Revised Edition “オスカー・ギュスタヴ・レイランダーの挑発” by 甲斐義明

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かつて、オスカー・ギュスタヴ・レイランダー(Oscar Gustav Rejlander)という写真家がいた。どんな人物だったか述べる前に、彼が制作した2枚の写真を紹介したいと思う。

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一見したところ何の変哲もない、二枚の少女の写真である。1860年頃に撮影された古い写真だが、技術的にもとりたてて注目すべきところはない。「before」では、少女は片手に水差しか小瓶のようなものを持ち、こちらに向かって意志的なまなざしを送っている。一方、「after」では、少女はうつむき加減にカメラから目をそらし、ブラウスのホックを留めている。
 改めて言う必要もないかもしれないが、これは寓意写真である。「after」でのホックを留める仕草が少なからず直截な表現であるのに対して、「before」においてレイランダーは絵画のコードを援用している。純潔の喪失を示すアレゴリーとして「割れた壷」というのが定番のモチーフであったが、ここでは、いまだ無傷の壷を持たせることによって、純潔の状態がほのめかされている。(※1)

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オスカー・ギュスタヴ・レイランダーは、前回とりあげたロビンソンと同じく、初期の「絵画写真」の主導者として、写真史の本でしばしば目にする名前である。多くの場合において、写真の芸術性を勘違いしたとして非難されてきた。しかし、この「before」と「after」が目指しているのはそもそも芸術などという高尚な物なのか? そして、このような写真を撮ったレイランダーとはどのような人物だったのだろうか。
 写真家として活動する前のレイランダーの経歴について詳しいことはほとんど記録に残っていない。1813年ごろにスウェーデンで生まれ、その後ヨーロッパを転々とした後、1846年にイギリスのウォルバーハンプトンという町にたどり着いた。その間、ローマで肖像画や名画の複製画を描いて売ったりもしていたらしい。(※2)

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 イギリスでは、写真館を開きながら、イギリス写真協会の写真展に作品を出品した。そのうち、比較的知られているのは『人生の二つの道』(1857年)であろうか。「絵画写真」の悪しき代表例とみなされるこの「写真」は、30枚以上のネガを合成して作り上げた、壮大な寓意図である。父なる神の前で、二人の青年が自らの進むべき道 ―わかりづらいが、画面向かって左が悪の道、右が善の道を表す― を決めあぐねている。「マンチェスター芸術博覧会」に展示されたこの写真は、その裸体表現が物議を醸す一方で、賞賛も浴びた。ヴィクトリア女王の夫、アルバート公がいたく気に入って、作品を買い上げたうえに、一介の町写真師にすぎないレイランダーの謁見まで許したなどという逸話も残っている。さらに、複数のネガを合成して一つの「絵」を構築するというアイデアは、前回取りあげたヘンリー・ピーチ・ロビンソンに『消えゆく』を制作するインスピレーションを与えた。
 とにかく大仰な「人生の二つの道」だけ見ると、芸術家気取りのいかめしい男をその作者として想像したくなるが、実は相当にユーモラスな人物だったらしい。ロビンソンが著書の中で伝えるレイランダーはそのようなイメージであるし、レイランダーが残した、その他のたくさんの珍妙な写真を見るとそのことがよくわかる。(その中には、チャールズ・ダーウィンの著書のために撮影された、人間の様々な表情の「科学的な」写真もある。)

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この「before」と「after」が、ヴィクトリア朝時代の紳士連中をにんまりさせることを主な目的とした、尾籠なジョークにすぎないにしても、これがもし絵であったなら、ジョークにすらならない。「純潔」と「純潔の喪失」の寓意像がただ立っているだけの絵なのだから。そのような絵は無数に描かれてきたが、その多くの場合、寓意は口実にすぎなかった。それに対して、官能的とも言いがたいこの2枚の写真は、絵画のきまりとしての寓意を逆手にとって、からかっている。我々の関心は否応なく、実在の被写体へ向かうことになるからだ。実際には、この少女は「before」だったのか、それとも「after」だったのか、そんなことをつい考えてしまうように、この写真は仕向けている。
下らないことに拘泥しているように思われるかもしれないが、写真というものは、そもそも、そういう風に見られてきたものではないだろうか。どんな立派なアート写真でさえも、それを写真として見ている限り、我々はなかなか超越的な態度で鑑賞することができない。写真というのはとにかく、現実的で卑俗な感情に訴えかけるものである。(写真のイメージが現実的だと言っているわけではない。)それは、写真の力でもあるし、我々の記憶に留まる優れた写真の多くは、高貴さと卑俗さを等しく合わせ持ってはいないだろうか。

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写真の芸術性そのものをこっぱみじんに砕き散るようなレイランダーの態度は、「自然主義写真」という概念で、絵画と版画の中間の地位に写真芸術を適切に位置づけようとした写真家、ピーター・ヘンリー・エマソン(Peter Henry Emerson)をいらだたせるものであった。1856年の生まれのエマソンは、1875年にこの世を去ったレイランダーの人柄を直接知るすべもなかったから、余計に腹立たしかったようだ。死後に開かれたレイランダーの個展の感想として、次のように述べている。
「私には次のようなことがわかった。彼は断固として「天才」でもないし、「芸術家」でもない。彼は、無能で、感傷的で、わざとらしく、芝居がかっている。しかし、それと同時に、すばらしく情熱的、かつ極めて実験的で、それは、いわば自己犠牲の極みでもある。彼は、ひどい作品を金に変えたり、毎年一枚ずつ写真を発表して、いちいちメダルをもらったり、別荘地で芸術家気取りでくつろぐ自らの姿を写真に収めたりはしなかった。いや、レイランダーは、彼の芸術のためにすべてを犠牲にした。哀れむべきは、その犠牲も、まったく良い結果を残さなかったことである。」(※3)
ロビンソンへの当てこすりを交えながら、エマソンは、レイランダーをドン・キホーテ的人物として描いている。しかし、レイランダー自身に、写真家として、芸術家として、果たしてどのくらいの野心があったのかは、もう一度考えてみてもよいことだと私は思っている。

※1 ジョージ・イーストマン・ハウス国際写真美術館に所蔵されているこの2点の写真を、組写真としてとらえ、「before」「after」というタイトルを与えたのは、ステファニー・スペンサーである。Cf. Stephanie Spencer, O.G. Rejlander: Photography as Art, UMI Research Press, 1985,pp.81-82. 「壊れた壷」を描いた有名な絵には、ロココの画家、グルーズの作品がある。(ルーブル美術館)

※2 レイランダーの生涯とその作品については、Edgar Yoxall Jones, Father of Art Photography: O.G. Rejlander 1813-1875, David & Charles: Newton Abbot, 1973. を参照した。
※3 cited in Nancy Newhall, P.H. Emerson: The Fight for Photography as a Fine Art, Aperture, 1975, p.85.