Revised Edition “「絵画」―「写真」―「生理学」” by 調文明

ピクトリアリズムとは一体何であったのか。このような問いは、今更提起する必要もないように受け取られるかもしれない。写真史に関する著作は、必ずピクトリアリズムに言及しており、すでに確定したものとして、描いているように思われる。しかし、実のところ、ピクトリアリズムという運動は、どこからどこまでの範囲を指し示しているのかさえ、あやふやなのである。

2004年に刊行された『世界写真史』では、ピクトリアリズム運動は19世紀末から20世紀初頭にかけての芸術運動であり、その中心人物はピーター・ヘンリー・エマソンとなっている。一方、2005年の東京都写真美術館10周年記念特別企画展で出版された『写真の歴史入門 第二部「創造」』では、19世紀後半を運動の始まりとしており、ヘンリー・ピーチ・ロビンソンもその運動に含まれている。

このように、ピクトリアリズム期自体が確定しておらず、厳密な論証をする上で障害となっている。そこで、本論文では、ピクトリアリズム期の範囲を、1850年代のウィリアム・ニュートンから、1880~90年代のエマソンまでとする。この時期に、写真の芸術性が大いに追求されていたのである。さて、このように設定した上で、写真史におけるピクトリアリズム評価を見てみよう。

しばしば、写真史において、ピクトリアリズムは絵画理論を模倣し、絵画と優劣を争うばかりで、写真本来の方向性を見失ったものとして、描かれている。例えば、写真史家ボーモント・ニューホールは『写真の歴史』の中で、ロビンソンやジュリア・マーガレット・キャメロンの一部の写真を、明らかに絵画の混同や真似事として、一段劣ったものと見なしている。客観的な歴史記述ではなく、ニューホールの主観的な見方が、そこには見て取れる。

ニューホールは、20世紀以降の、とりわけスティーグリッツを代表とする「ストレート・フォトグラフィ」を、写真本来の方向性を「取り戻す」ものとして認識している。彼は、「ストレート・フォトグラフィ」を以下のような意味で用いている。

 ストレイト・フォトグラフィ――写真技術の機能を美的に使うこと、カメラの能力と限界をともに認識すること、写真術を、ほかの種類の造画芸術の美学的原則の指導基準から、切り離すこと―― (*1) 

「ストレート」という言葉の意味は、まさにピクトリアリズム写真が「ストレート=本道」ではないということを示している。

また、ヘルムート・ゲルンシャイムも『世界の写真史』において、ピクトリアルな写真を酷評している。彼は、最も早く絵画的な写真を手がけたとされるJ.E.メイヨールを「脱線」と表現し、以下のように述べている。

写真の最も禁忌すべき領域に迷い込んだメイヨールの脱線ぶりはさておき、写真というものが登場して15年間は、現実の世界をリアルに表現するという本道を踏みはずすような動きはみられなかったようだ。(*2)

ゲルンシャイムにおいても、ニューホールのように、ピクトリアリズム期の写真は写真の本道を外れるものだという認識があったようである。彼が、20世紀以降のストレート・フォトグラフィを評価するのは、「絵画的な方法を用いない純正な写真術」(*3)だからである。

以上、ニューホールとゲルンシャイムのピクトリアリズム評価を見てきたが、両者ともに共通するのは、ピクトリアリズムを絵画理論の模倣としてしか、見ていないということである。このように、否定的な評価をされていることもあってか、ピクトリアリズム期の写真に関して、それほど大きな関心が払われたことはなかったように思われる。取り上げられるとしても、写真史の一部として、である。

しかし、ピクトリアリズム期の写真家の文章を読んでみると、単純に絵画理論の模倣ということだけで片付けられない、複雑な問題を抱えていることが分かる。その一つとして、写真における「focus=焦点」の問題を挙げることができる。この単語は、19世紀を通じて、絵画理論ともう一つ別の理論、すなわち生理学的な理論との狭間で大きく揺れ動くことになる。この問題に注目し、改めてピクトリアリズム期を見ると、ある大きな変化が連続して起きていることが分かる。

その1つめの変化はまず、写真黎明期のタルボットと、1850年代前半のニュートンとの間にある。タルボットは、『自然の鉛筆』の中で、以下のように述べている。

 写真技術の発見の一つの優位性は、我々の図像の中に再現の真実や現実を増す、多数の微細な細部を導入することができることであろう。しかし、芸術家はどんなに苦労しても、自然から忠実にその細部をコピーすることはできないであろう。(*4)

彼は、多数の細部に均質に焦点が当っていることを奨励したが、それは写実的表現を特徴とする北方絵画の伝統に根差したものであった。

一方、ニュートンは、1853年の「芸術的視点における写真、またその芸術との関係について」という論文の中で、従来の微細な細部重視ではなく、「out of focus」を推奨する立場を表明する。

