウインク
HIROMIX写真集「Keita Maruyama Backstage +」 (昨年12月20日、マガジンハウス刊) を眺める。「ケイタマルヤマ」ブランドによるファッションショーの際、バックステージで撮った写真を中心にした一冊とのこと。なかなかいい感じ。撮っている人と、撮られているモデルの皆さんと、うまく波長が合っているみたい。なにしろウインクして、写っている人がいる。HIROMIXが「ほら、こんな感じ!」とか言ってウインクしながら撮って、モデルの人も「こんな感じ?」とウインクを返したのかな、と想像しました。そんなわけで見ているボクも、思わず写真集にウインク・・・なんつってオヤジのくせに、調子のいいことを書いてしまいました、すいません。
2002.02.18. ソンタグ
手持ちぶさたな夜。そこらにある本をぱらぱら眺め、写真をめぐる文章を幾つか読んでみる。たとえば松山巌「手の孤独、手の力」 (中央公論新社) に収められた、アーバスについての一文。木下直之「世の途中から隠されていること」 (晶文社) には、島霞谷「扇子とかぼちゃを持つ男」という写真が載っている。かぼちゃを手にして、ひじょうにいい笑顔を見せているのは、霞谷その人であるらしい。もっと経緯を知りたくなる写真。さて、多少なり、話題を呼びそうなのは、スーザン・ソンタグ「この時代に想う テロへの眼差し」 (NTT出版) に収められた、2001年2月の講演をもとにした一文「戦争と写真」。ソンタグは、映像の氾濫が道義的な洞察を弱めるといった、自らもかつて書き、いまや常套的となった考え方を否定し、「映像過多だから、実際に反応する対象が減少しているというのは、本当ではない・・・私たちはたぶん、より多くのものに反応している」と述べる。サラエボ体験が大きかったのだろう。かくて一文は「映像という形態で何かを見る。それを契機として、観察、学習、傾注が始まる。写真が私たちに代わって道義的、知的な仕事をするわけにはいかない。だが、私たちが私たちの道を歩き始める契機にはなるのだ」と、なんとなく「LIFE」創刊の辞を思い起こさせるような言葉で結ばれている。
2002.02.20. i
サム・テイラー・ウッド展「To Be Or Not To Be」 (1月9日-3月17日、銀座・資生堂ギャラリー) へ。前回はあまりに駆け足だったので、再訪した。やはりのんびり見てみるもので、改めて気づくこともある。たとえば冒頭にある「Self Portrait as a Tree」。夕暮れ時、不意に雲間から降り注ぐような赤みがかった光を浴びた木を撮り、暗喩的に自画像と呼んでいるわけだが、この木の下方に、一輪の赤いケシが咲いている。それを前回、見落としていた。木とケシは、「i」の文字を転倒させた図のようにも見える。それが作家の像だとしたら、つまり、隕石のごとく天から落下し、頭からさかさまに地面に突き刺さっている・・・といった想像を引き寄せる。言うまでもなく、すでにまったく恣意的な見方に走っているわけだが、そのようにして地上に存在してしまった、とでもいいたげな違和の感覚は案外、ほかの作品にも通じるようにも思える。
2002.02.20. 記憶/ごみ
寒川洋子展 (2月18-23日、銀座8の10の7、エキジビット LIVE) 。Art Scolaship 2001 という現代美術の賞がはじまったようだが、「椹木野衣審査員部門」で優秀賞をとったという個展。一方の壁面に沿って、ゴミのつまった多数の透明ビニール袋によるスペースが仮設されている。その中では、ゴミ袋でいっぱいになった、作家らしき女性の部屋などを撮ったビデオを見せている。会場に置かれたテキストによれば、作家は数か月間、実際にゴミを捨てずに暮らす体験をしてみたらしい。しかも、それぞれのゴミにまつわる記憶がよみがえり、なおさら捨てられなくなっていったという。最終的にはついにゴミ出しに踏み切り、そのようなゴミ/記憶に別れを告げたようだが、本展はこの体験と結びついている。インスタレーションそのものはわりに普通だったけれど、それでも関心をそそられた。まず、記憶を喚起するものが、ここではゴミであること。しかも、特異な行動のようでありながら、当の作家は、不思議なほど冷静に自らの行動の意味を認識している点も面白い。きっと記憶のよすがとなるゴミがかけがえのないものであるとしても、そのかけがえのなさとは、あくまでプライベートな話であって、同時にまごうかたなきゴミでしかないという二重性についても、自明のこととして理解しているはず。その意味で本展は、作者その人の私的な記憶を喚起する何かを、そのことのみで価値あるものと見なす考え方に対して、批評性を有してもいる。いま言った何かとは、写真であったりもする。
2002.02.21. 初台その1
ICC「芸術と医学展」 (1月18日-3月24日) 。医学とかそれにまつわる何かを扱った出品作がいっぱい。だが、メディア・アートの悪しき側面を思わせる作品が目に付く感もあった。多少なり期待していたせいなのだろうか。MRI画像を編集したジャスティン・クーパーのビデオ作品も、「音」がつまらなさを決定的にしている。何となく、それらしいムードを盛り上げるだけのSEが、メディア・アートには、よく流れている。あれもこれもできるということは、作品の質とはほとんど関係がない。個人的に見てよかったのは、むしろ鯉江真紀子の写真など。がん細胞を扱った作品を初めて目にして、「手探りのキッス」展やVOCA展に出していた群衆像とのつながりを知ることができたので。
2002.02.21. 初台その2
むっつりしたまま「JAM」展 (2月8日-5月6日、東京オペラシティアートギャラリー) へ。すでにご覧になった方には説明不要だと思うが、いきなりハイになりました。ロンドンから巡回してきた本展は、東京とロンドンの、いわゆるストリート系みたいなビジュアルを、ジャンル横断で煮詰めたグループ展。総じて東京サイドに勢いを感じたのは、やっぱり日本人だからかな。しかし、これって、外国人に分かるかなー、と思わせるような美意識もうかがえる。会場でとくに異様なパワーを放つ一群は、ゴージャラス (とくに宇治野宗輝「ラブ・アーム」) 、都築響一のラブホテル写真、キュピ・キュピあたりか。写真で言えば、吉永マサユキの暴走族写真も、あちらの人たちを驚かせたのかもしれない。これらに通じる美意識を言い当てるのはたぶん、クライン・ダイサム・アーキテクツらによるユニット名に採用される言葉「deluxe」にほかなるまい。正確に言えば、もはや「deluxe」とはほとんど無縁の「デラックス」。欧米からやってきたモダンなデザインが、日本で歪曲され、本来の語意と裏腹にチープになり、キッチュ化した「デラックス」。そのテイストや歪曲のパワーを、彼らは的確に取り出し、あるいは増幅して見せている。初めて見た「キュピ・キュピ」の突き抜け方には、もはや胸を打たれるものがありました・・・などと言っていると、連中は、まさにそれをオリエンタリズムの目で面白がっているんじゃないか、と叱られそうだけど。
2002.02.21. 初台その3
初台では、シリアスな展覧会「Transfom the world 2002」 (1月16日―2月28日、ワコウ・ワークス・オブ・アート) も開かれていた。リヒターをはじめ、このギャラリーが扱う作家の、政治的な含意のある作品を並べる。奥に置かれるのは、焦点距離を2倍の遠さに設定してあるという杉本博司の建築シリーズより、世界貿易センタービルの作品。事後的には、どうしても予言的だとの感慨を引き寄せるわけだが、しかし、このシリーズは、実のところ、つねに被写体の衰滅する未来に焦点を合わせるようにして撮影されているのかもしれない、とも感じる。
2002.02.21. 富士
とか何とか思いながら、pgへ。楢橋朝子展「カブキノクニ2」 (2月15-28日) 。タイトルに引きずられて、日本的、といったことに関心の一端があるのかな、とさしあたり思う。最初に見たカットは、遊覧船とおぼしき船のデッキに、白い洋風のいすが置かれ、遠く霞むようにして富士の嶺が浮かんでいる。ことさら特異点を探すというより、風景をそのまま受け止めて、そこにバナールさが立ち現れる――といった撮り方なのだとは思うけれど、関心の振れ方は、尾仲浩二写真集「hysteric Five」 (ヒステリックグラマー) と、似ているようで、違うところがあるかも、と思う。ただ、何しろ本シリーズを初めて見るという不用意さでありまして、今回はこのくらいで・・・。
2002.02.26. 趣味
黒崎政男「哲学者クロサキの写真論」 (昨年10月、晶文社刊) を読む。なにしろ哲学者だし写真論だし、と敬遠気味に取っておいた一冊。ところが巻頭の一文で、<哲学研究者という職業からすると、抽象的な議論こそ好みで、ベンヤミン、ソンタグ、ロラン・バルトらの写真論と正面から向き合い、それを乗り越えていきたい、と考えているに違いないと思われるかもしれない。しかし正直に言えば、わたしは「抽象的な写真論」というものにあまり興味がないのかもしれない>と打ち明ける。え、そうなの? と思わせるが、まさしくその通り。著者はアンティーク、オーディオ、さらにカメラも、という豊かな趣味の持ち主であるらしく、「麗しのライカ、愛しのハッセル」といった章も含まれる。なかにはデジタル/アナログといった話題をめぐる考え方も挟まれるけれど、基本的にはカメラ愛好者という立場からの一冊であり、それゆえ自ら撮った写真もいっぱい載っている・・・というような本なのでした。
2002.02.26. 霊と肉
この日オープンしたロバート・メイプルソープ「Polaroids」展 (3月23日まで、江東区佐賀・Taro Nasu Gellery) へ。すべて1点かぎりのポラロイド。小さな印画紙に宿る、やや頼りなげなイメージは、初々しくもあり、率直さゆえの不穏さも感じさせる。プレイ中の写真が幾つか含まれるということもあってか、ちょっとだけ、イメージと物質/霊と肉、みたいな私的な妄想にもおちいりかける。それもまたメイプルソープ伝説に幻惑されているということか。ちなみに、ここに見るようなポラロイドをたまたまロンドンで見たことがあるのだが、そのときはアラーキーのポラと並べた2人展だった。
2002.02.28. アイドル
「森万里子 ピュアランド」展 (1月19日-3月24日、東京都現代美術館) に行って、ひとつ気づいたことを。いろいろな作品で、アンビエント風の (と言っていいのかも迷うけれど) SEが流れている。そこで作者も歌ったり、語ったりしているのだが、その発声には、ひとつの癖がある。それが何に由来しているのか、同世代の日本人なら、つい想像してしまうはず。なんというか、アイドル歌謡曲の歌い方を思わせるのである。例えば「クマノ」という作品中、「こころ」という言葉は、「赤いスイートピー」だったか、松田聖子の「こぅころぅの・・・」という歌い方と重なり合う。作者が幼いころ、アイドルにあこがれ、そうとう歌まねをしたのかどうか、まったく知らないし、アイドルという主題についても、批評的に扱われているのか、そう見えて、実はけっこうマジな欲望と絡み合っているのか、よく分からないけれど。
2002.03.02. 映画
pg企画、佐藤真「セルフ・プロジェクション」へ。前に書いたとおり、映画を見るのが億劫だという、現代人にはあるまじきタイプなので、以下もピントを外しているはず・・・と言い訳をしたうえで、感想を。まず思ったことは、映画とはこんなに制約が多いメディアなのか、ということ。佐藤監督は本企画で、複数の映像を投影し、それぞれの物語を相互に干渉させ、攪乱を試みた。即興性も導入した。映写後の質疑から想像するに、どうやら映写機を左右に振ること、フラットな幕面ならざる傾斜面に映写することも、映画では、そうとうの実験であったらしい。じつはターンテーブルみたいな操作もひそかに空想していたので、激しく映写速度を変えるワザは、さすがに難しいのかな、なんてことも思った。ともあれ映画のシステムが揺さぶられ、それと同時に、単一のフレーム、単線的な時間軸の上に映像が配置されていくという、映画を成り立たせる枠組みそのものが浮き彫りになっていく印象があった。むろん佐藤監督の側は、そんなことは百も承知のはずで、その先への関心があったはず。3つのプログラムで、映像の扱い方はいずれも異なっていて、原理的というにとどまらない実験がそれぞれ行われているように見受けられた。その点をふくめて、すっかり佐藤監督の強烈な作家意識に圧倒された一夜でもあった。作品の内容にもかかわるのだが、たとえば出産のシークエンスの終盤、鏡 (?) にうつった自分にカメラを向ける数秒がある。このような場面であやまたず自己言及性を滑り込ませるあたり、私情というより、映像を成り立たせる枠組みに対する意識の高さを感じてしまうわけだが、そのような抜きがたい作家性が、今回の企画をつうじて、つねにせり出してくるような迫力があった。
2002.03.03. 遠い夏
木村伊兵衛賞が発表された日。その記事を読みながら、ここ何日か眺めていた大西みつぐ写真集「遠い夏」 (2001年12月、ワイズ出版) のことをふと思う。1993年の木村賞受賞作は、今回はじめて写真集にまとめられたという。写真家その人が<まったく新しい「遠い夏」である>とあとがきに記すとおり、その当時に見るのと、いま見るのとで、写真の見え方は著しく異なるはず。しかし、たんに外的な事情のみならず、そうした見え方をめぐる熟慮のうえで、出版に至ったのではないだろうか。写真集の出し方は、やはり写真家のたたずまいを思わせるところがある。
2002.03.08. 療法問答
年が明けたら、あんがいpgにも行かなくなるかもなー、などと内心思っていたのは、昨年暮れのこと。しかし、そうも行かないような企画がつづく。そんなわけで、兼子裕代展「長崎問答・びわ療法」 (3月6-19日、pg) へ。残念ながら、皇居をめぐる個展は見ていない。しかし、この極めて抜けの良いランドスケープが、土地の歴史性を前提に撮影されているのだろう、ということはうすうす思う。びわ療法については、体験したことがないせいか、効き目はよく分からない。そのようなレトリックをふくめて回り道をしているようでもあり、さりとて、じんわり治すしかないような性質の事柄もあるのかな・・・と自問自答しつつ、あとはまったくの余談。見入ってしまったのは、路面に「30」という制限速度の数字がうつっているカット。いっしゅん裏焼きみたいに見えたが、しかし、当然というべきか、進行方向の反対側から「30」を撮っているだけのこと。それなのに最初の印象が尾をひいて、窓であるはずの写真は鏡と化し、長崎に立たされているかのような錯覚に・・・ほかにも字の書かれたノボリがひるがえった瞬間を撮ったりした写真を見ると、裏焼きじゃないよな、と反射的に確かめてしまう。かつて裏焼きを厳しく戒められる職場にいた後遺症だと思うのだが、いったん刷り込まれると、なかなか治りませんね。
2002.03.12. 京博
注目を集めている春の展覧会の一つに、きょう京都国立博物館で開幕した雪舟展 (4月7日まで、のち東京に巡回) がある。先日、関西に行った際、その吊り広告を見た。「ひとは彼を画聖 (ルビあり、「カリスマ」だとさ) と呼ぶ/見逃せば次は50年後 それまであなたは待てますか?」。大規模な雪舟展としては50年ぶりだから、ということのようだが、これでは脅迫ではないか。絵は、脅迫されて見に行くものではない。集客目当てとしても、度を越している。内容的には見たい展覧会だけに、いかにも残念。
