試評 2004.02.06 by 土屋誠一

先月17日に、文化全般を扱うウェブマガジン、REALTOKYO(発行元は「リアルシティーズ」となっている)から発行される、季刊美術専門雑誌『ART iT』の第2号が刊行された。この号の特集は、明日7日から開催される、森美術館の展覧会「六本木クロッシング」と連動し、「アートとデザインの境界線」という主題の下に、纏められている。

ところでこの展覧会は、「現代美術を中心に、デザイン、ファッション、建築、メディアアートなど」、多様な広がりを見せる表現ジャンルからピックアップされた「現代日本のクリエーター」を一同に会させ、「時代のアクチュアリティ」を切り取ってみせることを意図しているようだ。また、あえて多様さを選び取ることによって、単一のテーマへの求心化を避け、「多様な価値、異なるチャンネルを認め」、それらの「自然な共鳴」の下、「意気消沈したようにも見える現代日本への自信の回復、そして、わたしたちの未来への希望」への可能性を提示するといったことが目指されているという[註1]。多様性を保持しようとするためであろうか、通常の美術館規模では考えられないが、美術館内外の6人のキュレーターによって、57組(!!)もの作家が選出されている。

『ART iT』に話を戻すと、マルチカルチュラリズムの時代に相応しい、この展覧会の意図を汲んで、大文字のアートとデザインとの境界線を考えるというところが、この特集の編集意図といったところであろうか。そのためか、この問題を古くから体現する横尾忠則と田名網敬一といった、ベテランの作家二人に対するインタヴューから始まり、展覧会の現れから歴史を振り返る伊藤ガビン、椹木野衣、佐藤直樹による座談会を経て、宇川直宏へのインタヴューや「六本木クロッシング」出品作家のコメントと図版によって、現在に接続する構成になっている。

それにしても、現在のこの時点で、芸術かデザインかという二元論から話を進める手つきは、いささか旧弊なお題目といった感を否めない。横尾や田名網といった1960年代に活動を開始したデザイナーから連想を進めるならば、例として、この二元論が良くも悪くも露骨に噴出した代表的展覧会である「日宣美」展を召喚してみるのが良いかもしれない。

「日本宣伝美術会」(=日宣美)は、自律した「グラフィック・デザイナー」を統合した職能団体を組織する意図で、1951年に結成された。そのデモンストレーションとして毎年1回の「日宣美」展が開催され、会員の出品が出品された。それとは別に、53年からは作品公募が行われ、この展覧会への入選が、若手デザイナーにとっての登竜門となり、やはり横尾や田名網もまた、この公募の入選を通過している。

この展覧会の、グラフィック・デザイナーという個として「作品」を、企業広告などのマーケットから切断した状態で見せるという方法は、おのずからデザイナーの「作家主義」を招くことになり、デザインと絵画とのジャンルの境界線は、当然ながら限りなく接近する。しかし、この機能主義から完全に切り離された作家主義は、例えば具体的な批判対象無しに、無闇に平和を唱える反戦ポスターの頻出といった状況に転化し、マーケットの中での仕事に見られるような、対社会との実質的な緊張関係を失い、形骸化する。結局、69年に「日宣美粉砕」を叫ぶ学生が日宣美展審査会場に乱入したことが引き金となって、この会は翌70年に解散する[註2]。事実、日宣美の結成から解散に至る流れの中で、技術者としてのデザイナーか、あるいは自律した個としてのアーティストかといった議論は、繰り返し行われ続けた。

同時代における、このデザインかアートかという対立のより顕著な例として、1968年に東京国立近代美術館で開かれた「第6回東京国際版画ビエンナーレ」をめぐる議論も、ここに記しておこう。この回の展覧会告知ポスターを担当した横尾が、宣伝材であるポスターであるにもかかわらず、当時の美術界でも最新流行の一つであった、ポップ・アートと見紛うばかりの様式で、それを制作したことや、デザイナーとして一般的に認知されている永井一正が、展覧会自体に出品し、美術館賞を受賞したことは、美術界にも相応の衝撃を与え、版画かデザインかという、これまた二元論を提示することになった[註3]。このような流れの中で、1970年の大阪万博に向けて、諸処の対立や矛盾が総合芸術の名の下になし崩し的に統合されたのは、周知の通りである[註4]。

以上のような事例を振り返った上で、現代における『ART iT』での問題設定に、アクチュアリティを見出すことが困難なのは、上記のような過去の問題をなぜ蒸し返す必要があるのかということではない。それは、60年代において既に、デザインの側から横尾や田名網らが、モダン・デザインの様式に対して徹底した悪意を持って、キッチュな図像をポップ・アート的様式で導入したように、そもそもデザインと美術の領域確定という問題機制とは、社会制度が要請する弁別にしか過ぎないものであり、それらは互いに交換可能であるということを示したはずである、ということだ。つまり、芸術とデザインという対立の図式自体、偽の図式である。

