時評 3 “携帯電話” by 上野修

先日、「首都圏の鉄道17社、車内での携帯マナーの案内を統一」というニュースが発表された。「優先席付近での携帯電話の電源はOFFに、優先席以外ではマナーモード設定」という消極的な表現だが、実質的な電源ONとメール等の通信機能の解禁と言っていい。ここで気になるのは、ペースメーカーと携帯電話との関係。かつて携帯電話の電車内でのマナーが社会的な問題になったとき、使用制限の決め手として出てきた理由が、電磁波が及ぼすペースメーカーへの影響だった。ことが人命にかかわるとすれば、着信音や声の騒音以前の問題である。流れは一気に電車内での携帯電話の禁止へと向かった記憶がある。携帯電話とペースメーカーは22cm以上離せば安全というのが定説らしいが、この22cmという何とも微妙な距離と、電磁波という解明されていない見えない恐怖の組み合わせは、電車内での携帯電話の使用=悪という図式を定着させた。

しかし、電源を切った携帯電話は、電池の切れた携帯電話のようなもので、無用の長物と化す。現在のようにコミュニケーション・ツールとして携帯電話が一般的に普及してくると、電源を切れということの方がナンセンスになってきたことが、今回のマナー統一の背景だろう。新しいメディアが普及していくときは、たいてい反対論がつきまとう。昔、ワードプロセッサ専用機が普及していったときも、「手書きかワープロか」「ワープロで文体が変わるか」などといった議論がまことしやかになされたものだ。今ではそんなことは誰も言わない。携帯電話では、「電磁波」が一段落して、「出会い系」「盗撮」が今のところの問題だろうか。「盗撮」といえばひところコードレス電話の「盗聴」が問題になったが、実際には簡単に解読されてしまうスクランブル機能が付いたものが一時期発売された程度で、盗聴されにくいデジタルコードレス電話が普及したわけでもないので、問題は何も変わってないのだが、これも今では話題になっていない。要するに旬が過ぎたということだろう。

「文体」も「盗聴」も、問題といえば問題だろうが、「ペースメーカーと携帯電話」という直接的な人命にかかわる見えない恐怖とは問題の質が異なっている。特に東京都内に住んでいれば頻繁に実感できると思うが、22cmというのは、エレベーターの中でも、行列を作っているときでも経験する日常的な距離だ。満員電車の中では当然経験する距離だろうし、あの混雑の中で優先席を譲ってもらい座るというのは不可能に近いだろう。実質的に解禁された以上、今後電車内で電源をOFFにする人はほとんどいないだろうし、これまで恐怖を煽るだけ煽られたペースメーカー使用者は、胸元でカチカチやられる携帯電話が気にかかって仕方がないのではないだろうか。

最も必要とされるのは、携帯電話とペースメーカーの関係についての、危険性ないしは安全性、あるいは不明なら不明ということの情報開示だが、それが今後なされることは、おそらくないように思われる。というのも、この説明責任の所在がきわめて不明確だからだ。鉄道会社にしても、そもそも着信音や声の騒音問題をずらしてペースメーカーの問題を持ち出したのであって、説明責任を負うつもりはないだろうし、だからこそ、今回の統一マナーは消極的表現にとどまっている。

人命尊重というのは究極の正論のひとつである。正論であればあるほど、それを言うのは気持ちがいい。誰も異議を唱えられないし、唱えられたら、さらに正論で叩いて気持ちよくなれるのだから。だが、そうした気持ちのよさは何も解決しない。例えば、もともとの問題であったはずの騒音を考えるならば、電車内のアナウンスは必要性が問われるもののひとつだが、今後は内容が変わっただけで、「お客様にお願い致します。優先席付近では携帯電話の電源をお切り下さい。それ以外の場所では、マナーモードに設定の上、通話はお控えください。ご協力をお願い致します」という騒音を延々と聞かされることになるだろう。

正論によって一種の符丁のような解答=記号が与えられた問題は、解決されることはなく、たんに解消されてしまう。最近、携帯電話は、当たり前のようにケータイと表記されるようになった。人命尊重もケータイも、何か言ったような気持ち、わかったような気持ちになれる記号という意味では変わりがない。幼児がウンチと言って喜ぶのと同じだ。だが幼児のウンチと違うのは、人命尊重という正論は、できるはずの情報開示すらなされず、まったく尊重されていない現実の人命を覆い隠してしまうことである。それをわかっていても、正論には思わずそれを反復してしまう気持ちのよさがある。だが、それを反復したときには、一種の自作自演の煽りに無意識的に参加しているにすぎない。