2002.03.12. ついでに
古美術の話題ついでに。個々の件がどうだというよりも、そういうロジックそのものに違和感を覚えるのだが、例えば、千葉市美術館で開幕した雪村展 (4月2日-5月12日、渋谷区立松濤美術館に巡回) について、竹林の七賢が踊るのを、マティスの「ダンス」になぞらえる評を読んだ。雪舟の破墨山水だったかをターナーみたいだ、という別の評も目にした。ふと本屋で入門書を手に取れば、若冲とクールベはリアリズムにおいて共通点がある、とも記されている。これらの比較は、雪村にせよ、雪舟にせよ、見るに値すると言いたいがために持ち出されているようである。だが、そう思うのなら、マティスなりターナーなりを見れば十分なのであり、雪村や雪舟を顧みる必要はまったくない。西洋美術史以外の参照系を持たない人が圧倒的多数を占めているのは事実だとしても、そこに当てはまらないものを回収することには、せめて禁欲的であるべきではないか。たしかに若冲は「物を画にする」ことを語った。しかし、この言説と作品はそうとう異なる。言説にしても、クールベを引き合いにだすことで見えなくなる若冲の文脈を、むしろ読むべきではないか。こうしたロジックは、異なる文化圏の優劣を前提にしている。西洋美術に匹敵する、として古美術を擁護する態度は、それゆえ、たやすく日本文化の優秀性を誇示する態度に反転する。この話題に関して、ポーラ文化研究所「is」誌87号に載る山下裕二氏「1910年の写楽」が果敢な議論を展開しているので、関心のある方はぜひご一読を。
2002.03.14. 水鏡
齋木克裕展 (3月6日-4月6日、上野・Scai the Bathhouse) へ。わりに広いギャラリーであるせいか、空間を生かした展示を試みている。とくに目を引くのは、空のシリーズを、床置きにした作品 (フロア面よりは少し高くしてある) 。そのまま空を映し出す位置に置かれているわけで、写真/鏡という原理に沿う面はある。しかし、ふだん目にする水鏡ということを連想させるし、写っている空も、以前に見た作品の抽象度に比べて、電線といった日常的な物体がかなり映り込んでいる。それゆえ情緒的な方向に傾いたようにも思われる。作品の見せ方を含めて意識的な作家なので、この方向がどこに目指すのか、興味をいだく。
2002.03.16. 歓喜天
ふと新刊本「歓喜天とガネーシャ神」 (青弓社) を手にとって、この著者名って聞き覚えがあるような・・・と思ったら、「写真を見る眼」 (同) の長谷川明氏。そうか、いろいろなことをお書きになるんだな・・・と思ったわけなのだが、実をいえば、個人的には興味深いことが書かれている本だった。タイトル通りの内容だが、近世の歓喜天信仰に関して、教えられることが多かった。例えば、歓喜天と大根の結びつきについて。
2002.03.22. ミヤコ
雑事を振り切って、pg企画、石内都展 (22-24日) へ。スライドショーにはまったく間に合わず、写真のみ見る。横須賀などのヴィンテージ・プリント (もとはポートフォリオとの由) から、近く発表する予定であるらしい、母の遺品をめぐる新作まで。極めて私的な記憶に根ざす写真であれ、現実の物質を介すると、集団的な記憶がそこに入り込むことがある。写真集のひな型のようなものも置かれていて、そこにはミヤコの名をめぐるあとがきが記されているようだった (まだ詳しく読んではいけないような気がして、さっと見ただけ) 。ふたたび横須賀の写真を見れば、やはりミヤコという言葉に、ある含意をともなっていた時代の空気が色濃く漂う感じがあった。ともあれ新しい写真集も遠からず刊行されるようで、楽しみ。それにしても、会場は大にぎわい。
2002.03.28. 「ついでに」のついでに
いまどき古美術をかたる倒錯性は自覚しているつもりだが、もう少しだけ。ふらりと寄った宮内庁三の丸尚蔵館「江戸の美意識」展 (3月26日-6月9日、開館日など注意) のカタログに、面白い指摘があった。「0312 ついでに」で触れた伊藤若冲にかかわること。若冲が鶏を飼い、写生したという逸話は、この画家を紹介する枕詞のようにたびたび語られる。史料的な根拠はある。それゆえクールベが引き合いに出されたりもする。だが、大量に残る鶏画をすこし眺めてみればいい。似たような姿態が反復される場合がある。「言説と作品とは違う」と記したゆえんだが、カタログに載る太田彩氏の論考は、桃山期の狩野派作品と思われるフリーア美術館蔵「向日葵に黒雌鶏図」をかかげ、若冲の鶏画のうち2例との、あきらかな姿態の一致を指摘している。類似の域を超えて、引用と見て差し支えまい。若冲の元ネタはいろいろ指摘されてきたが、鶏画で具体的な原本が言われたのは初めてではないか。ほかにも意義のある指摘だが、若冲は写生をした、だから偉いといった言い方は、その前提において、すでに再考を要する。こうした手続きは、何よりも若冲の写生/模写という行為のわからなさに考えを差し戻し、直面させる点において、意味がある。
2002.03.28. 佐賀町1
佐賀町に転じ、東京VOID展 (3月8日-4月6日、佐賀町・Rice Gallery) 。国際展でも売れっ子の顔ぶれを含むグループ展の基調は、マルチプリシティなるグループの映像「東京VOID」が示すのだろう。とらえがたく、物質的には空虚を抱え込みながらも電子化、高速化していく都市――“見えない都市”への現代的なアプローチといえばよいか。秋葉原などの映像では、都市は発光体と化す。その白を、ビルの壁面その他に見いだしたりして拡張していく。ほかの出品作で目を引いたのは、オラファー・エリアソン。九州のCCAで昨年、衛星画像による「あなたの差異と反復」という作品を制作したらしく、今回もそれを素材とする。上空から都市を撮影した衛星画像を折り紙のように使って幾何学図形を作り、組み合わせている。手作り工作風の小品だが、簡素さは彼の持ち味のひとつ。VOIDというテーマとも符合して、やはりセンスを感じさせた。
2002.03.28. 佐賀町2
階段をおりて、デニス・ホリングスワース展 (3月15日-4月6日、小山登美夫G) 。純然たるペインティングながら、何かが確実にヘン。ホイップクリームができたかどうか、引っ張り上げて立つかどうか試すことがあるけれど、キャンバス上にぽってりと白を盛り上げ、そんな具合にツンツン立ててみたりする。油彩の粘性をまったくそれ自体として楽しむ風。メディウムに対する関心はモダニズムの証と言われるが、これはそういうものではない。カタログ中の一文で、<ホリングスワースのキャンバスは、その「油彩的」な性格を強調しようとするときに最も強く、一般的な絵画の概念を挑発するような異質さを帯びることになる>と、松井みどり氏が述べているが、じつに適切な評だと思う。ともあれユニーク。
2002.03.28. 好著
その松井みどり氏の著書「Art: Art in a New World」 (2月、朝日出版社刊) を読みはじめたところ。カルチュアル・スタディーズ系のシリーズ本のひとつらしい。じつは日本語の題もついていて、そちらは「アート:“芸術”が終わった後の“アート”」。このタイトルはあまりよくないと感じたが、買ってみて、驚いた。1980、90年代のアメリカにおける動向を扱って、これほど明確に文脈を踏まえ、しかも分かりやすく書かれた本はなかったのではないか。わずか10ページ余の序文で、アーサー・ダント「美術の終わり」、ハル・フォスター「リアルなものの帰還」を要約し、DNA、オクトーバー誌、ホイットニー・ビエンナーレなどの動向にも簡潔に触れながら、本書が扱う事項、扱わなかった事項とその理由を記す。これだけで本書のまともさを予感したが、本文においても要約、文脈提示は鮮やかだし、要所で自らの立場を明確にしながら叙述を進めている。ちなみに、ハル・フォスター批判ものちに記される・・・なんてえらそうに言うほどの知識もじつはなく、ふむふむと教えられることが多いのだが、しかし、広く読まれてよい本だと思う。日本の状況にたいする言及はあえて抑えたというが、それでもマシュー・バーニー/曽根裕の比較、ポップの文脈でくくられがちな2作家を「村上隆VS会田誠」ととらえる視点など、興味をそそられる。ぜひ遠からぬ将来、日本の現代美術編も執筆してほしいものだ。
2002.03.28. 猿の目
よる再び新宿に繰り出して、pg・元田敬三展 (3月25日-4月7日) 。むろんスナップ一直線。いかなる人も物体もストロボ一閃、光のもとに特権的な意味を剥奪された表層と化す。被写体が個性的な人であればあるほど、クールネスとの緊張は高まる――そんなスナップ本来の、けれん味のなさを楽しんだ。ただし何度か見ていると、知っている人も増えてくる。このあたりはどう眺めたらいいのだろう? とうぜん撮る以前にも以後にも続いているであろう被写体との親しい関係を想像させるわけだが、そのときストロボ一閃の絵柄は、ひとつのスタイルと化してしまう感もある。人間的な関心とスナップという手法がどう折り合うのか、なお行方を見てみたい気がする。目を引いた異色作は、猿のカット。光がいい感じに強く当たって、猿は暗闇のうちにしらじらと浮かぶ。まなざしはどこか虚ろ。不思議な非現実感を漂わせて、印象深かった。
2002.03.29. 幕
久しぶりに疲れるくらい歩く。個人的に楽しんだのは、恵比寿・ハヤカワマサタカギャラリーのマリア・アイヒホルン展 (3月23-29日) 。ひとつの壁面を赤いカーテンが覆う。それだけといえば、それだけ。作品の文脈もまるで知らないわけだが、しかし、妙にそそられる。カーテンは、どうしても背後にあり得べき窓を想像させる。窓は絵画の暗喩。のみならず絵画は窓を描き、しばしばフレームを強調すべくカーテンを描き込む。そんな絵画の周縁を作品そのものに逆転させたのか・・・あるいは隠す/見るという構造そのものを問おうというのだろうか・・・という具合に、さまざまな連想を呼び込みつつも、すべてを襞のむこうに秘めて、カーテンはただ視野を覆っている――というわけで、エレガントな作品だと感じる。なお、ギャラリーは移転を予定しており、現在地での展示はこの日でおわり。写真を使った表現でも、幾つかの展示が記憶に残っている。畠山直哉「UNDERGROUND」を見たのもここだった。ふたたび幕が開くのを楽しみに待ちたい。
2002.04.03. 寐目
またペインティングの話題ながら、面白かったので紹介を。小林孝亘展 (4月2―27日、銀座・西村画廊) 。東南アジア滞在前から描かれてきた、いっけん素朴なタッチによる風景が、奇妙なテイストを持つのはだれもが感知するところ。人物を描いたこのたびの新作は、それらの風景がどのような類のイメージであるのかをあきらかにする。顔というか頭部のみ、しかもだれもが眠っている。それらは「small death」ないし「私たちを夢見る夢」と名づけられている。前者を仏語に言い換えると、性行為ののちの眠りを意味するそうだが、むしろ後者のタイトルのほうに興味をひかれる。ネイティブ・アメリカンだったか、その方面に近い作家の文から採用された語だという。だが、すぐさま集合的無意識といった話に結びつける前に思い浮かべるのは、「夢」の語源である。日本では、もともとイメ/寐目、つまり睡眠中の視覚を意味する。眠りに落ちながら、いぜんとして人は何かを見ている。目は私から解き放たれ、さまよいだす。それが夢である。小林による眠る人々の絵は、起床時とは違う位相で、彼ないし彼女の目が働き続けていることを感知させる。言い換えるなら、眠る人を介することで、現実とは違う位相のイメージがあり得るのだということを、説得的に指し示してもいる。さらに「私たちを夢見る夢」というタイトルは、そのイメージが現実と拮抗し、逆に照らし返すものでさえあり得ることを示唆していよう。そのイメージとは、あけすけに言ってしまえば<絵画>ということなのかもしれないが、ともあれ、眠る人々の姿のほかに掲げられている絵――どこなのか、木もれ日の落ちる風景――についても、面白く眺めることができた。
2002.04.04. 横顔
関美比古展 (4月1-7日、新宿・ガレリアQと四谷・プレイスQ) へ。写真集「carnation」 (発行・ガレリアQ) を見てから出掛ける。タイトルの含意については、本HP、三島靖さんによるテキストに教えられる。そうだったのか・・・。不思議な印象とともに眺めたのは、モスクワ滞在中の81年に撮影された幾つかのカット。とくに毛皮の帽子をかぶった人々の雑踏の中で、やや低い位置から、おそらくは女性の横顔に向けてシャッターを切ったとおぼしき1枚。この時はまだ小学生だったはずなのに、その後につながるような視線の質を感じさせる。そんなことがあるのだろうか、という気さえするが、事実はむしろ、モスクワ体験からその後の写真がはじまった、ということなのかもしれない。
2002.04.04. 困惑しつつ
プレイスMにて、中平卓馬写真集「hysteric Six」 (3月15日、ヒステリックグラマー刊) をゲット。うーん、これって写真界の人はどう見るのだろう。さしあたり思うことは、こんな感じ・・・本写真集は、言うまでもなく独特の磁場のうちに置かれている。77年以前の言説は、予言として口にされたのではないはずだが、それが主体批判をふくんでいたことによって、いわば事後的に、予言的に読まれ得ることになった。本写真集もまた、そのような磁場のうちに刊行された。そこに「受容的」といった語彙に重なる傾向を見いだすことは、かつての言説にいっそう予言としてのアウラを帯びさせる。かかる構図を避けるのが、まずは理性的な態度なのだろう。しかし、そこを承知で、あえて重ね合わせてみる立場があってもいいのかもしれないと思う。というのは、この写真集を開いた時、個人的にはぎょっとさせられたし、そう感じてしまう理由とは、かつての言説によって、本当に説明され得るものなのかどうか、ちょっと知りたい気もするので。
2002.04.11. 余白
伊奈英次写真展「Watch」 (4月6-28日、田園調布・art & river bank) 。監視カメラを撮った連作。デジタルの質感が効いている。デジタルらしい抜けのよい写真は、極めて微量だが確実に、世界から余白がなくなっていく閉塞感を見る側にもたらす。ふいに「余白」などと言いたくなったのは、初めて訪ねたギャラリーのロケーションのせいでもある。多摩川に沿い、のどかな眺めが広がる。しかし川辺とは、もとより周縁であり、ときに周縁ゆえの意味を持ち得たりもする。そんな場所で、このシリーズを眺めていると、世にある/あった、さまざまな「余白」がいま、どのような様相を帯びているのか、と思わせた。
2002.04.11. 飛行船
出直して、尾仲浩二「あの頃、東京で・・・」展 (4月8-21日、pg) へ。かつてのフィルムから起こした写真のよう。最初の1枚に飛行船が写る。おしまいの1枚にも飛行船。会場でよく見ると、じつはメーカーの広告用飛行船だった。最初がKODAK、おしまいがKONICAだったか。それを見上げている写真家の胸のうちは、どんな風だったのか。むろん分からないことだが、写真への夢が空に浮かび、さまよっているという風に見えなくもない。しかし、それはメーカーが飛ばしている飛行船にほかならない。そんなわけで、苦みをおびた多義性を味わう。その印象は、飛行船と飛行船の間に掲げられた写真にもよぎる――たとえば、あるカットに写り込んでいる「スナックシリアス」といった看板。ちょっとおかしくて、しかし、それだけでもない気分にさせる。
