第14回 photographers’ gallery講座
「受苦と復活 — 言葉なきものの一つの場」

第14回 photographers’ gallery講座
連続講座「ゴダール・システム」(全3回)
第三回「受苦と復活 — 言葉なきものの一つの場」
講師:平倉圭(映画理論/美術作家)
2007年4月7日(土) 18:00~
企画:中村大吾(編集者)


講座概要/平倉圭「ゴダール・システム」
ジャン=リュック・ゴダール(1930-)は、映画で何かを考えている。だが、何を考えているのか? ゴダールの映画から、セリフをいくら取り出してみても、「引用」されているイメージの出所をいくら明らかにしてみても、そこで何が思考されているのかは明らかにはならない。なぜならそれは、同時に進行している複数の音-映像の質やタイミングと不可分な思考だからだ。それはうまく言語化できない。それは本質的に、言語というものの仕組みを超えてしまうような思考である。だが、言語ではないようなものを、いったい「思考」と呼ぶことができるのだろうか? そもそも言語ではないような「思考」について、何か言ったり、考えたりすることができるのだろうか? 全3回のこのレクチャーは、ゴダールが、映画というメディアを駆使して展開している思考の「システム」を、可能な限り明らかにしようという試みである。


第三回「受苦と復活 — 言葉なきものの一つの場」
『映画史』(1988-98)のなかでゴダールは、氷の上でのけぞるリリアン・ギッシュの映像(『東への道』(D・W・グリフィス監督、1920))を引用している。挿入された文字が問いかける。「今までにこんな目にあったことがあるかね?リリアンさん」「ありません、グリフィス先生!」。映像はつづけて、リリアン・ギッシュと「同じ」姿勢でのけぞる一人のヒステリー患者の姿を映し出す。文字が繰り返す。「ありません、グリフィス先生!」。身体の「類似」をめぐって、問い=拷問と非応答が、忘却と再演が、映画と精神分析の起源が、炸裂する音‐映像のなかで錯乱的に交差する。同じ錯乱のなかで、ゴダールは二度、強制収容所の屍体を「復活」させようとするだろう。いったい私たちは、そのような「復活」を信じうるのか? そもそもそれは「信仰」の問題なのか? ゴダールの思考の核心部に到達する試み。


講座報告
狂信的な類似の論理を押し進めるゴダールは、映画を絵画と同じく形態創出のメディアとして捉え、絵画的な身振りによって受難後の復活劇を映画内で引き起こそうとします。たとえばヒステリー的な身体のような受苦の形態を採用し、その再演(=想起)の身振りは、「映画史」の「音と光の爆撃」によって観客にまで適用されようとしている、と平倉氏は言います。また、拒絶反応をもたらすような類似に対して「叫び」(=応答)を取り戻すことと共に、「回教徒」という、類似の論理を適用できない唯一の存在に対して、自らの身体を利用するという狂気の絶頂を迎えます。我々が出会い損ねた過去と出会い直すこと、それこそがゴダールが発見した類似の論理の賭金なのだ、と平倉氏は結論づけました。同じく「遅れるメディア」である写真の応答を求める、非常に刺激的な連続講座となりました。

米田拓朗
Kei Hirakura

Kei Hirakura

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