ともあれ、この対立の図式自体に疑義を述べるのは、差し当たりここまでにしよう。この特集では、横尾や田名網を更に遡り、「日展」を批判する座談会を設けている。この日本最大の、ウルトラ・コンサバティヴな団体展において、ジャンルの領域確定が、古くからの因習のままに、無自覚に継続されていることに、この記事の存立根拠を求めているようだ。この、松蔭浩之、紫牟田伸子、新川貴詩による座談会「日展を見に行く-魔境を訪ねて」が指摘するように、総出品点数約3000点、内容は悪しき制度的因習を無自覚に引き継いでいる日展は、確かにその存在自体、馬鹿げているというべきかもしれない。しかしながら、この座談会でなされている、批判の言説は、単に馬鹿げているものを対象にして、批判の言を連ねていること自体よりそれ以上において、非常に危険である。この鼎談がなぜ危険であるのかを明らかにする前に、ごく簡単に日展について振り返っておこう。

日展は、その前身も含めると、非常に長い歴史を持つ。この展覧会は、1907年(明治40年)に文部省によって主催された「文部省美術展覧会(文展)」まで遡ることができる。これは、西洋のアカデミズムや、官設サロンを規範とし、国家レヴェルでの制度の確立を必要視した正木直彦や黒田清輝らによって推し進められ、日本画、洋画、彫刻といった、それぞれ個別の美術ジャンルを、一つに統合することを目的とした。

開国後の外からの近代化に対する、ナショナル・アイデンティティの再構築が急務であった日本において、美術もまたその例外ではない。それ以前ではフェノロサが、画材の特異性、また画材によって規定される技法の特異性をもとに、西洋の最新流行であった印象派に拮抗する絵画形式として、「日本画」という新たなジャンルを対置したことに始まり、その後の岡倉覚三による朦朧体への180度方向転換も含めて、常に西洋との距離においてその自律性を計ろうとしていた。文展の開設も、日本画に見られた国民絵画の創出と同様に、西洋に対置される日本において、いかに自律性を獲得するかという一点に賭けられていたといってよい。各ジャンルの新旧分立の全てを、国家の名のもとに統合することは、総体としての国民美術を形成するためには、手っ取り早い。さらに、1927年(昭和2年)には第4部として美術工芸が追加されることにもなる。上からの統合は、自ずから各ジャンルにおける新旧両派の対立や、官と在野との対立を引き起こすが、数回の改組を繰り返しながらも、官展としての機能を充分に果たし続ける。この官展の歴史は、戦後においても現在の日展の名称で開催され、1957年に日本芸術院との分離が決定され、運営が社団法人化されるまで引き継がれた。現在においても、ある種のポピュラリティを保持してはいるものの、多岐に渡る美術業界を拘束する、実質的な権威としては形骸化しているとことは、周知の通りである[註5]。

先の座談会の面々は、日本画の部門において、その技法が洋画に接近しすぎていること、また主題のみに現代の意匠を借りていることを批判する。洋画の部門では流派によって様式が規定されていることに、オリジナリティの欠如を見ている。また、工芸の部門では悪い意味でのマニエリスムと無闇に豪華な素材の使用への偏重に疑問を寄せ、最後に彫刻の部門においては、大多数がヌード像を占めるという、右へ倣え的なモティーフの選択に呆気にとられている。大方の予想がつくような、彼らのステレオタイプな振る舞いは、「そっくり全部持って行くと、どんな国際展にも通用しそう」であり「日本のアートシーンの一端が」仮に極めて露悪的なものになるとしても「確実に示せる」(以上、新川)限りにおいて許されるであろうし、それはたとえば都築響一的「秘宝」のキッチュさにおける意図的なアイロニーの表出とも通底するかもしれない。しかしながら、「ぼくらが接している現代アートやデザインの世界と、日展の出品者とでは、大きな断絶というか乖離がある」(新川)という発言における「ぼくら」とは、一体何を前提にした総称なのであろうか? 日展のトライブと「現代アート」のトライブとは、そう簡単に分割できるものであろうか? 「世間一般では、ぼくらの側の現代美術のほうがマイノリティ」(新川)であり、「地方の人が触れられる「現代アート」展が日展だけとなると、日本は鎖国状態と一緒」(松蔭)であるというが、例えば一般に「現代アート」に属するであろう奈良美智の地方巡回展に、大挙して人が押し寄せるということは、どのように説明できるのか。

同じ日本の「現代アート」について言うならば、以上のような話は、保守的な日展に特殊な現象ではない。一般に「現代アート」と呼ばれているものにおいても、ジャンルを確定する自律的な作品などほとんどなく、ごく限られた少数の共感を得ることができる程度にしか共有され得ない、個別的な物語性や微温的な日常性への退行が著しく目立つ。技巧においては悪いことに、「現代アートの作家と比べると雲泥の差」と新川自身が語るように、単に下手糞な作品を「現代アート」と称して安心しているような場合が多い。このいずれとも、「GEISAI」を想起すれば瞭然であると思われるが、このことは学園祭的な雰囲気のみに特殊なことではなく、丸1日かけて東京にある「現代美術」専門の画廊を巡ってみれば、さほどそれと変わらない状況に出くわすことがしばしばであるという事実が理解できるであろう[註6]。つまり、「現代アート」と言ったところで、それは何ものも包括されうるものではなく、そのトライブは、内部でさらにミクロ化されたローカリティに分割されている。