2002.04.12. 語る美術家
マイケル・キメルマン著「語る芸術家たち」 (3月6日、淡交社刊) を読む。アート界のビッグネームを大美術館――多くはメトロポリタン美術館――に連れていき、過去の名画その他について語らせるという趣向のインタビュー集。とはいえ、美術家らしい斬新な見方がつぎつぎに示されるとは言いにくい。大半は語りでなく、地の文でつづられており、むしろ美術館なり名画なりを前にすることで、あらわになる美術家それぞれのたたずまいが読みどころか。写真家としてはカルティエ=ブレッソン、映像を使うタイプの美術家も含まれている。クールベを前にして、「本物はカタログで見るのとはぜんぜん違うもの」と、シンディ・シャーマンは屈託のない感想を口にする。ブルース・ナウマンは妻のスーザン・ローゼンバーグと2人でインタビューを受けていて、けっこう仲むつまじかったりする。
2002.04.15. 表層
ヘルムート・ニュートン展 (4月11-23日、東京・大丸ミュージアム) 。けっこう盛りだくさん。ふむふむ、こういう写真も撮るのかと思う。ハイヒールをはいた足のX線写真だとか。ほかに人体標本やマネキンの写真などもある。こういう作用をする写真を以前に見たことがあった――ふとジャンルー・シーフの回顧展で見た幾つかの写真のことを思い出すのだが、皮膚、ファッション、広告といった表層にかかわる仕事をしていると、ことさらその表層性を意識させられるのか。あるいは、そうした嗜好が表層的な対象に向かわせたということなのかもしれないけれど、表層性に対する自己批評として作用するような写真をわざわざ撮っておくのは、割にありがちなことなんだろうか。会場には、シーフと一緒に写った写真もあった。
2002.04.18. 久保昌雄再び
うっかり見過ごしていたのだが、「今昔・熊野の百景」 (2001年12月25日、はる書房刊) という本を見つける。photo-eyes がスタートしてまもなく、久保昌雄という明治の写真家による「熊野百景写真帖」 (1900年) が話題になったことがある。あらたに刊行された「今昔-」は、その写真と、久保のひ孫であるらしい久保広晃という方が新撮した写真とを収める。視野を広く取って、地勢、景観をとらえた「熊野百景写真帖」について、北島氏は「明治のコンポラ」と言っていたけれど、そんな久保昌雄の世界を楽しむことができる。それぞれの写真には、同じ地点から撮影した久保広晃氏の写真が並べられている。今昔を見比べることができるわけだが、そこにも面白さがある。定点観測モノの写真集はふつう、「こんなに変わったのか・・・」といった感慨を呼び寄せるもの。ところが、この本は「え、こんなに変わってないの?」と思わせる。土地柄もあるのだろうが、そもそも久保昌雄が風俗的な側面をあまり撮っていないという事情もありそうだ。
2002.04.19. 写真魔
睡眠前に「渡辺啓助集 地獄横町」 (ちくま文庫) を読む。先ごろ101歳で亡くなった探偵小説作家だが、「写真魔」という短編が入っていることに、興味をそそられる。容姿にコンプレックスをもつ写真館の後継ぎが、写真をネタに、<眩いばかりに真白な皮膚をもった二十八歳の未亡人>である白薔薇夫人をゆすり、やがて奇怪な結末へ、というストーリー。初出は昭和6年の「新青年」。時代色は否めないが、そこが面白かったりもする。語り手である写真師は冒頭、自らの写真美学を明かす。父親が名をなした<所謂芸術写真風なウツシ方をしんから毛嫌いしていたのです。私は大体硬い感じの写真が好きでした><私の、こうした美醜をありのままに、意地悪いまでにハッキリ刻印してやると云う撮影法が、この町では全く受入れられなかった>。新興写真にかぶれたけれど、商売はさっぱりだったということか。満たされないリアリズム志向は、彼を白薔薇夫人の盗み撮りに走らせる。あくびをしたところを撮影できたことから、それをネタにゆすりをかける。え、あくびをしている顔で? と思うが、のちに登場する別の女性のせりふ<もっと若いプロレタリアのひとと、しんみの世帯をもってみたいがなア>を読めば、そんな時代だったのかなと納得。しかも、使用機材には意表を突かれる。白薔薇夫人は<私から買いとった「欠伸する白薔薇夫人」のネガを支那焼の棕櫚鉢にヒステリックに叩きつけて割ってしまいました>・・・盗撮というと、なんとなくハンディーな機材のような気がするけれど、じつは乾板だったのね。
2002.04.23. 月光
pgの本山周平展。スライドショー。90点あるという。数のみならず、クラブをはじめ、あれこれの夜景がひたすら続く。とにかく撮っているんだな・・・と実感。これまで展示やHPで、地方や大阪の写真を眺めていて、うまいなと感じ、しかし、そのこと自体はあまり意味がないかも・・・と幾らか距離を置いて眺めていたのだが、こちらが見誤っていたらしい。つまらぬ考えなど追いつかないほどに撮る――それこそがスナップを撮る写真家にとっての存立基盤であるはずだが、まさにそのタイプだと分かった気がする。展示にあわせて、「SMタブロイド 月光ナイト-東京」も出している。その姿勢をふくめて、今回はすなおに脱帽。
2002.04.23. 広告
新聞で目を引いた記事。サントリーが発泡酒の缶に、ユニクロの広告を印刷して売り出すのだという。缶の側面3分の2ほどに広告を載せ、その収入を値下げの原資にする。商品名は「アド生」。広告業界に疎く、どのくらい斬新な手法なのか、分からない。ただ、たとえば駅の自動改札機に小さなシールがはられはじめたのに気づいたときと同じく、広告はますます版図を広げつつあるのかな、と感じる。文字なり画像なり、広告イメージも、いわば支持体がないかぎり人目にふれ得ないわけだが、潜在的にはさらなるイメージが求められていて、スペースのほうが追いつかなくなっているのかもしれない。自動改札機のシールは新たな領土の獲得、自社商品に他社広告というのは、戦略的な領土の割譲みたいなことか。それでも宿るべき場所を見いだせない広告イメージもあって、あるいは成仏できずにさまよっているのかも。ご用心あれ。・・・なんてことを思ってみたのは、前にも紹介した「d/SIGN」誌の第2号で、大西廣氏が、街頭広告の現状について論じているのを読んだせいでもある。
2002.04.23. 余白2
同じ日、pgの活動に「写真の会賞」が贈られることになった、と知る。pgに立ち寄ると、ギャラリーの壁面が白いのは当然ながら、事務所の机も白いんだな、と思うことがある。ホームページのレイアウトも白。あまりこじつけてはいけないが、なべてマーケティングに染め抜かれていく時代に、困難なことではあれ、いわば余白としてありつづけほしいとも思う。
2002.05.07. 関西1
関西に行く。ところが、GW明けとあって、たいていの美術館がお休み。すこしだけ大阪のギャラリーを回る。驚いたのは、海沿いの倉庫街にあるCASOというスペース。つい先日、東京のギャラリーが出展する企画があり、彼らから、けっこう広いよ、と聞かされていたけれど、たしかに広い。手前の幾つかの展示室では、韓国の現代絵画展。伝統的な傾向を踏まえた作品を紹介している。ところが官民相乗りになっているらしく、奥の展示室は、公的なコレクションの展示。かかっている写 真は、かつての花博のとき購入したもののよう。なんだか妙な感じもする。だが、広さをはじめ、いま東京近辺にこれだけ恵まれた空間は少ない。横浜に赤レンガ倉庫というのができた。だが、ショップの中に申し訳程度に設けられた展示スペースとは、催事場以外の何物でもない。おろかにも出掛けてしまって、げんなりしたのを思い出すけれど、CASOのほうは大阪に来たら、また立ち寄ってみたい気がした。
2002.05.09. 関西2
pgでは、入れ違うように大阪発の2人展、綾智佳企画「家族、幻想――Family, Fantasy」 (5月3-12日) が開かれていた。垣本泰美作品は、じつは一度、サード・ギャラリーAyaに立ち寄ったさい、たまたま見ていた。物体が宙に浮かぶ。だが、神秘的というよりは、浮かしている糸が何だか見えそう・・・みたいな感じの、ほんわかしたテイストが身上か。山中葵作品は今回が初めて。集合住宅のベランダが画面 を埋め尽くす。一瞬、あれっと思うが、じつは多数のイメージを接合している。ともにメイキングが施されているわけだが、きめきめではなく、なんとなくユーモラスな印象が先に立つ気がするのは、大阪ということで、つい先入観を持ってしまうせいか。
2002.05.09. またたび
尾仲浩二さんの「マタタビ日記・番外編」に、驚く (くわしくは本HPの「012」をご参照あれ) 。かつての恩師との再開にかかわった新聞記事とは、文字数にして300字ほど。内容的にも情けない代物だが、なによりも写 真のサイズはハガキの半分ほど。しかも網点で印刷されている。それなのに、そんなことが起こり得るとは・・・書いた本人はどの程度の記事かを知るだけに、なおさら驚いた。写 真を撮ること、見ることはふつう、非対称的なことだと思う。とくに今回のように、空間や場所にかんしては。あるフレームで、空間なり場所なりを切り取る。撮った人はそこに立ち、じつはフレームに入らなかったものを、五感をつうじて体験している。だが、見る側はフレーム内の画像しか得ることができない。そこから撮った人が生きた空間なり場所なりにたどりつくのは、おそらく不可能に近い。撮影年、場所を示すキャプションが手助けになるとしても、撮る側と見る側がまったく同じ空間・場所を共有できるというのは、大抵の場合、幻想だという気もする。ところが、今回はそうではなかった。もともと先生はその空間・場所を生きたことがある。それゆえに写 真をつうじて、そこに立ち戻ることができた (しかも、どこかに不思議な形でたくわえられているらしい空間・場所の記憶をよすがとして) 。レア・ケースのように見える。だが、じつはそうでもないのかもしれない、と考えさせられる。それぞれの人が生きる空間や場所が、完全には分節化されておらず、どこかでつながり、わずかであれ重なり合う部分があるのだとしたら、写 真を見るとき、やはりわずかであれ、その先にも人は歩み入っているのかもしれない。
2002.05.16. 円
蜷川実花展「like a peach」 (5月16-26日、スパイラルガーデン) 。チラシ裏の惹句にいうとおり、「女の子の憧れのモデルや、ミュージシャンたちの魅力を独特の色彩で引き出した作品の数々が登場」。まえにアール・ヌーヴォー的だと書いたけれど、じつは異なる点もある。19世紀末の芸術家たちが男性であり、性的魅惑と女性嫌悪とをないまぜにして女性像を描いたのとは異なって、ここでは女性が女性を撮り、女の子が魅了される。ただし性差というのはひとつの例えであって、つまりは「上品でキュート、パワフルでなおかつ清楚、そしてセクシーな蜷川ワールド」 (同じくチラシより) のなかで、撮影者・被写体・鑑賞者が楽しげに円環をなす。そんな写真を眺めながら、奥のスペースに行くと、さらに驚かされる。赤い円形のカーペットがあり、その上に幼児が入って遊ぶ、おもちゃのおうちが置いてある。ボール紙のチューリップも咲く。以前と同じく、当惑にとらわれる。これはキモチいい蜷川ワールドの結界と思えばいいのか、それとも意図的な仕掛けなのか・・・。ともあれ、円形の赤いカーペットはふと日の丸を思わせる。そのカーペットを取り巻くのは、グッズや写真集の物販スペースであり、いうなれば円の光景――それも含めて、いまの日本・写真を考える上で、目が離せない感じもあった。
2002.05.17. サロン
リニューアルした新宿・コニカプラザに行ってみる。個展は長野重一、野村恵子のお二方。前者「東京・双つの刻-1950・2000-」は戦後まもなくと、近年の写真という2部構成。戦後まもなくの部で目を引いたのは、地下暗渠を撮った写真。おお、長野重一版「UNDERGROUND」だ。近年の部では、こちらは写真集にも収められていたと思うが、高層ビルの廊下かどこかで、女性が座り込んで、やはり高層ビル街をガラス越しに眺めているというカット。さりげなくも、この写真家の風景論というべきものか。展示空間についていえば、きれいにはなっていたが、あまり変わった気がしなかった。メーカー系のギャラリーについて、部外者として不思議に感じるのは、①展示空間の真ん中にカメラ雑誌が置いてあること、②音楽が流れていること。やっぱり、サロン的なムードが大切ということなのかな。
2002.05.17. 穴2
pg・牛島麻記子「穴」展。部屋は二つに仕切られている。手前のパートは、牛島版「浴室」シリーズ。なんとなく今年のVOCA賞を取ったペインティングを思い出したが、浴室という閉空間にすっかりやすらぎ、いかにも今日的な絵に比べるべくもなく、本展はいい感じ。「穴」をめぐる考えを刺激するところもあった。穴とはイメージの欠落部であって、それ自体を見ることはできない。ここで作者は、浴室のディテールを執拗に写す。過剰なまでのイメージの追求が、じつはイメージの欠落への恐れに支えられているタイプの美術家がいるが、ここでの視線は、そうした先行者をすこし思わせもする。奥のパートとの間には、仕切りがあり、それをくぐって入る。こういう造作をする以上、作者は見える/見えないという項で、「穴」をとらえているようにも思える。さて、その内側には、身の回りのものを接写したような写真が並ぶ。しかもカラフルな模様を塗った手製の額付き。そのあっけらかんとした感じをどう受け取ればいいのか、まだ分からない。しかし、事物の表層を執拗に写しながら、それがそのままイメージの欠如と背中合わせになっていると誰にも思わせるような写真になっていくとしたら・・・などと夢想させた。
2002.05.19. watch
ストーリーはしょうもないが、アクションはスカッとするという世評につられて、映画「スパイダーマン」へ。そういう映画が好みなのだが、残念ながら説明的で、テンポが悪いように思えて、あまりスカッとしなかった。ストーリーがしょうもないというのも妥当な評だが、すこしだけ関心をそそられたのは、ようするに見ることの不均衡をめぐる物語だということ。コミックの設定がどうなのかは知らないが、主人公の青年は見る、しかし、行動はしない、というタイプとして描かれる。幼なじみの女の子に対しても、カメラを通じて撮るのが関の山。その最中に、遺伝子操作を施されたクモに刺されて、スパイダーマンと化すのだが、日常生活における彼は依然として、彼女を見守るものの、見返されることがない。さらにはカメラマンという職業を志す。スパイダーマンとしての彼がいかなる視覚を持っているのかは定かではない。ただ、視野の利かないビルの谷間を飛び回り、だれかの危機にすかさず駆けつけるところを見れば、いわば all seeing eys の持ち主なのかもしれない。だが、彼は写真にとらえられることがない。ついには自らカメラをセットし、スパイダーマンとしての活躍をとらえるという自作自演に走ったりもする。見る、しかし、見られないという不均衡は、やがてスパイダーマンとして彼女とキスをするに至ったものの、マスクを途中までしか外してもらえず、視線を交わすことができないという場面、あるいは青年が彼女に対して、僕はずっと君を見守っているよ、と言って立ち去るラストシーンにまで一貫している。ひたすら見ている者の孤独。それが何によって、支えられているのかといえば、大きな力には大きな責任が伴う、という親代わりに養ってくれた叔父の遺言である。すべてを見、監視し、世界を平和に保ちながら、ふさわしい見返りを得られず、孤独感をヒロイックな責任感に高めていくこの映画が、その制作された国において大ヒットを記録したのは、当然といえば当然のことか。
