Lateral Scotomata(ラテラル・スコトマータ)、あるいはICANOF近況報告
以下、『イカノフ・フリープレス 08』より転載】
本年3月「風景にメス展」の閉幕から、ICANOF がすっかり鳴りをひそめてしまったというのが、多くの市民にとっての(また ICANOF メンバーの多くにとっても)率直な感想ではないだろうか。
鳴り物入りでスタートした市民活動が(もちろん市民活動に限った話ではないが)、数年を経ずして失速・解体・消滅していく/させられていく様を、われわれはむしろ常態として見ている。ICANOF もそうした「マトモ」な運動体のひとつであったのかと、少なからず安堵するとしたら、それはしかし買い被りというものだろう。ICANOF は何につけ鳴り物入りであったためしなどないのだし、失うべき速度・解(ほど)くべき体・消し去るべき姿といったものからは徹底して無縁であったのだから。
この数ヶ月、ICANOF は新たな鳴り(=響き echo)の出来(しゅったい)に立ち会っていた。あるいは、もうひとつの共鳴のモードを見出していたと言おうか。具体的には、それは、7月に新宿と赤坂で開催された二つの ICANOF/ラテラル・ランドスケーパーズ写真展「Camera Scotomata(カメーラ・スコトマータ)」および「風景の頭部」のことを指す。
この二展において ICANOF は、これまでのアートサポートとしての活動とは別の、作品の実作・展示という、「アート」により深く切り込んだ活動を行った。いささか鳴り物めいて聞こえることをおそれずに言えば、両展の意義は非常に大きい。
以下、この二つの写真展の様子をご紹介しよう。
「カメーラ・スコトマータ」展は、先のICANOF「風景にメス」展のゲストアーティスト・北島敬三氏(写真家)からの文字通り「有り難い」呼びかけ=応答により、氏の共同運営するphotographers’ gallery(新宿。以下、pgと略す)で開催された。
出展は、ICANOFメンバーからピックアップされたラテラル・ランドスケーパーズ(ララ派)8名である。pgギャラリーに、米内安芸+山本貴士+豊島重之によるコラボレーション写真が6点。隣接するギャラリー「イカヅチ」に、花田悟美・半田晴子・高沢利栄の写真作品が各数点、佐藤英和の映像ドキュメンテーション「CAN OF ICANOF」、加えて2004年図録のトビラ辞「a-ce-phale」を用いた佐々木邦吉のインスタレーションが展示され、好評を博した。
紙幅の都合上、米内+山本+豊島のコラボレーション作品に限って言及すると、縦72cm×横103cm、厚さが10cmもあるその「写真」6点は、ギャラリーの壁面に1点・2点と掛けられたほか、フロアの中央に1点、また真上の天井にも1点が配置された。いずれも設置面からわずかに離して展示され、またほとんど黒一色であるため、遠目にはさながら特大の重箱が浮遊して見える。近づいてようやく、その黒地の中に幾筋かの写真画像の帯(幅0.7~1.0cm)を認めることになる。あるいは大伸ばしの写真のほぼ全域が、侵食する暗部に覆い隠されていたことに気付くのだ。写真展のタイトルに読まれる「スコトマータ(盲点)」がそこにゴロリと現前していると、はたしてナイーヴに言ってしまってよいものやら、見る者はかえって気後れを覚えるかもしれない。しかもフロアと天井に配置された写真の意味は? こんな写真/写真展が今までにあっただろうか。
一方のララ派写真展「風景の頭部」は、モレキュラー・シアターの主催により、赤坂の国際交流基金フォーラムにて同劇団の新作「HO PRIMER」公演にあわせて開催された。
出展はララ派の4名。花田悟美の写真9点、半田晴子の7点、田名部加織の5点、そして佐藤英和による先述の「CAN OF ICANOF」である。花田の、「視界を一気に振りあげる」というにはあまりに無為な仰角のブルー。半田の周到な、であるだけに無機質の不気味さを孕みもするユーモラスなクワッド。田名部の、視界の底を割るたくらみとともに滑り寄るコンパクト・ディスク。いずれの作品も、不在の頭部をその不在のままに捉える希有なスコトマータ=写真である。また、佐藤の映像ドキュメンテーションは、これまでのICANOFの活動を伝えるのみならず、それを折り畳み、折り返し、新たな切断を行うことで(まさにタイトルの “CAN OF” が “ICANOF” から成るように)、もうひとつの不在の頭部を周回していた。