芸術家があらゆる微細な細部の達成を描いたり、目指したりすることは必要なことだとも望むべきことだとも私は考えておらず、広範でぼんやりした効果を作り出すことに努力するほうが必要で、望むべきことだと思っている。(中略)多くの例から、主題全体が少し焦点のぼやけたものとなることで、対象がよりよく得られるということが分かった。(*5)

ニュートンが、ここで言おうとしている「焦点のボケ」とは、後のエマソンが主張するような生理学的視覚の限界を示すものではない。上の引用にある「効果」や「対象」という単語が表すように、その「ボケ」は、外部世界を効果的に表現するための絵画的な手法を指している。

タルボットとニュートンは、「微細な焦点」と「ぼやけた焦点」という全く正反対の状態を志向しているにも関わらず、両者は共に、手業的な質を写真に求めているというところで一致している。正確に再現するにせよ、効果的に表現するにせよ、彼らがまず優先するのは「対象」である。自身の主体的な知覚は、そこでは問題にならない。その意味で、ニュートンの「ぼやけた細部」は、生理学的視点のものではなく、あくまで絵画理論に則ったものである。

2つめの変化は、1860年代のロビンソンと、1880~90年代のエマソンとの間にある。ロビンソンは、人間の眼が一つの場所に集中しているとき、他の部分は焦点がぼやける(out of focus)とする理論に対して、自論を展開し、もう一度「微細な細部」を写真の特性として主張した。

理論的には、目は一時に一つの場所しか見られないというのは事実であるが、目は即座にその焦点を変えられるので、実質的には目は次々と見ることができる。同様のルールは自然に対して適用するように画像にも適用すべきである。(*6)

一方、エマソンは、当時の生理学の研究成果から、人間の視覚には欠点や限界が存在することを認め、焦点の合わない背景の細部は、ぼかすべきだと主張するに至った。

ヘルムホルツが言うには、「目の中心点が合っている箇所以外の網膜像の他の全箇所は不完全にしか見られない」。その結果、我々が眼によって受け取るイメージは中心部において、微細に精巧に完成されたイメージのようであるが、周辺部では粗くスケッチされたイメージのようである。(*7)

上に述べた二つの大きな変化から、「微細な焦点からぼやけた焦点へ」という類似点を容易に見出すことができる。しかし、彼らの主張を見てみると、ニュートンにおける「out of focus」と、エマソンにおける「out of focus」は、全く別の理論に則ったものである。前者が絵画的な効果を目指したものであるのに対し、後者は人間の網膜に映る像の再現を目指したものである。

ロビンソンやエマソンが議論した問題は、19世紀初頭から急激に整備されていった「生理学」の強い影響からくるものである(*8)。ピクトリアリズム期において、絵画理論とともに生理学的な理論も同時に、写真論を形作る要素となっていた。そうした動きは、エマソン個人によって、生み出されたものではなく、ロビンソンの時代からすでに、漸次的に起こっていたことなのである。

19世紀末は、生理学と写真との結びつきが、最も親密になされていた時代であった。写真史において、必ずと言ってよいほど取り上げられるマイブリッジの瞬間写真も、生理学者エチエンヌ=ジュール・マレーの研究から生み出されたものである(*9)。運動生理学の観点において、マイブリッジの馬の動体写真は、「正確」であった。その写真は、全くブレることもなく、緻密に運動を記録していたのである。

一方、視覚生理学の観点において、エマソンの自然主義写真も、ある種「正確さ」を目指したものであった。それは、人間の網膜に映る像を正確に写すことを目的とし、周辺部分がボケた画像を記録しようとしていたのである。マイブリッジにおける瞬間写真と、エマソンにおけるボケた画面構成は、画像としては対極に位置しているように思われながら、生理学的な正確さにおいては、全く同じ次元に位置するものであったのである。

[註]
1)ボーモント・ニューホール 佐倉潤吾・永田一脩訳『写真の歴史』白揚社 1956 p.173
2)ヘルムート・ゲルンシャイム 伊藤逸平訳『世界の写真史』美術出版社 1967 p.161
3)同著 p.171
4)H. Fox Talbot, The Pencil of Nature, Da Capo Press, 1969(1844-46)
5)Sir William J. Newton, “Upon Photography in an Artistic View, and its Relation to the Arts” in PHOTOGRAPHY: ESSAYS&IMAGES, MoMA 1980, p.79.
6)H. P. Robinson, Pictorial Effect in Photography, Helios 1971(1869), p.122.
7)P. H. Emerson, Naturalistic Photography for Students of the Art, Arno Press, 1973(1899), p.132-133.
8)生理学と視覚芸術との関係を述べたものとして、ジョナサン・クレーリーの『観察者の系譜』と『知覚の宙吊り』がある。
9)詳しくは、松浦寿輝の『表象と倒錯』(筑摩書房 2001)を参照。