2002.05.22. 車窓
2001年度「コニカ フォト・プレミオ年度賞」が決まった、というリリースを見る。大賞は香港生まれのジョン・ワイ・サンという方 (漢字が出ないので、ここではカタカナ表記) 。展示は見ていないが、リネカ・ダイクストラの海辺のポートレートを思わせる作品写真が添えられていた。特別賞2本はたまたま見ていたが、そのうち田村俊介氏「Run Across」は、電車からの追い写し。じつは最近、偶然ながら車窓からの写真のことをすこし考えていた。この項は以下、そちらに横滑りしてしまうわけだが、ひとつはカメラメーカーの2002年カレンダーのために制作された高梨豊作品。写真家本人が付記しているとおり、列車は暗箱としてとらえられている。そこに映じる風景を複写するのが風景写真というわけで、つまりは風景写真の起源への旅という意味合いがある。もうひとつは、昨年だったか、青山のギャラリー・アートスペースで見た小林のりお作品。こちらはなんと新幹線の窓からの追い写し。むろんデジタル写真なので、その軽やかな質感のうちに、車窓の映像は流れ去ってゆく。こちらは風景の終焉という印象・・・車窓の写 真は、「風景」のありようを映し出すところがある。
2002.05.22. 蒐集
松江泰治の新作展 (5月11日-6月8日、佐賀町・Taro Nasu Gallery) 。最近撮りはじめている都市のシリーズの初個展。撮り方そのものは変わらない。ピーカン、順光、高い視点。複写という機能に忠実と言えるかもしれない。そして、写真の欲望にたいしても。「世界を一枚の皮膚のようにして所有したいという欲望」とは、楠本亜紀氏によるカルティエ=ブレッソン論の一節だが、氏が「Hysteric 松江泰治」の解説者でもあるのは偶然ではあるまい。それが辺境の地表にとどまらず、都市の表層をカバーしはじめた、というふうに見える。その意味で、写真に添えられた地名の意味合いも目を引く。本シリーズには航空界で使われるコードが付記される。それは見る者を具体的な場所に運んでいくためのヒントではあるまい。イメージと同じく、いわば蒐集対象としての地名のようなのである。展示について言えば、今年に入ってからの作品が少なくない。都市のシリーズも精力的に撮り進められているらしい。さらに量がふえてくると、その欲するところはより際だった形で見えてくるに違いない。
2002.05.22. 値段
クリスティーズによるオークション結果を眺める。戦後・同時代美術を扱った15日のアフタヌーン・セッション。カタログの表紙にもなった村上隆「Hiropon」は、5500万円 (手数料込み) で落札。日本の現代美術としてはおそらく異例の額だが、本セッションは総じて日本人作家にスポットを当てている。美術部門では、ほかに奈良美智と河原温、写真部門では、カタログの中扉にも採用された、シンディ・シャーマンを元ネタにした森村泰昌作品をはじめ、森万里子、杉本博司の名が見える。写真部門について、落札結果を記すと、上海での美術展のために制作されたらしい森の大型作品が約640万円、杉本作品は3点が出品され、建築シリーズのうちWTCを撮った作品が最も高値で約530万円、そして森村作品が約400万円だった。ただし、前日のイブニング・セールはもっと華々しくて、シュトルート「ミラノドゥオーモ」が約4120万円、リネカ・ダイクストラ「ビーチ・ポートレート」が約5260万円、という具合だったらしい。
2002.05.24. 窓/テレビ
原田晋展 (5月18日-31日、多摩川・art % river bank) へ。淡く、ぼんやりとした風景は、テレビ画面を複写したものだという。ここではテレビが窓となる。はがきにも使われているピラミッドの写真などが目を引く。テレビからの複写という点が特色ではあるが、現地に行って撮るということと、どこが違っているだろうか、と改めて考えてみる。展示の意図をそれてしまうかもしれないが、フィルム面に直接とどめるのか、テレビカメラやモニターを介するのか、いずれにせよ、ピラミッドをめぐる光の状態が、それらを媒介にして届けられるという意味では、さして選ぶところはない、ともいえる。あえて言えば、ガラスが何重になろうとも、窓は窓にほかならない。むろん画像のあいまいさは媒介手段の重なりや厚みを示唆する。そこに視線をさまよわせる快楽はたしかにあって、遠隔視が可能になった時代を思わせもする。そうした面白さはじゅうぶん感じられたが、しかし、仮に技術的な制約をのぞくことができれば、現地に足を運んだ写真と変わらない画像を得られる可能性も出てくるはず。そのような写真のありようを反語的に考えさせるところに、興味をそそられた。
2002.05.24. 窓/ZONE
東横線から日比谷線に乗り換えて、六本木で下車。昨年秋、森ビルの再開発に関連して生まれたスペース「NEW TOKYO LIFE STYLE ROPPONGI THINK ZONE」 (六本木6の2の31) へ。ビデオアート展を見るつもりだったのだが、展示は夜のみ、とのこと。そうだったのか・・・。しかし、吉岡徳仁設計の建築はうわさにたがわぬ面白さ。道路側は大きなガラス面である。その内側から見る眺めは、衝撃的ですらある。外の様子がゆがんだ二重像として映る。歩いてくる人は虹のような光跡を伴いながら分裂し、ねじれながら上下に分かれていく。道路や向かい側の店舗などもしかり。目を奪われながら、もし通常通りのフラットなガラスだったとしたら・・・と考えさせられる。ごみごみとして、まるで見通しの利かない都市。それでも窓を挿入し、いちおうは風景が成り立っていると見なしてきたわけだが、この窓の扱いは、そもそも日本の街なかにおいて、窓/風景というものが成り立っているのか、と問いかけるかのよう。
2002.05.24. 横切る
ふたたび日比谷線に乗り、齋木克裕展「Repetition」 (5月8-27日、虎ノ門・ポラロイド・ギャラリー) へ。展示を見る前に、なんとなく頭の片隅に残っていたのは、最近みたユニクロのCMだった。真っ青なテレビ画面。そこに白い航跡を残しながら飛行機が横切っていって、「DRY」の文字・・・つねに洗練されたセンスをみせる齋木作品は、かりに批評性を抜き去ってしまえば、今日的な意匠にもなりかねないとも思えるのだが、この展示を見るかぎり、写真家は、そんな見方を払拭するだけの冴えを維持していると思われた。ポラロイドの矩形の画面に空を写し、複数組み合わせた作品群。媒体の特性を生かすセンスは鮮やかだし、ミニマルな美しさもある。しかし、本シリーズは、それにとどまらない可能性を備えている気がした。かつての「frame」シリーズが写真/抽象絵画の枠組みを軽やかに揺さぶっていたのと同じく、グリッドと具体的な映像の間を、やはり軽やかに横切ってみせるようなスリルを感じさせたので。
2002.05.24. が
この日のしめくくりは、有元伸也展「真昼の蛾」 (5月20-25日、銀座ニコンサロン) 。写真集「西蔵より肖像」「Rush」 (共著) とはまた違って、ここでは身辺に取材したモノクロ作品を見せる。きっちり仕上げられた写真。そこに、例えばコップに水が注がれ、表面張力でかろうじてあふれずにいる、そんな危うい瞬間を凝視するような生々しさが宿る。はがきにも使われている、かすかにゆらぐ植物のカットが目を引く。安手の情緒やウェルメイドの誘惑から身をそらすだけの繊細さはたしかに感じるのだが、そう言わせない何かを見たい気もした。
2002.05.27. 白
pg・北島敬三「Places」展へ。都市のシリーズ。カラーとモノクロ、撮影時期もかなり幅広いようす。意外にも忘れがたい印象を残したのは、都市や建物ではなく、空の部分。白く抜けている。印画紙面のままに近い状態かと見えるのだが、その白さが気になる。「PLACES」とは、ポスト・ランドスケープの写真を指し示すべく、さしあたり選ばれた言葉なのだろうか。そうではないのかもしれない、と曲解してみたい誘惑に駆られる。都市風景の差異と反復――そうした言い方を呼び寄せるような写真には違いないのだが、そう気軽に言ってしまおうとした瞬間、同時に、それが演じられる場、あるいは下支えする何ものかがありはしないか、という思いがよぎる。言挙げすることは難しい。むろん写真にもうつらない。その名指すことの出来ないものを思いながら、しかし、とりとめもない白さに拒絶される・・・。「Portraits」の背景についても、同じことが言えるかもしれない。
2002.05.30. 壁
下薗城二展「MORE NO MORE」 (27日-6月1日、京橋・ギャラリー山口) 。初の個展とのこと。モノクロームの画面いっぱいに、ほぼ正面からビルの壁をうつしとる。壁面のタイルはグリッドをなし、排水口等がリズミカルなアクセントを加える。そうしたクールな抽象性のうちに、しかし、写真であるがゆえの微妙なずれ、傾きが残る。両者の拮抗が、かすかなノイズとして鳴り続けているような感じが面白い。今後どう展開するのか、楽しみ。ちなみに、齋木克宏や横澤典の仕事をかつて見たのも、同じギャラリーの地下だったことを思い出す。
2002.05.31. ニュー
初台・ICC「ニュー・メディア ニュー・フェイス02」 (4月26日-6月16日) 。井上尚子、杉原有紀、タムラサトル、古池大介が出品。なにしろ2度も「ニュー」とたたみかける企画展なのだから、見る側としては、やはり思いがけない作家、作品との出会いを期待する。その意味では、どうなのだろう? たとえばタムラ作品だと、布がぐるぐる回る作品は初めて見た。面白かった。しかし、レールを走る熊の作品は現代美術製作所で見たし、けっこう評判にもなったはず。ビデオ作品2点は最近、銀座で見た。杉原有紀による水のドームは最近、スパイラルでより大型の作品がお目見えしたばかり。あくまで想像だが、ぜひ新作を、という依頼のしかたではなかったのかもしれない。予算的には厳しいご時世だとは思うけれど・・・。そのなかで目を引いたのは、名画のモーフィングで知られた古池大介「放散」 (2002年) 。山の形態が微妙にふくらみ、ゆがみ、形をかえていく。郷里を去った村人が懐かしい山を思い出す・・・といったテキストが壁に掲げられているところを見れば、記憶、イメージのあいまいさ、といった問題を扱っているらしい。しかし、それを越えて、もはや個別・具体の山であることをやめた「山」が、にもかかわらず視覚イメージとして、ゆらゆらと立ち現れてくるようで、ちょっと忘れがたい印象を残す。
2002.05.31. 割り込み
渡辺英司は、すこし視点や文脈をずらしながら、面白い作品をつくる美術家。初台・ケンジタキギャラリー東京での新作展 (5月10日-6月8日) では、写真を使った作品も。山のてっぺんにある石などに、よく名前や相合い傘が書いてある。そこに来た、誰かと来た、ということを記念するため、ついつい書いてしまうのだろうが、渡辺はそれを写真に撮った上で、プリントに同じような文字を書き入れて、ちゃっかり介入する。たとえば「HIROKO LOVES AKIO」といった愛の記念に、「and EIJI」と書き入れてしまう、といった具合。なかなかチャーミング。
2002.06.05. 楢橋
楢橋朝子展「half awake and half asleep in the water」 (5月11日-6月8日、イル・テンポ) へ。東京都写真美術館「手探りのキッス」展で初めて見たシリーズ。halfの語が示すとおり、あえて境界的な地点に身を置く。それ以上に特異な点は、海の側から撮っていること。神社の写ったカットもあるから、民俗学を参照することも許されるだろうか。たとえば海彼より訪れる神、あるいは補陀落渡海のことなど。むろん要らぬ連想は抜きにして、さしあたり境界的でありながら、彼岸から此岸を眺める視点が選ばれている、とだけ言うべきかもしれない。そこで目を引くのは、にもかかわらず、パセティックな感じがないこと。波間にたゆたう身体感覚に意識を従わせている様子なのである。そこに強さを感じるし、気のせいか、不思議なユーモアの感覚さえ漂いはじめるように思える。
2002.06.12. 系譜
銀座・資生堂ギャラリーのやなぎみわ展「Granddauthers」 (6月4日-7月7日) へ。大きな空間を生かして、壁に四面の映像をうつす。床にはじゅうたん。しばらく座って、眺めてみる。それぞれに世界各地のおばあちゃんがあらわれては、口々に思い出話をする。どうやら、さらに祖母にあたる方々の話をしているようす。祖母が祖母を語る。その重なりのうちに、個別の語りが普遍的な印象を呼び寄せ、いつしか太古からつづく女性たちの系譜を思わせる。それを翻訳する声は孫世代のような若さなので、それは現在にも接続される・・・というようなことなのだろう。なるほど。だが、ふと思い出したのは、すこし前に、外苑前のトキ・アートスペースで見た出光真子展 (4月29日-5月12日) 。出品作のひとつに、三世代の女性が示す単純作業への対応を記録したビデオ作品があったが、そこでは、意識や行動の伝承ないし離反のありさまが多義的な苦みを伴って、提示されていたように思う。ふと思い出したのは、そうした作品とは遠いな・・・と感じさせたからなのだろう。
2002.06.12. がんこ
pgの笹岡啓子展。第一印象はがんこ。三回目の展示だと思うのだが、展示の方式、撮り方は基本的に変わらない。むろん今回は新たにロケ地が増えた。雪山。これまでの海辺と並べると、サーフ&スノーで、何だか大学のサークルみたいだが、軽口はさておき、ひとつの共通項を挙げれば、地形や起伏が露出する場ということだろうか。なんらかの情緒をまねきよせやすい樹林、建物などの人工物がわりあい少ない場所。みずから「study」と呼ぶ作品には、ふさわしいのかもしれない。さて、その先となると、またしても書きあぐねる。昨年11月の展示のさいは、中間性という言葉を使った。photo-eysで、深川雅文さんにボルツ方面からの示唆もいただいた。今回もタマを散らす、というのか、あれやこれやの風景観に絡めとられまいとするかのような身振りを感じさせるが、そのようなタマの散らし方のうちに、しかし、なおかつ風景をがんこに撮り続けることは、確かに「study」と呼ぶべきことではある。その行き着く先は・・・となると、いましばらく様子を見るべきなのかもしれない。
2002.06.14. 出力