ついで、両展の同時開催イヴェントをかけ足ながら紹介しよう。なお、モレキュラー・シアター「HO PRIMER」公演については、大川久美子氏による優れた劇評「密偵は羽根を残して“HO”の“S・OTO”へと逃げ去った」(月刊「Amuse」2004年8月号掲載)をぜひ参照されたい。
「カメーラ・スコトマータ」展では、7月3日に「風景にメス」展ゲストアーティスト稲川方人氏(詩人)の監督映画「たった8秒のこの世に、花を」を上映、続いて守中高明氏(詩人)、稲川氏、ICANOFキュレータ―の豊島重之によるコロック「ひとは写真/映画を撮ることができない。」を開催。メス展で稲川氏が提起した「階級」「ジャンル(の遊戯性)」といったタームを皮切りに、外部の思考/思考の外部をめぐるスリリングなトークが展開された。4日は、椹木野衣氏(美術評論家)をゲストに「テレ・トリローグtélé-trilogue」と題する異例のコロック。隣室イカヅチとpgオフィスとに隔離された椹木氏と豊島とが、ビデオカメラを介してノートPCとペンとで「筆談トーク」を展開、オーディエンスはその様子をpgギャラリー壁面のプロジェクション映像で見つつ、質問やフィードバックをこれまたノートPCから発信するという、文字通りの「遠隔対話三元生中継」。キーを叩く音とペンを走らせる音を除いては一切無音で進行するこの「トーク」では、筆談ゆえの速度感=時間性を獲得するにしたがい、一同は比類ない強度(インテンシティ)に立ち会うことになった。また11日には、「風景にメス」展ゲストレクチャラーの岡村民夫氏による「デュラス上映会」が急遽ひらかれたことを、あわてて付記しておきたい。
ララ派「風景の頭部」展に際しては、7月10日、青山真治氏(映画監督)、稲川方人氏、豊島重之によるコロック「風景/写真・映画・演劇のS・OTO(外)へ」。監視社会における眼差しを、オーソン・ウェルズを引きつつ「右上ななめ後ろから肩越しに射す」と述べた青山氏が、また、映画に「外」はないとも断言していたことが印象深い。11日は、宇野邦一氏(仏文学者・思想家)のレクチュア「バタイユの頭部/無頭のコミュノテ」。ビオスとゾーエー、単頭/複頭/無頭の共同体とそこにおける身体性。「頭部」とは「社会的な統合性・有機性」の謂いでもあろうか。目前に迫ったICANOFの第4回メディア・アート・ショウ「風景の頭部」展(9月4日~20日)でも、その「頭部」は問われることになる。
──では写真の外部の話を?
その外部が「フレームの外」を意味するのでないのなら。というのも、フレームにはどうしたってその内部があり、また外部がある。写真のフレームに切り取られた「外部」とは、つまり写真の内部の反措定にすぎないわけで、それを「写真」の外部と言うことはできないのだから。
──ウチの外にソトがあるとでも? ソトの外にウチがあるのでは?
ならば端的に、写真にはフレームが無いと言ってみよう。あるいは写真のフレームにはウチが無いと。
──ウチが無い以上、もはやフレーム(枠)ではなく、ただのプレーン(面)だと? あるいは文字通りに、面(つら)=顔であると? だがソトとの境界があるのでは。その境界をフレームと呼んでみてはどうだろう。
そういうのを区分けと称し、tri と称する。「テレ・トリローグtélé-trilogue」とは、来歴(télé)の区分け(tri)と編纂(logue)でもあったわけだ。ところで、境界は外部に属する。つまり、外部と、内部なき境界(=漠たるボーダー/外部)とからなる平面にこそ写真は訪れる。
──その時、ひとは写真を撮る/見ることができるだろうか。
もちろん「ひと」は写真を撮ることができない。だがその前に、「見る」ことに関して。写真が知覚可能だとしたら、それは来歴を抹消することで、すべてを(ビルケナウの暗い部屋、さえも)その平面上に現前化するからだろう。写真がスコトマータ(盲点)をあらわにするのは、この無機的=無頭的な統合による。
──では写真《の》スコトマータは? 抹消される来歴=速度差=タイム・ラグは? われわれは、写真に見られずに写真を見ているつもりでいるが、この非対称性はどうだ。
さきに私たちは写真が「訪れる」と言った。だが目庇(まびさし)の奥に誘われているのは、むしろわれわれの方ではないか。そこでひとは亡霊化されよう。つまり、漠たるボーダー=内部なき境界=顔に。おそらくは、ある痛痒とともに。さあ、目を伏せたり逃げだしたりせずに、学ぶことを学び、なんとしても学ぶのだ、そのことに。