Takumi Sato/佐藤 拓実
“マーリンケ、マーリンケ (東京展) “ 2026.11.14 – 2026.11.26 12:00 - 20:00 会期中無休/DAILY OPEN

この度、KULA PHOTO GALLERYでは企画展として、画家・佐藤拓実による個展「マーリンケ、マーリンケ(東京展)」を開催いたします。本展は、2026年3月に札幌で開催された個展の巡回展であり、佐藤にとっては東京で初めての個展となります。
佐藤はこれまで、北海道の歴史や文化、ゆかりの人物などに着目し、絵画やインスタレーション制作をはじめ、展示企画、調査、執筆などを行ってきました。
展示のタイトルにもなった作品《マーリンケ、マーリンケ》は幼少期に樺太で暮らしていたという、佐藤の祖父の家族写真を題材としたシリーズで、その作品タイトルは祖父がロシア人からそう呼ばれていたという言葉に由来します。あわせて本展では、地図をモチーフに「描く行為」そのものを問い直す連作《土に輪郭はなく、水にも輪郭はない》なども展示します。
個人と社会、記憶と記録、物語と事実のあいだを往復しながら、制作を通して自身の居場所を探り続けてきた佐藤の作品は、第二次大戦後80年を経てなお国家間の争いが激化する今日、よりいっそう大きな意味を持つようになっています。ぜひご高覧下さい。

[企画協力]大友真志
[展示内容]クレパス画、水彩画 など 等約20点
◉トークイベント開催
トーク「Mourai(モウライ)も、マーリンケ、マーリンケも」
開催日:2026年11月14日(土)17時30分〜19時
登壇者:長谷川新(インディペンデントキュレーター)、大友真志(写真家)、佐藤拓実(画家)
会場/photographers’ gallery
予約不要、定員20名、入場料1000円
[同時開催]
大友真志写真展「Mourai」
photographersʼ gallery(KULA PHOTO GALLERY 同フロア)
2026年11月13日(金)ー26日(木)
齋藤 雅之「相対化に踏みとどまること ──佐藤拓実個展「マーリンケ、マーリンケ」について」
「マーリンケ、マーリンケ」と銘打つ拓実くんの個展の会場で最初に目に入るのは、古い家族写真を模写したという、巨大な絵画である。拓実くんの祖父が幼少時に住んでいた樺太で撮影されたというその写真は、確かに、現代美術なりなんなりをやっている人間にとっては絶対に無視できないものに違いない。しかし同時に、「家族写真」とはいかにも扱われ尽くした題材でもある。ならばどうするのかというときに、写真はとりあえず模写されていて、鑑賞者はとりあえずその絵画をみせられる。
「とりあえず」というのはつまり、判断や解釈を一旦キャンセルした(された)状態で、物事を進めてみる(進んでいく)、ということである。それは表現というよりは作業であって、鑑賞というよりは観察である。拓実くんが描き上げた絵画は引きで眺めるとメリハリがあるのに、近づいて凝視するとベタっとしている。タッチや色の重ね方は全体が同じような手つきで仕上げられていて、執拗に同じ作業を続けていくような、何かに固執しているような、そんな印象を受ける。だから、絵に寄れば寄るほど、モチーフと背景の境目が曖昧になる。おそらくそれは「客体化」と呼ばれる作業である。
拓実くんは被写体になった6人の家族ではなく、その足元に生える雑草にフォーカスする。元の写真は不鮮明だったというから、おそらくその雑草にはディテールが付け加えられ、誇張を伴って絵画に落とし込まれているはずだ。雑草を描いた領域から一部分が選び取られ、再度、矩形のキャンバスに模写され、反対側の壁に掲げられている。恣意的かつ冷徹に、そして乱暴に引かれた線=輪郭によって、その絵画の主題は、家族から雑草へとシフトする。
*
拓実くんの関心が地図に派生した理由はよくわかる。行政区分が作り出す領土の形は、恣意的で冷徹で、何よりも、乱暴である。例えば、拓実くんも参照したという『地図の想像力』という書籍の中で若林幹夫は、アフリカ諸国を分かつ直線状の国境線に着目する。
現在の地図でアフリカを分割する幾何学的な線分は、いまだその領域国家の主権下にも置かれていなかった土地を分割するために引かれた「分割線」である。/アフリカの諸部族もアメリカ大陸やアジアの諸地域と同じく、ヨーロッパから投げ掛けられた国家の影の下で、植民地化されていったのである。ヨーロッパ列強は、彼らが科学的眼差しによって世界を客体として対象化していったのと同じように、多分に恣意的に引かれた地図上の線にしたがってそこに暮らす人びとを対象化し、植民地支配の客体としていった。アフリカの人びとから見れば、それは彼らが与かり知らぬところで形成された「面としての社会」に、言語も信仰も習俗も異なる多様な部族が組み込まれ、支配されてゆく過程であったはずだ。それまで別個に存在し、異なる社会を構成していた諸部族が、植民地支配という枠組みのなかで共通の社会を生きることになったのである。
若林幹夫『地図の想像力』講談社、1995年、p.198
「マーリンケ、マーリンケ」で展示されている《線を引くこと》と《土に輪郭はなく、水にも輪郭はない》というふたつの連作で、拓実くんも同じく、かつて地図上に出現した線分に着目する。20世紀前半、ポーツマス条約によって北緯50度線に設定された直線状の国境線によって、樺太島は真っ二つに分断され、日本領とロシア領が区分されていた。陸地の隆起や侵食によって形成された海岸線の形状と、戦争と講和条約によって設定された人為的な線分によって作られた領土は、フォルムとしてはかなり特殊だし、こう言っては怒られるのだろうけど、滑稽である。拓実くんは地図上に現れたそのフォルムを、作品のモチーフにする。