漠たる話なのだが、入力と出力のアンバランス、みたいなことを思うことがある。何をどう撮るのか、そこで個性的であろうとする熱意に比べると、どう見せるかという点では、わりに無造作だったりもする――というようなこと。たとえばアクリル・フォトが急に増えた。説得力を感じる場合もある。だが、見ばえがするというような話なら、それもまた、はやりすたりの域を出まい。多摩川・art & river bankでの片山博文展 (6月8-21日) はその意味でも、目を引くところがあった。画像をデジタル化し、さらにヴェクトル処理を施すという方面の話をくわしく理解したわけではないけれど、たしかに異様なファインさがあり、それゆえの非物質感には驚かされる。それと同時に面白く感じたのは、撮る場所の選び方。たとえばマンションのエントランスといった、グリッド状のタイルが整然とした眺めをつくりだす場所を撮る。じつは、それ自体に積極的な意味を見いだしたというよりも、先の出力方式がもっとも効果を発揮するような対象として選んでみた、ということなのではないか。まず出力方式ありき。思い過ごしかもしれない。しかし、そうであっても、アリではないかという気がする。
2002.06.19. 風景論
東京都写真美術館でも、東京国立近代美術館でも風景をめぐる展覧会がひらかれている。そんなおり、アラン・コルバン「風景と人間」 (小倉孝誠訳、藤原書店) が邦訳された。ジャーナリストの質問にこたえる形で書かれた小著。とても分かりやすい。コルバンらしい視点もうかがわれる。ジンメル、ベンヤミン、J・クレーリーらに対して、「鋭い直観を示してくれましたが、彼らの著作は真に根本的な探求に基づいていません」。つまり視覚中心主義を強調する側に立つことなく、ほかの感覚をふくめた形で「風景」の変遷をたどり直そうとしている。個人的には、なんとなく同じころの現象と思っていた「崇高」「ピクチャレスク」について、「議論をより明確にするためには美、崇高性、ピクチャレスクを区別しなければなりません」として、明快に分析している点が参考になった。ちなみに、写真についての言及はほんのわずか。「私としては、写真をむしろピクチャレスクの観点から考察したいところです」。その固有の時間性――つまり一過性、瞬間性を引き継いでいるとするのだが、それ以上の説明は示していない。
2002.06.28. 川崎2
pgの王子直紀「川崎」展へ。川崎ものでは2度目の展示。人物中心のストリート・スナップだが、今回は正面向きにとらえたカットが大半を占めている。すれちがいざまに、ほとんどノー・ファインダーで撮っているのだろう。正面向き、しかも距離が近いから、ぬっと出てくる感じがある。ずらりと並ぶと、なかなかの迫力。おそらく山ほど撮ってみて、ピンが来ているカットはごくわずか、という仕事のようだが、そこからどんなリアリティーが引き出されるのか、なお先を待ちたい気がする。
2002.07.01. 京橋1
毎年恒例、京橋周辺の画廊による共同企画「京橋界隈」がはじまった。何といったらいいのか、これぞという作家を押し出す画廊もあれば、この機会に小品をさばいてしまうつもりに見える画廊もあって、びみょうな感じが漂う。まあ、興味のあるところだけ歩けばいいわけだが、ことし面白かったのは、榎倉康二展 (7月1-18日・銀座1の8の8、ギャラリー池田美術) 。あらかじめ言えば、かつて川口現代美術館で行われた写真などの展示を見た人には、既視感があるのかもしれない。ただ、亡くなって7年になるモノ派の作家と、いちども会うことのなかった若造にとっては、そうか、こういう仕事をされていたのか、と教えられる機会となった。カーテンにしみが広がるような作品と、写真作品とが集められている。ながめ渡すと、幕/膜面における物質の相、そこにあらわれる私と世界との接触ないし近接のありように、作家が関心を抱いていたことがすなおに分かる。写真のなかには、そのような関心を図解するようなものも含まれるが、写真そのものに深く魅せられていたようにも見える。モノ派にくくられる作家のなかに、こうした形で写真と交差した人がいたと知ることができたのは、幸いだった。
2002.07.01. 京橋2
ひきつづき「京橋界隈」をぶらぶら。まだ開幕は先かと思っていた張大力展 (7月5日-8月2日、京橋3の7の4、ベイスギャラリー) も作品が並んでいたので、入ってみる。改変がすすむ北京の壁に落書きふうの顔を描き、それを写真に撮るタイプの仕事も少しだけ出品されているが、メーンとなっているのは、「AK-47」のシリーズ。大画面を埋め尽くす「AK-47」、つまりライフルを意味する文字のなかから、人の顔が浮かび上がる。不穏さのうちに、暴力に満ちた世界への告発といった印象を呼び寄せるペインティングだが、じつは毛沢東の顔を描いた作品も含まれている。ある世代の中国人美術家は、顔の表象そのものが特定の型にはめられた時期を経験しているようだが、その意味で、本シリーズに顔の表象をめぐる暴力につながる線を読むべきかどうか、と考えてみる。
2002.07.03. モノ
講談社出版文化賞写真賞を受けたという長谷川健郎写真展「フォト・ルポルタージュ 病んだニッポン」 (7月3-9日、コダックフォトサロン) に立ち寄る。「FRIDAY」誌の連載だったかと思うが、さまざまな社会のひずみを追った写真が並ぶ。一目、モノがあふれるカットが多い。山積みになった廃棄物、あるいは失敗したテーマパークの巨大なシンボル。都市の表層が映像化、非物質化したと言われる一方で、その裏側にはモノが遍在している――そんな風な見取り図を与えるシリーズ。
2002.07.03. 無事
柳沼信次写真展「無事の日々」 (7月1-6日、銀座ニコンサロン) 。ふらりと入って、ついつい見入ってしまった。2001年を通じて、1日1枚、パノラマサイズの写真が並ぶ。基本的には趣味の写真、しかし、こだわりをもって撮ってきた方かと思われるが、不思議な面白さがある。「日常」を標榜する写真は、ほとんど必然的に、ウエットな自意識をあらわにするところがあるけれど、たとえば、あえて「無事の日々」と言ってみせる物言いにうかがえるようなシニカルな構えが、病院通いや孫の写真など、ホントに無事を願う思いと溶け合うようにして、ともかく続いていく。すでに老境に差し掛かったらしい人の「日常」の投げ出し方には、ふと写真を見る面白さを思い出させる感じがあった。
2002.07.04. 女優家という人生
川崎市市民ミュージアムの森村泰昌写真展「女優家Mの物語〔M式ジオラマ (25m) 付き〕」 (4月27日-7月7日) へ。一見したところ、遺作展のようだな、と思う。M式ジオラマには、あれこれの作品で用いられた衣装や小道具が、ミラーボールの光のうちに並ぶ。すでに作品のためという役割を終えたモノが、かすかなアウラをまとって息づく。その雰囲気は、原稿用紙やペンだとか、文業それ自体とのかかわりを終えたモノが並んでいる文学館の雰囲気にも似ている。森村の場合、それらは変身のための小道具にほかならないのだが、やはり同時に、それぞれと接触し、通り過ぎていった作者その人の身体を強く意識させるところがある。後半はモノクロームの変身写真展。一つひとつの作品よりも、ああ、あんな風にも、こんな風にも、という軌跡をたどり直させる感が強い。モノクロであるせいか、変身の軽さと釣り合うような厳粛さも漂う。こうして見てくると、つまりは個々の作品や、そこに託されてきた変身という従来の主題よりも、それを生のありようとして引き受ける者――森村の言葉でいえば「女優家」――という位相での作者性がこれまでになく前面に出た展示だという気がする。さまざまなフィクションを演じつづけた、軽薄で、しかし、そうありつづけようとする意志において厳粛な生の物語。その意味で、「女優家Mの物語」というタイトルは的確だと言ってよいし、展示の完成度は高い。ただし、その軽薄さと厳粛さの強度が仮に失われてしまえば、おおむね人はそんな風に仮面を取りかえながら生きているのかも、などという人生論的な感慨に滑り落ちかねないような気もする。
2002.07.09. ポラガール
「FLASH」7月23日号の袋とじ特集は、サッカー番組で人気者になったらしいタレント、白石美帆のポラロイド写真によるグラビア。撮影・藤代冥砂。「ポラガール」と称するシリーズになっていて、その第2弾。基本的には1点モノであり、それゆえに親密さのあかしとなったりするポラロイド写真が、アイドルを身近に思わせるグラビアの一手法として確立されつつあるというわけか。ちなみに「協賛・日本ポラロイド株式会社」というクレジットも見受けられる。それにしても笑ったのは、キャッチコピー。「“世界に1枚だけ”のキミとの写真」。こうやって印刷してしまえば、「1枚だけ」も何もあったものではないが、ふと思ったのは、美術館やギャラリーでお目に掛かる「日常性」や「私性」にねざす写真も、不特定の人に向けられているにもかかわらず、けっこう親密なものと思われていたりするのかな・・・ということ。
2002.07.10. 道それは人生
pgの笠友紀展。初回にくらべれば、見違えるよう。しかし、あえて桟敷席から役者に目を細めるような物言いはやめよう。すべてモノクロ。多くのカットに道が写っている。もともと「on the road」というタイトルであって、その道のイメージが人生論的な含意を呼び寄せることは避けられない。国語の教科書だったか、高村光太郎の詩と東山魁夷の絵を組み合わせたページがあった気がするが、そうした紋切り型ではないにせよ、すべて私的な心情に収斂してしまうとしたら、それは写真家ならずとも、少なからぬ人々が持ち合わせている心情の域を出ないはず。幾つかのカットに惹かれたけれど、寄る辺ないような心情を切実に感じたから、というだけの理由では必ずしもなく、やはり印画紙上に目を引くところがあったからだ、と言ってみたい気がする。
2002.07.11. Absence
大嶋浩、小林のりお、丸田直美のグループ展「Absence」 (7月9-14日、神宮前・ギャラリーアートスペース) へ。会場には、さまざまなテキストが掲げられている。写真はない。というか、パソコンが置かれていて、写真がアップされている。面白いのは、小さなカメラが横にあって、会場に来た人の映像をウェブ上に送り込んでいるらしいこと。あちらこちらで撮ってきた写真を展示空間に集約するのが普通の展覧会だとすれば、この展示はそれをくるりと反転して、展示空間の模様をインターネット上に乗せているというわけ。三人のうち、どなたの着想かは分からないけれど、小林のりおの仕事を思わせる仕掛けではある。
2002.07.12. 日中
グループ展「市川美幸 鈴木涼子 張大力 洪磊」 (7月6-31日、ツァイト・フォト・サロン) へ。張大力は壁に顔のグラフィティーというおなじみの写真。ほか3人の作品を面白く眺める。市川作品はいつもと同じ淡く、茫漠とした風景と見せて、じつは絵はがきなどの印刷物を複写したものだというのがミソ。遠隔感、距離といった関心が別の方向に展開している様子。鈴木作品は、東京都写真美術館「手探りのキッス」展とはまったく違って、美少女フィギュアの顔の部分に、自身の顔をコラージュした「アニコラ」というシリーズ。むろん「私」をめぐる問題系に収まる仕事かと見受けられるわけだが、見た目のインパクトはなかなか強く、話題を呼ぶのかも。もっとも興味を覚えたのは、洪磊という中国人作家。鶉を描く名手として知られた画院画家、李安忠の絵を元ネタにした写真などを出している。円相形の画面に院体花鳥画ふうのモチーフを配しているのだが、無残にも鳥が撃ち殺されている。円相形のもう1点も、いかにも見事な蓮の花をモチーフとしつつ、そこに院体画では描かれることのない虫などを写し込んでいる。さらに太湖石のある庭園に血のような赤い液体が流れ込んでいる写真も併せれば、作者の意図はいっそう明確になる。伝統的な絵画が目指してきた静謐さ、あるいは庭園の永遠性が、じつは身体的なもの、不穏なものを見ないことによって成り立っており、その美学をひたすら洗練させてきた伝統そのものを糾弾しているのだろう。批判の的はよく絞り込まれていると思うし、それを写真によって遂行しているのも正当な使用法だという気がする。とはいえ、こうした伝統とのかかわり方が可能だという点は中国人作家の特色であり、本展の範囲で考えてみても、日中間の際だった違いかもしれない。
2002.07.12. ご本人
「大竹省二展」 (7月10-15日・日本橋高島屋) 。けっこうなにぎわい。昭和8年とか10年とかいうクレジットの写真から始まる。まだローティーンだったはずだが、けっこう面白い。さらに戦前から戦後まもなくのスナップ、宮本三郎や猪熊弦一郎をその戦争画の前で撮ったポートレートなどをふむふむと眺め、さらには若き扇千景と中村鴈治郎のツーショットといった愉快な写真を前に、しばしのタイムスリップ感に浸っていると、なんと会場にご本人らしき姿が・・・。背筋もピンとして、来客と楽しそうに歓談しているのに驚く。
2002.07.16. 読者写真
この日の夕刊を開いて、すこし驚いたことがあった。「読者のニュース写真 6月の入選作」という特集ページ。読者から随時行われる写真投稿をまとめて紹介する月例のコーナーだが、一席「オフィス街ATM爆発」は、先月、大阪で起きた事件をカメラ付き携帯電話で撮り、その場で記者のパソコンにメールで送信し、そのまま掲載された、と紹介されている。さらに「カメラ付き携帯電話で撮影された写真が新聞に載ったのはこれが初めてのようだ。すでに加入台数が六百三十万を超えた同機種電話。報道写真に変化をもたらすような予感がする」とも。画質もまずまずだし、むろん不満はあるにせよ、とにかく現場にいたという臨場感はそれをおぎなって余りある。ちなみに三席に入った写真のうちの一点も、同じ事件を隣のビルからデジカメで撮った、というもの。カメラの遍在。転送の速度。面白い時代。
2002.07.18. 動詞
野口里佳展「水をつかむ」 (7月8日-8月8日、銀座・ギャラリー小柳) 。浚渫なのだろう、でっかいシャベルが水面からあがってくる。つかんでいるのは、たぶん泥。しかしシャベルの間からはざあざあ水が流れ出ている。つかんでるなー、水。そこで思ったのは、写真集も「鳥を見る」だったこと。動詞のタイトルが好みなんだろうな。しかも淡々と続いていくような、無為のような行為を示す動詞。あの写真集にテキストを寄せていたのは島袋道浩だったと記憶しているのだが、この美術家による、タコを海に返す、みたいな行為と、そのテイストはすこし似ているかも。
2002.07.19. 日韓
