第12回 photographers’ gallery講座
「問い=拷問と非応答 — ソニマージュからファム・ファタールへ」

第12回 photographers’ gallery講座
連続講座「ゴダール・システム」(全3回)
第一回「問い=拷問と非応答 — ソニマージュからファム・ファタールへ」
講師:平倉圭(映画理論/美術作家)
2007年3月24日(土)18:00~
企画:中村大吾(編集者)


講座概要/平倉圭「ゴダール・システム」
ジャン=リュック・ゴダール(1930-)は、映画で何かを考えている。だが、何を考えているのか? ゴダールの映画から、セリフをいくら取り出してみても、「引用」されているイメージの出所をいくら明らかにしてみても、そこで何が思考されているのかは明らかにはならない。なぜならそれは、同時に進行している複数の音-映像の質やタイミングと不可分な思考だからだ。それはうまく言語化できない。それは本質的に、言語というものの仕組みを超えてしまうような思考である。だが、言語ではないようなものを、いったい「思考」と呼ぶことができるのだろうか? そもそも言語ではないような「思考」について、何か言ったり、考えたりすることができるのだろうか? 全3回のこのレクチャーは、ゴダールが、映画というメディアを駆使して展開している思考の「システム」を、可能な限り明らかにしようという試みである。


第一回「問い=拷問と非応答 — ソニマージュからファム・ファタールへ」
1987年、ゴダールは音響技師フランソワ・ミュジーとともに新たな編集技法に到達している。そこでは、空間の外部と内部、機械と人間、人間と動物が、「音‐映像(ソニマージュ)」の同期と相即によって無分別に一致し、応答しあうのだ。――だが、その「応答」はとても不安定なものだ。なぜなら、映画のなかでは、実際に応答することと、応答を錯覚することを区別することができないからだ。この問題が、「ゴダール・システム」への入口になる。「切り返しの不可能性」、 「連結の偶然性」、「映画=フェラチオ機械」といったテーマと形象が、この問題をめぐって組織されている。その中心にいるのは、ゴダール映画の「ファム・ファタール(運命の女)」たちだ。ショットが応答を返さないように、ゴダール映画の女たちは男たちの問いに応答を返さない。そしてその構図を反転するとき、特異な「拷問」が姿を現す。


講座報告
スクリーンに出来する様々なテクストや映像、音のひとつひとつを同定してゆく作業にではなく、それらが現れるときの身振りへ注意を払うことにこそゴダールを解く鍵がある、との断言から連続講座の第一回目は始まりました。ゴダールの映画を鮮やかに解体してゆく中で、ばらばらなはずのものをミキシングによって「ひとつの場所」として立ち上げようとするゴダールの手つきと同時に、その編集作業に対する絶望が明らかにされました。この絶望は映画のもつ「非応答」に端を発しており、ゴダールの映画においては男女の愛がそのメタローグとなって現れていることが、 「ファム・ファタール」、「問い=拷問」といったキーワードをもとに確認されました。一方、 90年以降のゴダール映画において、すべてに応答できる人間が映画史的記憶を絡めながら現れており、それを可能にしているのが「類似」であることが示唆されました。写真同様、幸福な映画がもはや存在しえない現在において、「類似」は「愛」を再構築できるのか、次回への問いとして投げかけられました。

米田拓朗
Kei Hirakura

Kei Hirakura