拓実くんは、そのフォルムをコラージュの素材のように切り貼りし、何パターンもの図像を作り出す。ブレストのようにパターンを出し続けるその連作は、意匠として卓越させるというよりは、並列的な反復をみせようとしている。無論、意図的だろうと思う。領土を象った図像は猛々しいナショナリズムのイコンとなるのだから、それは卓越させることなく、飼い慣らされなければならない。あるいは、地図や、それをベースにした地政学的事実が孕む暴力性と、その背景にある欲望を脱臼させようとしているのかもしれない。
しかし、拓実くんの倫理はもう少し別のところにあるように思う。拓実くんは、自分が向き合わなければならなくなったモチーフをどう意味付け、機能させるべきか、その決断を留保し続けているように思う。もちろん、入植者植民地としての北海道の歴史や、それに起因する暴力が現在進行系で温存され、行使され続けていることに、拓実くんは普段からめちゃくちゃ怒っている。しかしそれを梃子にして何かをしようとする時、拓実くんの態度はどっちつかずに見える。複雑な問題を前にして、性急な価値判断も行動選択もせず、思い倦ねているさまをそのまま提示しているように思える。
これが良いことなのかどうかは微妙である。思い倦ねていられるのは特権性の為せるわざだと糾弾できるようにも思う。あるいは、態度と立場は戦略的に選択すべきであって、解釈や認識の問題にとどまるべきではない、とも言えるのかもしれない。生真面目な人ならば作家としての責任が云々と、制作の倫理を説いてくるのだろう。
ただ、自分は拓実くんのこの態度に共感する。美術の作法にせよ、歴史の捉え方にせよ、社会の構造にせよ、なんやかんやがあるということは分かっている。そのなんやかんやを深掘りし始めると訳が分からなくなるし、訳が分かるということが倫理的に良くないことだと思っている。そこで逡巡するということは、停滞しながらも地道にそのなんやかんやに向き合い続けることである。そう振舞うことによってしか、状況を打開することができない歯痒さは、よくわかる。
「主題」だとか、「コンセプト」だとか、その手の問題系は義務感や緊張感をもたらしてくる。しかし、とりあえず作業を進めることによって、つまりは客体化をすることによって、そうしたプレッシャーをいなせるようになる。例えば絵画を前にして、ひとまずは目に入るもの全てをよくよく観察してみること。想起された全ての言葉を書き起こしてみること。とりあえず、出せる限りのパターンを出し尽くしてみること。そういう客体化の作業を淡々とこなしていく過程の中でごくたまに、見晴らしが開けることがある。
*
『地図の想像力』に倣うならば、領土化とは客体化であり、それは特定の境界の中に単一性を作り出そうとする。いわずもがな、それは暴力である。しかし、「それ自体は「一つ」であることを志向する国民や国土」は同時に、「その内部に単一性に通約できない多数性を内包して」もいる(p.220)。『地図の想像力』の中で若林が描き出したのは、地図を軸にする近代的世界がもつ「「単一性」への志向とその内部における「多数性」との共在」である(p.220)。
地図という技術によって引かれた制度的な境界線が恣意的で冷徹で乱暴であったとしたも、それが指し示す領域の中に生きる人たちがどれだけ苛烈な生を強いられたとしても、そこには、従属とも対抗とも異なる、自律した関係の場が生成されるはずだ。それはある時には、既存の支配や統治の境界を撹乱し、新しい地政学的な秩序を生み出すのかもしれない。あるいはそれは、加速主義やテクノリバタリアニズムという呼び名を伴って、破滅的なかたちで顕現しているのかもしれない。
しかし、他人が生きているということに、他人が勝手に対抗性だとか悲劇性だとかなんだとかを仮託することは、基本的には不遜である。そもそも、他人がどう生きているのかとか、他人が何を感じ取っているのかとか、そういうことをあれこれと考えるのは、根本的に気持ちが悪いことである。それなのに、写真という記録媒体や、国家という制度、地図というメカニズムは、人々の行為を社会的な事実として生成し、意味付けてくる。それは心底かったるいことだと思うのだけど、そうはいっても、およそ現代社会に生きる者ならば、誰しもそこから逃れられない。
だから、その客体化のメカニズムを、とことん客体化し返してみる。主体的な意志とは関係なく、向き合わざるを得なくなってしまったものを前にして、性急な価値判断と行動選択の手前に踏みとどまり、停滞した認識の中で、それを持て余しながら、しかし手放さずにいること。それは最近の小賢しい「アーティスト」の仕草とはまったくもって対照的だけれども、態度としては極めて倫理的である。
(齋藤氏のnoteに掲載された文章の全文を、許可を得て寄稿文として転載しています。)
齋藤 雅之 / Masayuki Saitoh (公益財団法人 札幌市芸術文化財団)
note:https://note.com/masayukisaitoh
佐藤拓実 略歴
1993年 北海道札幌市生まれ
2015年 北海道教育大学芸術課程美術コース空間造形研究室 卒業
2017年 東京造形大学大学院造形研究科美術研究領域 修了
2023年 北海道教育大学 非常勤講師
札幌展ウェブサイト
・寄稿「佐藤拓実試論〜新たに当事者として、そして新たな当事者へのメタモルフォーゼ〜」
(四方幸子 十和田市現代美術館館長)掲載
https://www.g-monma.com/exhibitions/202603_sato/
札幌展 トークアーカイブ
・南島興(美術評論家)×佐藤拓実
・四方幸子(十和田市現代美術館館長)×佐藤拓実