埼玉県立近代美術館「人・風 (サラム パラム) 韓国現代写真の地平」展 (6月25日-7月28日) 。・・・言いにくいことだが、よく分からなかった展覧会。ワールドカップだし、ということで実現した企画なのだろう。そうだとしたら、展覧会は韓国の写真を紹介し、両国間の相互理解を深めるということを一つの目標に設定しているはず。その意味で、成功しているのだろうか。たとえばイー・ソンミンの部屋シリーズは、かの国の人々もまた現代化を遂げつつ、そのなかに伝統的な要素もかいま見られるような生活を送っていることを指し示す。だが、伝統と現代という二項対立を想起させる、それじたい現代的な着想も含めて、韓国的と言いたくなるような他者性を感じることは難しい気がした。美術と写真の結びつき方は日本をそうとう上回っているのかもしれないが、それとて等しく欧米の影響下にある共通性のほうを痛感させる。翻って、あるいは伝統文化に根ざす要素があるのかな、と感じさせる写真も見受けられる。しかし、なにかの霊的な場なのだろうか、とは思ってみても、展示空間に説明はなく、韓国文化に疎い者には、それが何なのかさえ分からない。「近くて遠い国」という言い方になぞらえて言えば、近さ・遠さをありのままに差しだそうとするスタンスだとも言えるわけだが、近い部分は分かる、遠いのだろう部分はよく分からない、という感じを抜け出すことができなかった。展覧会として、見る側を啓蒙したり、攪乱したり、という仕掛けがいくらか乏しかったのではないだろうか。・・・とは言いながら考えさせられることは少なくない。たとえば、同じワールドカップ記念ということで、「韓国の名品展」 (6月11日-7月28日、東京国立博物館) も開かれた。こちらは美術史系の展示であって、中国文化圏の周縁に位置してきた共通性と、ひとつは周縁性の程度に根ざす相違点といった見取り図を、自分なりにつかむことができた。しかしながら、そのような異同を分かりやすく歴史性のうちに解消してしまうこともまた、そう軽々に肯定すべきことではあるまい。してみれば、ある国の文化を展覧会によって伝える難しさ、というありきたりな感慨をいまさらながら繰り返すことになるのだが。
2002.07.25. 大御所
二川幸夫企画・編集・撮影の新シリーズ「GAトラベラー」 (エーディーエー・エディタ・トーキョー) の刊行が始まった。その第一弾「フランク・ロイド・ライト<タリアセン・ウェスト>」を眺める。いわゆる建築写真とは趣の違うカットが目を引く。トラベラーという通り、アリゾナ砂漠に20世紀建築の名作を実際に訪ねるような臨場感を打ち出している。さらに、さすがだなと思わせるのは、ライトに師事したブルース・ブルックス・ファイファーのテキストを収めるだけで、おそらくは幾度となく現地を訪ね、深い理解に到達しているはずの写真家が一切、感想めいた言葉を載せていないこと。写真を見てくれよ。建築写真の大御所の強烈な自信が伝わってくる。たぶん本シリーズはライフワークになるのだろう。
2002.07.26. 味
pgの蔵真墨展 (7月20-30日) 。スナップ系の写真家が少なくないpgにあって、独特の味わい。電車で食い入るように本を読む人たちがいて、その本は「国民年金法」のガイドブック。二人の女性と子供がいて、テーブルの上にはポテロング。こういうディテールに注がれる視線のおかしさは無類。
2002.08.02. 枠
これもワールドカップにちなむのだとおぼしき日韓のギャラリーによる共同企画「eleven & eleven」 (7月下旬-8月上旬、ギャラリーによって会期は別) を駆け足で回る。映像系の作家も少なくないなかで目を引いたのは、銀座・東京画廊で紹介していた文洲という作家。映像とシンクロさせて、モニターそのものを動かすタイプの作品を手がけている。その一つは、画面に二羽の小鳥が映っている。だが、そのモニターそのものは、ぐるぐる回転している。つまり、実際には映像そのものを回転させると同時に、モニターを逆方向に回転させているために、二羽の鳥そのものは水平を保って映り続けている。細工物といえばそれまでだが、興味をそそられるのは、見ているうちに、小鳥の映像が生々しく感じられてくること。枠そのものを相対化、ないしは失効させることで、画像そのもののリアリティーを回復させるという、だまし絵の基本をハイテクで翻案している、というわけ。なかなかのアイデアだな、と素朴に感心してしまった。
2002.08.02. 地方
pg・本山周平展 (8月1―10日) 。地方でのスナップ「火の国ブルース」の新作。すさまじくもあり、ウェットにもなりかねない地方の光景を、あいかわらず切れ味よく撮ってみせる。じつは直前に立ち寄ったのは、大丸ミュージアムでの木村伊兵衛展 (7月25日-8月6日) 。とうぜん秋田のシリーズなども出品されていたわけで、新宿では、あれから半世紀、ずいぶん地方の姿も変わったものじゃわい、と妙な感慨にふけるはめになってしまった。それと同時に、ふと思ったのは、本山の眼前にあるような荒廃の相が半世紀前も、すこしは日本の地方にあったのかどうか、ということ。あまりにも無知で、よく分からないだけのことなのだが。
2002.08.10. 欠如/充填
原田晋展 (8月5-10日、銀座・Space Kobo & Tomo) 。さきのart & river bankにおける「Window Scape」展で注目された人の新作。テレビモニターを撮影するという点では同じだが、今回はランドスケープではなく、ポートレート。とうぜん場という問題系におさまらない側面が出てくる。モニターを介し、ディテールをあいまいにすることで、匿名的なポートレートになっている。作品のタイトルも「an actor」といった具合。面白いのは、その欠如が埋め合わせられているという感じがあること。美的なもの、さらには奇妙なリアリティーが空隙に呼び込まれ、再帰していると感じられる。この欠如と充填の安定した操作に、作家としての力を確かめる思いがする。
2002.08.15. 唇
森山大道「新宿」展 (7月19日-8月24日、大塚・タカ・イシイギャラリー) 。会場にあったテキストがかっこいい。<ぬれぬれた唇の街。したたかな荒野。カメラを持たされたものにとって、「新宿 (ここ) 」を撮らずして、いったい何処を写せというのであろうか?>。写真集刊行にあわせた展示のようで、ここではとくに街のエロティシズムを強調しているようす。ただ、おのずからにじみ出すというよりは、じつはアイロニカルな感情が潜んでいるのかもしれず、まさに唇の写ったカットは、モニター画面上のそれだった。
2002.08.15. in/out
pgの中村綾緒「あわい」展 (8月11-20日) 。過去2回はとても微妙な線を探っている印象だったが、本展で、ひとつ先の段階に至ったのではないか。身辺のスナップとセルフポートレートというフォーマットは同じだが、物象さだかならぬカットが基調となった。しかし、光と影のたわむれといった話に陥ることなく、依然として現実への応答でありつづけている。その緊張感が1点1点に行き渡る。いいなと素直に思えた。むろんのこと、inとoutを縫うようにして、しかし、それがinないしoutであることにいっこう拘泥することなく、それとは違う次元でリアリティーを意識していかなければ成り立ち得ない仕事であって、この緊張感を持続していくのは容易ではないようにも思うのだが、そうあってほしいと期待させられる。
2002.08.20. 茫々
東京都写真美術館では、すでに置かれていたチラシによると、こんど「空海と遍路文化」展 (10月1日-11月17日) が開かれるという。いちおう「藤原新也・鈴鹿芳康・岩波写真文庫」ともあって、写真のパートもあるようだが、どう見ても、展示のメインは「初めて八十八ケ所全寺院出品/国宝・重文を含む400余点一挙公開!!」の部分。どういう事情か分からないし、企画内容そのものは別にして、仏像や仏具を写真美術館で見せるわけか・・・。そのうちアンティーク・ドール展とか、大恐竜展なんかも、やるのかもしれないな。そう思いつつ外に出れば、今日はすっかり秋の空。
2002.08.20. カタログ
「畠山直哉」 (淡交社、2000円) は、巡回がはじまった回顧展 (8月3日-9月16日、岩手県立美術館、ついで大阪・国立国際美術館へ) にあわせて刊行されたカタログ。一貫した構想をうかがわせる作家にとって、いいタイミングで企画された回顧展だと思うし、なかなか岩手に行く日程を作れずにいる者にとっては、カタログが一般書籍として刊行されるのはありがたい。内容的には、昨年イギリスで撮られた「Slow Glass」、さかのぼって初期の「等高線」が収められているのが目を引く。後半のテキスト部分の挿図として、「Blast」がパラパラ漫画の趣向であしらってあるのも一工夫、という本。
2002.08.21. 細工
写真とはまるで関係ないが、面白かったので。宮内庁三の丸尚蔵館「細工・置物・つくりもの」 (7月6日-9月8日、月曜・金曜は休館) は、バルトルシャイティスなんかを面白く読んだことのある人には、たまらない展覧会。江戸末期から近代の献上品だと思うのだが、じつに見事な細工物が並ぶ。実物さながらのイセエビで、体部を曲げて楽しむこともできるというベッコウ細工、折枝画をそっくり立体化してみせる象牙細工、石の肌理を生かした金魚の玉器など。むろんのこと、ミメーシスの妙技そのものではなく、いかにも細工が難しそうな素材によって、再現を遂げるというアクロバットが目を奪う。展覧会としては、微妙に色合いの違う木の皮による風景画など、いまは土産物に往時をしのぶほかない様々な技巧を取り上げることで、近代における美術/非美術の組み替えに目を向けさせるという意図もうかがえる。とうぜん美術でないことの不可能性が言われて久しい今日、歴史的な文脈によらずして、これらが美術でないと言うことは難しく、その意味でも面白いわけだが、さらに個人的な感慨を言えば、しばしば仕上がりのファインさを追う現代日本のアートは、ここに故郷を思うべきなのかもしれないと、必ずしも皮肉ではなく、そう言ってみたい気もした。
2002.08.21. 二重露光
古屋誠一写真展 (8月13-26日、新宿ニコンサロン) 。「Last Trip to Venice」とあるとおり、亡き妻との最後の旅となったベネチア行のさい、撮影した2つのフィルムからの作品。そのうち1つは何らかの失敗によって、二重露光になっている。記憶されるべきイメージが錯綜し、いわば台無しになったとも言えるわけだが、当惑させるほどの生々しさを示していることもまた、疑い得ない。その生々しさは、記憶がしばしば陥る錯綜と似通っているからといった単純な理由ではないように思われたし、それが作品として提出されていることの意味合いも含めて、なお考えてみたい点の残る展示。
2002.08.22. 展示
あらかじめ思いもしなかったことを、考えさせられた展示として紹介――上野・東京芸大大学美術館「アフガニスタン 悠久の歴史展」 (7月16日-9月16日) に立ち寄った。タリバンによるバーミヤンの大仏破壊ののち、文化財復興支援を訴えるべく、バルセロナ、パリを経て巡回してきた展覧会。たしかに大方が予想するような内容であって、バーミヤンの石窟を彩っていた壁画の断片も見受けられる。無残なありさまを眺めつつ、そこにふるわれた暴力を思わざるを得ないわけだが、しかし、ほかにも多数並べられている文化財と、じつのところ、どこが違うのだろうか、という疑問がきざす。石仏の頭部をはじめ、多くは断片の相を呈している。そもそもアフガニスタンにあるべき文化財を、いま上野の地で見ることができるということは、つまり本来あった場所から引きはがされているわけであって、その点では破壊されたバーミヤン石窟の壁画と選ぶところはない。宗教対立等の事情で断片と化したものもあるのかもしれないし、あるいはコレクションの目的で石窟寺院等から切り出された石仏もあるのではないだろうか。幾つかのケースには、小さな仏頭ばかりが、まさに鹹首されて並ぶ。予想以上の名品が見られるのもさることながら、この展覧会は、展示という行為が、本来の場所から切断する、断片化する、という力の上に成り立ってきたことを痛感させる。その意味で展示と写真とは、いわば双子のようなものかもしれない。
2002.08.22. ついでに
東京芸大大学美術館では、もう一つ「竹内久一と石川光明 明治の彫刻」展 (8月13日-9月16日) もやっていた。さきに三の丸尚蔵館のかざりもの展を紹介した (三島さんの言われるとおり、例のアルバムも“お宝感”が高かったっすね) けれど、いま巡回中の高村光雲展もあわせると、日本近代の美術なり彫刻概念の移植とその剰余が改めて関心を集めている感がある。その文脈で、竹内久一、石川光明がともに最初は象牙彫刻を学び、おそらくその出自に由来する高度な技巧を見せることは興味をひく。例えば、石川光明「野猪」は、石膏と木彫でまったく同じサイズ、同じ完成度で制作されている。あらかじめ石膏で構想を練り、木彫に移したのだろうか。それにしても素材間の違いなど、まったく存在しないかのごとき超絶技巧は、いったいどのような空間に、「美術」なり「彫刻」なりの (無理やりこじつけて言えば「写真」もその一つであるところの) 西洋的諸概念が移植され、着地したのだろうか、と当惑させるようなインパクトがある。
2002.08.29. 市史
日向市史別編「日向写真帖 家族の数だけ歴史がある」 (日向市史編さん室) に一驚させられる。市史といえば、当該市民の関心すら呼ばないだろう代物が大半だと思えるのだが、こういう市史があり得るとは。139家族分のアルバムを再構成し、政治・行政史などからこぼれ落ちる無数の顔を想起させ、その体験の厚み、複数性を指し示す。しかも、海上交通などに着目し、ある地域がそれら交通の網目のひとつであることも示唆している。はじめは写真で見る市の歴史、みたいな発想だったようだが、集まった写真の力を正面から受け止めることによって、こうした市史に至ったとのこと。かかわった人々の姿勢に敬意を表したいが、ほかに収録される小馬徹の論考『ニッポン オキヨ! 昭和「神武の舟」大阪へ』なども、戦前、神武東遷ゆかりの地で盛り上がった運動に光を当てて、興味深い。舟形はにわのイメージで作られた古代舟「おきよ丸」が舟出し、バンザイの代わりに「起きよ!」と唱和せよという県令が発せられ、地区ごとに「オキヨ会」が結成され・・・いや、そんなことがあったとは、とこれまた驚かされる。
2002.09.04. step
pg・尾仲浩二展 (9月1-10日) 。まさしく北は北海道から南は沖縄まで、という「MATATABI」シリーズの新作。幾つか「おや」と思わせるカットもある。例えば、港の空を彩るドラマティックな夕日 (?) 。むろん写真家は、その「おや」は百も承知の上で並べているわけだが、それが展示の中にうまくはまるのかどうか、確かめようというつもりもあったのではないだろうか。自分の踏み出し方を一つひとつかみしめるようなスタンスを想像させるわけだが、さりげない旅の風景を撮り続けるシリーズが確かな存在感を感じさせるのは、その積み重ねのゆえなのだろう。
2002.09.05. 文字
キャノン「写真新世紀2002展」 (9月1-23日、東京都写真美術館) へ。今回はもりだくさん。10周年記念展は、受賞作を出した人・新作の人、今回選ばれた人・選ばれなかった人といった構成がよく分からず、戸惑う。初期は案外、アート系の作品が多かったんだな、という感想を持つ。2002年度の優秀賞については、ノーコメント。けっこう驚いたのは、昨年度グランプリの川鍋はるな展「ヒエログリフ」。壁一面に写真をはるインスタレーション的な個展だが、おびただしい文字を複写しつつ、文字とイメージが骨がらみになった原初的な状態へ見る者を突き落とそうという、何ともまがまがしい作品。むろん様々な範疇の文字が混交すること、具体的な文字をチョイスするセンス、さらに何か幻想的なテクストを加えていることについては、どうかな、という気がしないではない。とくにテクストは、「虫我 (蛾) 」と作者との対話形式を採っており、前回のグランプリ受賞作にも潜在していた演劇的な要素をあらわにしているように思われ、おそらく今後は必ずしも写真に収斂しない展開を見せるのかな、とも予測させる。ただ、フレームのうちにちょっと文字をとらえる程度の話ではなく、文字の問題に真正面から写真で突っ込むという過剰さには、興味をそそられた。