問題なのは、ここでは日展の批判は語られているものの、それに対置する「現代アート」が全く定義されていないことである。彼らは、日展に対する批判の中で、オリジナリティの欠如や旧弊な制度への依存、あるいは表面的な現代的意匠の借用などに対して、しきりにその刃を向けているが、その批判の対立軸にあるところの、自らが依って立つ存立基盤が「現代アート」という共約された雰囲気にしか過ぎないとすれば、結局のところ自らの立場もまた日展の側と同一の地点にあると言えるだろう。あるいは、もしその存立基盤が「ヴェネツィア・ビエンナーレ」に集約できるような「日展作家よりオレのほうが有名に違いない」(以上、松蔭)ような場であるならば、同じく日本を活動のベースにしているにもかかわらず、日展が「世界的に見ればローカル中のローカル」(紫牟田)であるのと同様に、彼らは、アーサー・ダントの言う意味での「アート・ワールド」という特殊な場に生息する、それこそローカルな一住民に過ぎないとも容易に転化されうるであろう。つまり、ここでの日展批判が公正さを欠いている原因は、日本と世界という対立軸を措定しておきながらも、日本と海外という両方の場に片足づつ置き、「現代アート」という実体のないカテゴリーに身を寄せることによって、自らの安全を保障するという立場の取り方にある。

そもそも文展の目論見が個々の表現として多様なものを、国家の名の下に等しく統合する点にあった。それに対して、公準化された様式に限りなく接近させられるか否かによってのみ、作品の質が判定されるであろう点において、現在の日展が、与件とするフレームの内部のみにおいて、目的なき反復のゲームを単に反復しているだけに過ぎないと捉えるならば、国民美術の創出という大義名分を欠いているが故に、極めて安全でかつ公正であるとさえ言えるだろう。むしろ問題なのは、日展などではなく、その大義名分において文展の目論見を、無意識的にであろうと反復してしまう身振りのほうにある。

多様なジャンルや個々の差異を差異のままに、ナショナルな名の下に統合することが、文展の目論見であるならば、現在の日展よりもむしろ、先の紫牟田自身がキュレーターの一人として名を連ねる「現代アート」を扱う展覧会である「六本木クロッシング」展は、文展の身振りをより正確に反復してはいないだろうか? 先にも記したが、この展覧会における、多様なジャンルを多様なままに統合する目論見は、「現代日本の自信の回復」と「わたしたち(=日本人)の未来への希望」を見出すことにあるという。文展がそうであったように、ここに出品する作家達における個々の特異点は異物として排除されるどころか、ナショナルな名の下で飼い慣らされ、多様性を認める責任の主体であるところの企画者側は、そのマルチカルチュラリズム的身振りにおいて、その責任の所在を巧妙に回避するであろうことは、私の単なる危惧に過ぎないであろうか?

ともあれ、展覧会が開催されていない今、これ以上の批判の言辞を述べるのは止めておこう。我々にとって必要なのは、「多様な価値、異なるチャンネルを認めあいながら」「それらの自然な共鳴を全身で感じと」り[註7]、「現代日本」の多様性を理解したつもりになることではなく、多様な広がりの中から、真に特異なもの、あるいは多様性に抗う単独性を持つものを、見定めることである。その地点において、美術とデザイン、あるいは美術とその他の隣接領域といった偽のボーダーは消滅し、「未来への希望」を見出すことができるかもしれないのだ。

[註1]「六本木クロッシング」展のチラシ文から引用。
[註2]このあたりの経緯に関しては、以下の書物に詳しい。瀬木慎一・田中一光・佐野寛監修『日宣美の時代』トランスアート、2000年。
[註3]例えば以下を参照。池田満寿夫・横尾忠則・永井一正・野田哲也・中原祐介「座談会・版画とデザイン」『季刊版画』4号(1969年)。
[註4]手前味噌になるが、私自身も企画に参与した以下の展覧会カタログに、その辺の経緯を見ることができる。『印刷博物館企画展 1960年代グラフィズム 図録』印刷博物館、2002年。
[註5]日本における近代美術の始まりから、終戦直後にかけての通史に関しては、いささか古すぎる感もあるが、以下の書物において最も詳細を知ることができる。森口多里『美術八十年史』美術出版社、1954年。
[註6]とはいえ、村上隆自身は、おそらくそのような貧しさに対して、自覚的であろうことは勿論だが。
[註7]「六本木クロッシング」展のチラシ文から引用。