第13回 photographers’ gallery講座
「類似と錯乱 — イメージによる思考」

第13回 photographers’ gallery講座
連続講座「ゴダール・システム」(全3回)
第二回「類似と錯乱 — イメージによる思考」
講師:平倉圭(映画理論/美術作家)
2007年3月31日(土) 18:00~
企画:中村大吾(編集者)


講座概要/平倉圭「ゴダール・システム」
ジャン=リュック・ゴダール(1930-)は、映画で何かを考えている。だが、何を考えているのか? ゴダールの映画から、セリフをいくら取り出してみても、「引用」されているイメージの出所をいくら明らかにしてみても、そこで何が思考されているのかは明らかにはならない。なぜならそれは、同時に進行している複数の音-映像の質やタイミングと不可分な思考だからだ。それはうまく言語化できない。それは本質的に、言語というものの仕組みを超えてしまうような思考である。だが、言語ではないようなものを、いったい「思考」と呼ぶことができるのだろうか? そもそも言語ではないような「思考」について、何か言ったり、考えたりすることができるのだろうか? 全3回のこのレクチャーは、ゴダールが、映画というメディアを駆使して展開している思考の「システム」を、可能な限り明らかにしようという試みである。


第二回「類似と錯乱 — イメージによる思考」
 『ヒア&ゼア・こことよそ』(1974)においてゴダールは、のちの『映画史』(1988-98)に連なる「見ることの講義」を開始している。レーニン、人民戦線に参加する男、ヒトラー、イスラエル首相であったゴルダ・メイアの写真が映し出される。彼らは「同じように」右手を挙げている。そこでゴダールが直面したのは、「見ること」において、異なるイデオロギーに属するはずの身体が「類似」してしまうという事態だった。以降ゴダールは、複数の映像の「類似」の発見を、「見る」ことに固有の思考法として展開していく。そこで展開されるのは、《AとBは似ている、すなわち、A=Bである》という特異な推論の形式である。この推論は錯乱している。しかし、この錯乱的な推論のもとで見るとき、ゴダールの70年代以降の仕事を駆動している論理が、まったく新たな相貌で現れてくる。


講座報告
『ヒア&ゼア・こことよそ』以降、映画に刻まれた予兆に気付けなかったことを自覚したゴダールは、徹底して「見ること」を映画の思考方法として選択します。そうしたとき、類似と同一は区別できないという「科学的」発見に至った彼は、そこで複数の映像の間に「ダイアグラム」を見出している、と平倉氏は指摘します。常識を超えた範囲にまで適用されていく「ダイアグラム」による類似は、「分身」というかたちで極端化され、現在のイメージを過去のイメージの「分身」として捉えることで、そこにゴダールは復活の可能性を見出している。しかしながら、単独であることと類似していることが分裂して同時にある、という錯乱状況がそこにはある。「見間違い」さえも積極的に捉えていこうとする方法によってまで、ゴダールが賭けているものは一体何なのか。次回、平倉氏による「ゴダール・システム」は最終回を迎えます。

米田拓朗
Kei Hirakura

Kei Hirakura