2002.09.13. was
ポーラ文化研究所「is」誌88号が届けられる。すでに前号において予告さ れていたとおり、これで終刊。残念。個人的には、平凡社「イメージ・リーディ ング叢書」と並んで、ある時代の視覚文化論を代表したメディアという印象があ り、けっこう楽しんだ思いが強い。それにしても箱根にポーラ美術館が開館させ る一方で、こうした雑誌を終わりにしてしまったわけである。そのセンスについ て思うところはあるけれど、まあ言っても詮ない話ではある。
2002.09.19. 関係
むりやり時間を作って、会田誠・田中功起展 (8月28日-9月28日、中目 黒・ミヅマアートギャラリー) へ。前者については、画技の高さがしばしば称揚 されるけれど、いわば“お蔵出し”風にさまざまな作品を見せる本展では、本格 的なペインティングがない分、根底にある独特の屈折、ねじれが露出している感 がある。たとえば「Safety Gonzalez」は、表題に言う物故作家 のあからさまなパロディーであり、四畳半の畳を埋め尽くすのは、キャンディー でなく、丸めたティッシュペーパー。苦笑させられつつも、幸福な関係という幻 想を取り持つキャンディーに対する、一方的な関係の幻想の残滓としてのティッ シュペーパーは、リレーショナル・アートへの批判として効いている。さらに表 題を改めて見直すと、それだけではない含意もあるようだ。ほかに今回は、写真 作品も見受けられる。こちらは郊外系の写真のパロディーか。2人展のうち後者 については、いつまでたっても点火しない導火線の映像「Light my Fire」が目を引いた。
2002.09.20. ガラス
畠山直哉「Slow Glass」展 (9月7日-10月5日、大塚のタカ・ イシイ・ギャラリー) へ。岩手での展覧会カタログにも載っていた新作だが、じ っさいに前に立つと、ずいぶん印象が違う。ガラス越しに見る雨中の風景。しか し、ピントはガラスの側にあり、風景はぼやけ、ガラス面の水滴がきわめて鮮明 にとらえられていて、その小さな水滴一つひとつのすべてに、ぼやけた風景が映 っている。なにか風景が水滴に封じられて飛散し、ガラス面に張りついている、 といった風。会場にあった作者のテクストによれば、時間を封じ込めるガラスと いうSF小説のアイデアに触発された作品であり、考えてみれば、膨大な過去の 映像があふれかえる現代とは、すでにして「Slow Glass」に取り囲ま れているのではないか、という映像論を託した作品らしい。その意味でも面白く 眺められるわけだが、個人的に興味をそそられたのは、ガラス面に飛散する風景 の断片という写真の印象が、どこか石灰石の飛散する「BLAST」を連想させ ること。あのシリーズが石灰石の飛散する先、つまりコンクリートを主材料に建 設された都市の写真に連なっていくとすれば、今回の新作は、ある映像が飛散し 、やがて人々の精神に沈殿していく、という連関を思わせるところがある。この 作品、さらなる展開があるのだろうか。
2002.09.20. 水
さらに初台に回って、ダグ・エイケン「ニュー・オーシャン」展 (8月31日 -11月17日、東京オペラシティアートギャラリー) 。この秋、話題の展覧会 ということになるはずだが、個人的な感想を言ってしまえば、さまざまな水の表 象を、水にたいするロマンティックな思い入れとMTV的な映像テクニックによ って処理した一大スペクタクル、といったところか。ぽたぽた滴りつづける水の 映像その他を、なにやら砂時計を見つめるような気分で眺めつづけたけれど、感 慨は水のごとく淡く・・・ここまで水をモチーフとしながら、いっさい実物を使 わないあたりは、アートの王道だとも言えそうだが。
2002.09.20. 砂
新宿に戻って、土田ヒロミ「Fake Scape」展 (9月17-30日、 新宿ニコンサロン) へ。二部構成。まず表題作は、派手な看板があふれる光景を 、おそらくデジタル操作を加えて輻輳させたシリーズ。もう一方は、かつての「 砂を数える」のごとく、群集のいる風景を撮った「新・砂を数える」。こちらも デジタル操作が加えられているのは明らかで、なにしろ群集の中には、ジーンズ 姿でカメラを手にした写真家の姿がつねに潜んでいる。その一点から、群集の実 在も、写真の真実性も、さらさらと砂のごとく崩れ去る。砂を数えているつもり が、いま手にしている砂が本物かどうかもはや分かりませんよ、というわけ。デ ジタル化と写真の真実性という、多くの人が気にしているのだろう問題に改めて 示し、しかも豆粒みたいな写真家を見つけるのは、土田ヒロミ版「ウォーリーを 探せ!」みたいな面白さもあるし、話題になりそうな展示。
2002.09.20. 鏡
最後は、pgの尾仲浩二展第2弾「rear vie mirror」 (9 月12-22日) 。ちなみに会場には「背高あわだち草のあった町」とある。筑 豊再訪の旅のスナップ。直方北の新聞専売所のカットをしみじみ眺めたのは個人 的な事情によるけれど、さらに、ちょっとした公園にはよく見受けられたミニ鳥 類園、社会党のポスターなどのディテールに、しんみり。写真の中からこちらに 手を振るおばあさんの姿が、なんとも小さい。撮られた瞬間に、写真は過去に送 り込まれる。その感覚を的確に伝えるためにも、このプリントのサイズは動かせ ないところなのかもしれない。そういえば、「過去を写すグラス」から見はじめ たのだが、最後はただ写真を見たなあ、というところに立ち返っていた一日。
2002.09.30. 地名
露口啓二写真展「地名」 (9月20日-10月5日=横浜、ライトワークス) へ。企画は倉石信乃氏。たしか「Mignon bis」という詩誌の座談会で、すでに倉石氏が言及されていた写真だと思う。すべて対幅。ある場所を、半ば連続し、半ば不連続になるように、しかも、たぶん時を変えて撮っているとおぼしき2点のランドスケープが並ぶ。さらに展覧会のタイトルが「地名」とくれば、さしあたり高梨豊「地名論」を思い出す。いま振り返ると、高梨作品とは、ある土地の歴史――その折りのテキストにあったように「地霊」でさえあるかもしれない――を不在の中央幅とする三幅対であったか。それと似て、ここでの写真もまた、土地の閲した歴史を顕在化させる。他方で違っているのは、地名の側に揺らぎが組み込まれていること。撮影地は北海道。会場にあったリーフレットには、それぞれの場所について、現在の地名と、アイヌ語による地名とが併記される。たとえば<祝津 (Syukudu)><sikutut (えぞねぎ = wild onion)>という具合。もともと自然と生活とが相渉るところで名付けられたのであるらしいアイヌ語地名に対して、いわば機械的に音の一致する漢字があてがわれ、原義が失われることで現在の地名が成立している事情がうかがわれる。それゆえ見る側としては、ひとまず名付けの歴史を重ねながら、2点組の写真を眺めることになる。なるほど本来的な地形に対して、さまざまな人工物が配され、そこにたとえば政党の選挙ポスターなどが見受けられる風景は、名付けと並行する土地の歴史を思わせもする。ただし、それだけの観察で事足りるのであれば、なにも2点組の写真にする必要はなく、そう結論を急ぐ必要もないのだろう。ここでの写真、地名それぞれの双数性がもたらす亀裂、そして写真と言葉の間に横たわる溝は、つまり見る側の観察なり考えなりを引き出し、引き伸ばしていく装置として、じゅうぶんに機能している。
2002.09.30. 真偽
pgの明石瞳展「真偽の鏡」 (9月29日-10月8日) 。こちらは飯沢耕太郎氏の企画・構成。案内はがきには、飯沢氏の「もっと前へ! もっと奥へ! 失うものなど何もないのだから」というアジテーションがあり、表には、陶然としたまなざしをこちらに向ける女性のカット。会場に入ると、睦み合う男女 (われながら古くさいですね・・・) の姿が目に飛び込んできて、この写真もまた、いっそう生々しい文脈に置かれることになる。モノクロームのクールな感覚のうちに、熱っぽさが昂進する。・・・などと言いつつ、「真偽の鏡」というタイトルが、不意に気になる。それに映し出してしまえば、事柄ないし感情の真偽が分かる鏡、写真とはそのようなものだという意味合いなのだろうか。ただ、鏡の偏倚とか鏡を持っている人の立ち位置、関係などを気にしてしまう性質であるせいか、かえって躓いてしまう感があり、すとんと飲み込めなかったのだが・・・うーん。
2002.10.01. 影/肖像
オノデラユキ展 (9月10日-10月5日=京橋、ツァイト・フ ォト・サロン) 。二つのシリーズのうち、「Transvest」に魅せられる。特に制作過程を知るわけでもなく、まるっきりの誤読を繰り広げてしまうことを承知の上で、個人的な関心を記してみよう。写っているのは、ほぼ等身大の人物の影。背後からスポットを当てられて、影として現れている。それぞれ「フレッド」「アリス」といったタイトルが付く。前者はフレッド・アステアよろしく踊る姿であり、後者はドレスをまとった子供の姿。ひとまず肖像だと思うことにしよう。影による肖像について言えば、さしあたり壁にうつった恋人の影をなぞることで肖像が生まれたとする絵画の起源伝説のひとつを思い出させる。印画紙上に見えているのは、逆光のうちに沈むシルエットであり、ここでは印画紙が壁の役割を果たしているとも見えるが、そう一筋縄で括れる写真ではなく、この先が謎めいてくる。影のうちに目を凝らすと、かすかに何らかのディテールが浮かぶ。それが何の形象であるのかは判然としない。それ以前に、いかなる物体に光を当てて、シルエットを作り出しているのか。何か意外な仕掛けがあるのだろうか。タイトルにいう「Transvest」もまた、聞き慣れない言葉。「Transvestism」ならば、辞書に「服装倒錯」とあるが、あるいは、必ずしもそうではなく、「衣服」に「trans」の持つニュアンスを重ねて考えてくれ、というほどの意味なのかもしれないのだけれど・・・いずれにせよ、幾つもの謎を誘発しながらも、少なくとも写真にとどめられた影が、輪郭線にくくられた欠如としてではなく、それ自体として、ひそやかに息づき始めていることは間違いない。つまり写真は、さきに触れた絵画の起源伝説にいうような模像でありながら、自らの存在感を主張しはじめている。そのような意味で魔術的ですらあり、不思議な官能性をも感じさせる写真に魅せられてしまった次第。
2002.10.01. 展覧会案内
道すがら、見かけた展覧会チラシより。「マグナム・フォト デジタル写真展 Love+Love」 (10月8-14日、日本橋三越本店) 。裏面の説明によれば、愛とは何かという問いに挑んだ写真展で、「作品のすべては、世界最高水準のデジタルプリントによるもの。加えてニューヨーク、パリ、ロンドンのマグナムの写真家が高性能デジタルカメラで撮影した最新の画像を、会場に直接配信。目の前で作品がプリント、展示されます。携帯端末などでも、これらの作品を見ることも可能になります」。すごい時代だなあ。どこかで撮った写真をたちまち、どこででも展示できそう。だとしたら、第三世界の親子を東京で見せるだけじゃなくて、たとえばデパ地下の親子を第三世界で見せたりすることも、技術的にはできるのかもなあ。「Love + Love」という話とは違ってしまうかもしれないけど。
2002.10.02. 等価
art & river bank と言えば、夏の展示に行きそびれてしまい、その多摩川沿いの建物を、タマちゃん騒動を報じる写真週刊誌の片隅で見ているのみだったのだが、船木菜穂子展「ジョンとジョンと」 (9月21日-10月5日) は、相変わらず面白い展示。女性のポートレートと、風景ないし身辺スナップを対幅形式で並べる。近ごろもっともよく見かける2大ジャンルではあるものの、それらを並べた展示は、予想以上に新鮮な印象があった。ここでも双数的な関係が見る者を引き込んでいく契機となり、ポートレートと風景といったジャンルのありようなどを考えてみたい気にさせるわけだが、そうした展示を可能にしている写真の質もまた、目を引く。つまり人であれ風景であれ、独特の距離感を保ち、等価にとらえ得るようなまなざしを感じさせるところがあった。
2002.10.04. 夢の家
安田千絵展 (9月7日-10月5日=佐賀町、Taro Nasu Gallery) 。写 真集「Grace」 (ワイズ出版) の刊行にあわせた個展。一方の壁にカラー、他方にモノが並べられている。主要な撮影地は植物園。ギャラリーのHP上のリリースを引くと、この作家によるほかのモチーフは「博物館に陳列された装飾品や、打ち捨てられた部屋、幻のように水面 に現れては消えていく鯉の群れ」とあって、まあ鯉は別にしておくと、それらは「パサージュ論」で「夢の家」と語られるような範疇に属している。それを撮った写 真はガラス面への映り込みや植物のカーブを多用し、「夢の家」の再現というよりも、むしろ自ら「夢の家」たろうとするかのようなたたずまいを見せる。その意味での統一感は明確で、達成感がある。ただ、分かるようで分からない・・・という感じもすこしする。たとえば杉本博司のジオラマは分かりそうな気がする。そういう意味での話。もとより分からないからどうだということでもないけれど、今回はなお茫漠とした印象が残った。
2002.10.10. ありなし
写真新世紀と同様、写真ひとつぼ展も10周年とのこと。公開審査会というものに出掛けてみる。たまたま両賞とも受賞者の決定前に見たのだが、そぼくな印象では、ま、今回はなし、ということでいいんじゃないかな・・・といったところ。結果 としては受賞者が出たわけで、該当の方にはよかったとしかいいようがないのだが、両賞とも、「受賞者なし」というケースは過去にもなかったのではないか。ただし「なし」にできるかどうかは、賞の認知度、その賞をとりまくジャーナリズムの成熟度などにかかわってくる。つまり芥川・直木賞を思い浮かべるのだが、ときに「なし」が出る。すると、文学の衰退だとかいよいよエンタテインメントの時代なのだとかいう議論がまきおこる。傍目には、純文学・大衆文学の別 ができてこのかた、ほとんど同型というしかない議論がよくもつづくなあという気もするが、そんな繰り返しもまた文壇を振興しているように見える。それを長年やってきた芥川・直木賞は大したものだとも言える。かりにいま、写 真新世紀なり、ひとつぼ展なりが「受賞者なし」にしたとき、あ、そうなの、ということで終わってしまうかもしれない気がするわけで、そのあたりのかじ取りは微妙なような気がする。なにせ、そう書いているとちゅうにも、この話題への関心がわれながら茫漠としはじめているわけで・・・。
2002.10.15. エチオピア
大島洋展「千の顔、千の国-エチオピア」 (10月8-21日=新宿ニコンサロン) 。日本から第三世界などと言われている世界に赴いて撮られている写 真の多くとは隔絶した感がある。鈴村和成氏のランボー紀行に同行されていた方だったかと思うのだが (不勉強なり・・・) 、会場に掲げられた一文によれば、エチオピアという国には70から90の民族・言語があり、800から千数百に及ぶ氏族・大家族集団がいるとされるそうで、そうした「日本人」「写 真家」などというアイデンティティが砂にのまれるように無意味となる土地に、実は進んで赴いたということかもしれない。誰かを撮るというよりも、彼らに見られる、しかも無数の目に――その経験が、写 真の前に立っていると、いくばくかでも伝わってくる感じがあった。
