Osamu Kanemura/金村 修
“Alice In Butcher Land” 2011/11/08 - 2011/11/20 12:00 - 20:00 月曜休 / MON CLOSED

Osamu Kanemura/金村 修: “Alice In Butcher Land”
Osamu Kanemura/金村 修: “Alice In Butcher Land”

「屠殺の国のアリス」は、世界に去勢と忘却を強要する弁証法的唯物論であり、“国家の死滅”を説くレーニンの社会主義理論をより極北に向けてオーバードライブする未来の死滅のための希望のない弁証法的唯物史観なのだ。未来は死者の領域であり、“三億人の死者、それがわたし達の未来”は、カフカの『審判』の法廷における永遠の判決の引き延ばしのように、平坦で起状のない反復を繰り返す。反復に未来はない。反復を教義の中心に置く去勢と忘却の唯物論は、文化、歴史、価値、伝統を世界の上部構造から一掃するだろう。『ソドムの百二十日』の単調な犠牲者の統計リスト、ドクター・トートがアウシュヴィッツで囚人の名前を数字で読み上げるような持続を、クメール・ルージュが収容所の政治犯を銃殺ではなく、一人一人石で撲殺する律儀で退屈な持続と反復こそが去勢と忘却の唯物論であり、どこまで行っても同じ光景しかつづかない造成地のような風景こそが私達の要求する弁証法的唯物史観に基づく風景なのだ。造成地の未完成な風景の反復は、シーシュポスの不可能な何かに向けた悲劇的な反復ではなく、反復を目的とした反復であり、何を反復しているのかわからなくなる反復、反復する対象を忘却するための反復。対象なしに反復すること、対象を忘却し、忘却と反復の行為だけを抽出して反復する。星座と太陽と青空に見捨てられた極点としての反復。反復は頂点を目指さない。

反復は快楽を拒絶する。快楽という頂点での爆発を目指す精神の運動を去勢すること。忘却は記憶に物質的アパシーを持ち込む。「屠殺の国のアリス」は、記憶の絞首台、絞殺された記憶でいっぱいになった部屋。ジム・モリソンの“忘れることを学習せよ”は記憶を屍体にするための忘却的方法論であり、記憶が死者の集積なら、忘却は集積された死者の名前と秩序を漂白し、屍体同士の関係を忘却によって棄却する。忘却は思い出を踏みにじり、大切だった死者の過去を二度と思い出させない。私達が持てるものは残骸だけだ。遺影とは忘却された残骸であり、あらゆる写真が遺影であるのなら、その遺影は対象との関係を剥奪された遺影の残骸にしか似ていない。生きていた誰にも似ていない。誰のものでもない。遺影は撮影された対象なしに屹立する。「屠殺の国のアリス」は誰のものでもない遺影と熱狂的に踊るための教義であり、遺影と故人との類似関係を廃棄するために『不思議の国のアリス』のチェシャ猫のニヤニヤ笑いを導入する。『ボストン絞殺魔』の絞殺の行為だけがチェシャ猫のニヤニヤ笑いのように空中に残る。絞殺する主体が消滅したニヤニヤした絞殺。イコンとして機能しようとする遺影を機能不全に陥れるための、ジュネがドストエフスキーの小説を屠殺の現場のようだと表現したようなチェシャ猫のトビー・フーパー『ファンハウス』的分離と結合。“キリストの最初の息子”と歌ったルー・リードの存在しない対象との類似が遺影であり、遺影は類似に類似し、忘却した対象や死滅した対象に類似するのではなく、忘却や死滅そのものに類似する。「屠殺の国のアリス」は『胎児が密猟する時』の丸木戸定男やアウグスト・ザンダーの無感動な魂を召還する。大量に並べられた犠牲者の遺影は個別的な死を拒否し、交換可能な統計的な死を選択する。その死は塊であり、塊になった死はもう何にも似ていない。遺影にはなにも写らない。「屠殺の国のアリス」は鏡を割ったアリスであり、または何も映らない鏡、鏡そのものの『鏡の国のアリス』である。

金村修