2002.10.18. SNAP
元田敬三展「SNAP OSAKA」 (10月10-20日=pg) 。タイトルを聞いた第一印象は、原点回帰というか、そこを確かめようというつもりなのかな、ということ。それが当たっているかどうかは知らないが、この世界しかないなという気持ちがストレートに伝わってきた。たとえば拳をカメラに突き出している男のカット。個展に合わせて刊行された同名の小写 真集ではラストに載っている。直球といえば直球。しかし、彼ないし彼女ときちんと会話し、それゆえに複雑さや曖昧さを増したりもする関係の厚みのようなものを、スナップという形式でどこまでとらえられるのか、というやり方をなるほど成立させ得るディテールもまた感じられ、これを7年間やり続けてきたんだな・・・とも思わせた。
2002.10.22. 歯医者にて
出歩けない、少しばかり見ても書く時間が作れない。弱り目にたたり目というのか、虫歯に詰めてあった銀がぽろりと取れた。そんなわけで、近くのA歯科医院の診察台に横たわる。病院の壁には、何というでもない絵や写 真がよくかかっているもの。この歯科医院も例外ではなく、診察台の前には1枚の風景写 真がある。富士山の写真。手前には白鳥なのか水鳥の浮かぶ湖面があって、山容が映っている。おそらく風景写 真の趣味のある誰かが「逆さ富士」ということで撮ったのだろう。以前に来たときも、何となくそう思ったような気がするのだが、この日、歯をいじられている最中、それがどういう写 真なのか、不意に分かった。湖面に浮かぶ十数羽の多くが「逆さ富士」の稜線あたりに並んでいるのである。す、すごいじゃないか・・・むろん、すごくダサイ。何羽かは外れたあたりにいたりもするし、きっちり稜線に乗っているわけではないのだが、この偶然の配列をとらえた瞬間、撮影者が「これだ!」と叫びたいほどの気持ちであったことは容易に想像がつく。感動のあまり、写 真は歯科医院に譲られ、壁にかけられるに至ったのかもしれない。ま、なんということでもないのだが、誰か分からない撮影者の喜びをおすそ分けしてもらったような気がして、すこし慰められた、という話。
2002.10.25. エリザベスト
衣川正和展「Mt. Elizavest」 (10月18-27日=横浜・ライトワークス) 。不思議なタイトルにひかれて、出掛けたが、やはり不思議な感じの写 真。会場のテキストによれば、土木建築資材としての砂の山を、「山のジオラマ」と仮構して撮った、とある。たしかにジオラマか何かを撮って、実景ふうにしたてるという、このごろ時に見かける写 真なのかなと思わせるのだが、じつは違う。大きな紙のなかに小さな映像がプリントされている。その映像には、それなりの密度があって、テキストにいうとおり実景であることを裏付ける。リアルな風景を素材にした、フィクショナルな風景。ただ、それはテキストも読んだ上で、そう思う、ということであって、実際のプリントを前にした印象をいえば、やはりリアル/フィクションの間に宙づりにされてしまうところがある。そうした操作にはしたたかな感じがあって、テキスト中の作家略歴を見ると、1949年生まれとあった。初個展とのことだが、映像体験の厚みを思わせた。
2002.11.04. PG
HMVで何枚かCDを買う。家に帰って、そのうちの1枚であるピーター・ガブリエルの新譜「UP」のライナーを見ていたら、おお、なんと東松照明先生の写 真が! 波照間島の海上に雲が浮かぶカットと、長崎のビール瓶。このライナーでは見開き1ページごとに各曲のデータと写 真を収めている。なかなか面白い写真を選ぶなあと眺めていたら、東松さんが2点あったというわけ。海外での認知の高まりを思わせて、なんとなくうれしい。ちなみに新譜そのものについて言えば、10年ぶりだとかのオリジナル・アルバム。ソロになったころの「Ⅱ」「Ⅲ」あたりの沈鬱さがあらわになっている。その後、突然「スレッジハンマー」がヒッ トしたり、ワールド・ミュージックにのめりこんだり、という時期を経たわけだが、 その経験も無駄になったともいえず、終盤の1曲では、すでに亡くなったカッワーリー歌手、ヌスラット・ファテ・アリ・ハーンの声を聞くこともできる。輸入盤を買ったので、どういう評判になっているのかは知らないけれど、個人的にはとても満足。
2002.11.14. 予想以上
以前に「仏像や仏具を写真美術館で見せるわけか・・・。そのうちアンティーク・ドール展とか、大恐竜展なんかも、やるのかもしれないな」 (0820茫々2) などと書いた経緯もあり、東京都写真美術館「空海と遍路文化」展 (10月1日-11月17日) に足を運ぶ。写真美術館で仏教美術を展示することの是非は、ひとまず置こう。しかしながら、仏教美術展としても、どうなのだろうかという気にさせる。仮設のケースをつくって、展示物が収めているのだが、ほんらい展示室のライティングは写真展示のために作られているわけで、展示物にじゅうぶん光が回っていない。また、展示物の大小と視点の高低の関係はあまり顧慮されていない。もうひとつだけ。明石寺「不動明王像」は見たところ、洋風表現による、ちょっと変わった仏画のようだったが、落款がある。ケース越しなので自信はなく、様式面でも吟味は必要だが、「宋紫山」のようにも読める。だが、展示プレートには、筆者名が記されていない。こういう展示を、「展覧会」と呼びうるのかどうか・・・。企画の幅を認めるにせよ、また、長期的なビジョンに立った、いわゆる現実的な対応であるにせよ、それにふさわしい空間でもなく、それを扱えるスタッフも美術館にいない以上、無理がある、という当然のことを思った次第。
2002.11.14. 眉間にしわ
新宿に転じ、最終日となった王子直紀展「川崎」 (11月5-14日、pg) へ。すれ違いざまのスナップを、千本ノックのごとく自分に課しているようすは、このサイトでもうかがえる。相手は撮られているとは思っていない。撮る側もその瞬間、何が写ったか分からない。つまりカメラを文字通りのマシンとして使うタイプの仕事だが、それにしても、みんな眉間にシワを寄せて、怖い顔をして歩いているものだな。写真美術館から来るとちゅう、自分もそんな顔をしていたのかもなと思って、すこし反省。
2002.11.21. 月
秦如美写真集「月の棲家」 (2002年10月、冬青社刊) を見る。写真展を見逃して、残念に思っていたので、いちはやく本の形になったのは、ありがたいこと。いい写真集だと思う。在日二世という立場を、誇張することもなく減じることもなく、引き受けて撮る、という姿勢が一貫していると感じられる。ただ、以下は見る側の思いなのだが、この写真をどう自分に接続できるだろうかということを考えてみる。ときおり読み返す文章に、市村弘正「在日三世のカフカ」 (「小さなものの諸形態」筑摩書店所収) がある。いま言った接続のしかたにかかわるエッセーなのだが、末尾に「未完」という注記を付して、途絶したままになっている。
2002.11.22. もどく
「エモーショナル・サイト」展 (11月16日-24日) へ。取り壊しが決まった佐賀町・食糧ビルの全体を使った展示。ここに入ったスペースの展示をそれなりに見てきたので、多少の思いはなくもないけれど、ビルに入る前にたじろぐ気分がきざしたのは、さよなら食糧ビル、ありがとう佐賀町、というような、いわば「エモーショナル・サイト」ならぬ「センチメンタル・サイト」になってはいないか、という危惧を抱いたため。だが、最初に地下にもぐったのが幸いした。森村泰昌のビデオ・インスタレーション。幾つかの部屋にモニターが置かれ、それぞれに拍手する手が映る。一義的には、ありがとう佐賀町、という拍手。だが、容易にそう言わせないような過剰さがあるのを認めないわけにはいかない。ありがとう佐賀町、をなぞり、もどいているように見えるのである。思えば、なぞること、もどくことは森村の基本的な作法というべきだろう。そこでは礼讃と嘲笑が混然一体となる。この展示を眺めることで、すんなり他の展示に移ることができた。思えば佐賀町の時代とは、美術と映像表現がクロスしていく時代にあたっており、少なからぬ写真作家の作品を見ることができた。
2002.11.22. 芸能
本山周平「Okinawa Typhoon」 (11月18-28日、pg) 。沖縄でのスナップ。とくに民謡酒場等、芸能の場面を映したカットは、クラブを撮る人らしい切れ味を見せる。なんとなく民謡酒場の写真とクラブの写真とを等価にシャッフルしてみると、どう見えるだろうか、ということを思ってみた。スナップ系の展示は、しばしば場所のクレジットを伴っている。それはしかし、必須のことなんだろうか――そう書いている側にも、さしたる考えはないのだが。
2002.11.26. 中毒
篠山紀信展「Tokyo Addict」 (10月26日-12月1日、渋谷・パルコミュージアム) 。小学館「Sabra」誌の連載をもとにした展示。東京の現在に淫し、その錯乱ぐあいを含めて、そのまま投げ返すというスタンスは、冒頭のミラーボールのカットに暗喩的に語られる。その点もふくめて、確信犯的な強さが会場に行き渡っている。そうした展示の完成度とは別 に、気になったのは、観衆の数。展示に居合わせたのは、ほかには1人。たまたま同じエレベーターで会場を後にすることになったのだが、その後、一瞬であれ、無人の状態が訪れたはず。なにかパブリシティーに問題があったのかもしれないし、まったく偶然の瞬間であったのかもしれないのだが、なんとなく青みがかったミラーボールのカットを思い出したり、都市の写 真が人を高揚させる条件は・・・などと漠然と考えたりしながら、展示さながらの街角へ。
2002.11.29. 左右
山口裕美「現代アート入門の入門」 (光文社新書、2002年10月) を購入。著者はアートプロデューサーにして、ウェブページを主宰、「現代アートのチアリーダー」を自認する方とのこと。オークションでの村上隆作品の高騰という話題から始まる本書は、総じて、世界に羽ばたく日本の現代アート、という視点で執筆されている。やや気になったのは、そのなかではもとより細部に属することなのだが、<日本の場合も多くの屏風絵などは左から右へ見る。また、一枚の絵に込められた物語の多くも左から右へ流れる>という記述。西洋絵画と同じ見方なのだというのだが、屏風が通例、右から眺めるように描かれているのは、四季の配置を見ても理解されるところ。むしろなぜ、そう理解されたのだろう・・・と不思議な気がする。本書にはちなみに、<欧米のアーティストと同じような作品を作ることは、日本人としてのアイデンティティーが薄いと思われるし、「バナナ」と呼ばれる。バナナとは表、つまり肌は黄色いが中身は白いという意味で、中身が西洋化されているということを指す>という下りも見受けられた。
2002.12.02. 額縁
設楽葉子展 (11月30日-12月10日、pg) 。これまでと同様、母のポートレート。家庭で使われるような額、つまり展示空間ではキッチュに見えかねない額をあえて目立たせる展示方法も従来通りとはいえ、今回はなぜか、その効果が印象に残る。とりわけ奥にかかっていた大きな写真。堂々たる油彩画にこそ似つかわしい額と、夕日に包まれた公園 (?) での母のポートレートとの取り合わせは微妙なズレをはらみ、一連のポートレートが心和む「母のポートレート」とは遠く、何か見る者を動揺させるような性質を備えていることを際立たせる。そのあたりをうまく言い当てるのは、なお難しいのだが・・・。
2002.12.09. スキャン
篠山紀信写真集「Tokyo Addict」 (小学館、11月20日刊) を手に取る。巻頭の一文は、都築響一氏による「篠山紀信というスキャナー」。その写真には意識の中心点がなく、見る側もどこか一点に意識を集中させにくいとして、<写真を撮るというより、それはスキャンという作業に似ている。カメラを一種の立体スキャナーとして、目の前にあるすべてを均質にすくいとる>と論じている。こうした点については、たしか中平卓馬も着目していたような記憶があるけれど、ここで「スキャン」という比喩が用いられていることが目を引く。今年のはじめ、小林のりおも個展のステイトメントの中で、窓から光が差し込むキッチン内の光景はすでにして写真的であって、それをスキャンしていくのだ、という趣旨のことを言っていたのを思い出す。デジタル化が進展する現在、写真の本来的な均質性、等価性に論及しようとすると、スキャンという比喩に行き当たるのかもしれない。
2002.12.19. IKKO
さる事情により、一日だけパリで過ごす。立ち寄ったヨーロッパ写真美術館では、奈良原一高の回顧展が開かれていた (来年2月16日まで) 。初期の「人間の島」から、デジタル処理を施した新作まで。写真集や展覧会の案内など資料も多く展示されている。当地での知名度はまだまだのようだが、分厚いカタログも刊行されており、十分な敬意が払われている様子。ちなみに、同時にMarkus Raetzという人の個展も開かれていたが、こちらは写真や鏡を使った福田繁雄、みたいな作風。これだったら、奈良原さんの写真のほうがずっといいよなー、と思ったのは、日本人だからだろうか。
2002.12.24. 蔵展
蔵真墨展 (12月12-25日) へ。相変わらず笑わせてもらいました。なぜ、この若い女性は「幹事様ご優待券」を握っているのか? そんな彼女を、なぜ彼はじっとり見ているのか? わけがわからないけれど、おかしい。ストローで飲む牛乳パックをさかさまにして飲み干そうとするのは、まあ子供だから許すとして、それをここまでの真剣な表情で見つめる母はいったい何を思う・・・被写体の多くが携帯電話を持っていることもひとつ示唆的なのだが、この人のばあい、あるコミュニケーションの場にレンズを向け、スナップショットによって、そのズレや断絶を際立たせるようなところがある。ともあれ今回も楽しんだというわけだが、しかし、似たようなことは前にも書いた気がする。来年はすこし書き方を考えたほうがよさそうですね。
2002.12.27. ない
今年1年、現代美術のグループ展などでもっとも売れっ子となったひとりは須田悦弘といってよいだろう。精妙な木彫による花や雑草を、ひっそり展示空間に配置する仕事で知られる人。いまも資生堂ギャラリー「LIFE/ART 2」展 (11月26日-1月26日) に出品している。その美術家が「新美術新聞」1月1日号の「わたしの好きなもの」という欄に、「なんてことない風景」という写真付きのコラムを寄稿している。高校生くらいの正月に撮ったような気がする、と自ら言う写真には、枯れた雑草に覆われた風景が写っている。いまの風景写真における、ある種のモードに通じるような写真だとも言えそうだが、それは「なんてことない」という言い方のとおりに、ある否定性の上に成り立っている。須田はかつて、伝統的な茶室の美学を引き合いに出して、自作を説明したことがあったように思うのだが、この美術家の伝統への言及もまた、あるいは否定性の上に成り立っているのかもしれない、という気がふとした。